第95話 毒沼の森《上》


 フギンは冒険者である。

 その証拠といってはなんだが、安っぽくて軽い革の鎧を身にまとい、継ぎはぎだらけのズボンとダボついた中古の編み上げブーツを履いている。武器と呼べるものは少し大ぶりなナイフだけで、荷物は背負った小さなリュックと、腰のベルトに通した物入れのみだ。《食うや食わずのその日暮らし》という言葉を体現したかのような姿は、どこかの田舎から出てきた食い詰め冒険者にはありがちだった。

 しかも十五か、六、といった痩せっぽちの少年の髪は濃緑色で、先祖がえりか、それとも魔物まじりか、といった特徴がはっきりと出ていた。

 ブーツの足首あたりまで泥に沈みながら悪路を進まなくてはならないのは、その生まれのせいかもしれない、という想像を働かすのに十分な姿である。


 大陸の東、帝都デゼルトに次ぐ第二の都市ザフィリから二日半の距離に位置する《ガガテムの森》は泥炭地の中にある。


 この森を覆う泥は廃坑から流れ出した多量の重金属や毒素に汚染されており、近郊の街や村の井戸水は生のままでは飲料水として使うことができないという、帝国の厄介なお荷物とでもいうべき土地だ。

 フギンはひたすら泥を掻き分け、時折、解毒薬を水のように飲み干しながら、目的の場所へと向かった。

 蔦の絡まる陰気な樹々に囲まれた森が突然開けて、沼が姿を現した。

 疲労から荒い息を吐いていた少年は、沼地を見渡して《はっ》と息を止めた。

 真中に枯死した大樹があり、その根元に見上げるほどの大蛇が食らいついたまま、死んでいる。

 大樹の根元には、ひとりの冒険者が死んでいる。

 遺骸の胴は太い牙によって貫かれ、大樹に縫い留められていた。そしてその事実よりもフギンを打ちのめしたのは、彼の腕は事切れた瞬間のまま、大蛇の目玉を穿つ剣の柄を掴んでいたという事実だ。

 数秒、その神話のような光景を見つめたあと、彼はふう、と息を吐いて緊張を解いた。

 足が底に着くこと、底なし沼でないことを確かめ、フギンは大樹へと近づく。這い寄る、に近かった。時折、腰まで泥に浸かるような場所だ。こんなところで沼の主と戦い、仕留めるなど正気の為せる沙汰ではない。

 まだ艶やかな毒蛇の紫の鱗を撫で、動かないことを確かめてから、遺骸のそばへと行った。毒が回って紫の斑紋を浮かべた顔は、苦悶に満ちている。

 牙を引っ張ってみたが、大樹の半ばまでを貫通していて抜けない。

 仕方なく、首元を解いて鎖を引き出した。

 銀色のプレートに《アルドル》の名前が刻んである。遺体の回収は依頼されていない。ギルドの冒険者証を回収すれば仕事は終わりだが、なんとなく哀れで、フギンは見開いたままの死者の両目蓋に触れた。


 くらり、と現実が揺れたのはその瞬間だった。


 頭の中に情景が浮かぶ。誰かが剣を振るっている姿が……精悍な眼差しの、まだ少年と呼んでいい年頃の若者が、練習用の剣を振るっている。雨の日も風の日も、辛いときも苦しいときも。

 ふと、背後に誰かの眼差しを感じて、フギンは振り返った。

 しかしそこには誰もいない。

 生臭い吐息のような風が、毒沼の上を吹き渡るのみだった。

 幻想を忘れ、その場を去ろうとしたとき、濁った目玉に突き刺さったままの剣が目に入った。生前の姿をそのまま刃にうつしとったような、まっすぐの剣が。



*


 虫の知らせとは大抵の場合、役に立たないものだ。

 赤褐色の城壁を越えた途端、背筋に走った寒気が何なのかを意識する間もなく、フギンはたくましい腕に肩を掴まれて強制的に足を止めた。


「よう、いいところで会ったなァ、フギンちゃん! ……おいお前、なんだかびしょ濡れじゃないか? 犬みたいな臭いがするぜ」


 薄気味の悪いニヤニヤ笑いを浮かべている若者は、ミダイヤという名前だ。

 ミダイヤは捕まってなおも無視して前進しようとするフギンに、どこまでも引っ付き虫のようについてくる。

 職業柄鍛えてはいるものの、いかにも後衛らしい痩せ型のフギンと、戦士ギルドの上級職員であり、教官の資格を有している前衛戦士のミダイヤでは体格も筋力もあまりにも差がありすぎる。


 ここは帝都デゼルト近郊の街、ザフィリ。


 帝都ほどの混沌はないが、そこそこの人口を抱える都市は閉門の時間を迎え、仕事を終えて疲れ切った同業者たちがひしめいていた。しかしミダイヤが貧乏な若手冒険者のことをいじめるのは日常にありふれた光景であり、誰かが咎める様子もない。


「……どいて頂けないでしょうか、この筋肉バカ!」


 宿に辿りつく手前で、フギンは叫んだ。


「ほおー……危ないところだったな、貧弱眼鏡」

「眼鏡なんてかけてない!」

「おうおう、なんだ? 口ごたえか? さっきも無視を決め込むなんてえらくなったもんじゃねえか」


 ミダイヤは重戦車みたいな体でフギンを背中からへし折ろうとしている。


「何の用だ、なんの! 用件を言え!」

「いやあ、なんというかだな。最近、また小麦の値段が上がっただろう? うちも家計が苦しくてねぇ。ちっとやりくりしても、酒代を捻出するのが難しくってねぇ。わかるだろう、フギンくん」

「なにがやりくりだ、ギルド職員は定給が出るだろ。増税に苦しんでるのは俺たち日雇いの冷や飯食らいのほうだ……うぐうっ」


 ミダイヤは少年の背に、さらに片足を乗せた。

 フギンは既に両手を路地の地面に突いている。いつ油まみれの路面に倒れ込んでもおかしくない状況だ。

 そして苦しむ少年にグローブをはめた右手を差し出した。


「知ってるぞ。おまえが一仕事終えたばっかりってのはな、とうに調べがついてんだ。少し貸してくれるだけでいいんだよ、ほんの少しだ、来月には返すさ」

「そんなこと言ったって……今までのぶんを返してから言えよ。そういうことはよ!」


 ミダイヤがしていることは、立派な恐喝である。いくらギルドの職員でも、所属する冒険者たちの《上がり》を巻き上げる、などという勝手が許されるわけがない。

 しかしだからといってその行為をやめてくれるような男でもなかった。ミダイヤはとうとう、四つん這いに這いつくばるしかないフギンの背中に腰かけて、世間話までし始めた。


「にしてもアルドルはいい奴だったよなあ~、武器や格闘はトンチンカンなお前とぜえんぜんちがって剣術はピカイチに冴えてたしよォ、優しくて切れ者で。ああ、まったく、なんでああいう男がいの一番に死んじまうのかねえ……」


 アルドル、という名前を出されて、フギンは押し黙る。

 それはフギンにとって一番効果のある魔法の呪文だった。死者の名というのは、土足では踏み込めない、怒りやくだらない応酬で汚してはならない聖域のように感じられるのだ。


「…………遺品を届けてないから、まだ報酬はもらってない」

「銀貨でいいよ」


 諦めて懐から革の財布を出すと、銀色の貨幣を出し、舌打ちとともに押し付ける。


「毎度あり。いやあ、お前は素直で根性なしで、本当に素晴らしい逸材だぜ」


 あばよ、とご機嫌に手を振って、ミダイヤは去って行った。

 フギンは一際厚みをなくした財布を見て、つらい溜息を吐いた。


 フギンのような低級の冒険者にとっては、冒険者ギルドから受ける報酬から手数料や経費を引いたものがほぼ唯一の収入源だ。彼のクラスは銀。ド素人の銅のひとつ上で、依頼料は素人に毛が生えたようなもの。


 パーティで受ける依頼なら、そこそこの稼ぎにはなるのかもしれないが……。


 フギンには事情があり、これまで決まった仲間を持って来なかった。

 ひとりで受けられる依頼にはやはり、限界がつきまとう。

 その上なけなしの報酬から、毎月二、三度はやってきて金をせびってくるミダイヤという重荷がいるとなると、暮らしは否応なく追いつめられる。


「生かさず殺さずという境界線を越えてこないあたり……考えてるらしいな、奴も」


 ぼやきながら、ギルド街に背を向けた。

 恰好つけてはいるが、今からギルドに向かったとしても定時に煩い報酬支払の受付係は帰宅しているだろうし、手持ちが少なくて宿に泊まるのも苦しい。

 路地裏の食堂から焼いた羊肉のにおいが漂ってきて、空きっ腹がきゅうきゅうと寂しく鳴いた。


 疲れた体を引きずって彼が向かったのは、町はずれの高台だ。

 そこは所謂職人街で、夜になっても明るく、街中の繁華街とはちがう喧騒に満ちている。

 ガスランプの明かりの下、鋳掛屋がへこんだ鍋を叩いている脇を通り過ぎ、フギンは今晩の宿の当てを探した。

 坂道は空腹につらいが、歴史ある砂色の壁と、ガスランプのにおいがよく似合う風景はどこかほっと落ち着かせてくれる。

 目的の家は戸口をしっかり閉めていたが、少し蒸し暑いからだろう……作業場の窓が半分開いていた。

 格子のむこうに、集中して作業をする人間の横顔がみえる。


 フギンは背をのばし、半分の窓を小さく叩いた。


「マテル、助けてくれ」


 小声で囁くと「ひどい格好をしてるねぇ。ガガテムの森かい?」と、穏やかな優しい声で返事がふって来た。


「ああ。大蛇の目から剣を引っこ抜いて、頭から泥をかぶったんだ」


 フギンは細身の剣を掲げた。


「近くの川で水浴びをしてきたから、大丈夫だと思うけど」

「それって近くのドブ川のこと? 中庭の井戸で体を洗ってから入っておいでよ」

「悪い」

「さぁて、昼飯か何か、残ってたかなァ……」


 マテルは声を立てて笑った。こちらから姿は見えないが、身をよじる気配が感じられる。それから、作業場の奥に引っ込んだようだった。

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