第56話 ねむれぬ夜は △
メルはどことも言えぬ草原のただ中で、ぼうっと景色に見入っていた。
そこはゆるやかな傾斜の一面に草が生い茂った場所で、穏やかな風が吹くと草が向きを揃えてなびくさましか心を
それでも、もしかしたらメルにとっては、思い出のかけらのようなもので繋がれた場所だったかもしれない。
そのとき。
きうう。
きうううう。
風のうねりに乗って、小さな生き物の鳴き声が聞こえてくる。
注意深くあたりを探る。
警戒する音ではなく、子が親を呼んでいるような、そんな切なげな声だった。
*
いつの間にうとうとと寝入っていたのだろう。
灰色がかった過去の光景に見入りながら、マジョアは今はもう夢でしか会うことのできない友の姿の、言い知れぬなつかしさを噛みしめていた。
少女は硝子玉のような瞳をいっぱいに見開いている。
もしかしたら少年だったかもしれない。どちらでもいい。
どのみちもう二度と瞳をきらめかせ、口元を
夢の中の自分は今よりもっとずっと若く、残酷だった。
呪文を封じられて夜の森を逃げ
他ならない自分の刃が無慈悲に、両足の健を切り裂いてローブを血染めにする。
そして歩くことも立ち上がることもできなくなった者を、まるで
それは、かつてマジョアがしたことだった。
マジョアが、アラリドにしたことであり、まぎれもない現実なのだった。
二度と浮かんで来れぬと知りながら、そのときはただ激しい怒りに押し流されるだけで、行いの正しさしか見えず、そうしたのだった。
そうするしかなかった……。
眠りがゆるゆると覚め、視界に木漏れ日が入りこむ。
誘われるようにハンモックを離れ、庭を回りこむと、鮮やかに
ごちそうの並んだテーブルを囲む妻、娘夫婦、そばで給仕をしているメイドはもう何年も別荘の世話をしてくれている。その周囲を走り回る幼い孫たちが三人。この場にいない長男はとっくの昔に亡くなった。
冒険者稼業ではよくあることだ。仕方がない。
今回は珍しく、その忘れ
「お誕生日おめでとうございます、おじいさま。先にはじめていますよ」
「なにしに来たんじゃ、ロジエ」
「ミグラテールは夜魔術師のせいで学問どころではないんですよ。知ってるでしょ。いても無駄なので戻ってきちゃいました」
王都風の服を来てにっこりとそつなく微笑み、若者は葡萄酒のグラスを傾ける。
「おじいさまに話したいこともあったし……それに、留守にしていた間に面白いことがあったそうじゃないですか。レヴ王子にお会いしたんですか? いいなあ」
「面白がるな、そんなことを!」
「はい、おじいさま」
ロジエはにっと、さっきとは確実に別の種類の笑みを浮かべた。
従順なふりをして、何を考えているのかいまひとつわからない孫だった。
「それよりもおじいさま、生きているうちに新たな職能ギルドを増やす、という案はどうなってるんです? 生物学者のミリヤ・フロウとは話はついています。ぜひ彼女を
「またその話か……」
マジョアは寝起きの頭を抱えてうなった。
「だって、百五十年前から職能ギルドの数が増えていないではないですか。それってつまり、時代遅れってことですよ。冒険者は常に新しい技術を入れていかなければ! ――それから、我が友ルビノ君はどうしています? ついでに彼を格闘師ギルドの長にして働かせましょうよ。ギルドを一つ増やすのも、二つ増やすのも、手間はおなじでしょ」
その瞳は食事ではなく、遠く離れたオリヴィニスを見つめている。夢見る瞳だった。マジョアはこれまで同じ瞳をした者を三人見て来た。
メル、ロジエの父親、そしてアラリド。
ロジエは父親と違い、体を動かすこと全般が苦手で荒事には向かない子だった。けれども何故かオリヴィニスや冒険者ギルドのことに首を突っ込みたがる性格は成長してもなおらなかった。
……いや、理由はわかりきっている。父親が愛した冒険者の街を、この子も愛した。それだけなのだ。
「前々から思っていたが……まさか、ギルド長にでもなりたいのか? 言っておくが、この役職は
「はい。でも学校を卒業したら、ギルド職員にしてください。ぜったいに役に立ちますから」
なんなら掃除人からでもいい。あの、きったない床をぴかぴかにしてみせますよ。——何が楽しいのかロジエはそう、わくわくした顔で言うのだった。
マジョアは自分は甘いと思いつつ、深く溜息を吐いた。
「……師匠連はお前が
「わあい、やった。なに、みんな悪い顔はしませんよ」
給仕の女が来客を告げて、ロジエは手についたソースを舐め取りながら立ち上がった。
「きっとお祝いの贈り物だ。なんだろう、先に見てもいいですよね?」
返事も待たず、玄関に走って行く。
マジョアは毎年、誕生日をオリヴィニスから離れた別宅で、家族といっしょに過ごす。この日に師匠連と呼ばれる腕利き冒険者たちが、そろって高価な贈り物を寄越してくるのも例年通りのことだ。
彼らはマジョアが別宅の場所を誰にも明かしていないことをわかっていて、お節介にも場所を突き止めて送りつけてくる。要はいやがらせだ。
今年はメルからは来るだろうかと、ふとマジョアは思案する。
心配しようがしまいがいつも馴染みの竜の鱗を一枚、送ってくるのだが、年々、罪悪感が
アラリドも、トゥジャンもマジョアもすべてが等しく、ひと時のあいだ共にあった喜びが憎悪で塗り替えられたりもしない、それがメルだからだ。
「わあ! おじいさま! 見てください」
ロジエが大きな声を上げて駆け戻ってくる。
彼は毛布を抱えて、満足そうな笑みを浮かべていた。
「おじいさま、やっぱり、作りましょうよ。飼育者ギルド! これはメルメル師匠がこのロジエを支持している、という意思表明に違いないですよ!」
きうう、と切なげな声をたてて、毛布がもぞもぞと
布のかたまりをかき分けて顔を出したのは、真っ白な生まれたての仔馬だった。
毛布を広げると、その背に柔らかな羽が生えている。天馬だ。
おそらく、どこかで親とはぐれたのを拾い、処分に困って送りつけてきたのだろうことは想像に難くない。
愛らしい仔馬を一目みようと、孫たちが寄ってくる。
木漏れ日のきらめき、笑顔、子どもたちのはしゃぎ声……。
この世に悲しいことや苦痛などひとつ無いのではないかと錯覚するほどの光に満ちた光景が手に届くところにあった。
それがいつになくまぶしくて仕方がない。
もしかしたら、何か新しいことをはじめるときが……いままで自分が手にしていたものを次に譲る時が来たのかもしれない。
「……その前に
甥っ子に仔馬を撫でさせていたロジエが顔を上げた。
「はい、おじいさま。ついでにミグラテール大学を中途退学しようかと思ってるんですが、いいですよね」
「あほか! お前の学費にいくらかけたと思っとる!!」
テーブルを叩き、立ち上がったマジョアは腰に違和感を覚え、うめきながら椅子に戻る。
「おじいさま、無理しないでいいんですよ。あとのことは全てお任せください、ぜひ」
「平気じゃ、まだまだお前には任せられん」
つっけんどんな態度をとったマジョアは、ロジエがにやにやした顔でこちらを見ていることに気がつき、むっつりと黙りこんだ。
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