第6章 時空間エンタングル

「先輩! ALMAとSKAの観測データ調べときましたよ」

「ん? 何だっけソレ……」

「ヒドいなぁ。『アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計ALMAキロ平米配列電波望遠鏡SKAの観測データって手に入るか?』って言ってたじゃないっスかぁ」

「あ。ああ、悪い。忘れてた……」

一昨日おとといの話ですよ。だいじょーぶっスか?」


相変わらず、関山のテンションは高い。俺もこうありたい……とはこれっぽっちも思わないが、このくらいのが欲しいときがある。

結局、昨日は〝怖い考え〟に取り付かれてしまい、何も出来なかった。だが、俺は何者で、何処に居て、何処に行くのかとか、グノーシス主義⊕に傾倒けいとうしそうになった……と、少々ヤケっぱちではあるが、ジョークが言えるまでには回復した。簡単なことだ。悩んでもしょうがない。俺の近辺に何か危機的状況が迫っているわけではないのだから、デーンと構えていればいい。前向きに。前向きに。駐車場にだってそう書いてあるだろう。

だが、事実を黙殺もくさつするわけにはいかない。何があったのか。そして、これから何が起ころうとしてるのかを見極めなければならない。


「それから、見つけましたよー。これ探してたんでしょ」

関山の話はまだ続いていた……。

「何の話だ?」

「ほれ!」

関山が手にしていたのは、ALMAの利用申請のリストだった。その中に、“AOI Hikaru et al.”の文字が含まれている。こんなところでヒカルの名前を見るとは思ってもいなかった。関山のしゃべくりはまだ続く。

明後日あさってもまた使うんでしょ。いいっスねぇ。俺もあんだけのパラボラ、グリグリと動かしてみたいっス」

俺は、関山からそのリストを分捕ぶんどり、日付を確認した。間違いない、確かに2日後だ。もしやと思いページをめくる。間違いなかった。あの日。素粒子研の地下施設で目覚めたあの日も利用申請が出ている。それだけではない。その1ヶ月半前にも申請は出ていた。すなわち、〈ゴースト〉が〝留〟であった全てで、利用申請が出ており、ヒカルの手によって実際に稼働かどうしていたのだ。明らかにこれは偶然ではない。

だが、ヒカルはこの分野は素人だ。ALMAやSKAなら、〈ゴースト〉が捉えられるかも知れないなんてことは、俺だって、具さんや郷田に聞くまでは知らなかったことだ。誰かが手引きをしたとしか考えられない。もしかすると、そいつは、〈ゴースト〉が裸の特異点だと知っていた可能性すらある。もちろん、俺にはそいつの見当はついていた。〈彼〉だ。元々、この研究テーマは〈彼〉のものだった。そして、経緯は不明だが、〈彼〉は居なくなり、その研究をヒカルが引き継いだ。引き継いだはいいが、ヒカルが分かるのは量子テレポーテーションの実験部分のみで、3回目の〈ゴースト〉の〝留〟をどうやって探せばいいか、皆目かいもく見当がつかない。そこで俺に目をつけて共同研究を申し込んで来た……と考えれば辻褄つじつまが合う。

もちろん、この推測はところどころ抜けがある。第一、俺が何故、2回目の実験に駆り出されたのかがさっぱり分からん。1回目はおそらく〈彼〉なんだろうな。そして、明後日の3回目は……えーっと。そうだ。『〈彼〉が揃ってから』とかヒカルは言っていたから、〈彼〉の出番だろう。じゃあ、俺は〈ゴースト〉の軌道計算をヒカルに手渡した段階でお払い箱になったってことか? いや、ヒカルは『その時が来たら話す』とも言っていた。まだ用済みではないってことらしい。

俺の推測もこのあたりが限界だ。とりあえず保留ペンディングにしておこう。ヒカルが『話す』と言っているのだから、待とうではないか。それも、明後日までにその時がくるのは、まず間違いないのだから……。


        *  *  *


俺は切り替えは早い方だと思う。というか、延々と考え込んでいられるなら哲学屋になっている。いや、哲学屋と物理屋の間に数学屋というのが入るな。切り替えの早さというか、割り切りの良さで言うならば、〝哲学屋<数学屋<物理屋<工学屋〟ていう順序か?

物理屋の俺からしてみれば、工学屋に対しては『おいおい。その基礎方程式は条件別に色々と項が省略ネグられてるから、そのエネルギー帯域は適応外だろ。無条件に信じるなよ。ほら、ここ飽和サチってんじゃねーか』とか思う反面、数学屋に対しては『現実の実験結果に沿った式なんだから、無矛盾性とか証明が不十分とか、細けーことはいいんだよ。デルタ関数の〝関数としての位置づけ〟とか議論してどーすんだよ』と思ってしまう。

哲学は……自然科学の分野じゃないから分からん──数学は科学か? という議論は置いておく──。このヘンのカルチャー・ギャップは大昔のC.P.スノーって人の著書を見てくれ。


はてさて、そうと決まれば、明後日までにやることは結構ある。関山からもらったALMAのデータ……それも、“AOI Hikaru et al.”の観測データ解析をプレプリントに組み込む事だ。この観測データは幸いなことにALMAアーカイブで公開されているから誰でも見る事ができる。だが、その観測の意義を知るものは、おそらくヒカルと、今の俺しかいないだろう。〈彼〉もその一人か? ヒカルが何故、この観測結果を論文として発表しないのかは分からない。俺にすら『それはダメ!』と念押ししたくらいだ。おそらく観測データそのものも封印したかったのだろうが、国際的な共同観測施設を利用するとあっては、観測データの私物化は許されない。

ちなみに、ヒカルが観測のターゲットとして登録しているのは〈ゴースト〉ではない。そりゃそーだ。俺を含む重力波の研究者が、位置や軌道が分からず右往左往している時に、『〈ゴースト〉をピンポイントで観測します』的な申請を、シレッと出せるわけがない。ヒカルはその遥か後方のクエーサーの観測を行うことになっていた。実際、その通りなのかもしれない。量子テレポーテーション実験のキモは、二手に分かれたコヒーレント光の干渉であるから、〈ゴースト〉はそれを再び集めるレンズの役目をになっているに過ぎない。

もっとも、右回りと左回りで時間的なズレが生じるという点も重要なファクターで、〈ゴースト〉を〝単なるレンズ〟と言い切るわけにもいかないのだが、『観測対象は何か?』と問われれば、『クエーサーからの光』と答えても嘘ではない。


ALMAアーカイブのヒカルの観測データは、1回目、2回目とも完璧だった。クエーサーからの光が赤方偏移と青方偏移を起こし、陰陽魚太極図のように混ざり合っている。青方偏移が顕著に分かるというのがすばらしい。〈ゴースト〉が恐ろしい程の速さで回転していることの証拠だ。事象の地平線に収まることの出来ない〝裸の特異点〟なんだし、相当な暴れ馬であることは間違いない。

観測データを解析しながら、俺は段々と腹が立って来た。だって、そうだろう。ヒカルはこんな観測結果を知りながら、俺に〈ゴースト〉の正体を突き止めるように言い、『こっちが本物!』と予言をしたが、何のコトは無い、全部事実として知っていたということだ。何にも知らない俺だけがアタフタと走り回っていただけ。腹が立たない方がおかしい。

事実、1回目、2回目の観測先のクエーサーは別物で、なおかつ、その中心から微妙にズレた点を狙っている。明らかに、ALMAの〝ピント〟は〈ゴースト〉にフォーカスされていた。要するに、クエーサーは単なる隠れみのに過ぎない。

さらに調べて行くと、観測日時が〈ゴースト〉の〝留〟と一致している理由も分かってきた。それは補償光学装置アダプティブ・オプティクスに絡むものらしい。ALMAは地上の観測機器であるので、どうしても大気のゆらぎによるピンボケが発生する。これを補償して像を結ばせるのが補償光学装置アダプティブ・オプティクスで、ターゲット近くの別な天体をガイドとして大気のゆらぎを補償する。この時、ガイド星とターゲットの星の位置関係はなるべく固定されていた方が望ましいということのようだ。あくまでも、『なるべく』なので、必ずしも〝留〟と一致してなければならないわけではなさそうだが、万全を期してということなのだろう。

そもそも、〝留〟は天文学的な特異日でなく、地球上の観測であるが故の見かけ上の特異日で、何故にこんなものにこだわるのか、俺には理解出来なかったわけだが、要するに、そのが、大問題だったわけだ。


さらに、さらにである。この実験の規模は結構大きく、しかも計画が緻密ちみつで念入りだ。ALMAは『アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計』という名前の通り、日本から見ると地球の裏側のチリのアタカマ砂漠にある。砂漠と言っても熱い砂を想像してはいけない。山頂施設の標高は優に5000mを超えていて、空気も半分しかない。こんな所に、66台のパラボラ群が林立しているのだ。さすがに今となってはSKAにお株を取られ、老朽化が目立つ施設ではあるが、我が重力研の〈オルガン〉同様、立派に現役である。

ヒカルの研究室は、そこに三基の移動式実験室コンテナ・ラボを独自に送り込んでいる。中身は、ライダーLIDARと呼ばれる、巨大なレーザー発信器と超高感度望遠鏡が組合わさった装置だ。一般的には大気中のちりや火山灰などのエーロゾルを調べるもので、塵で反射されたレーザー光を望遠鏡で捉えて、そのタイムラグから塵までの距離を計測する装置である。レーザーを用いたレーダーと言った方が分かりやすいだろうか?

ヒカルはこれを、大気の観測では無く、さらにずっと先の〈ゴースト〉の観測に使おうとしている。以前、予備実験で見たレーザー施設のデカイやつと考えればいい。もちろん、このライダーはそんな名目では登録されておらず、観測時の大気状態の把握と、補償光学装置アダプティブ・オプティクスのためのレーザーガイド星発生装置とされている。ただし、機器性能を見ていると、どう考えてもオーバー・スペックだし、補償光学的には不必要なサーボ機構が付いていたりと、全球大気監視エーロゾル・ライダー観測網GALIONの面々が見たらヨダレを垂らして欲しがるほどの装置だ。

要するに、ヒカルの実験は、〈ゴースト〉の後ろのクエーサーの光をコヒーレント光として使うのではなく、直接、こちらからレーダーを撃ち込んでその反射を使って観測しようとする魂胆こんたんらしいって……あれ? 〈ゴースト〉は光を反射しないよな。いや、〈ゴースト〉のへりを180度回って戻ってくる光を捕まえるのか? うーん、よくわからん。まあ、ここで俺があれこれ詮索せんさくしてもしょうがないだろう。下手な考え休むに如かずである。

それから、これは俺の推測だが、〈彼〉はその移動式実験室コンテナ・ラボに居るのではないかと思う。そして、今、彼をこちらに呼び寄せているのか……。あるいは逆に、そこに待機スタンバイさせているのか……。


        *  *  *


翌日。俺は、プレプリント書きとは別に、もうひとつの調査も開始した。あまり乗る気がしない調査だったが、放っておくわけにも行かなかった。それは旅情的に言うと〝自分探し〟である。ホラー的に言うと〝自分の〟探しだ。

何も確証があるわけではない。だが、素粒子研の地下施設で目覚めたあの日、俺は斜行エレベータを使い、重力研の地下施設へ戻って来ている。つまり、俺はここに2人いる……ことになる。もう1人の俺はどうなったのか? 色々と恐ろしい妄想が頭に浮かぶが、それはとりあえず考えないことにする。もし、そいつを〝発見〟できたらどうするのか? ……それも、その時考えよう。

簡単な推測だ。少なくとも、この施設内に俺は居ない。……ややこしいな。この施設内には〈俺二号〉は居ない……と言い直そう。さっき言ったことと違うじゃないかと思うかも知れないが、もしも、施設内に〈俺二号〉が居るのなら、飯とか風呂とかどうするんだと言いたい。そもそも1ヶ月以上前の話だから、誰にも気づかれず、ずっと引きこもることは不可能だ。絶対に足が付く。さらに決定的なこととして、守衛室で見た映像に〈俺二号〉は映っていなかった。全て俺だけの映像だ。


──姿が同じなのに、何故分かるか?

簡単なことだ。俺が居ない間に〈俺二号〉が隙を見て逃げだしたのならば、この地下施設から、俺と〈俺二号〉が、してエレベータを上る映像が残っている筈だ。それがないのだから、ここでの〝俺密度〟は2で保存されている。divA=0だ。

もっとも、斜行エレベータを使わずに逃げ出す方法は、他にも2つほどある。非常階段を使う方法と、機器搬入はんにゅう用大型エレベータを使う方法である。非常階段で千メートルも上るんかい……と思っただけで気が滅入るが、これは本当に非常用で、階段途中に沢山のカメラ類が取り付けられており、何か動くものが映っていたら、即座に守衛室のアラームが鳴る。赤外線装置もついているから、どこかのスパイ映画のエージェントでも無い限り、極秘に突破することはできない。そして、俺にはそんな器用な特技は備わっていない。〈俺二号〉にそういう特殊技能が備わっているというのなら、俺と体だけ替わって欲しいもんだ。

次に、機器搬入用のエレベータは、車3台位なら楽に運べそうな大きさで、操作には許可が必要である。これまた守衛室に鍵を取りに行かねばならない。それに、こいつは動きが遅くて、地上に出るまで20分はかかるし、赤色灯ならぬ黄色灯がグルグル回ってビービー音を立てながら動くので、とてもじゃないが、こっそりと抜け出すことはできない。鍵を外し、エレベータ上部の鉄板を外してワイヤーを登るという特殊技能があるなら……以下略。


話が長くなったが、要は施設内には居なくも、可能性があるということだ。ここの施設は鉱山の発掘跡地に作られていて、使われていない坑道があちこちに走っている。実は、それらを辿たどれば全ての地下施設に行ける……という都市伝説、もとい研究都市限定の伝説がある。実は俺も、ここに配属になった頃、暇を見つけては施設外を探検したことがあるのだが、結構暑いのと、電気も何も無い空間で、当然ながら立ち入り禁止のロープも張ってあり、あまり奥までは進んだ事が無い。電波も届かないから携帯も使えない。もっとも、その発想は逆で、電波だけでなく、重力波やニュートリノなど、地球を貫通することを屁とも思わない粒子を、他の粒子が全く届かないからこそ、この地下施設は意義があるのだ。

現実的な話、暗い坑道内で地面に深い縦穴が開いているかも知れないし、未使用区域は鉄骨による補強とか無いから落盤もあり得る。それに、怪我をしたり穴に落ちて身動きが取れなくなったとしても、誰も助けにはこない。最悪、ここで野垂れ死んでも労災すら下りない。だから、冒険といっても、近場だけ回るハイキングのようなものをしたことがある……という程度だ。

だが、今回は少々本気を出さねばならない。もし……あまり考えたくないことだが、〈俺二号〉が実在していて、地上に出た形跡がないとするならば、この坑道のどこかで……あるいは……。


GPSは使えないが、光ファイバージャイロ付きレーザー測量器があるから問題ない。タブレットと併用して、測量器をグルっと360度その場で回転させれば、壁までの距離を自動的に計算してくれる。測量位置はジャイロに付属の3軸加速度計の値を二階積分すれば分かるから、これを持って移動しながら色々な方向を向けば、坑道内の地図マップが次第に出来上がるって寸法だ。後は地図を見ながら、レーザーが届かなかった別の坑道前まで行って、同じ事を繰り返せばいい。

その他は、LEDライトにザイル、軍手、それとわずかばかりの食料を持って行く。外は暑いが、岩場だから、長袖の方がいいだろう。ヘルメットもかぶっていく。登山靴……は持って無いから、トレッキング・シューズで我慢しておこう。登山靴とトレッキング・シューズって何が違うんだっけ? そうそう、それとカメラも必要だな。


坑道内は想像した以上に暑かった。それでもって、軍手に長袖だから、汗がスゴい。滝のように……とまではいかないが、雨だれ程度に背中を流れている。落盤とか滑落かつらくとか言う前に、脱水症状で倒れるんじゃないだろうか? メシより、まずは水をたっぷり持ってくるべきだった。ただ、水筒の分だけ荷物の質量が増すと、その分余計に汗をかくから、持って行くべき水量の最適解ってのがある筈で、それは、どれだけ歩き回るかという時間の関数になる筈で……とかなんとか、下らないことを考えるのは、もはや職業病だな。

まあ、少しずつ徘徊はいかいすれば、少しずつ地図が出来上がって行くので、それほどあせる必要は無い。どこかのアクション・ヒーローみたいに、松明たいまつの明かりひとつで闇の中を全力で駆け抜ける必要もないし、エイリアンが襲ってくることもない。多分……。あり得るのはガジェット類の電池切れだが、まあ、12時間もここにはいないからな。

坑道内は『迷路みたい』という話だから、右手法と左手法のどちらで解こうかとか、その手法だと、途中に孤立した〝島〟があったら辿たどり着けないじゃないかとか、色々と妄想をしたのだが、それほど奇妙に入り組んだ道は無かった。直線で止まり。引き返して、脇道で止まり……。地図の方は順調に出来上がって行く。その地図を見ると、意外にも整然と掘られているのが分かる。迷路というよりは碁盤の目のような構造に近い。おそらく、無計画に掘って天井が落ちてくるのを避けるために、柱となるべき岩盤を、ほぼ等間隔に残しているようであった。強度計算もしっかり行って掘っているのだろうし、思った程、危険な場所ではないのかもしれない。

そうこうしていると、少しずつ楽しくなって、段々と本来の目的を忘れていくが、それを思い出させるのは、たまに放置されている古びた資材の山だ。布切れがかけられていたりするとかなりヤバい。遠目には、人が倒れているように見える。実際にはそんな形ではないのだが、どうしてもそういう目で見てしまう。心底小心者のようだな、俺は。

おっかなびっくり近づいて、意を決してカバーを外し、ホッとする。その繰り返し。肉体的な消耗しょうもうとともに、精神的にもかなり滅入る作業である。

調査するのは足で歩ける範囲だ。ロック・クライミングでもしなければ辿り着けないような、10m以上も上にポッコリ開いた穴とかは無視した。暗くて足場か悪くて誰も助けが来ないようなところで、そんな所、誰が登るものか! 〈俺二号〉にそんな特殊技能があるなら……以下略。ただ、ところどころ坂道になっていて、上下に移動できる状態の場所もある。そのため地図は自然と3Dになっていく。

一旦引き返そうかと思い始めた頃、レーザー測量器が、ある坑道の奥に、何か人工的な直線と曲面で構成された壁面があることを知らせてくれた。そこだけ一本道らしく、かなりの距離続いている。距離にして500m程度。ライトで照らしても向こうはよく見えない。行ってみたかったが、既に12時を過ぎており、腹が……というより喉がカラカラだ。全身汗まみれでバテてもいる。まあ、午後からもう一度くればいいので、とりあえずは、戻ることにする。出来上がって来た地下坑道の地図に現在位置のマーカーを付け、帰り道を急ぐ。最短で来た道を引き返すように、タブレットを見ながら歩いたが、ものの15分くらいで到着。2時間かけて調査した割には、それほど距離は歩いてないのかもしれない。まあ、坑道の全体像は何となく分かって来た。


戻ってすぐに、軍手、上着、ヘルメットを脱ぎ捨てると、Tシャツは手でしぼれる程、汗びっしょりだった。そいつも脱ぎ捨てて、ローカーにあったタオルでゴシゴシ。予備の下着に着替えて、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、一気飲み。こういう時は、コーヒー牛乳かなぁ。ほとんどサウナだったし。やっぱり腰に手を当てるべきだな。一息ついて、再び冷蔵庫から、冷凍のテリ玉バーガーを取り出して、レンジでチンする。とても、地上うえまで上ってメシを食う気にはなれなかった。

端末を見ると、ヒカルとマクシュートフからメールが来ていた。

『メッセンジャーで呼び出したけど出なかった。実験の準備ができた。明日の夜8時に研究室に来て欲しい』

……ヒカルからのメールを要約すればそういうことになる。やはりこちらの思った通り、〈ゴースト〉の〝留〟に合わせ、ALMAのパラボラを巻き込んでの一大実験をするつもりだ。俺が『明日はちょっと呑み会で……』とか言ったらどうするつもりなのだろう。それに夜8時だぜ。まあ、事情は大体分かっているから行ってやるけどな。俺がその場に立ち会う理由くらい、先に教えてくれてもいいと思うが……。

マクシュートフからのメールは、LISA−NETでの観測が失敗に終わったことを伝える速報だった。そう言えば、今日だったな。俺の中では既に過去の話のように感じていた。メールからは、〝残念な結果〟という雰囲気が伝わってくるが、今の俺にとっては〝当然の結果〟だ。だが、その事を彼に伝えることが出来ない。少し……いや、かなり心苦しいことだったが、それも明日までの筈だ。少なくとも、今書いているプレプリントの共同研究者にはなってもらう予定だ。また一緒に、キンキンに冷やしてトロトロになったズブロッカでも呑もうじゃないか。


メシを食って一段落した後、俺は再び坑道に入った。今度は、Tシャツとジーパンだけの、極々ラフな格好である。午前中の探検で、それほど危険ではないことが分かったからだ。その代わり、タオルとミネラルウォーターはたっぷり持って行くことにした。ヘルメットは……仕方ない。かぶるか……。

先ほどのマーカー地点まで、15分。長い一本道は少しずつ下っている。5分程歩きながら次第に大きくなってきた正面の壁は、巨大な円形のオブジェというか、そういうものだった。

はて? この光景、どこかで見たような気がする。

直径にしておよそ5m強だろうか。何かの機械らしいことは分かるのだが、一体なんだ? 表面は、どう表現したらいいか……ジュリア集合の一部のような形状に並んだ歯が付いている。歯? おおそうだ。こいつは掘削機だ。このトンネルを掘り進んだ機械の成れの果てだ。その昔、ドーバー海峡を掘り進んだ掘削機も、そのまま地下に埋められたと聞く。使い捨てにしたことによる損失額よりも、地上に持ち上げるコストの方が割高だからだ。文字通り、墓穴を掘る機械なわけだな、コイツは……。

うーむ。何となく、切ない。

行き止まりだし引き返そうと思ったが、妙な既視きし感がその思いを引き止めた。よくよく見ると、上部右側に人が入れそうな隙間がある。さらによくよく見ると、そこを人が登ったと思われる形跡があるのだ。振り返って、地面をライトで照らしてみる。地面には、確かに人が通ったと思われる形跡があった。歩いて来た俺の足跡ではない。もっと大勢の人が歩いたと思われる跡だ。そして、その足跡は、右側……つまり、隙間のある方向を目指して進んでいる。

……と、ここまで来たら。

「登るかぁ!」

一人で気合いを入れる。声の反響がハンパない。こんなことなら、軍手はしてくるべきだったと後悔する。登るためには、手に持ったライトをどうにかする必要があった。少々不格好だが、ライトをタオルで巻いてヘルメットに固定し、登ることにした。最初からライト付きのヘルメットにすれば良かったと思うが、そんな備品は無かったよな。そもそも、坑道に入って行う仕事など存在しないし……。

おそらくタングステンと思われるその歯には、所々に人工ダイヤモンドと思われる黄色い結晶のカケラが埋まっている。掘り出せば良い値が付くかなとも思ったが、もしそうならば、既に皆が取り去っているよなと考え直す。ライターで火を付けて燃えるかどうか確認してみたいものだ。

かすかな油と鉄錆てつさびの匂いを嗅ぎながら、何とか3mくらい登る。それでも結構怖い。横の隙間に顔を向けると、かすかに風を感じる。コイツは必ずどこかに繋がっているに違いない! 恐る恐る隙間に足をかけ、反動を付けて体を隙間にねじり込ませる。少し……いや、かなりのへっぴり腰だ。地上3mじゃあ、ヘルメットもしていることだし、死にはしないだろうが、骨折くらいはあり得る。

隙間は、ちょうど人一人通れるくらいの通路となっていた。掘削機の外側にある隙間だから、明らかに誰かが意図的に掘ったものだろう。それが証拠に、掘削機の側面には手で触って出来たと思われる土の付いていない帯があるし、削ったときに出来たと思われる細かい傷も残っている。ツルハシ……は振り回せないよな。しかし、シャベルじゃ掘るのがキツそうだ。

20m程度歩いて行き止まりだった時は少々落胆らくたんしたが、左上から吹き下ろす風に気付き見上げると、掘削機の側面に沿って、ポッカリと空間が開いている。側面は、そこから上は丸みを帯びているから、斜面を登る格好だ。側面にはほとんど凸凹がなく、鉄板の隙間に指2本ずつくらいしかかけられない。もっとも、垂直ではないからまだマシだ。途中で手が滑っても、斜面を転がるだけだから擦り傷程度で済むだろう。結局、慎重に登ったので、滑り落ちることもなく、穴の上に出ることができた。とりあえず、そこで仰向けになる。疲れた。天井が高い。

数分後、俺は立ち上がり、あたりを見回し、レーザー測量機で坑道の広さを測る。かなり広い。掘削機のの部分は、この部屋の端の中央部分にある。おそらく、ここに掘るべき鉱物が大量にあったのだろう。だだっ広い空間には、錆び付いた様々な金属部品が散らばっており、強者どもの夢の跡らしい風情ふぜいである。真っ暗では、風情もなにもあったもんじゃないか……。

ふと目をらすと、遠くに青白い光が見える。一瞬、重力研の地下施設に舞い戻って来たのかと思ったが、レーザー測量機で作られた地図は明らかに違う場所を示していた。俺は、紫外線を放つ誘虫発光灯に吸い寄せられる夏の虫のように、そちらに向かって歩き出した。青白い光は段々と大きくなり、それが何かの非常灯のようなものだと分かってくる。非常灯に照らされた下の壁はドアとなっているらしい。何か文字が見える。そいつは……


『素粒子研究所粒子加速器施設』


と読める。何度確認してもそう読める。……っていうか、そうとしか読めない。ほほを汗が伝う。なるほど、そういうことか……。かなりの部分、謎が解けた気がする。

目的をある程度達成したから、ここで引き返そうかとも思ったが、やはり、好奇心には負けた。誰もいる筈が無い周囲をキョロキョロと見渡し、俺はドアノブに手をかけて回した。鍵は掛かっていない。ええい。掛かっていたなら諦めも付いたものを……。ゆっくりとドアを開ける。ステンレスか鉄板か知らないが、かなり分厚く、重いドアだった。暗いところをずっと歩いて来た所為せいか、中からの明かりがとてもまぶしく感じる。30㎝ほど開けて覗いた先は、重力研の地下施設とは比べ物にならない程の巨大な空間である。

想像した通りだった。あの日、俺は、逃げるようにして素粒子研の地下施設を後にした。エレベータに通じる長い廊下の終端部、突如としてひらけた視界に飛び込んで来たのは、ドリフトチューブ型の線形素粒子加速器だった。そして、今、そいつが目の前にある。あの時は上から眺めただけだったが、今は同じ目線……いや、相手が大きいだけに、見上げている格好だ。事実、数百m先には、俺が渡った吊り橋状の廊下が小さく見え、そこに直結するエレベータも見える。エレベータはここの階にまで伸びているから、あそこまで行けば、素粒子研の地上……あの静脈認証プレートの付いた特別なエレベータ出口から出られるだろう。だが、今はめといた方が賢明だ。その廊下に数人の人影が見え隠れしている。後ろめたい事は特にしていないが、仕事中にサボってここまで来た……ってコトになるのは間違い無さそうだ。どうやって来たかを説明するのもややこしそうだしな。

そうか……。明日なら大丈夫だ。共同研究のためヒカルの研究室にやってきたということで、途中誰かに会って問われたとしても話のスジは通る。もっとも、素粒子研の知り合いはヒカルと礼奈以外は、愛想のいい事務室のお姉さんくらいだが……。


俺は坑道を引き返しながら、頭の中を整理した。

要するに……だ。〈俺二号〉なんて元々居なかったのだ。俺は、そいつの存在に少々おびえていた。何しろ、1ヶ月以上も姿が見えないとなると、この坑道のどこかで……今なら声に出して言えるが、おっ死んでいるに違いない。そう考えていた。そして、その〈俺二号〉が実は本当の俺であり、今の俺は、そこからなのではないかという疑念があったのだ。なるべく意識には上らないようにはしていたが、その結論が最も単純で分かりやすい。オッカムの刃による淘汰とうたなら断然トップとなるべき推論だ。

だが、重力研と素粒子研が地下で繋がっているとなれば、話は違ってくる。俺は、あの日の午後8時過ぎ、メシを食べて重力研へ戻った後、坑道の抜け道を通って素粒子研へ潜り込んだわけだ。その時間帯の記憶が無いので、これ以上は推測でしかないが、午後8時過ぎにヒカルが重力研に訪ねて来て、この抜け道を手配したとなればスジは通る。ヒカルがエレベータから降りて来た映像が守衛室で見られなかったのは、〝プライバシー保護のため〟だ。

何故そんなことをしたのかは不明だが、堂々と胸を張って説明できない実験だったと言う事であれば納得がいく。表向きは、量子テレポーテーションの実験だ。所長へ正式ルートの申請が出されているのだから間違いない。その申請云々の記憶も俺には無いというのが少々ひっかかるが、それはとりあえず置いておく。だが、その実、怪しげな人体実験が行われていて、俺はその被験者なのではあるまいか?

そこまで考えると、ヒカルの『過去の記憶はあるか?』と言う俺への問いかけの意味が変わってくる。俺が一人しかいないとなれば、俺の過去の記憶は単純に〝消された〟のである。午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶を消さねばならない、何らかの事態が発生したのだ。昔の映画でそういうのがあったな……。時間を設定してピカッと光らせると、相手の記憶を消す事ができるというそういうアイテム。そして、ヒカルは、俺の記憶の消去が完全に出来たかどうかを確かめるために『過去の記憶はあるか?』と問いかけたのだとしたら……。何だ! 〝よからぬ事〟をしたのはヒカルの方じゃないか。

では……。目覚めた俺にかけた「大丈夫?」という言葉は何を意味するのか?


        *  *  *


実験当日。俺は朝からそわそわしていた。未だに何が行われるのかは聞いていない。もっとも、ここまで来たならその方が面白い気もする。この1ヶ月……いや、〈ゴースト〉が現れてからのことを考えれば4ヶ月間の集大成というか、壮大そうだいな答え合わせというか、そういう感じ。

実は、朝にはヒカルからメールが届き、それを見た直後に、メッセンジャーがポップアップ。メールの確認を待っていたのか、向こうからアポの確認をしてきた。数日顔を見てないだけなのに、何となく懐かしい気がする。

「ごめんなさい。準備に手間取っちゃって、今晩になってしまったんだけど……」

「大丈夫、大丈夫」

俺は自分でも分からないが、何故か余裕だった。ここ一週間、色々とあり過ぎでオーバーフロー気味。脳内処理が追いつかず完全にサチっている。熱で浮かれてハイになっている状態に近い。

ヒカルは『準備に手間取った』と言っているが、実験の日付はとうの昔に決まっていた筈だ。これはある意味、小惑星探査ミッションに近い。こちらの都合で天体は動いてくれないから、こちらが天体に合わせて動かないと話にならない。特に、今回の〈ゴースト〉は、フライバイして二度と戻ってこない双曲線軌道だから、最適な日時は自ずと決まってしまう。それなのに『準備に手間取った』とか言うヒカルは、やはり何かを隠していると考えるのが妥当だろう。

「……で、今日は、量子テレポーテーションの〝本実験〟って言うことでいいわけだな?」

「そう」

俺は少々高飛車だった。

「なら、これまで実験結果とか、教えてくれるって言うことでいいのかな?」

ヒカルの表情が一瞬こわばった気がした。そりゃそうだろうな。

「……そう思ってもらっていい。今日しか話すチャンスはないと思うから。あなたにも知っておいてもらわなければならない。〈彼〉のためにも……」

「彼?」

「ううん。何でもない」

今にして思えば、ここでヒカルの言い回しに気づいていれば、これから起こる事態に、少しは精神的に身構えることが出来ただろう。だが、その時は、ヒカルの口から出て来た〈彼〉の存在に、俺の気持ちは揺らいでいた。白状すれば、俺は〈彼〉に嫉妬していたのかもしれない。見た事も無いヤツ──本当か?──だというのに。


午前中は〈ゴースト〉の軌道に関するプレプリントの手直しに専念した。ヒカルはプレプリントの発表を『実験が終了するまで待って』と言っていた。裏を返せば、実験さえ終了すれば、大手を振って公表できるということだ。昨日、〈俺二号〉が居ない事を確認し、安堵あんどした俺は、坑道から帰って来てからセッセとプレプリントを書き綴り、構成を含めて完成させた。今日の作業は、一晩置いて〝発酵〟させた原稿を、昨日とは違う澄んだ目で、些細ささいなミスや誤字を見つけたり、話の順序を少々変えたりという作業だけだ。

ここまでくると、チマチマした作業で面倒くさいと思う反面、あまり頭を使わない作業なので、気楽である。何と言えばいいか……例えば、壊れ物の包装に使う気泡混入衝撃緩衝材プチプチを潰している感覚に近い。潰し損ねがあるのではないかとイライラもするが、それを見つけて〝プチッ〟と潰した時の快感というか、そういうものがある。でも、やっぱりメンドクサイ……的な、何か。

明日やれば良いじゃないかと一瞬思ったのだが、どういうわけか今日中に何とかしないとダメなような気がしていた。それに、論理的に考えると、明日以降はヒカルとの共同実験の論文の話が入ってくるだろうし……。そちらの方は、全然何をしていいのかわからないのだが。


昼休み。天気が良いので、サンドイッチを買い、久しぶりに外で食うことにした。蝉の声もいつの間にかヒグラシ以外は鳴りを潜めている。秋来ぬと目にはさやかに見えねども……下の句は忘れたが、木陰に入ると風が心地いい。もっとも、この短歌は立秋の頃のものらしいが。

〈ゴースト〉は今どのへんに居るのか考えたが、ここからでは地面へめり込む方向だった。重力波なら地球を貫通して捉える事ができるが、光学的には無理な話である。またしばらくすれば、〈ゴースト〉はいずれ北半球へ顔を出し、その後は永遠にさよならだ。こんな出会いは生涯に一度あるか無いかだろうなと思うと少し寂しい気がする。まあ、〈ゴースト〉の重力波放射は指向性が強く、距離が離れていたとしても、回転軸が地球と合えば出力が大きくなるから、太陽系外に完全に飛び去る前に、また観測できるかも知れない。そのヘンは、ヒカルのALMAの観測データを詳細に調べれば、時期が特定出来そうに思える。回転軸方向は、レンズ・シリング効果で赤方偏移と青方偏移の光として捉えることが可能だからな……。この観測データ公開されているデータだから、引用元を明記さえすれば勝手に使ってもいいが、まあ、ヒカルには仁義を切って許可を貰っとくべきだろう。


大抵の場合、論文をひとつ書くと、そこから派生した別の疑問が複数、思い浮かぶ。こいつが次の論文の〝タネ〟となるのだが、書けば書くほど、更なる別な疑問が膨らみ、いつまでたっても終わらない。〝タネ〟は拡大再生産され、ドンドンと増えていく。そうやって物理学というか科学全般は発展して来たのだが、一向に果ては見えない。森羅万象の法則セオリー・オブ・エブリシングなんて、何度も提唱されて何度もくつがえされて来た。もしかすると、人類が万物の法則を理解しそうになると、神様が後付けで更に細かい〝設定〟を追加していて、永遠に終わらないゲームに仕立てているのではなかろうか? ……とすら思う。

何しろ人間は飽きっぽい。全てが分かってしまったら、暇を持て余して何をしでかすか分からない。実は相対論と量子論なんて、19世紀にはんじゃないだろうか。19世紀末にケルビン卿が、『マイケルソン・モーレーの実験と黒体輻射〝以外は〟解決した』なんて言っちゃったものだから、それを聞いた神様がその2つを盛大に膨らませて、相対論と量子論を作っちゃったんじゃなかろうか。そうだとすると、『余計な事を言いやがって!』とケルビン卿を責めるべきなのか、逆に、それが無かったら重力研も素粒子研も存在していないわけだから『飯のタネをありがとう!』と感謝すべきなのか? ……なんてな。


午後は午後で、色々と雑用がたまっていた。非常用のUPSがひとつ死んでいるだの、〈オルガン〉Y軸2段目冷却遮蔽装置クライオスタットの定期メンテ費用の留め置き解除申請だの、そういう事務手続き。観測データの数字の羅列られつを見るのはワクワクするので苦にならないのだが、数字の頭に¥が付くと、途端に眠くなる。商売人には絶対なれない体質だ。何とかしようにも、眠くなるのは生理現象だからしょうがない。前日にいくら寝ても眠くなるのだ。でもって、経理担当にいつも怒られる。どうも、スミマセン。

15時過ぎからは、〈BAR〉の談話会コロキウムに久しぶりに顔を出す。今回の〈ゴースト〉……つまり、裸の特異点に関係しそうな、『最近の加速器実験で示された巨視的余剰次元数と高次元ブラックホールの形成条件について』を聞くためだ。相変わらず話が難しいが、簡単に言えば、次元数が多ければ多いほど、閉弦である重力子は余剰次元を感じ取ることが可能で、非常に緩い条件下でもブラックホールが形成されるが、5次元以上のブラックホールはもはや球体に留まらず、様々なトポロジーのものがあるので、これらの中から、現段階の加速器実験結果で、存在できる可能性でふるいにかけると、残るのは何かという話……なんだけど、ちっとも簡単になってないな。俺も話は半分くらいしか分からなかったので、これ以上、簡単には説明できない。あとは直接、〈BAR〉のヤツに聞いてくれ。さらに〝詳細に噛み砕いた〟説明が聞けるから……。


夕方には俺の仕事の8割を占める、〈オルガン〉の観測データのチェック作業。特に目立ったノイズ発生は無し。少し経つと地上にある運河のような道路に、帰路きろを急ぐ車があふれるから、少しばかりノイズは増えるが、これは朝のラッシュも含めて織り込み済み。道路工事も無いようだ。まさか、地上の住人は、地下千メートルで道路の振動を気にしている人間……というか機械が存在しているとは思ってもいないだろうな。土日の交通量変化なんて如実にょじつに分かるし、正月は静かだしね。電気系統、光通信も問題無し。来週はサブ系に切り替えだったな。3He-4He希釈冷却器も正常。カーボン・ナノチューブ取り付けセンサーの振動は……ちょっと大きいな。まあ、許容範囲だが。で、肝心の観測データはノイズ以上のものは何もなし。こうやって、日がな一日過ぎて行く。めでたくもあり、めでたくもなし。


やっと、日常が戻って来た。そんな気がする。今日のわけの分からん実験さえ終わればな。


        *  *  *


午後19時過ぎになり、素粒子研に向かう方法として、俺は地下の坑道を選んだ。理由は簡単だ。ヒカルを驚かせてやろうと思ったのだ。ヒカルは、俺の頭の中から、抜け道の記憶を〝消去〟したと思っている。おそらく、消去したかった本当の記憶は別にあるのだろうが、特定の記憶だけを選別して消去する方法が無かったのだと推測される。事実、俺は4時間程度の記憶が完全に欠落している。坑道の抜け道は、〈俺二号〉を探そうとして偶然発見……いや、再発見したものだ。だが、ヒカルはそんな事実は知らないから、俺が〝思い出した〟のだと思うだろう。はてさて、そういう場合、ヒカルはどういう行動を取るだろうか? 実に興味深い。

もちろん、ヒカルが消した記憶の内容によるだろうな。何かとてつもない犯罪行為を消去していて、『思い出したとあっては生かしてはおけぬ』とか、裁判所で証人として出廷する人物の命が狙われるみたいな、そういうたぐいの話もあり得る。サスペンス映画にはありがちな展開。まあ、現実問題としてそれは無いだろう。そこまで極悪人ならば、〝事件〟の翌日に『過去の記憶はあるか?』と、証人の元に聞きにくるような悠長ゆうちょうなことはしない筈だ。

かといって、お手軽なというか、どうでもいいような記憶ならば、あんな大掛かりな装置を使って記憶を消そうとするとは思えない。命をして消去しようとするまでの事柄ではないが、かといって、笑って済ませられる程のものでもない……一体、どんな記憶だろうか?

まあ、勝手に妄想しているが、意図的に記憶を消去しようとしたのではなくて、量子テレポーテーションの実験で〝誤って〟記憶が何処かに──何処に?──飛んでいってしまって、ゴメンナサイ……って言うのが、一番あり得る状況だ。ただ、そうだとしても、何故、俺を使って〝人体実験〟が行われたのかを聞く必要はある。人体実験じゃ無いとしても、何故俺があの日、あそこに寝そべっていたのかを聞かせてもらわなければ、この共同研究の実験には応じられない。そういう覚悟だ。


LEDの明かりを頼りに、坑道内を進む。作成した地図もポケットには入っているが、道筋はそれほど難しくないため、出番はなさそうだ。今日はヘルメットもかぶっていない。掘削機をよじ登り、側面の隙間をカニ歩き。そこから掘削機の斜面を慎重に登り、テニスコート四面は取れそうな巨大な空間へ。ここまでおよそ15分。下手すると、エレベータ経由で移動するより早いかもしれない。ほとんど夜這よばいだよな……。

『素粒子研究所粒子加速器施設』と書かれたプレートの下のドアに手をかけ、一瞬、『閉まっていたらどうしよう?』とか考えたが、ドアはスムーズにいた。少々重いので、ゆっくり、ゆっくり。

照明は前回来た時より、幾分落ちている気がする。そういえば、前回は真っ昼間だったんだっけ。夜はそれなりに暗くするのかもしれない。ドアの隙間からするりと中に入り、そぉーっと閉める。幸い、広い施設内を見回しても人影は見当たらない。少しホッとしたが、なぁに、今日はこの施設に用があるから来たのだ。こんなトコから出入りしているのを見られると、ちょっとアレだが、一旦入ってしまえばこっちのもの。堂々と振る舞えばいい……などと考えてしまうこと自身が、小心者ゆえの理論武装だな。

俺は斜行エレベータにゆっくりと向かいつつ、あたりをキョロキョロしながら歩いた。明らかに挙動不審だ。加速器は大学の実験でサイクロトロンに毛が生えた程度のものは使った事はあるが、ここまで本格的なのを間近まぢかで見た事はない。加速器の大きいものは直径20㎞を超えるものもあるから、研究所の施設としては小さい部類なのだろうが、やはり見慣れていない目にとっては圧巻である。つい、足音を立てないように歩いてしまうのは仕方が無いか。

様々な機器類の間をうように進む。一応、床には白線でかかれた矢印と歩道区域らしき境界線が描かれている。パイプをまたいだり潜ったりしながら数分後、ようやく斜行エレベータの前に到着。中のかごは下に降りつつある段階で、全体のちょうど半分位を通過したところであった。ここまでやって来るのは、残り1分少々といったところだろう。


ここまで来て、俺は、『どうやってヒカルを驚かすか?』という計画を考えていないことに気づいた。このままエレベータに乗って地上に出てしまったら、正面玄関から堂々と入って来たのと何ら変わらないことになる。前回、あわてて飛び出した経験上、地下から地上に出るのはスルーパスで、地上から地下へ向かう時に、静脈認証が必要だということが分かっている。それが証拠に、目の前の開閉ボタンも通常の押しボタンだ。ということは、俺はこのまま地下に留まり、ヒカルをここに呼び出せばいいことになる。

ならば、頭上に見えている渡り廊下の階に行き、俺が飛び出した部屋に先に到着して、そこからヒカルの研究室に電話で呼び出しをかけるというのはどうだろう? 携帯は通じないかも知れないが、部屋の中に内線電話くらいはある筈だ。ヒカルの研究室の番号は名刺に刻まれているから問題ない。さて、ヒカルはどんな顔をして驚くだろうか……などと考えて1分半。いかにも付け焼き刃的なこの計画は、木っ端みじんに吹き飛んだ。……ていうか、驚かされたのは俺の方だった。

エレベータのドアが開き、降りて来たのはヒカルだったのである。


        *  *  *


「早かったのね……」

ヒカルは驚く素振りさえない。こうなることをあらかじめ知っていたかのようだった。驚くというより、少し悲しそうな顔をしている。しばらくそのまま対面していたが、エレベータのドアが閉まりそうになり、俺はあわててそいつに乗り込んだ。行き先は、すぐ上の階。俺が目覚めた部屋があるあの階だ。

「付いて来て」

エレベータのドアが開き、ヒカルが先頭を切って歩いて行く。あたりには誰もいない。中空の渡り廊下の先は、暗い通路が続いている。間違いない。確かにこの場所だ。だか、あの時、俺は振り返らなかった。いや、振り返る事ができなかった。だから、エレベータから通路の先を見通すこのアングルの光景は初めて目にするものだ。またあそこに行くのかと思うと、少しばかり恐怖を感じる。暗い坑道へ入った時よりも強い、もっと何か根源的な恐怖だ。数歩歩いて足が止まる。体が付いて行かない。記憶は消え失せていても、何がったかを体が覚えているような気がする。昨日きのうまでは、一人でこの施設内を探検してみるか……などと考えていたのだが、実際、その時が来ると足がすくむ。

「おっ、おい!」

俺はヒカルを呼び止めた。叫んだと言ってもいい。ヒカルはその場で立ち止まりスローモーションのように体を反転して振り返る。髪が半周遅れでそれに追従ついじゅうするのを見て気づいた。あの日と同じく、今日のヒカルは腰まで届きそうな栗色の髪の毛を、伸ばしたままにしている。

「まず、何をするのか教えてくれ。共同研究なんだろ? 俺が何も知らないまま〝実験室〟に向かうなんておかしいじゃないか!」

「そうね……」

ヒカルはひらけた渡り廊下の先。暗い通路の入り口付近まで進んでいるので、表情の方はよく分からない。だが、声は沈んでいる。あの日、目覚めた直後の『大丈夫?』の声を思い出した。今更ながらに思う。やはり、あの声はヒカルの声だったのだと……。

「あたしは、あなたをちゃんと義務があるの……。そのためには、まず〈彼〉に会ってもらわなければならない」

「何を……言っている?」

「あなたには感謝している。でも、あなたが居るべき場所はここじゃないの……」

「…………」

「ともかく、来て。実際に会ってもらうのが一番早い……」

どうやら〝拒否する〟という選択肢は無さそうだった。意を決して付いて行くしか道はない。俺は薄暗い廊下に再び足を踏み入れた。左側は冷たいコンクリートの壁、右側はドアの羅列られつが続いている。俺が飛び出したのは何処だったか? こうも同じようなドアが続くと、自分の居場所すらよく分からなくなる。ただ、この設計……というか建物の構造は見覚えがある。例の予備実験でB3階に降りた時も同じような感じだった。あそこは確か3部屋くらいしか無かったが、ここは10部屋以上、もしかすると20部屋はあるだろうか。通路端から8部屋目。通路の中央付近まで来た時、ドアの上、火気責任者のプレートにヒカルの名前を見つけた。後ろを振り返ってエレベータを確認。この距離感、間違いない。俺はここから逃げだしたのだ!

だが、当のヒカルは更に奥へと進んで行く。そっちに行った記憶は全く無いが、これも消去された記憶なのか……。結局、ヒカルは突き当たりまで進んだが、そこにもドア……エレベータの開閉ドアがあった。要するに、この通路はどちらに進んでもエレベータにぶち当たる構造になっていたわけだが、前回飛び出した時は、明るい方に進んでしまったということになる。そりゃそうだろう。切羽せっぱ詰まった時は、人間、光を求めて彷徨さまようもので、暗い方へと歩みを進めるのは、モグラかミミズくらいのものだ。

そのエレベータは、斜行エレベータの地上出入り口と同じく、静脈認証で開くタイプのものだった。ヒカルが手をかざすと、軽やかな電子音が鳴り、スムーズにドアが開く。中に乗り込むと、ヒカルは更に地下を目指した……というか、地下方向しか階が存在しない。乗降ボタンの上には『地下保管庫』の文字があり、研究室毎の測器類保管庫になっているようだった。普通なら、こういう場所に行く時は、少しばかりの〝ワクワク感〟が生じるものだ。男なら誰だって、仲間だけの秘密基地とか作って遊んだことがあると思うが、こんなにリアルに秘密基地っぽい所は、そうそう無い。だが、どうにも食指しょくしが動かない。こんなところに〈彼〉が居るというのか? 

エレベータに乗り込んだ通路階を起点にして、B5階下。ドアが開くのに連動して、一斉に保管庫内の明かりがともる。まぶしい……。

「何だ? ここは?」

思わず声が出る。そう言えば、ヒカルは通路を歩き出してからここまで無言だ。そして、今も黙ったまま数歩進み、そこにポツンと立ち上がっているコンソール画面を操作し始めた。

保管庫と言って思い浮かべるのは、雑然ざつぜんとしていて、ホコリをかぶりながら出番を待っている機器、あるいは逆に、破棄はきされるのを待っている機器類が散在しているイメージである。だが、その部屋には何も無かった。只々、真っ白な空間だった。真っ白な空間の天井に、等間隔に配置された電灯。そして、膝元ひざもとあたりには冷たいもやがかかっている。そして、かなり広い。サッカーくらいなら出来そうだ。俺は思わず後ろを振り向いた。エレベータの乗降ボタンの上面『超低温貯蔵庫』の文字が見える。その間もヒカルは無言でコンソールを叩いている。最後のエンターキーを押すとき、ヒカルは一瞬だけ躊躇ちゅうちょしたが、その逡巡しゅんじゅんは文字通り一瞬だけだった。


「〈彼〉よ……」


抑揚の無い声でヒカルは言った。サッカー場なら、右サイド・ミッドフィールダーが居るあたり。白い床の一角が、冷たい蒸気を周囲にまき散らしながら次第にり上がる。嫌な予感がする……というより、嫌な予感しかしない。顔から血の気が引いて行くのが分かる。30㎝くらいまで競り上がってきたそれは、まだ白い闇の中にあるが、いずれ全貌ぜんぼうを表すだろう。俺は既に引き返せない場所に来てしまったらしい。パンドラの箱は開けられたのだ。

俺は〈彼〉に向かって歩き出した。足元は六角形ヘックスに刻まれた収納庫コンテナで、おそらく、ヒカルが操作したコンソールで、ひとつひとつが取り出せる仕組みになっているのだろう。六角形ヘックスの中央には識別用と思われる小さな数字がそれぞれに書いてある。

〈彼〉に近づくにつれて全体像が見えてくる。競り上がりつつある物体は、六角形ヘックスの頂点から6本の細い柱が下に伸び、その間の空間に円筒形の筒が格納された形状になっている。筒には氷かドライアイスか分からないが、それらがびっしりと張り付いており、そこから盛大に、冷たい蒸気が降下している。筒の動きが止まったのは、歩き出してしばらくしてのこと。高さとして2メートル半といったところか……。筒の上部には、パイプ類が密集した機械が30㎝ほどの厚みで存在しており、収納部と思われる円筒形の筒の高さ自身は2m強といったところだ。

筒の前に到着し、冷たいもやのベールが取れるのをしばし待つ。おそらく、中には液体窒素が満たされている。下手に手で触ると、そのまま張り付き、皮ごと引きがされる可能性が高い。問題は、そのマイナス196度の中に閉じ込められている〈彼〉である。おおよその見当はついていた。なぁに、簡単な推測だ。量子テレポーテーション、礼奈との会話と彼女の専門分野、結局見つからなかったが〈俺二号〉の探索、そして、何よりもヒカルとのやり取り……。そのヒカルは、足音から察するに、背後からゆっくりとこちらに歩いてきている。

もやが薄くなり、次第に内部が見えてくる。想像した通り、この筒は透明な耐熱ガラスか何かで出来た巨大な魔法瓶デュワーだ。中で揺らいでいるソイツが段々と人の形になって行くのを見て、予想が当たるってのは、嬉しい事ばかりじゃないのだなと、何か他人事ひとごとのように考えていた。


「コイツが……〈彼〉か?」

「そう」

ヒカルは俺の左横に来て、一緒に見上げている。

「ふっ……」

俺は、自分の意に反し、鼻で笑って下を向いてしまった。人間、理解の限界を超えた事象に出会うと、つい笑ってしまうというのは本当のようだ。冷静なつもりなんだが、そのじつ、かなり混乱しているらしい……と、そんな俺を傍観ぼうかんして冷静に解析している俺もいるわけだ。ややこしいことに。しかし、奇妙な光景だよな。俺とヒカルが2人で、を見ているなんて。しかも、〈彼〉は素っ裸だしな。どっちが本物だろうか?

「……で、何から聞いたらいいのが分からないんだが、〈彼〉は俺なのか……?」

「そうじゃない……。あなたは私が巻き込んだ別の人。悪いと思ってる。でも、あの時はこれしか方法が無かったの」

「巻き込んだ?」

「〈彼〉は死んだのよ。だから、過去に戻ってあなたを呼び寄せた。〈彼〉に一番近いあなたを……」

「すまない。正直、サッパリ分からん」

今こそヒカルの肩を揺さぶって問い質すべき時なのかも知れないが、そういう雰囲気じゃないよな。それに、素っ裸の俺……いや、〈彼〉の前で話を続けるのは、少しばかり恥ずかしい。そんなにいとしそうな目で〈彼〉を見られても困る。いや、俺が困っても仕方がないのだが。

タイミング良くか悪くか、ヒカルの腕時計のアラームが鳴る。

「時間があまりないわ。上で話すから付いて来て」

「何? いや、俺は……」

「分かってる」

ヒカルは引き返そうとして歩き出した足を止め、振り返り様、こう言った。

「強制はしない。あなたの進む道は、あなたに任せる。だけど、あなたの住んでいた世界はここじゃなかった。それだけは説明させて」

「……わ、分かった」

強い目だった。彼女としても、既に引き返せない所にまで来てしまっているらしい。ヒカルは、エレベータの入り口付近まで戻ると、再びコンソールを操作した。同時に〈彼〉がゆっくりと元の場所へ沈み込んでゆく。ヒカルは数秒間、その光景を見ていたが、不意にきびすを返し、エレベータへ向かった。そして、エレベータのドアが閉まるまで振り返ることはなかった。


        *  *  *


話はおよそ4ヶ月前。〈ゴースト〉が現れた時までさかのぼる。俺……いや〈彼〉は、ヒカルの研究室に、宇宙シミュレータの量子演算モジュール……要するに〈那由他モジュール〉を貸して欲しいと申し込んだ……らしい。『らしい』というのは、もちろん、俺にはそんな記憶はないからだ。俺は、高々4ノードの計算機資源で四苦八苦していた記憶しかない。そして、この記憶のすり替えは、すら無い、完全なる記憶の交換であった。

例えば、大切な人のことが思い出せない……という記憶があれば、それを思い出そうとして苦しむのは本人だ。だが、その人の存在を忘れていたならば、心を乱されることはない。だが、忘れ去られた側にとっては、この上ない苦痛と寂寥感せきりょうかんさいなまれるだろう。

何故、〈彼〉が、ヒカルの研究室にピンポイントで申し入れをしたのかについては、素粒子研の1階レストラン……

「〈ニュートラリーノ〉で何度か顔を合わせていたから……」

とだけヒカルは答え、後は言葉をにごした。

だが、〈那由他モジュール〉の使用許可申請が実際に通ったのは、申し入れから3ヶ月近く経ってからで、共同研究の申し込みもその時期に行われていた。すなわち、〈彼〉とヒカルの共同研究は、書面の上では、俺がこの部屋で目覚める数日前から始まっていたことになっているが、実際には、もっと前からフライングしてバリバリ使っていたことになる。使用目的は、宇宙シミュレータに残されていた、世代の古い〈佐藤スキーム〉、様々なパッチ群と出来損ないのプログラム・ソースを考えれば簡単に分かる。〈彼〉もなかなか仕事熱心なヤツのようだ。俺に似て……。

そして、〈ゴースト〉が現れて1ヶ月過ぎた頃、〈彼〉は、ふらりとヒカルの研究室にやってきた。

「どうしても確かめたいことがある……」

そう言って、〈彼〉は、地球近傍に得体の知れないコンパクト星が近づいている可能性があることを滔々とうとうと述べ、もしこの仮定が正しいとするならば、


「タイムマシンが作れる!」


と語ったのだ。

この段階で可能性が否定出来ないのであれば、マクシュートフとの共著論文の議論ディスカッションにでも大発見の可能性ありとして付け加えれば……とか思うかも知れないが、〈彼〉の気持ちは俺にはよく分かる。観測屋は得てして保守的なのだ。そんな得体の知れないものを発見したなどとは、相当な確たる証拠がなければ書けない。

『〈ゴースト〉は髪の毛座方向にあり』とした共著論文をフィジカル・ソサエティーの広報誌ブリティンに提出した後、〈彼〉はもうひとつの〈ゴースト〉の可能性を調べ始めた。そして、目を付けたのがALMAである。〈那由他モジュール〉を駆使くしできたお陰で、ある程度の正しい軌道計算は可能になっていたのだろう。何の事は無い。ALMA利用申請を出したのは〈彼〉なのだ。申請のリスト名が“AOI Hikaru et al.”だったのは、〈彼〉はまだ正式な共同研究者になっていなかったからで、申請の主体は“AOI Hikaru”ではなく、“et al.そのほか”にあったわけだ。


第一回目の〝留〟の時、実験はALMAに設置された急ごしらえの移動式実験室内コンテナ・ラボで行われた。今でこそ三基のコンテナで完全自動化されたシステムが構築されているが、当初はコンテナ一基で、光軸合わせとか手動だったらしい。さらに、素粒子研から地球の裏側までの、安定した専用量子情報中継システムが組めなかったことが、一番の問題だった。だから、実験者が現地におもむくしかすべが無かった。モノは立派なのにインフラに手間取って使えないってことは……まあ、往々にしてあるもんだ。俺は現場主義だからそれでもいいがな。多分、〈彼〉もそう感じただろう。鵜飼うかいみたいに遠隔操作をして、研究者は現場から遠く離れているというのは、何となくムズがゆい。

で、急ごしらえの実験は案のじょう〝失敗〟である。もっとも、何を以て失敗と言うかは難しい。〈ゴースト〉の軌道計算は正しく、ALMAによる〈ゴースト〉の観測としては完璧であった。失敗というのは、タイムマシン実験のことだ。これをどうしてもやりたいと言い出したのは、〈彼〉の方で、自分が最初の被験者になると言い張ったそうである。まあ、粘菌やクラゲじゃ、時間を移動したかどうかなんて分からないからな。

ちなみに、実験の成否は〈彼〉とヒカルの間で賭けの対象になったらしい。ヒカルがあまりにも『絶対無理!』と言い張るものだから、『成功した暁には、何か買ってやる』と〈彼〉が言い出し、ヒカルは……なんと言ったか、四国の県名みたいなブランドのバッグを買ってもらうことになっていた。まあ、実際には実験は失敗したわけだが、失敗した場合の賭けの対象が何だったかについては、ヒカルは言おうとしなかった。


ちなみに、行われたタイムマシン実験の原理はそれほど難しくない。スプリットさせ、エンタングル状態となったレーザービームを、〈ゴースト〉の左右近傍きんぼうにそれぞれ撃ち込む。突入経路さえ間違えなければ、〈ゴースト〉を半周して再び戻ってくるコースを巡らせることが可能だ。左右では時空の引きずられ方が違うから、ビームの移動速度に明らかな時間差が生じる。回転順方向に撃ち込まれた光は、エルゴ面内を通り、時間を遡って出てくるから、この光と反対側を通った経路の光を使って情報を過去に送る。タイムマシン実験が記憶転送実験と違ってユニークなのは、情報を送る相手が別の誰かではなく、同一人物だってところだ。つまり、アリスの情報をボブに送信するのではなくて、未来のアリスが持つ記憶を今のアリスの脳に移すわけである。ただし、今現在の脳内情報を〈ゴースト〉に送り出さなければ、それに対する未来の情報も〈ゴースト〉から降ってこない仕組みだから、送り出している最中に機器が壊れたら、送り出された記憶は、記憶は……どうなる?

いやまあ、そいつの考察は後回しにするが、上手うまいことに、ヒカルの仮説──未だ作業仮説の域を出ない仮説──によれば、今の自分と未来の自分の中で、最も似ていない部分……言い換えれば、異なっている情報だけがエンタングル光で転送されるという。だとすれば、何が転送されるかは明白だ。今の自分と未来の自分の記憶の差分情報……すなわち、明日の記憶を得るには1日分の、来年までの記憶ならば1年分の情報が転送されることになる。正確に言えば、未来の記憶を手に入れる代わりに、過去の記憶は多少消去される。1年後の記憶を手に入れたなら、今日食べた夕食のメニューは忘れることになるだろう。ただし、どの程度消去されるかは個人差がある。人によっては、過去の記憶を全部持っているという人もいるからだ。

逆に、過去の記憶が転送された場合は、今現在から転送先の過去までの記憶が消去されるのと同時に、忘却してしまった記憶が、再びリフレッシュされて書き直されることになる。1年前の夕食のメニューを思い出す事も不可能ではない。……もっとも、それが何の役に立つかは不明だが。

データ転送という情報処理の観点から見れば、記憶の追加であろうが消去であろうが、どちらも同じだ。ということは、遠い未来……あるいは遠い過去へ行くほど、交換すべき情報量が増えることになり、その分、資源リソースとしてのエンタングル光が大量に必要となる。

実験の成否は、エンタングル光の集中的な生成、複合的で精緻せいみつな機器制御と、膨大な情報処理の可否で決まる。稚拙ちせつな装置ならば、数分先の転送も困難だが、精巧な装置ならば、もっと先まで行けるだろう。逆に言えば、例え稚拙ちせつな装置であったとしても、送り出す情報が単純ならば、もっと未来や過去に情報を転送できる。〝予備実験〟として粘菌が使われたのはそういう理屈である。

脳ミソ空っぽの方が転送しやすいってことだ……。


……では、タイムマシン実験が〝失敗〟したらどうなるのか? 廃人はいじんになってしまうとか恐ろしいことが起こるのかというと、そうではない。都合のいいことに、という現象が。交換される情報は差分情報だ。差分情報のみが〈ゴースト〉を経由する。どういうわけが、量子はそれを選択的に選別するらしい……とヒカルは話したが、俺としては、礼奈が言っていたように、ありとあらゆる全ての情報を交換するが、同形の情報は交換しても相殺そうさいされて軌跡が残らず、結果的に差分情報のみが交換されるようにという、ファインマン流の考えの方がしっくりくる。まあ、どっちでも、結論は同じだから、自分が気に入った方を選べばいい。差分情報のやりとりが〝失敗〟しただけなら、元の情報は無傷で残っているのだから、何の問題も無い。ただ単に、未来に……あるいは過去に行けなかったという記憶が増えるだけである。


続く、第二回目の〝留〟の時は、タイムマシン実験の予定はなかった……とヒカルは言う。粘菌の予備実験と同様、人から人への記憶の転送実験である。被験者はまたしても〈彼〉だ。

礼奈は言っていた。『不老不死の私の研究は、葵主任の量子テレポーテーション技術とセットじゃないと完成しない』……と。だが、記憶の転送実験だけであるならば、〈ゴースト〉を経由する必要はない。素粒子研の地下施設……『素粒子研究所粒子加速器施設』で生成されたシンクロトロン放射光を使えばいい。まさに地産地消ちさんちしょう潤沢じゅんたくなエンタングル光を使うことができる筈だ。ALMAの利用申請までして、わざわざ地球の裏側を経由する理由が見当たらない。

だが、〈彼〉が、どうしてもタイムマシン実験がしたい。そのために〈ゴースト〉経由でやりたい……と言い張ったのだそうだ。第一回目の実験の時といい、〈彼〉は俺よりワガママなようだな。何か特別な理由でもあったのだろうか?

量子テレポーテーションを使った記憶の転送実験ならば、それは正確には転送ではなく交換スワップ実験だ。コピー&ペーストではなく、カット&ペースト。そのためには〈彼〉だけでなく、情報交換相手が必要となる。アリスに対するボブが必要なのだ。ボブ役は……想像がつく。礼奈が言っていた、サイトカイン遺伝子のスイッチをイジって成長因子GFがどうしたこうしたで、モヤシみたいな……。ともかく、そういう促成栽培で無理矢理成長させた〈彼〉のだ。

そして、行われた実験で、俺は〈彼〉のクローン体で目覚めた。元々のクローン体の脳の中身は空っぽだったであろう。ということは、今、液体窒素の中で永遠の眠りについている〈彼〉の脳には何の情報も入っていない……正確に言えば、何の情報も入っていないを転送された状態だということになる。

……いや、それはおかしい。この実験には俺と〈彼〉とクローンの三人が絡んでいる。俺とクローンが記憶を交換スワップしたのなら、〈彼〉の記憶はどこに行った?


        *  *  *


俺とヒカルは、俺があの日目覚めた部屋で向き合っていた。大筋の経過は分かった。確かに、こんな突拍子も無いことを、会ったその日とかに真顔で話されても困る。だが、ヒカルの説明は肝心な点がすっぽり抜け落ちている。

「で……」

と俺は話を続けた。

「細かい点はいい。とりあえず2つだけ聞きたい。〈彼〉は何故死んだ? そして、俺は何故ここにいる?」

「〈彼〉は……。実験に死んだの……。脳動脈りゅう破裂で……」

「何⁈」

「一回目の実験のとき、破裂寸前の〈彼〉の脳動脈瘤に気づいた。でも場所がとても深いところにあって、開頭手術クリッピングはもちろん、血管内治療コイリングも難しい場所だった」

……確かに、記憶の転送装置は、機能的磁気共鳴イメージング装置fMRI生体磁場計測器MEGの複合体だから、脳内くまなくスキャンしてくれるだろう。ていうか、脳内の記憶を全てスキャンするように設計された装置なんだから、そのくらい出来て当たり前だ。要するに、〈彼〉は、第一回目の実験で、とてつもなく精密な〝脳ドック検診〟を受けたに等しい。他の臓器の異常なら、礼奈が言っていた促成栽培で人工的に作り出し、移植してしまえばいいが、脳の移植は不可能だ。

ヒカルは話を続ける。

「私は全く別のアプローチで〈彼〉を助け出すことにした。それが……」

「クローンへの記憶の転送か」

「……そう。でも、間に合わなかった」

ヒカルは始終、し目がちである。

冷静に考えれば、この〝治療〟は人体実験もはなはだしい。いくら『現代医学のすいもってしても治療不可能』だったとしても、これは飛躍し過ぎじゃないか? それに、人の全身のクローン体製造は国際法違反だった筈だ。そのスジには詳しくない俺だって、そのくらいは知っている。一時期、何人もの研究者が逮捕されたニュースが流れていた。それに、〈彼〉が死んだとして、それを地下貯蔵庫に秘密裏に保管していたというのは、要するに死体遺棄いき事件だ。発覚すればただでは済まない。

もっとも、だからと言って救急車を呼んで、公的に〈彼〉の死亡が確認されたとしても、〈彼〉の立ち位置というか立場をほぼ完全に引き継いだ俺は普通に生きているわけだし、下手すると俺自身が〝故人へのなりすまし〟と見なされかねない。それはそれで、太陽がいっぱい過ぎる。


「……じゃあ、俺は? 俺は何故……何処どこから呼ばれたんだ。ヒカルの話だと、〈彼〉と〈彼〉のクローン体だけ揃っていれば、このは完了する筈だ。俺の出番は全くないだろう」

「ごめんなさい……」

「謝る必要はない。俺は理由が知りたいんだ!」

「〈彼〉は死んだの。死体からクローン体に記憶を転送しても、生き返ったりはしない。生けるしかばねとなるだけ」

「生ける屍⁈」

「記憶の転送先のクローン体には何の損傷も無い。脳の活動も正常。そして、転送元が死後数時間までなら脳内の化学変化も微小で、記憶の情報もちゃんとクローン体に転送される。でも……それでも、意識は戻らない。意識だけが何処かに行ってしまうのよ」

ヒカルはるような目で俺を見据みすえた。

「あたしはこれまでに何度も実験をしている。粘菌でも、ヒドロゾアでも、モルモットでも、ウサギでも……」

「そして……人でも?」

「違う! 人体実験なんてしてない! 〈彼〉は、あたしがここに到着した時には既に死んでいたの!」

俺はヒカルの剣幕けんまくに押されていた。礼奈は不老不死の研究だったが、ヒカルは更にその上、死者をよみがえらせようとしていたわけだ。そして〈彼〉はここで……この部屋で、あの日死んでいた……というのか?

「わ、わかった。信じよう。で、〈彼〉はどうなったんだ。俺との関係は?」

ヒカルは自分を落ち着けるため、深呼吸をひとつしてから話しだした。

「ヒントをくれたのは〈彼〉自身よ。〈彼〉は、あたしが行う転送実験の後、二回目のタイムマシン実験をするつもりで、あの日を選んだ。だからALMAとの量子回線は繋がっていた。あたしは、生きている〈彼〉をことにした……」

「何だって?」

「〈彼〉は数時間前までは生きていた。だから、その時点の〈彼〉の記憶をクローン体に転送すればいい。けれど……ALMAを経由したタイムマシンの回線は細すぎる。転送出来る情報量が圧倒的に少ない」


第二回目の実験がALMAの移動式実験室コンテナ・ラボではなく、素粒子研の地下施設で行われたのは、記憶の交換スワップ実験では、アリス用とボブ用に、転送装置が2台必要という、装置の複雑さもさることながら、交換すべき情報量が桁違いに大きいことが要因になっている。もしもこれがタイムマシン実験なら、記憶の差分情報のみの交換で事足りる。数時間の過去へさかのぼるのならば、数時間分の情報をだけで済む。だが、今回の交換相手はクローン体だ。クローン体の脳には記憶が一切無いから、『差分情報=脳内全情報』の交換となる。それだけのエンタングル光の大量生産は、とても移動式実験室コンテナ・ラボじゃあまかなえない。素粒子研の地下施設で生成された、シンクロトロン放射光をまるまる使うというのだ。

だが、死者からの記憶転送は、〝生けるしかばね〟を生み出すだけだから、その上に〝生きた意識体〟をする必要がある。

「そいつが……俺か?」

「そう。ここの転送装置で〈彼〉の記憶をクローン体へ転送した後、ALMAへの量子回線を使って、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟と、同時刻のあなたとの記憶の交換スワップを試みた……」

「いや。分からんな……。クローン体に〈彼〉の記憶を全て転送した後に、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を連れてくればどうだ。そうすれば俺の出番はないだろ……」

「それは無理。クローン体には4時間前の記憶が無いから……」

「ん?」

「〈彼〉の記憶が全て転送されていたとしても、タイムマシンで過去にさかのぼるのは、あくまでもクローン体。〈彼〉ではないわ」

「うーむ…………」

「いい? 例えば、過去から人を連れて来られるタイムマシンがあれば、10年前のあなたを連れてくる事は可能なはず。でも、100年前のあなたは連れて来れない。まだ生まれてないから。同じように、クローン体に数十年分の記憶を転送したとしても、それは、記憶を植え付けただけ。実際に時間を遡って行く事は不可能……」

「それなら、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を、タイムマシンで〈彼〉に連れてきてから、その全記憶をクローン体へ転送すればどうだ」

「〝生きていた〈彼〉〟の記憶を、亡くなった〈彼〉に転送しても、〝生きた意識体〟が戻ってくることはない。それどころか、一度でもすれば、〝生きた意識体〟はそこで消える。それも、予備実験で実証済みだわ」

「何?」

「アリスとボブの記憶を交換スワップし、その後、再び交換すれば、アリスとボブは元に戻る。だけど、アリスが死んでいた場合、ボブをアリスに持ってきた段階で、ボブの〝生きた意識体〟はそこで消えてしまう。再び交換しても、ボブは〝生けるしかばね〟となって戻ってくるだけ」

「…………」


完全に理解するには少し時間が必要だった。だが、ひとつ分かった事がある。

俺があの日、午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶が無いのは、記憶が消されたからではなく、そもそも記憶すべき時間の方が無くなっていたということだ。俺は午後8時過ぎから、4時間を飛び越え、いきなり真夜中に召喚しょうかんされたのだ。4時間……?


「ヒカルがここに来たとき、〈彼〉は既に死んでいたんだな?」

「……そう」

「おかしいな? 倒れた現場を見てもいないのに、何故、は〈彼〉が生きていたと言えるんだ」

「それは……。〈彼〉が操作したコンソールのログが残っていたから……」

「4時間前?」

「3時間前まで……。あたしがここに来る3時間前まで、〈彼〉はタイムマシン実験の準備をしていた。〈彼〉の理論によると、〈ゴースト〉へのエンタングル光の入射位置を調整すれば、経路の違いによる到達時間の差分だけ、過去に戻ることが出来る。あの日、ALMAの観測は、4時間分だけずらして調整されていた……」

「……それはまた、用意がいいことだな。〈彼〉はみずからの死を……そして、4時間後に連れ戻されるってことを知っていたとでも言うのか? ヒカルの作業時間、1時間分もキッチリ見越した上で……?」

ヒカルは顔を上げ、何か喋ろうとしたが、その言葉を飲み込んだ。

「理由は……理由は分からない。調整したのは〈彼〉だから……」


俺と〈彼〉は、あの日の午後8時までは、全く何の関係もなく違う世界を生きていた。そのまま行けば、〈彼〉は数時間後に脳動脈瘤破裂……要するに、くも膜下出血で亡くなり、俺はいつもと変わらない日常を続けていたことになる。

だが、そこにヒカルが介入する。ヒカルは亡くなった〈彼〉を助けるため、素粒子研のシンクロトロン放射光を使い、〈彼〉の記憶を〈彼〉のクローン体と交換スワップした。ただし、そのままではクローン体は単なる〝生けるしかばね〟だ。

さらにヒカルは、〈彼〉が調ALMAの回線を使い、時間を4時間さかのぼり、午後8時時点の俺と〈彼〉の〝生きた意識体〟を交換スワップしたんだ。

何ともご都合主義満載だな……。一体、どこまで信じればいい?


「ヒカルの言うことが事実だとするなら、俺は、今までとは違う世界に突然呼び出されたことになる。それなのに違和感が全く無いのは何故だ? 元の世界とこの世界は、それほどまでに同一なのか?」

「記憶の交換スワップが不完全だった可能性が高い……」

「どういうことだ?」

「4時間前の〈彼〉とあなたの記憶のがどの程度あるのかは未知数。本来ならば、差分を全て交換し終えれば、記憶の量子テレポーテーションは完了する。使えるエンタングル光が潤沢じゅんたくにあるなら、普通はそれら全てを投入する。余った分は利用されずに捨てられるだけだから。だけど、ALMAへの量子回線は細い。どこまで交換が終わったかは、あたしにも分からない……」

「記憶に不一致がある3ヶ月分だけが交換されたってわけか……」

「それは分からない。それ以前の〈彼〉とあなたの記憶が全く同一であったならば、交換する必要が無い。全てが完全に入れ替わったという可能性も否定出来ない。それに……」

「それに?」

「〈彼〉とあなたの記憶は、今でもエンタングルした状態が続いていると考えられる」

「は⁈」

「〈彼〉とあなたの記憶は、未だどちらのものと確定していない状態が続いていて、どちらかが明確に思い出すと、相手の記憶はおぼろげになる……。そういう状態」

「じゃあ、なるべく楽しい思い出を思い出すことにしよう……」

「楽しい思い出の記憶が同一のものなら、交換しても何も変わらない。量子はそんな無意味な交換はしないわ」


頭がクラクラしてきた。俺の記憶のほとんどの部分が〈彼〉のものなのか? それとも、ここ数ヶ月を除いて、ほとんどが同一だから、どちらのものという区別そのものが無意味なのか……。

「〈彼〉と俺との記憶の明確な違いは……ヒカル、お前だ」

「えっ⁈」

「〈彼〉の記憶には、お前の……ヒカルの存在が常にある。だが、俺にはその記憶が無かった。これは何故だ」

「それは……、あたしにも分からない。〈彼〉に最も類似した存在があなただったということ。その記憶の中に、あたしが居ない理由は、あたしにも分からない……」

ヒカルは寂しそうにうつむいた。


「……最後にもうひとつ。俺は何処どこから来たんだ。パラレルワールドってヤツか?」

「エヴェレット解釈はあたしは信用してないし、そもそもシュレディンガー方程式は線形だから、例えパラレルワールドが存在していても、相互干渉はできない。おそらく、〈ゴースト〉で広げられた余剰よじょう次元チャネルの、別の時空から来たと思う。何処どこかは分からない。〈彼〉なら詳しいんだけど……」


……いや、俺はヒカルの言っていることが全く分からんのだが。その〝別の時空〟とパラレルワールドの違いは何なのか? もっとも、パラレルワールドってヤツの定義が何なのかも、実はよく分かっていないのだがな。


        *  *  *


俺は、部屋の中を改めて見回した。以外と小さく、そして静かだ。もちろん、ここの機器だけでは何も出来ない。シンクロトロン放射光施設とALMAの観測システム……さらにその先端に〈ゴースト〉が含まれてこその実験だと考えれば、途方も無い規模の実験なのが分かる。どれが欠けても実験は成功しない。そして、その〝駒〟のひとつに、選択の余地無く、俺は組み込まれている。いい気分はしない。勝手に連れてきておいて、『帰るかどうかはあなたに任せる』と言われても困る。

だが、ヒカルにも選択肢が無かったのだ。ヒカルの頭の中には、〈彼〉をそのまま死なせるという考えは、微塵みじんも無かったのだろうと思われる。その時の修羅場を、当然ながら俺は知らないが、今にして思えば、あの時聞いた『大丈夫?』の声は、疲れきった果ての声に思える。


ドアの正面。俺が目覚めたその装置は、頭部にヘルメットと言うには大き過ぎる、直径1メートル強の円筒が備え付けられていた。今はかなり上の方に鎮座ちんざしているが、実験時にはコイツが頭まで下りてくるのだろう。そして、もう一つ。真後ろにも同形の装置がある。俺はあの時、一目散で逃げ出したから、後ろを振り返ることはなかったが、俺の真後ろには、記憶を〈彼〉が居た事になる。

ヒカルはあの日、俺が立ち去った後、〈彼〉を超低温貯蔵庫まで運び、液体窒素漬けにした。おそらくたった一人で。そんなことをしたのは、俺のためじゃない。俺に説明するために〈彼〉の亡骸なきがらを保存していたんじゃない。それは〈彼〉のためだ。〈彼〉に事情を説明するためだ。言い方は悪いが、もし完全犯罪を狙うなら、〈彼〉の亡骸なきがらを〝処分〟し、俺とのコンタクトを断ち切ればいい。〈彼〉の死も、クローン体の製造も、全て無かった事にできる。そして、それに気づくものは誰もいない。

だが……。だが、ヒカルは〈彼〉にどうしても会いたかったのだ。


……分かった。負けましたよ。この世界には、確かに俺の居場所は無さそうだ……。


「で……」

と俺は話を切り出した。

「どうすれば、俺は元居た世界に帰れるんだ? いや、〈彼〉を……。どうすれば〈彼〉をここに呼び戻せるんだ?」

「えっ⁈」

「この椅子にもう一度座ればいいのか?」

「……ありがとう」

「ふん。礼はいい。それに、タイムマシンで別の時空に行くなんて、そうそう経験出来るものじゃないしな」

「……ありがとう」


ヒカルは泣いていた。どうもバツが悪いな。くそったれ!

「えっ?」

俺はヒカルを抱きしめていた。

「〈彼〉は恋人だったんだろ……。泣くのはヤツが帰って来てからにしろ」

「う、うん……」

ヒカルはびっくりしたのか、泣き止んでいた。意地を張るなら最後まで張れってんだ。


「それはそうと……」

腹は決まった。そうなると少しばかり気になることがある。

「〈彼〉は今頃何をしているんだ。記憶のなんだから双方向だろ。こっちだけ準備したとしても、〈彼〉と〝シンクロ〟してなきゃ意味が無い」

「それは大丈夫。〝シンクロ〟している〈彼〉をエンタングル光が選び出して、こっちとリンクしてくれるわ」

「そんな、都合良くいくのかね?」

「じゃあ、あなたが、ここにやって来た時、〈彼〉との〝シンクロ〟を考えた?」

「……いや」

「以前言ったでしょ。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した相手を自発的に捜し出して入り込むって」

「そうだったかな……」

「そうよ」

「……そうか」

まあ、この分野はヒカルに任せておけばいい。だが、ヒカルは少し考えながら、こう付け加えた。

「でも、捜しきれない場合が無いとは言えない。〈彼〉とあなたの記憶に大きな隔たりが出来ていたら、記憶の差分情報が膨大で対応しきれないことも考えられる。その場合は、信号そのものが弾かれて、何も起きない。それに〈ゴースト〉の状態も気になる……」

「どんな?」

「〈彼〉とあなたは〈ゴースト〉を介して、記憶を交換した。そして、今でもエンタングルした状態が続いているかも知れない。これは記憶を再交換するには非常に有利なこと。新たな情報の交換が最小限で済むから。でも、もしも、〈ゴースト〉が様々なを受けていたとしたら、エンタングルした状態が切れてしまう」

「量子通信でデータ盗聴するとエンタングル状態が崩れるっていうあれか?」

「そう。そうなれば、〈彼〉とあなたの繋がりはほとんど無くなり、永遠に切り離されてしまう。そうなったらもうお手上げ。〈彼〉は戻ってこない……」


なるほど。それでヒカルは、〈ゴースト〉の軌道や位置情報を公表したく無かったわけだ。だがそれも時間の問題。LISA−NETの連中も、二度と同じヘマはしないだろう。もっともその前に、〈ゴースト〉自身が太陽系からおさらばしてしまうけどな。まあ、実験する前から失敗後のことを考えても仕方が無い。失敗したら、今の状況に何ら変化が無いだけだから、俺は特段困らない。ヒカルは悲しむだろうが……。

では、成功したとしたらどうなる? 何か困ることは無いか? ……そうだ!


「妙なことを聞いていいか?」

「なに?」

「〈彼〉はこの1ヶ月の間、何をしていたと思う?」

「どういうこと?」

「いやな……。この1ヶ月の間、俺が住んでいた世界に、俺に成り代わって〈彼〉が影武者として居たわけだ。実験が成功したなら、俺は何食わぬ顔をして〈彼〉とバトンタッチする必要がある。何と言うか、『王様と乞食』の物語で二人がこっそり入れ替わるような……」

「それは……そうね」

「ということは……だ。彼が1ヶ月の間にしたことを、俺は引き継がなければならない。〈彼〉はどんなことをしそうなヤツなんだ。1ヶ月間にどんな悪さを……」

「ふふっ……」

ヒカルは笑った。笑いやがった。

「大丈夫。あなたと全く同じ。心配しなくてもすんなりけ込めると思うわ。それに、状況が大きく変わっていたら、そもそもこの実験は成功しない。〈彼〉も〈ゴースト〉の軌道計算を終えて、公表したくてウズウズしている筈よ」

「だが、向こうの世界では、俺とヒカルは知り合いでも何でも無かった。〈那由他モジュール〉が使えなければ、〈ゴースト〉の軌道計算が間に合わない。間に合わなければ、今回の……第3回目の実験もできなくなる」

「大丈夫。〈彼〉はなかなか強引よ。あたしが保証する。例え、あたしの所までやってくるわ」

「どういう意味だ?」

「文字通りの意味よ」


        *  *  *


ヒカルの腕時計のアラームが再び鳴った。どうやら最終便の時間が来たらしい。


「本当にいいのね……」

「何度も聞くな。気が変わったらどうする?」

「分かった……。ありがとう」


俺は早速、装置に座り込もうとしたが、念のため、フライトの前にしておくべきアイデアを思いついた。

「メモ用紙はあるか? それとペンも……」

「あるけど……」

ヒカルは、花柄はながらの便せんと、例の『那由他モジュール稼働記念』と書かれたボールペンを差し出した。向こうにもいるのだろうか? 那由他量子の萌えキャラが……。

「何に使うの?」

ヒカルは俺の手元を覗き込もうとしたが、俺はそれを隠した。

「実験が成功したなら、ここには1ヶ月ぶりに〈彼〉が帰ってくることになる。これは俺から〈彼〉に対しての伝言メッセージだ。俺がここに来た時は何も分からず苦労したからな。手に握っておけば、嫌でも気づくだろう。それに、目覚めて、手に紙が無くなっていたら、俺はちゃんと向こうに着いたという証明にもなる。一石二鳥だ」

「そう……。で、何て書くの?」

「それは秘密だ。運良く〈彼〉に会えたら、〈彼〉から聞いてくれ」

「……分かったわ」


ヒカルは、直ぐに興味を無くしたのか、それとも時間があまり無いからか、転送装置脇の制御卓に移動し、操作を始めた。無機質なキータッチの音だけが響く。俺は、転送装置の座面に横向きに座り、心臓部とでも言うべき、巨大な円筒の内部を下から覗いてみた。頭がすっぽり入るだけの隙間があるだけで、特に何の変哲へんてつも無いただの筒である。もう少し、何と言うか、電極ピカピカがいっぱいり出しているとか、そういうギミックも欲しいところだな。大抵のSF映画ではそうなってるだろう。これじゃあ、まるで、そのへんの大学病院にある医療機器と変わらないじゃないか。

……などと、いつもの下らない妄想に取り付かれていると、ヒカルが何やら物騒ぶっそうなものを持ち出して来た。

「……なんだ、その注射器は!」

「ちょっとね。なるべくシナプス後神経の活動を抑えておいた方がいいし、ちょっとリラックスしてもらった方が、信号ノイズが減るの。気休め程度だけど……」

「いやいや。そういうのは資格が必要だろ」

証明書サーティフィケートならあるわよ。米国のだけど」

「いや、しかし……」

「もしかして、怖いの?」

「そうじゃない」

「だったら肩出して」

どうせなら、ナース服でやってもらいたかった……とは言えず。まあ、これまでの話を聞いていると、ヒカルは医学関係も少しはカジっているのかも知れない。礼奈と同じく、医療工学の方がメインのような気もするが。


「本当に、ありがとう……」

転送装置の座面に座り直し、例の円筒形の装置が静々と音も立てずに下り始めた時、ヒカルはまた礼を言った。俺は笑って右手の親指を立てるしかなかった。少しばかり眠い。薬が効いてきたのかもしれない。

「あなたのことは忘れない……」

「俺もだ。戻ったら、向こうのヒカルをデートにでも誘うよ……」

装置の下端が目線まで下りて来た。もう、ヒカルの顔を確認することはできない。

「……ひょっとしたらね。あなたにもう一度会えるかも知れない」

ヒカルの声だけが響く。少しばかり意識が遠のいて来た。

「会えるさ。この実験が終わったら〈彼〉に……」

「ううん。そうじゃないの……。もしかしたら……」

「…………」


俺は目を閉じた。開けていても既に真っ暗だったし。

遠くの方で、何かキーを叩く音がしていた。長いような短いような、怒濤どとうの1ヶ月ちょいだった気がする。かなり、クタクタになったが、面白かった。プレプリントは出来上がったしな……って、〈彼〉もちゃんと作っているんだろうな。引き継ぎの時間くらい……欲しい……モンだな。転送途中で……鉢合はちあわせとか…………眠い。


白い光を見たような気がする。音も、痛みも、嫌悪感も無かった。俺は文字通り、眠るように意識を失った。


        *  *  *


どれくらい時間が経っただろうか? ぼんやりしていた意識が次第に自分のものになってくる。記憶が消えていないか確認しようと考えたが、消えていたなら、それに気づくすべはない筈だよな……。ただひとつ言えるのは、少なくとも、いまこの状況が理解出来ているというのは、良い兆候ちょうこうだ。注射の所為せいで右肩も少し痛いし、紙も手に持っている……って、おい!


これは想定外だった。何も変わっていない! 俺は単に寝て起きただけだ。あれだけ苦労して、その結果がこれか?


「どぉ? 結果は?」

ヒカルの声がする。こんな時、どう返答すればいいものか。

「どうもこうもない……」

「だから言ったでしょ。あなたにまた会えるって……」

「はぁ」

溜息しか出なかった。頭の装置は、静々と再び上がって行く。どのツラ下げてヒカルの顔を見ればいいんだ。……いや、俺には何の落ち度も無い筈だ。堂々と見ればいい……ってわけにはいかないよな。

「こうなるんじゃないかと予想はしてた……」

半分、ヤケクソ気味なのか、ヒカルの声は妙に明るい気がする。装置の下端は鼻先まで上がり、足元が見えてくる。

COACHコーチのバッグはもらそこねちゃったわね」

「‼」

視界が開けた。目の前にあるのはドアだ。配置は変わっていない。変わっていないが……変だ。俺は立ち上がった。少しフラフラする。薬の所為せいかもしれない。前回は、酔っぱらったと勘違いしたんだったな。

「急に立ち上がらない方がいいわよ」

ヒカルの声が右後方からする。だが、俺の意識は目の前のドアに向けられていた。光だ。ドアの周囲に、わずかだが光が漏れている。俺の記憶が正しければ、その先は左右に伸びる暗い通路だった筈だ。光など見える筈がない。俺は冷たいドアノブに手をかけ、扉を押し開いた。


目がくらんだ。目映まばゆいばかりの光が満ちあふれていた。数秒間、俺は事態を把握できなかった。天井には抜けるような青空がある。まっ青というより黒っぽい青だ。地面には草ひとつ生えていない。荒涼とした砂漠のような光景に、土埃つちぼこりで少々汚れた白いパラボラが無数に点在している。俺は、手をひざに付き、肩で息をしていた。

これは……。いや、ここは……、ALMAだ!


「未来には行けなかったみたいね」

「……そのようだな」

何故か知らないが、笑みが漏れる。そうか、そういうことか。ここに出て来たのか。確かに、かも知れないな。少しばかり時間が必要そうだが……。

「しょうがないわね。約束は、約束だから、デートしてあげる」

「へっ?」

俺は、膝に手をついたまま振り返った。ヒカルは腕組みをして片眉をつり上げていた……が、『しょうが無いなあ』という表情の中に、むしろ楽しんでいるような笑みが含まれている。コイツは……〝ツンデレ〟だったのか?

「……その代わり。デート代はそっち持ちだからね。デートコースもちゃんと計画しなさいよ。妙なテーマパークに行って終わりってのはナシだから」

「デート代は経費で落ちませんか?」

「落・ち・ま・せ・ん!」


〈彼〉は……相当、老獪ろうかいなヤツだな。何だが。タイムマシン実験が成功したならば、恋人であるヒカルに会える。失敗したとしても、それはそれで、まずはデートから始め直せば良いと……。ここは〈彼〉の意を汲んで『タイムマシン実験は、実は成功している』という事は伏せておいた方が良いようだ。

だが、この状況は、俺にとってよいことばかりでは無い。むしろ、事態はより切迫せっぱくしている。本当の意味でのデッド・ラインが迫っているからな。〈彼〉から受け取った引き継ぎメモにもそう書いてある。それでも、これからすべきことが分かっているというのはありがたい。

この先どうなるかはよく分からないが、今の段階で、確実に言えることがひとつだけある。



──俺の日常が戻ってくるのは、当分先のことになる……てことだ。Ψ

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