第57話 妖精の輪
外は雪に閉ざされている。
地下にある集落なら、外の寒さも関係ない。ただ、出入り口である木の
上着を何枚着込んでも冷えが体の内側に忍びこんでくる。暖をとれるようちいさなストーブがあるのだが、老木は寒気をやすやすと通してしまう。
相棒の槍を立てかけて、男は太って前に突き出した腹をさすった。
(なんだか腹が減ったな……)
妻が持ってきてくれたスープもあっという間に冷めてしまい、口をつける気にもならない。
けれど、家に何か取りに帰るのも不安である。
コンコン。
(ほうら、来やがった)
不寝番は恐ろしさに身を
こんな夜更けにやってくるのは魔物に違いない。
できれば夜が明けるまでここでじっとしておきたいところだが、何か異変があったら、集落のみんなに知らせなければいけない。
不寝番はおそるおそる扉を開け、外の様子をうかがった。
するとそこには、巨大な顔が洞の内部を覗きこんでいた。
顔の大きさがすでに自分たちの背丈よりも大きいし、一口でぺろりと食べられてしまいそうなほど、口もでかい。薄氷色の瞳も爛々としてみえる。
「……シチュー食べない?」
「わぁーっ!! 巨人族だぁーっ!!」
不寝番は無我夢中で槍を突き出した。
けれどあまりにも細くて小さな槍は、肌色の皮膚を浅く突いただけだった。
「いてっ」
頬を突かれた巨人族は、にじんだ血をなぞりながら、嫌そうな表情を浮かべている。
*
洞の入口からぞろぞろと現れた
彼らはしわしわの顔にたっぷりの髭、三角の帽子をかぶった妖精の種族だ。
最初は戦士らしい槍を持った奴や、若い男……たぶん……のようなやつらがこわごわと入ってきた。
メルはなるべく丁寧に接してやり、小人たちを捕まえて食べてしまう危険性がないことを証明するかわりに、三脚にかけていた
彼らは喜んで帰って行き、続いて、めいめい鍋やボウルを抱えた奥さんたち(ヒゲは生えていない)が現れてまた列をつくった。
洞の入口では、小人たちよりさらに半分の背丈しかない子供らが窓に張りついて様子をうかがっている。
「子供たちにはこっちのほうがいいかもね」
メルは平たいパン菓子を切り分けて、母親たちに配る。
生地に干した果物と香りづけの酒をまぜて焼き、たっぷりの砂糖をかけた甘い菓子は、メルの弟子、ルビノの手製だ。
菓子作りは料理ほど手を出さない彼だが、この菓子だけは時折、思い出したように大量に焼いて常連やメルに配って回るのだった。
「はて、これはグリシナの郷土菓子では無かったか。なんでオリヴィニスの
メルの膝を椅子がわりに腰かけた小人がそう呟く。
ほかの小人たちは
菓子をもぐもぐ食べながら、逆の手に握っているのは酒瓶のようだった。
ずいぶん飲み続けているらしく、酒の臭いがぷんぷんする。
他の土地からやってきた小人らしく、まわりの小人たちからは「キョージュ」と呼ばれていた。なんでも、ミグラテール大学の屋根裏に住んでいたとかで、物知りなんだそうだ。
「グリシナ……グレシアか……」
メルは少し考えてから、返事をした。
「おじいさん、僕のこと知ってるの?」
メルが訊ねると、小人はうんうんとうなずいた。
「オリヴィニスの不死人といえば……魔法もなーんもなしにわしらが見えとる時点で普通の人間じゃないでな。女神にいちばん愛されたたましいだもの。お前さんが生まれたときは、いっぱしの精霊たちもお前の噂をしたもんよ」
「ふうん」
「お前さん、一番古い記憶はどこだい」
「一番古い記憶、ねえ……」
メルはシチューの鍋をぐるぐるかき混ぜながら、夜空を見上げた。
自分の記憶をたどるのは、それは、まっくろな空から落ちて来る花びらみたいな白い雪の、おおもとを見極めようとするかのような作業だった。
「……そんなに昔のことは、あまり思い出せないんだけどね……」
雪の夜はふいにしんと静かになる。
誰もが言葉を
「そうだろうなあ。人間の脳味噌はわしらよりは大きいが、この世のぜんぶを覚えるにはちとちいさいものな」
メルはなにもかもがごった煮になった膨大な記憶をかき混ぜる。
どこまでも真っ白なイストワルの雪原や、熱砂の沙漠、神秘を隠した大海原、仲間たち……生きているものも、死んでいるものも、次々に現れては消えていく。
それがルビノやアトゥたちと訪れた場所なのか、それとも若かりし頃のマジョアたちとだったのか、それとももっとずっと古い仲間たちとだったのか……判別がつかないことがあった。
顔は思い出せるのに、名前が思い浮かばない誰かや、反対に顔が思い浮かばない人たちもいた。この世界は刻々とうつりかわって、その長い繰り返しが今ここにあるはずなのに、遠すぎる昔がどうだったのかということについては、ぼんやりとして
「……ねえキョージュ、僕は他人より長く生きてきたけど、まだまだ行ってみたいことや試してみたいことがたくさんあるよ。それは僕が忘れっぽいからかなあ?」
「さてなあ」
キョージュはうとうととまどろんで舟をこぎ始めた。
手ぬぐいを肩にかけてやりながら、メルはいつか、今のこのことも忘れてしまうんだろうか、と考える。そして、そのくり返しが続くのかな、とも。
そう考えてから、不意に襲った寒気にぶるりと震えた。
吐く息が白いことに、まるでたった今しがた気がついたような心持ちだった。
「それはそうとさ、キョージュ……」
キョージュは眠たそうにパチパチと目を瞬かせた。
「このあたりに
メルがここに来たのは、それが理由だった。
森を訪れた旅人や、材木をとりにきた近くの村人たちが、迷って出られなくなってしまう迷いの森……その原因を突き止め、取りのぞけば、このあたりの代官から金貨を貰えることになっている。
最初から、妖精族が住み着いたせいだろうとは思っていた。
妖精の輪とは、妖精の踊ったあとにできる不思議なリングのことだ。
ただ、そのリングに引きこまれた人間もまた、精霊の世界に近づき迷ってしまうという厄介なものでもあった。
普通の冒険者なら、魔法で小人たちをあぶりだし、少々手荒な方法で引っ越しをさせたことだろう。
でもメルは、メルのそばを取り囲んでミニチュアのような楽器をかきならしたり、彼らにとっては盗んでくるしか入手方法がない貴重なミルクをたっぷり使ったシチューに
「ねえ……キョージュ……キョージュ?」
キョージュは、酒瓶を抱いたままぐっすり寝こけていた。
キョージュのちいさな体を両手で持ち上げてストーブのそばに運んでやる。
話しあいは明日に延期のようだった。
近くの村から提供される一日一杯のミルクと卵で、彼らが納得してくれるといいんだけど……。
小人買収用のシチューをかきまぜながら、メルは白い息を吐いた。
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