第55話 学都ミグラテール △


 ミグラテールが聖都と呼ばれていたのははるか大昔のこと。

 ここにはかつて、女神教会の大聖堂が存在し、巡礼者であふれていた。

 しかし《聖女》が託宣を受けて、聖堂を《学び舎》として解放して以来、ミグラテールの名は《学都》として大陸全土にとどろいている。


 その城門の前に立ち、ピスティは「はぅわわわ」と間の抜けた歓声を上げた。


 大教会が別の場所に移った後も、この町は、こと魔術師たちにとっては未だ《聖地》といっていい。


 ミグラテールは魔術研究の中心地なのだ。


 高名な魔術師たちをあちこちから招聘しょうへいし、最先端の研究をしていることはもちろん、ミグラテール大学の推挙を受けることができたなら、大陸のどこに行ったとしても左団扇ひだりうちわで暮らしていける。


 だが、大半の魔術師にとってここは夢物語の街にすぎない。


 魔術の力を求める王侯貴族は引きもきらず、ゆえに「貴賤きせんを問わず」としていた入学条件もいつからか建前同然となってしまい、多額の寄付によって入学をする者が後を絶たないのだった。


 けれども、ミグラテールが《学都》として名高い町だということは変わらない。


「まったく懐かしくも忌々しい学び舎ですわね。こんなところ、二度と来てやるかと思っていたのに!」


 妙に機嫌の悪そうなナターレ師が苛々した声を上げ、ピスティはびくりと肩を震わせた。

 ナターレはいつものドレスではなく、それでも十分に華美な旅姿で、とがりまくったまなざしを門――あるいは、その向こうにそびえるミグラテールの尖塔へと向けていた。

 彼女はかつて、この大学に籍を置く学徒のひとりだった。

 主に金銭的な理由から大学に入れず、ナターレに弟子入りしたピスティにとっては、彼女の不満はいまひとつわからないものだ。


「そんなに来たくないなら、何故来たのです?」

「仕方がないでしょう。あのセルタスがわざわざやってきて、地面に手をついて深々と頭を下げ、靴に接吻せっぷんまでしてみせたのだもの」

「ええっ、いま、なんておっしゃいました!?」


 いくら変人奇人のたぐいとはいえ、セルタスはトゥジャン老師の薫陶くんとうを受け師匠連へと迎えられたひとりだ。何があったのかはわからないが、彼にそこまでさせたのか、とピスティは青くなった。


「なによ、何か文句でもあるのかしら」


 い、いえ! と声を上げたとたん、大きさの合わない眼鏡がずりおちる。

 ピスティはその位置を直しつつ、居住まいをただす。


「ところで、ですね……この門、門兵さんがいらっしゃらないようなのですが、どうやって入ればいいのかなぁ、と……考えておりましてですね……」

「あなた、いったい私の弟子を何年やってるのよ。ミグラテールの三つの門も知らないとはね」


 ナターレは得意の弟子いびりをまじえながら、門の横に掲示されたはがね銘鈑めいばんを示す。


「《人よ、アヌラルの門を開けよ。さすれば礼節を知る也》」


 古代クルエル語の文字を読み上げると、門はぎしぎしときしみながら、開いた。

 その奥は暗黒で、松明たいまつに照らされた二つ目の門が浮かび上がる。


 ミグラテールには三つの城門があり、いつでも閉じたままである。 

 扉はそれぞれ、アヌラル、メディオ、メニケと呼ばれ、合言葉あいことばを唱えると機械のしかけではなく魔術の力によって扉が開くようになっているのだ。


 もちろん、その有名な三つの門の逸話いつわについては、大陸に広く伝わっているのでピスティも知っている。

 単にナターレの怒りを別のところに向けたかっただけである。

 バカを演じることは、ときとして生き残るための最良の方策になる。


 メディオを越え、他の二つよりごく小さなメニケの門を越えると、窮屈な城塞都市が姿を現した。

 城門の影が鮮やかに落ちる街路、揃いのローブをまとって行き来する若者たち、静かにたたずむ旧女神教会の尖塔、退屈そうな門兵に挟まれて、ピスティは初めて目にする魔術の殿堂に目を瞬かせた。


「ここがあこがれの学都! 魔術師のつどう都!」

「ふん、ろくなものじゃないわよ。はやく来なさい。来ないなら、夜魔術を使った件であなたを破門にしますわよ」


 城塞都市は思っていたよりも静かだった。

 退屈、と言いかえても差しつかえないかもしれない。

 道を行く人間よりも、どこかから運びこまれてきた本のほうが圧倒的に多い。

 露天商も本を積み上げ、書店の軒先からもあふれている。

 ここまで過剰な文字は見たこともない。

 食堂や酒場の屋号が文字で描かれていることも、ピスティには新鮮な驚きだった。


 しばらく行くと、街のあちこちに同じ警告文をつづったチラシが掲示されているのを見つけた。


『不審な行動をする者があれば、大学当局にすぐ連絡を』


 ナターレは大学の付属施設である図書館へとまっすぐに進んで行く。

 聖堂を改装した、まるで城かと見まごうほどの大空間に、ピスティが大好きな書物ばかりが並んでいる。

 魔術書だけでなく、法学、数学、弁論学など内容も多岐たきにわたる。


「す、すごお~い、すごすぎるぅ~~~っ」


 一生かかっても読み切れない知の殿堂を前にして、ピスティはよだれをたらさんばかりのだらしない表情を浮かべていた。


「でも、ここにこんなに本があるのに、書店で売れるのかしら……?」

「お前はここで用事をしていなさい。私はお世話になった方にご挨拶申し上げて

来ますわ」


 ナターレの言いつけ通り、弟子はひとり図書室に残された。

 彼女の目的は、この図書館でしか閲覧できない稀少な書物を閲覧し、その写しを取ることだ。

 ナターレの用事が終われば、自分の研究領域の書物を閲覧していてもかまわない。

 ピスティにとっては嬉しいことだらけだが、愉快な気分はそう長くは続かなかった。ナターレが行ってしまった後、彼女は自分の体にぴたりと張りつくような視線に気がついたのだ。


 それは図書室にいる学生たちが隠すでもなく向けて来る、無遠慮な視線だった。


 部外者だからだろうか。視線の意図がわからず、薄気味悪い気持ちになりながら、ピスティは必死に書物へと視線を落としていた。



 *



 男はミグラテール大学内にある教授室ではなく、学寮の一室にいた。


 憂いを含んだ琥珀色の瞳で寂しげな街角をみつめている。

 年代物の高価な調度類に囲まれ、自らもその一部であるかのような……そんな古めかしい空気をまとった長命種エルフの男だった。

 彼はドアの外にナターレの姿を認めると、長い耳を小刻みに動かしてあたりの様子を注意深くうかがった。


 それから彼女の肩を抱くようにして室内に招き入れる。


 ナターレはすすめられてもいないのに部屋の中央に置かれたソファに深く腰を下ろした。


「小心者は治っていないようですわねヴァロヴィ教授」

「なぜ来たんだね、ナターレ。こんなときに」

「あらあら、どんなときなんですの。また女学生に手をお出しになって、奥様に屋敷から追い出されたときじゃなくて?」


 ヴァロヴィは難しい顔をした。


「恋は多ければ多いほうがいいが……そういうことではない。夜魔術のせいだ。結社がひとつつぶされて、うちの教授が処刑されたんだ。ミグラテールはぐちゃぐちゃだ、仲間がまだひそんでるんじゃないかってみんな疑っているよ」

「あら……夜魔術は本来、禁止されるべきものではなくってよ」


 ピスティがきいていたら憤死しかねない台詞を白々しく吐くナターレを、ヴァロヴィはたしなめるように言った。


「だが子殺しは重罪だ。言い逃れはできない」

「そう。じゃ、ベロウという名前に心当たりはない? アラリドでもいいわ。オリヴィニスで保管されていた紹介状にゲンゲエール学長の名前があったの。何かしらご存じの方がいらっしゃるはずよ」

「魔術師か? なぜ、きみがほかの魔術師のことなんかに興味を持つ」


 ヴァロヴィはうたぐり深い目つきをしている。

 ナターレは考え、突然うつむいて目じりに涙を浮かべた。


「実は……教授、わたくし、意地の悪い精霊術師に呪いをかけられてしまったんですの……」

「ナターレ……また君はそういう……」

「頼りになるのはもうあなたしかいないの……こうしている間も胸が苦しくて……どうかそばに来て助けてくださいませ」


 そういいながら、胸元を飾るストールをするりと抜き取った。



 *



 ベロウ、という女魔術師が宮廷魔術師たちを差し置いてレヴのそばに現れたのはほんの一年前のことだそうだ。

 どうにも素性すじょうの知れない女で、どこから来た人物なのか、どんな魔術を使うのかだれも知らないが、レヴはこの人物を重用ちょうようしている。

 コルンフォリ王家に守護され、つながりも深いミグラテールの魔術師たちにとって、第一王子にうまいこと取り入った彼女は厄介な人物にちがいない。


 アラリドのほうは、ゲンゲエールが老衰ろうすい一昨年おととし亡くなり、紹介者として名を連ねていた者たちの最後のひとりも、先日の処刑で死んでしまっていて、これは何もわからないに等しい結果だった。


「結局、ほとんど何もわかりませんでしたね……」

「務めは果たしました。約束通り、これから七日ほど、あのむかつくセルタスがわたくしの下働きをするという面白い光景がみられるわよ」


 ピスティはぎょっとした。

 その約束、まだ、続きがあったのか……ナターレ師が他者をいたぶるのは、その人物を気に入っているからだ。

 そのことにはやく気がついてほしいものだ、と弟子は密かに願った。


 それにしても。


 三つの門の前でピスティは名残なごり惜しそうに大学の建物を振り返った。


「ああ……なぁんか、すっかり理想が崩れてしまいました……」


 ピスティは胸元から水晶の首飾りを取り出した。

 セルタス師から渡されたもので、同じものをナターレも耳飾りにして身につけている。会話を盗み聞きするための魔法の道具だ。


 ちなみに、元教え子の色仕掛けに容易たやすく落ちてしまい、余計なことまでべらべらとしゃべってくれたヴァルヴィ教授は、ナターレの白い肌に指一本触れることなく、ソファの上で撃沈しているはずだ。


 魔法を使うとさすがに気づかれる恐れがあるので、拳によって、である。

 このあたりは、オリヴィニスではただひとりといっていい格闘師、ルビノの指導がたいへん役に立った。

 ピスティは万一のときのための補佐役である。


 ミグラテールの教師だというから、知的な探究者のイメージを抱いていたが、あれではただの色狂いろぐるいだ。


 弟子の深いなげきの声に、フン、と鼻を鳴らすナターレ。


「ミグラテールの三つの門には対応する言葉がある。ひとつは礼節、ひとつは思慮、ひとつは慈悲。扉を開けてそれを知るのよ。どちらから開けるか、はたまた開かれないまま終わるかは、人によるってこと……」


 傲慢で高飛車で知られるナターレの弟子となり、日々いびられる生活に嫌気がさしたり、学都で学ぶほかの魔術師をうらやんだりもしたけれど、それはそれで恵まれていた部分もあるのかもしれない。


 ピスティは扉を開けて待つ師のあとを追いかけた。

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