第43話 忘れ物
「あぁあ~……」
峠まであとひと息というところで、メルは荷物をのぞき込んで頭を抱えていた。
入っているはずのものが、無い。
一旦、袋の口を締めて、いいやこんな失敗をするはずないと思い返し、また開けるが、やっぱりどこにも無い。
しばらく打ちひしがれていたメルだが、そのとき「そこの方、お困りですか」と、心配顔の男に声をかけられ、顔を上げた。
年は四十そこそこといった頃だろう。腰に剣を帯びていたが、穏やかな物腰の好感がもてる人物だったので警戒を解く。
離れたところに連れらしい若い女性が佇んでいた。
マントで顔を隠しているが、その裾からのぞく掌は路傍に咲いた花のごとく、白く染みひとつない。
「護衛かい? 女性を連れて峠越えは大変だね」
「……いやあ、まあ。それより」
男は曖昧に言葉を濁して、メルの靴を指差した。
履いている靴の、片方の靴紐が痛んで切れてしまっていた。
いつもは替えの靴紐を鞄に入れておくのだが、それは現在、宿にある。
ルビノに口を酸っぱくして、出かける前に持ち物が揃っているかどうかを確認しろ、と言っている側の自分が忘れ物をしてしまったのだった。
「参ったよ。靴がこれだと、山道は足を痛める」
「やはりそうでしたか。よかったらこれを使ってほしいと彼女が言っていましてね……こいつじゃ代わりになりませんか」
男が差し出したものを見て、メルは微妙な表情を浮かべた。
「なると思う」
「よかった、ぜひ使ってください」
物を置いて去って行こうとする男を、メルは呼び止める。
「お礼をしたい。君たち、峠の宿で一泊するんだろう?」
「いや――我々は、このまま峠を越えます」
「それだと夜になる。危ないよ」
男は言い辛そうにしている。
何か事情がある旅なのだと察し、メルは荷物に手を突っ込んで、古めかしい金色のコインを取り出した。
「これを持って行くといいよ。売るとそれなりになるけれど、手放すなら目的地に辿りついた後のほうがいい。旅のお守りだからね」
「……頂いてもよろしいのですか?」
「どうぞ」
男は何度も礼を言い、去って行った。
~~~~~
峠の宿場町には十軒ほどの宿が立ち並び、なかなかの賑わいだ。
その軒先に並んだ峠越をしようとする旅人たちを呼び込んでいた。
手頃な宿を探していたメルは、意外な人物と顔を合わせることになった。
「おいおい、メルメル師匠じゃないか。奇遇だな」
気さくそうに片手を上げてみせた赤毛の男は、オリヴィニスの冒険者、暁の星団のアトゥだった。
交通の要衝にあるこの土地で、大陸中を歩き回る冒険者仲間と顔を合わすことは珍しいことではない。
だが、タイミングはよくない。
「宿を探してるんだろう。それなら俺たちの泊まってるところにしろよ。ベッドが清潔で、看板娘が優しくて美人、おまけにな、近くの食堂の飯が絶品だ。……ところで、その靴はどうした?」
アトゥはニヤニヤしながら、メルの靴に目をやった。
お気に入りの革靴の片方は愛らしいリボンが靴紐の代役を務めていた。
明るい黄緑色の地に花の刺繍が細やかに施された絹のリボンは、かつて女性の……それも若い娘の髪を結っていただろうということは、容易に想像できる。
「まあ、あとでゆっくり話でもしよう」
ふて腐れるメルを連れ、ふたりは宿に向かった。
広い食堂で夕食を摂りながら、シビルたちにリボンのことをからかわれた。
メルは黙りこくったまま、ときどき食堂の中を見渡してみた。
いっぱいの客の中に、同業者らしき姿がちらほら見える。
だが、来る途中で出会った二人はいない。街の中でも見かけなかった。
すれ違ったのかもしれないし、本当に峠越えの最中なのかもしれない。
しばらくすると、人相のよくない男たちが三人ほど近づいてきた。威圧的な黒い衣装に身を包んだ、見てくれだけは強そうな用心棒ふうだ。
「食事中にすまないな。この二人を見なかったか?」
彼らは似顔絵を見せた。メルはその片方に見覚えがあった。
靴紐を忘れたメルに声をかけてくれたあの男だった。
もう片方は……思った通り若い娘が描かれている。
「なんだい、誘拐か何かか?」と、アトゥが訊ねる。
「駆け落ちだ」
用心棒ふうの男が答えると、シビルは楽しげに口笛を吹いた。
「いいじゃない。恋の逃避行なんてステキだわ。このおじさんもやるわね」
「笑い事じゃない!」
用心棒らしき男は怒りに顔を真っ赤にしている。
どうも、似顔絵に描かれた彼が手に手を取って逃げていた女性は、大きな商家のひとり娘だったらしい。
駆け落ちの相手は長年、家に仕えていた護衛頭。
親子ほども年の離れたふたりだった。
父親は怒りのあまり、娘を連れ帰らなければ護衛たちをみんなクビにすると喚いているらしい。
つまり、クビになるのは似顔絵を持ってやってきた目の前の連中というわけだ。
「残念だが、他を当たるんだな。他人の色恋沙汰に余計な口出しをするほど、俺たちは落ちぶれてないんでね」
アトゥは追っ手の男を片手で追い払おうとする。
まともな冒険者ならいくら金を積まれても、こういう手合いは相手にしない。
冒険者だってその日暮らしで、世間から外れた連中だが、どこかで線引きはしているものだ。
メルはこっそりと屈んで靴のリボンを外し、床に置いて靴底の泥を擦りつけた。
それから、仲間に宥められて去ろうとする彼らを呼び止めてリボンを見せた。
彼らは三者三様に驚いていた。
「これは、お嬢様のものだ。こいつをどこで!?」
「ここから道沿いに一日半下って、沢に降りたところに引っかかっていたよ。足場が悪いから気をつけてね」
メルがそう言うと、矢も楯もたまらない様子で食堂を慌てて飛び出して行く。
「おい、なんで教えちまったんだよ、メルメル師匠……」
「まさか。二人は反対の方向に行ったよ。運悪く、沢に落ちたんだと思ってくれたらいいんだけど」
アトゥは、それを聞いて上機嫌に戻った。
「よし、これも何かの縁だ。追いかけてって護衛でもしてやるか」
「大丈夫だと思うよ。ふたりにはこれを渡してある」
メルは片手でコインを弾き、受け止めた。
時折、遺跡から見つかる珍しいコインだ。
オリヴィニスでは魔物除けのアイテムとして親しまれているが、本来は敵の追跡から姿を隠すためのものだ。
今頃、ふたりは月あかりを頼りに手に手をとって……。
幸せな物語の結末に向かって走り去るふたりを思い浮かべながら、アトゥとメルは互いの杯を打ち合わせた。
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