第58話 ギルドの教え


 職能ギルドは、春になるといろいろと忙しい。

 気温が上がってぽかぽかの陽光が降り注ぐ頃になると「なにか新しいことをしてみよう」と思い立つ人間が増えるのである。おまけに大きな行事も控えていて、肌寒さがゆるんできたころからその準備がはじまるのだ。

 とはいえ、現在は繁忙期の手前で、どのギルドも訪れる冒険者は少なかった。

 魔術師ギルド、場所は《食堂》と呼ばれる建物の一階隅にある教室は、魔術を学ぶためにギルドを訪れた冒険者に解放されている。

 ここで魔術を学ぶのは概ね、誰かに弟子入りしてまでするつもりはないが冒険の役に立つ部分だけを習いたい、といった冒険者が主だ。もちろん受講料は小さい額ではなく、ギルドの大事な収入源となっている。

 いつもはここで教鞭をとっているのはなんだかんだ教え上手なナターレ師なのだが、今日は別の人物が白墨チョークを使ってていねいに図を描いていた。

 鮮やかな明るい緑色をゆるい三つ編みに編んだ、若い精霊術師……《賢者》セルタスだった。魔術入門の教室で師匠連に属する魔術師の講義が受けられることなどめったにないが、生徒たちはみな新入りらしく、だれも彼が有名人であることに気がついていない。


「……つまり、現在の魔術の世界では、世界を三つの要素として捉えているのです。私たちがこうして存在して触れられる物質的な世界、そして精霊たちが働く領域である精神世界。二つの世界にまたがり、妖精族や高位長命種ハイエルフの住む領域である境界。特殊な才能でもないかぎり人族の五感で感知できるのは物質世界のみです。それぞれを示す隠語はあとで詳述しょうじゅつしましょう……そのまえに精霊の働きについて、もう少しつけ加えておきます」


 講義は退屈な空気のなか、よどみなく続く。午後の暖かい空気のなかで、誰かが大きな口をあけてあくびをしかけたとき……。


「《光あれかし》」

 

 セルタスが手にした杖にはめこまれた宝石が昼の太陽よりも強い光をはなつ。


「こうして精霊に働きかけ、魔術を行使するのは我々人の力ですが――光をこのようにまぶしく輝かせている不可視の存在が精霊たちなのです。火を熱いものと定めるもの、水を冷たく喉をうるおす性質をもたせるもの、美しい花を美しくさせるなにか……それは世界の定義そのものといってもいいかもしれません」


 光がおさまると、セルタスはさっきまで眠たそうな表情を浮かべていた少年に微笑みかけた。


「目は覚めましたか?」


 どっと笑いが起きる。

 あくびを浮かべていた生徒は、恥ずかしそうに頬を掻いていた。


「さあ、眠っている暇はありませんよ。まだまだ君たちが魔術を使う上で知らなければいけないことはたくさんあるのですから」


 セルタスは教卓の上に置かれた分厚い教本を示した。



 *



「なによ、困ってる様子を見に来たのに、上手くやってるじゃな~い」


 こっそりと入門の教室を覗きにきたのは、隠密行動には派手すぎるドレスを身にまとった真魔術師、ナターレである。

 彼女は隣に眼鏡をかけた弟子を従え、中庭からセルタスの様子をうかがっている。

 先日、ちょっとした恩を売っておいた見返りに、ナターレはセルタスに初心者向けの魔術講師の仕事を肩代わりさせたのだった。


「はあぁ……《精霊術師なんて、感覚だけで魔術を使ってるクズよ!》というナターレ師の思いこみを頭から信じてましたが、さすがに《賢者》と呼ばれるだけはありますねえ。お師匠様よりも教え上手じょうずかもしれませんよ、これは……」

「ピスティ、お前に靴磨きを命じます。明日までに全部できなければ破門ですわよ」

「ええっ! 事実を言っただけなのにどうして!?」


 狼狽ろうばいするピスティを無視して、ナターレは教室の様子を観察する。


「賢者という呼び名はイヤミですわ。ほかにも《他人の話をきかない》だとか《人間やめてる》とか《空気読めない》とか《魔術バカ》やら《しゃべる狂気》なんていろいろ言われているのよ」

「それ大丈夫なんですか」

「まあ、あいつも魔術師であることにかわりはないんだもの。この調子なら問題ないでしょう」


 ナターレは、代役に仕事を任せたせいで自分の信用を落とすことはない、と確信すると、教室に背を向けた。

 ピスティもあわててついていく。


 なお。

 ふたりが安心して去って行った、その後――講義は二時間ですむところ、五十八時間も続いた。


 脱出しようにも魔術で行く手をはばまれ、退路を断たれ、ようやく気がついたギルド職員に助け出された受講生は全員、体力を消耗しきってうつろな目をしていた。

 中には狂気の縁に立たされ、その後もしばらくうわごとを呟いていた者もいるが、一週間かけて学ぶはずの知識だけは完璧に身についていた。

 ただひとり、講師であるセルタスのみがけろりとしており、


「あれ、もう夜が明けたのですか?」


 と言ってのけたとかなんとかだという話である。

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