第6章 時空間エンタングル
「先輩! ALMAとSKAの観測データ調べときましたよ」
「ん? 何だっけソレ……」
「ヒドいなぁ。『
「あ。ああ、悪い。忘れてた……」
「
相変わらず、関山のテンションは高い。俺もこうありたい……とはこれっぽっちも思わないが、このくらいの空気の読めなさが欲しいときがある。
結局、昨日は〝怖い考え〟に取り付かれてしまい、何も出来なかった。だが、俺は何者で、何処に居て、何処に行くのかとか、グノーシス主義⊕に
だが、事実を
「それから、見つけましたよー。これ探してたんでしょ」
関山の話はまだ続いていた……。
「何の話だ?」
「ほれ!」
関山が手にしていたのは、ALMAの利用申請のリストだった。その中に、“AOI Hikaru et al.”の文字が含まれている。こんなところでヒカルの名前を見るとは思ってもいなかった。関山のしゃべくりはまだ続く。
「
俺は、関山からそのリストを
だが、ヒカルはこの分野は素人だ。ALMAやSKAなら、〈ゴースト〉が捉えられるかも知れないなんてことは、俺だって、具さんや郷田に聞くまでは知らなかったことだ。誰かが手引きをしたとしか考えられない。もしかすると、そいつは、〈ゴースト〉が裸の特異点だと知っていた可能性すらある。もちろん、俺にはそいつの見当はついていた。〈彼〉だ。元々、この研究テーマは〈彼〉のものだった。そして、経緯は不明だが、〈彼〉は居なくなり、その研究をヒカルが引き継いだ。引き継いだはいいが、ヒカルが分かるのは量子テレポーテーションの実験部分のみで、3回目の〈ゴースト〉の〝留〟をどうやって探せばいいか、
もちろん、この推測はところどころ抜けがある。第一、俺が何故、2回目の実験に駆り出されたのかがさっぱり分からん。1回目はおそらく〈彼〉なんだろうな。そして、明後日の3回目は……えーっと。そうだ。『〈彼〉が揃ってから』とかヒカルは言っていたから、〈彼〉の出番だろう。じゃあ、俺は〈ゴースト〉の軌道計算をヒカルに手渡した段階でお払い箱になったってことか? いや、ヒカルは『その時が来たら話す』とも言っていた。まだ用済みではないってことらしい。
俺の推測もこのあたりが限界だ。とりあえず
* * *
俺は切り替えは早い方だと思う。というか、延々と考え込んでいられるなら哲学屋になっている。いや、哲学屋と物理屋の間に数学屋というのが入るな。切り替えの早さというか、割り切りの良さで言うならば、〝哲学屋<数学屋<物理屋<工学屋〟ていう順序か?
物理屋の俺からしてみれば、工学屋に対しては『おいおい。その基礎方程式は条件別に色々と項が
哲学は……自然科学の分野じゃないから分からん──数学は自然科学か? という議論は置いておく──。このヘンのカルチャー・ギャップは大昔のC.P.スノーって人の著書を見てくれ。
はてさて、そうと決まれば、明後日までにやることは結構ある。関山からもらったALMAのデータ……それも、“AOI Hikaru et al.”の観測データ解析をプレプリントに組み込む事だ。この観測データは幸いなことにALMAアーカイブで公開されているから誰でも見る事ができる。だが、その観測の意義を知るものは、おそらくヒカルと、今の俺しかいないだろう。〈彼〉もその一人か? ヒカルが何故、この観測結果を論文として発表しないのかは分からない。俺にすら『それはダメ!』と念押ししたくらいだ。おそらく観測データそのものも封印したかったのだろうが、国際的な共同観測施設を利用するとあっては、観測データの私物化は許されない。
ちなみに、ヒカルが観測のターゲットとして登録しているのは〈ゴースト〉ではない。そりゃそーだ。俺を含む重力波の研究者が、位置や軌道が分からず右往左往している時に、『〈ゴースト〉をピンポイントで観測します』的な申請を、シレッと出せるわけがない。ヒカルはその遥か後方のクエーサーの観測を行うことになっていた。実際、その通りなのかもしれない。量子テレポーテーション実験のキモは、二手に分かれたコヒーレント光の干渉であるから、〈ゴースト〉はそれを再び集めるレンズの役目を
もっとも、右回りと左回りで時間的なズレが生じるという点も重要なファクターで、〈ゴースト〉を〝単なるレンズ〟と言い切るわけにもいかないのだが、『観測対象は何か?』と問われれば、『クエーサーからの光』と答えても嘘ではない。
ALMAアーカイブのヒカルの観測データは、1回目、2回目とも完璧だった。クエーサーからの光が赤方偏移と青方偏移を起こし、陰陽魚太極図のように混ざり合っている。青方偏移が顕著に分かるというのがすばらしい。〈ゴースト〉が恐ろしい程の速さで回転していることの証拠だ。事象の地平線に収まることの出来ない〝裸の特異点〟なんだし、相当な暴れ馬であることは間違いない。
観測データを解析しながら、俺は段々と腹が立って来た。だって、そうだろう。ヒカルはこんな観測結果を知りながら、俺に〈ゴースト〉の正体を突き止めるように言い、『こっちが本物!』と予言をしたが、何のコトは無い、全部事実として知っていたということだ。何にも知らない俺だけがアタフタと走り回っていただけ。腹が立たない方がおかしい。
事実、1回目、2回目の観測先のクエーサーは別物で、なおかつ、その中心から微妙にズレた点を狙っている。明らかに、ALMAの〝ピント〟は〈ゴースト〉にフォーカスされていた。要するに、クエーサーは単なる隠れ
さらに調べて行くと、観測日時が〈ゴースト〉の〝留〟と一致している理由も分かってきた。それは
そもそも、〝留〟は天文学的な特異日でなく、地球上の観測であるが故の見かけ上の特異日で、何故にこんなものにこだわるのか、俺には理解出来なかったわけだが、要するに、その見かけ上の問題が、大問題だったわけだ。
さらに、さらにである。この実験の規模は結構大きく、しかも計画が
ヒカルの研究室は、そこに三基の
ヒカルはこれを、大気の観測では無く、さらにずっと先の〈ゴースト〉の観測に使おうとしている。以前、予備実験で見たレーザー施設のデカイやつと考えればいい。もちろん、このライダーはそんな名目では登録されておらず、観測時の大気状態の把握と、
要するに、ヒカルの実験は、〈ゴースト〉の後ろのクエーサーの光をコヒーレント光として使うのではなく、直接、こちらからレーダーを撃ち込んでその反射を使って観測しようとする
それから、これは俺の推測だが、〈彼〉はその
* * *
翌日。俺は、プレプリント書きとは別に、もうひとつの調査も開始した。あまり乗る気がしない調査だったが、放っておくわけにも行かなかった。それは旅情的に言うと〝自分探し〟である。ホラー的に言うと〝自分のヌケガラ〟探しだ。
何も確証があるわけではない。だが、素粒子研の地下施設で目覚めたあの日、俺は斜行エレベータを使い、重力研の地下施設へ二回戻って来ている。つまり、俺はここに2人いる……ことになる。もう1人の俺はどうなったのか? 色々と恐ろしい妄想が頭に浮かぶが、それはとりあえず考えないことにする。もし、そいつを〝発見〟できたらどうするのか? ……それも、その時考えよう。
簡単な推測だ。少なくとも、この施設内に俺は居ない。……ややこしいな。この施設内には〈俺二号〉は居ない……と言い直そう。さっき言ったことと違うじゃないかと思うかも知れないが、もしも、施設内に〈俺二号〉が居るのなら、飯とか風呂とかどうするんだと言いたい。そもそも1ヶ月以上前の話だから、誰にも気づかれず、ずっと引き
──姿が同じなのに、何故分かるか?
簡単なことだ。俺が居ない間に〈俺二号〉が隙を見て逃げだしたのならば、この地下施設から、俺と〈俺二号〉が、二回連続してエレベータを上る映像が残っている筈だ。それがないのだから、ここでの〝俺密度〟は2で保存されている。divA=0だ。
もっとも、斜行エレベータを使わずに逃げ出す方法は、他にも2つほどある。非常階段を使う方法と、機器
次に、機器搬入用のエレベータは、車3台位なら楽に運べそうな大きさで、操作には許可が必要である。これまた守衛室に鍵を取りに行かねばならない。それに、こいつは動きが遅くて、地上に出るまで20分はかかるし、赤色灯ならぬ黄色灯がグルグル回ってビービー音を立てながら動くので、とてもじゃないが、こっそりと抜け出すことはできない。鍵を外し、エレベータ上部の鉄板を外してワイヤーを登るという特殊技能があるなら……以下略。
話が長くなったが、要は施設内には居なくも、施設外に居る可能性があるということだ。ここの施設は鉱山の発掘跡地に作られていて、使われていない坑道があちこちに走っている。実は、それらを
現実的な話、暗い坑道内で地面に深い縦穴が開いているかも知れないし、未使用区域は鉄骨による補強とか無いから落盤もあり得る。それに、怪我をしたり穴に落ちて身動きが取れなくなったとしても、誰も助けにはこない。最悪、ここで野垂れ死んでも労災すら下りない。だから、冒険といっても、近場だけ回るハイキングのようなものをしたことがある……という程度だ。
だが、今回は少々本気を出さねばならない。もし……あまり考えたくないことだが、〈俺二号〉が実在していて、地上に出た形跡がないとするならば、この坑道のどこかで……あるいは……。
GPSは使えないが、光ファイバージャイロ付きレーザー測量器があるから問題ない。タブレットと併用して、測量器をグルっと360度その場で回転させれば、壁までの距離を自動的に計算してくれる。測量位置はジャイロに付属の3軸加速度計の値を二階積分すれば分かるから、これを持って移動しながら色々な方向を向けば、坑道内の
その他は、LEDライトにザイル、軍手、それと
坑道内は想像した以上に暑かった。それでもって、軍手に長袖だから、汗がスゴい。滝のように……とまではいかないが、雨だれ程度に背中を流れている。落盤とか
まあ、少しずつ
坑道内は『迷路みたい』という話だから、右手法と左手法のどちらで解こうかとか、その手法だと、途中に孤立した〝島〟があったら
そうこうしていると、少しずつ楽しくなって、段々と本来の目的を忘れていくが、それを思い出させるのは、たまに放置されている古びた資材の山だ。布切れがかけられていたりするとかなりヤバい。遠目には、人が倒れているように見える。実際にはそんな形ではないのだが、どうしてもそういう目で見てしまう。心底小心者のようだな、俺は。
おっかなびっくり近づいて、意を決してカバーを外し、ホッとする。その繰り返し。肉体的な
調査するのは足で歩ける範囲だ。ロック・クライミングでもしなければ辿り着けないような、10m以上も上にポッコリ開いた穴とかは無視した。暗くて足場か悪くて誰も助けが来ないようなところで、そんな所、誰が登るものか! 〈俺二号〉にそんな特殊技能があるなら……以下略。ただ、ところどころ坂道になっていて、上下に移動できる状態の場所もある。そのため地図は自然と3Dになっていく。
一旦引き返そうかと思い始めた頃、レーザー測量器が、ある坑道の奥に、何か人工的な直線と曲面で構成された壁面があることを知らせてくれた。そこだけ一本道らしく、かなりの距離続いている。距離にして500m程度。ライトで照らしても向こうはよく見えない。行ってみたかったが、既に12時を過ぎており、腹が……というより喉がカラカラだ。全身汗まみれでバテてもいる。まあ、午後からもう一度くればいいので、とりあえずは、戻ることにする。出来上がって来た地下坑道の地図に現在位置のマーカーを付け、帰り道を急ぐ。最短で来た道を引き返すように、タブレットを見ながら歩いたが、ものの15分くらいで到着。2時間かけて調査した割には、それほど距離は歩いてないのかもしれない。まあ、坑道の全体像は何となく分かって来た。
戻ってすぐに、軍手、上着、ヘルメットを脱ぎ捨てると、Tシャツは手で
端末を見ると、ヒカルとマクシュートフからメールが来ていた。
『メッセンジャーで呼び出したけど出なかった。実験の準備ができた。明日の夜8時に研究室に来て欲しい』
……ヒカルからのメールを要約すればそういうことになる。やはりこちらの思った通り、〈ゴースト〉の〝留〟に合わせ、ALMAのパラボラを巻き込んでの一大実験をするつもりだ。俺が『明日はちょっと呑み会で……』とか言ったらどうするつもりなのだろう。それに夜8時だぜ。まあ、事情は大体分かっているから行ってやるけどな。俺がその場に立ち会う理由くらい、先に教えてくれてもいいと思うが……。
マクシュートフからのメールは、LISA−NETでの観測が失敗に終わったことを伝える速報だった。そう言えば、今日だったな。俺の中では既に過去の話のように感じていた。メールからは、〝残念な結果〟という雰囲気が伝わってくるが、今の俺にとっては〝当然の結果〟だ。だが、その事を彼に伝えることが出来ない。少し……いや、かなり心苦しいことだったが、それも明日までの筈だ。少なくとも、今書いているプレプリントの共同研究者にはなってもらう予定だ。また一緒に、キンキンに冷やしてトロトロになったズブロッカでも呑もうじゃないか。
メシを食って一段落した後、俺は再び坑道に入った。今度は、Tシャツとジーパンだけの、極々ラフな格好である。午前中の探検で、それほど危険ではないことが分かったからだ。その代わり、タオルとミネラルウォーターはたっぷり持って行くことにした。ヘルメットは……仕方ない。かぶるか……。
先ほどのマーカー地点まで、15分。長い一本道は少しずつ下っている。5分程歩きながら次第に大きくなってきた正面の壁は、巨大な円形のオブジェというか、そういうものだった。
はて? この光景、どこかで見たような気がする。
直径にしておよそ5m強だろうか。何かの機械らしいことは分かるのだが、一体なんだ? 表面は、どう表現したらいいか……ジュリア集合の一部のような形状に並んだ歯が付いている。歯? おおそうだ。こいつは掘削機だ。このトンネルを掘り進んだ機械の成れの果てだ。その昔、ドーバー海峡を掘り進んだ掘削機も、そのまま地下に埋められたと聞く。使い捨てにしたことによる損失額よりも、地上に持ち上げるコストの方が割高だからだ。文字通り、墓穴を掘る機械なわけだな、コイツは……。
うーむ。何となく、切ない。
行き止まりだし引き返そうと思ったが、妙な
……と、ここまで来たら。
「登るかぁ!」
一人で気合いを入れる。声の反響がハンパない。こんなことなら、軍手はしてくるべきだったと後悔する。登るためには、手に持ったライトをどうにかする必要があった。少々不格好だが、ライトをタオルで巻いてヘルメットに固定し、登ることにした。最初からライト付きのヘルメットにすれば良かったと思うが、そんな備品は無かったよな。そもそも、坑道に入って行う仕事など存在しないし……。
おそらくタングステンと思われるその歯には、所々に人工ダイヤモンドと思われる黄色い結晶のカケラが埋まっている。掘り出せば良い値が付くかなとも思ったが、もしそうならば、既に皆が取り去っているよなと考え直す。ライターで火を付けて燃えるかどうか確認してみたいものだ。
かすかな油と
隙間は、ちょうど人一人通れるくらいの通路となっていた。掘削機の外側にある隙間だから、明らかに誰かが意図的に掘ったものだろう。それが証拠に、掘削機の側面には手で触って出来たと思われる土の付いていない帯があるし、削ったときに出来たと思われる細かい傷も残っている。ツルハシ……は振り回せないよな。しかし、シャベルじゃ掘るのがキツそうだ。
20m程度歩いて行き止まりだった時は少々
数分後、俺は立ち上がり、あたりを見回し、レーザー測量機で坑道の広さを測る。かなり広い。掘削機のお尻の部分は、この部屋の端の中央部分にある。おそらく、ここに掘るべき鉱物が大量にあったのだろう。だだっ広い空間には、錆び付いた様々な金属部品が散らばっており、強者どもの夢の跡らしい
ふと目を
『素粒子研究所粒子加速器施設』
と読める。何度確認してもそう読める。……っていうか、そうとしか読めない。
目的をある程度達成したから、ここで引き返そうかとも思ったが、やはり、好奇心には負けた。誰もいる筈が無い周囲をキョロキョロと見渡し、俺はドアノブに手をかけて回した。鍵は掛かっていない。ええい。掛かっていたなら諦めも付いたものを……。ゆっくりとドアを開ける。ステンレスか鉄板か知らないが、かなり分厚く、重いドアだった。暗いところをずっと歩いて来た
想像した通りだった。あの日、俺は、逃げるようにして素粒子研の地下施設を後にした。エレベータに通じる長い廊下の終端部、突如として
そうか……。明日なら大丈夫だ。共同研究のためヒカルの研究室にやってきたということで、途中誰かに会って問われたとしても話のスジは通る。もっとも、素粒子研の知り合いはヒカルと礼奈以外は、愛想のいい事務室のお姉さんくらいだが……。
俺は坑道を引き返しながら、頭の中を整理した。
要するに……だ。〈俺二号〉なんて元々居なかったのだ。俺は、そいつの存在に少々
だが、重力研と素粒子研が地下で繋がっているとなれば、話は違ってくる。俺は、あの日の午後8時過ぎ、メシを食べて重力研へ戻った後、坑道の抜け道を通って素粒子研へ潜り込んだわけだ。その時間帯の記憶が無いので、これ以上は推測でしかないが、午後8時過ぎにヒカルが重力研に訪ねて来て、この抜け道を手配したとなればスジは通る。ヒカルがエレベータから降りて来た映像が守衛室で見られなかったのは、〝プライバシー保護のため〟だ。
何故そんなことをしたのかは不明だが、堂々と胸を張って説明できない実験だったと言う事であれば納得がいく。表向きは、量子テレポーテーションの実験だ。所長へ正式ルートの申請が出されているのだから間違いない。その申請云々の記憶も俺には無いというのが少々ひっかかるが、それはとりあえず置いておく。だが、その実、怪しげな人体実験が行われていて、俺はその被験者なのではあるまいか?
そこまで考えると、ヒカルの『過去の記憶はあるか?』と言う俺への問いかけの意味が変わってくる。俺が一人しかいないとなれば、俺の過去の記憶は単純に〝消された〟のである。午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶を消さねばならない、何らかの事態が発生したのだ。昔の映画でそういうのがあったな……。時間を設定してピカッと光らせると、相手の記憶を消す事ができるというそういうアイテム。そして、ヒカルは、俺の記憶の消去が完全に出来たかどうかを確かめるために『過去の記憶はあるか?』と問いかけたのだとしたら……。何だ! 〝よからぬ事〟をしたのはヒカルの方じゃないか。
では……。目覚めた俺にかけた「大丈夫?」という言葉は何を意味するのか?
* * *
実験当日。俺は朝からそわそわしていた。未だに何が行われるのかは聞いていない。もっとも、ここまで来たならその方が面白い気もする。この1ヶ月……いや、〈ゴースト〉が現れてからのことを考えれば4ヶ月間の集大成というか、
実は、朝にはヒカルからメールが届き、それを見た直後に、メッセンジャーがポップアップ。メールの確認を待っていたのか、向こうからアポの確認をしてきた。数日顔を見てないだけなのに、何となく懐かしい気がする。
「ごめんなさい。準備に手間取っちゃって、今晩になってしまったんだけど……」
「大丈夫、大丈夫」
俺は自分でも分からないが、何故か余裕だった。ここ一週間、色々とあり過ぎでオーバーフロー気味。脳内処理が追いつかず完全にサチっている。熱で浮かれてハイになっている状態に近い。
ヒカルは『準備に手間取った』と言っているが、実験の日付はとうの昔に決まっていた筈だ。これはある意味、小惑星探査ミッションに近い。こちらの都合で天体は動いてくれないから、こちらが天体に合わせて動かないと話にならない。特に、今回の〈ゴースト〉は、フライバイして二度と戻ってこない双曲線軌道だから、最適な日時は自ずと決まってしまう。それなのに『準備に手間取った』とか言うヒカルは、やはり何かを隠していると考えるのが妥当だろう。
「……で、今日は、量子テレポーテーションの〝本実験〟って言うことでいいわけだな?」
「そう」
俺は少々高飛車だった。
「なら、これまで隠していた実験結果とか、教えてくれるって言うことでいいのかな?」
ヒカルの表情が一瞬こわばった気がした。そりゃそうだろうな。
「……そう思ってもらっていい。今日しか話すチャンスはないと思うから。あなたにも知っておいてもらわなければならない。〈彼〉のためにも……」
「彼?」
「ううん。何でもない」
今にして思えば、ここでヒカルの言い回しに気づいていれば、これから起こる事態に、少しは精神的に身構えることが出来ただろう。だが、その時は、ヒカルの口から出て来た〈彼〉の存在に、俺の気持ちは揺らいでいた。白状すれば、俺は〈彼〉に嫉妬していたのかもしれない。見た事も無いヤツ──本当か?──だというのに。
午前中は〈ゴースト〉の軌道に関するプレプリントの手直しに専念した。ヒカルはプレプリントの発表を『実験が終了するまで待って』と言っていた。裏を返せば、実験さえ終了すれば、大手を振って公表できるということだ。昨日、〈俺二号〉が居ない事を確認し、
ここまでくると、チマチマした作業で面倒くさいと思う反面、あまり頭を使わない作業なので、気楽である。何と言えばいいか……例えば、壊れ物の包装に使う
明日やれば良いじゃないかと一瞬思ったのだが、どういうわけか今日中に何とかしないとダメなような気がしていた。それに、論理的に考えると、明日以降はヒカルとの共同実験の論文の話が入ってくるだろうし……。そちらの方は、全然何をしていいのかわからないのだが。
昼休み。天気が良いので、サンドイッチを買い、久しぶりに外で食うことにした。蝉の声もいつの間にかヒグラシ以外は鳴りを潜めている。秋来ぬと目にはさやかに見えねども……下の句は忘れたが、木陰に入ると風が心地いい。もっとも、この短歌は立秋の頃のものらしいが。
〈ゴースト〉は今どのへんに居るのか考えたが、ここからでは地面へめり込む方向だった。重力波なら地球を貫通して捉える事ができるが、光学的には無理な話である。またしばらくすれば、〈ゴースト〉はいずれ北半球へ顔を出し、その後は永遠にさよならだ。こんな出会いは生涯に一度あるか無いかだろうなと思うと少し寂しい気がする。まあ、〈ゴースト〉の重力波放射は指向性が強く、距離が離れていたとしても、回転軸が地球と合えば出力が大きくなるから、太陽系外に完全に飛び去る前に、また観測できるかも知れない。そのヘンは、ヒカルのALMAの観測データを詳細に調べれば、時期が特定出来そうに思える。回転軸方向は、レンズ・シリング効果で赤方偏移と青方偏移の光として捉えることが可能だからな……。この観測データ公開されているデータだから、引用元を明記さえすれば勝手に使ってもいいが、まあ、ヒカルには仁義を切って許可を貰っとくべきだろう。
大抵の場合、論文をひとつ書くと、そこから派生した別の疑問が複数、思い浮かぶ。こいつが次の論文の〝タネ〟となるのだが、書けば書くほど、更なる別な疑問が膨らみ、いつまでたっても終わらない。〝タネ〟は拡大再生産され、ドンドンと増えていく。そうやって物理学というか科学全般は発展して来たのだが、一向に果ては見えない。
何しろ人間は飽きっぽい。全てが分かってしまったら、暇を持て余して何をしでかすか分からない。実は相対論と量子論なんて、19世紀には宇宙に存在してなかったんじゃないだろうか。19世紀末にケルビン卿が、『マイケルソン・モーレーの実験と黒体輻射〝以外は〟解決した』なんて言っちゃったものだから、それを聞いた神様がその2つを盛大に膨らませて、相対論と量子論を作っちゃったんじゃなかろうか。そうだとすると、『余計な事を言いやがって!』とケルビン卿を責めるべきなのか、逆に、それが無かったら重力研も素粒子研も存在していないわけだから『飯のタネをありがとう!』と感謝すべきなのか? ……なんてな。
午後は午後で、色々と雑用が
15時過ぎからは、〈BAR〉の
夕方には俺の仕事の8割を占める、〈オルガン〉の観測データのチェック作業。特に目立ったノイズ発生は無し。少し経つと地上にある運河のような道路に、
やっと、日常が戻って来た。そんな気がする。今日のわけの分からん実験さえ終わればな。
* * *
午後19時過ぎになり、素粒子研に向かう方法として、俺は地下の坑道を選んだ。理由は簡単だ。ヒカルを驚かせてやろうと思ったのだ。ヒカルは、俺の頭の中から、抜け道の記憶を〝消去〟したと思っている。おそらく、消去したかった本当の記憶は別にあるのだろうが、特定の記憶だけを選別して消去する方法が無かったのだと推測される。事実、俺は4時間程度の記憶が完全に欠落している。坑道の抜け道は、〈俺二号〉を探そうとして偶然発見……いや、再発見したものだ。だが、ヒカルはそんな事実は知らないから、俺が〝思い出した〟のだと思うだろう。はてさて、そういう場合、ヒカルはどういう行動を取るだろうか? 実に興味深い。
もちろん、ヒカルが消した記憶の内容によるだろうな。何かとてつもない犯罪行為を消去していて、『思い出したとあっては生かしてはおけぬ』とか、裁判所で証人として出廷する人物の命が狙われるみたいな、そういう
かといって、お手軽なというか、どうでもいいような記憶ならば、あんな大掛かりな装置を使って記憶を消そうとするとは思えない。命を
まあ、勝手に妄想しているが、意図的に記憶を消去しようとしたのではなくて、量子テレポーテーションの実験で〝誤って〟記憶が何処かに──何処に?──飛んでいってしまって、ゴメンナサイ……って言うのが、一番あり得る状況だ。ただ、そうだとしても、何故、俺を使って〝人体実験〟が行われたのかを聞く必要はある。人体実験じゃ無いとしても、何故俺があの日、あそこに寝そべっていたのかを聞かせてもらわなければ、この共同研究の実験には応じられない。そういう覚悟だ。
LEDの明かりを頼りに、坑道内を進む。作成した地図もポケットには入っているが、道筋はそれほど難しくないため、出番はなさそうだ。今日はヘルメットもかぶっていない。掘削機をよじ登り、側面の隙間をカニ歩き。そこから掘削機の斜面を慎重に登り、テニスコート四面は取れそうな巨大な空間へ。ここまでおよそ15分。下手すると、エレベータ経由で移動するより早いかもしれない。ほとんど
『素粒子研究所粒子加速器施設』と書かれたプレートの下のドアに手をかけ、一瞬、『閉まっていたらどうしよう?』とか考えたが、ドアはスムーズに
照明は前回来た時より、幾分落ちている気がする。そういえば、前回は真っ昼間だったんだっけ。夜はそれなりに暗くするのかもしれない。ドアの隙間からするりと中に入り、そぉーっと閉める。幸い、広い施設内を見回しても人影は見当たらない。少しホッとしたが、なぁに、今日はこの施設に用があるから来たのだ。こんなトコから出入りしているのを見られると、ちょっとアレだが、一旦入ってしまえばこっちのもの。堂々と振る舞えばいい……などと考えてしまうこと自身が、小心者ゆえの理論武装だな。
俺は斜行エレベータにゆっくりと向かいつつ、あたりをキョロキョロしながら歩いた。明らかに挙動不審だ。加速器は大学の実験でサイクロトロンに毛が生えた程度のものは使った事はあるが、ここまで本格的なのを
様々な機器類の間を
ここまで来て、俺は、『どうやってヒカルを驚かすか?』という計画を考えていないことに気づいた。このままエレベータに乗って地上に出てしまったら、正面玄関から堂々と入って来たのと何ら変わらないことになる。前回、あわてて飛び出した経験上、地下から地上に出るのはスルーパスで、地上から地下へ向かう時に、静脈認証が必要だということが分かっている。それが証拠に、目の前の開閉ボタンも通常の押しボタンだ。ということは、俺はこのまま地下に留まり、ヒカルをここに呼び出せばいいことになる。
ならば、頭上に見えている渡り廊下の階に行き、俺が飛び出した部屋に先に到着して、そこからヒカルの研究室に電話で呼び出しをかけるというのはどうだろう? 携帯は通じないかも知れないが、部屋の中に内線電話くらいはある筈だ。ヒカルの研究室の番号は名刺に刻まれているから問題ない。さて、ヒカルはどんな顔をして驚くだろうか……などと考えて1分半。いかにも付け焼き刃的なこの計画は、木っ端みじんに吹き飛んだ。……ていうか、驚かされたのは俺の方だった。
エレベータのドアが開き、降りて来たのはヒカルだったのである。
* * *
「早かったのね……」
ヒカルは驚く素振りさえない。こうなることをあらかじめ知っていたかのようだった。驚くというより、少し悲しそうな顔をしている。しばらくそのまま対面していたが、エレベータのドアが閉まりそうになり、俺は
「付いて来て」
エレベータのドアが開き、ヒカルが先頭を切って歩いて行く。あたりには誰もいない。中空の渡り廊下の先は、暗い通路が続いている。間違いない。確かにこの場所だ。だか、あの時、俺は振り返らなかった。いや、振り返る事ができなかった。だから、エレベータから通路の先を見通すこのアングルの光景は初めて目にするものだ。またあそこに行くのかと思うと、少しばかり恐怖を感じる。暗い坑道へ入った時よりも強い、もっと何か根源的な恐怖だ。数歩歩いて足が止まる。体が付いて行かない。記憶は消え失せていても、何が
「おっ、おい!」
俺はヒカルを呼び止めた。叫んだと言ってもいい。ヒカルはその場で立ち止まりスローモーションのように体を反転して振り返る。髪が半周遅れでそれに
「まず、何をするのか教えてくれ。共同研究なんだろ? 俺が何も知らないまま〝実験室〟に向かうなんておかしいじゃないか!」
「そうね……」
ヒカルは
「あたしは、あなたをちゃんと送り届ける義務があるの……。そのためには、まず〈彼〉に会ってもらわなければならない」
「何を……言っている?」
「あなたには感謝している。でも、あなたが居るべき場所はここじゃないの……」
「…………」
「ともかく、来て。実際に会ってもらうのが一番早い……」
どうやら〝拒否する〟という選択肢は無さそうだった。意を決して付いて行くしか道はない。俺は薄暗い廊下に再び足を踏み入れた。左側は冷たいコンクリートの壁、右側はドアの
だが、当のヒカルは更に奥へと進んで行く。そっちに行った記憶は全く無いが、これも消去された記憶なのか……。結局、ヒカルは突き当たりまで進んだが、そこにもドア……エレベータの開閉ドアがあった。要するに、この通路はどちらに進んでもエレベータにぶち当たる構造になっていたわけだが、前回飛び出した時は、明るい方に進んでしまったということになる。そりゃそうだろう。
そのエレベータは、斜行エレベータの地上出入り口と同じく、静脈認証で開くタイプのものだった。ヒカルが手をかざすと、軽やかな電子音が鳴り、スムーズにドアが開く。中に乗り込むと、ヒカルは更に地下を目指した……というか、地下方向しか階が存在しない。乗降ボタンの上には『地下保管庫』の文字があり、研究室毎の測器類保管庫になっているようだった。普通なら、こういう場所に行く時は、少しばかりの〝ワクワク感〟が生じるものだ。男なら誰だって、仲間だけの秘密基地とか作って遊んだことがあると思うが、こんなにリアルに秘密基地っぽい所は、そうそう無い。だが、どうにも
エレベータに乗り込んだ通路階を起点にして、B5階下。ドアが開くのに連動して、一斉に保管庫内の明かりが
「何だ? ここは?」
思わず声が出る。そう言えば、ヒカルは通路を歩き出してからここまで無言だ。そして、今も黙ったまま数歩進み、そこにポツンと立ち上がっているコンソール画面を操作し始めた。
保管庫と言って思い浮かべるのは、
「〈彼〉よ……」
抑揚の無い声でヒカルは言った。サッカー場なら、右サイド・ミッドフィールダーが居るあたり。白い床の一角が、冷たい蒸気を周囲にまき散らしながら次第に
俺は〈彼〉に向かって歩き出した。足元は
〈彼〉に近づくにつれて全体像が見えてくる。競り上がりつつある物体は、
筒の前に到着し、冷たい
「コイツが……〈彼〉か?」
「そう」
ヒカルは俺の左横に来て、一緒に見上げている。
「ふっ……」
俺は、自分の意に反し、鼻で笑って下を向いてしまった。人間、理解の限界を超えた事象に出会うと、つい笑ってしまうというのは本当のようだ。冷静なつもりなんだが、その
「……で、何から聞いたらいいのが分からないんだが、〈彼〉は俺なのか……?」
「そうじゃない……。あなたは私が巻き込んだ別の人。悪いと思ってる。でも、あの時はこれしか方法が無かったの」
「巻き込んだ?」
「〈彼〉は死んだのよ。だから、過去に戻ってあなたを呼び寄せた。〈彼〉に一番近いあなたを……」
「すまない。正直、サッパリ分からん」
今こそヒカルの肩を揺さぶって問い質すべき時なのかも知れないが、そういう雰囲気じゃないよな。それに、素っ裸の俺……いや、〈彼〉の前で話を続けるのは、少しばかり恥ずかしい。そんなに
タイミング良くか悪くか、ヒカルの腕時計のアラームが鳴る。
「時間があまりないわ。上で話すから付いて来て」
「何? いや、俺は……」
「分かってる」
ヒカルは引き返そうとして歩き出した足を止め、振り返り様、こう言った。
「強制はしない。あなたの進む道は、あなたに任せる。だけど、あなたの住んでいた世界はここじゃなかった。それだけは説明させて」
「……わ、分かった」
強い目だった。彼女としても、既に引き返せない所にまで来てしまっているらしい。ヒカルは、エレベータの入り口付近まで戻ると、再びコンソールを操作した。同時に〈彼〉がゆっくりと元の場所へ沈み込んでゆく。ヒカルは数秒間、その光景を見ていたが、不意にきびすを返し、エレベータへ向かった。そして、エレベータのドアが閉まるまで振り返ることはなかった。
* * *
話はおよそ4ヶ月前。〈ゴースト〉が現れた時までさかのぼる。俺……いや〈彼〉は、ヒカルの研究室に、宇宙シミュレータの量子演算モジュール……要するに〈那由他モジュール〉を貸して欲しいと申し込んだ……らしい。『らしい』というのは、もちろん、俺にはそんな記憶はないからだ。俺は、高々4ノードの計算機資源で四苦八苦していた記憶しかない。そして、この記憶のすり替えは、記憶が変更されたという記憶すら無い、完全なる記憶の交換であった。
例えば、大切な人のことが思い出せない……という記憶があれば、それを思い出そうとして苦しむのは本人だ。だが、その人の存在を完全に忘れていたならば、心を乱されることはない。だが、忘れ去られた側にとっては、この上ない苦痛と
何故、〈彼〉が、ヒカルの研究室にピンポイントで申し入れをしたのかについては、素粒子研の1階レストラン……
「〈ニュートラリーノ〉で何度か顔を合わせていたから……」
とだけヒカルは答え、後は言葉を
だが、〈那由他モジュール〉の使用許可申請が実際に通ったのは、申し入れから3ヶ月近く経ってからで、共同研究の申し込みもその時期に行われていた。すなわち、〈彼〉とヒカルの共同研究は、書面の上では、俺がこの部屋で目覚める数日前から始まっていたことになっているが、実際には、もっと前からフライングしてバリバリ使っていたことになる。使用目的は、宇宙シミュレータに残されていた、世代の古い〈佐藤スキーム〉、様々なパッチ群と出来損ないのプログラム・ソースを考えれば簡単に分かる。〈彼〉もなかなか仕事熱心なヤツのようだ。俺に似て……。
そして、〈ゴースト〉が現れて1ヶ月過ぎた頃、〈彼〉は、ふらりとヒカルの研究室にやってきた。
「どうしても確かめたいことがある……」
そう言って、〈彼〉は、地球近傍に得体の知れないコンパクト星が近づいている可能性があることを
「タイムマシンが作れる!」
と語ったのだ。
この段階で可能性が否定出来ないのであれば、マクシュートフとの共著論文の
『〈ゴースト〉は髪の毛座方向にあり』とした共著論文をフィジカル・ソサエティーの
第一回目の〝留〟の時、実験はALMAに設置された急ごしらえの
で、急ごしらえの実験は案の
ちなみに、実験の成否は〈彼〉とヒカルの間で賭けの対象になったらしい。ヒカルがあまりにも『絶対無理!』と言い張るものだから、『成功した暁には、何か買ってやる』と〈彼〉が言い出し、ヒカルは……なんと言ったか、四国の県名みたいなブランドのバッグを買ってもらうことになっていた。まあ、実際には実験は失敗したわけだが、失敗した場合の賭けの対象が何だったかについては、ヒカルは言おうとしなかった。
ちなみに、行われたタイムマシン実験の原理はそれほど難しくない。スプリットさせ、エンタングル状態となったレーザービームを、〈ゴースト〉の左右
いやまあ、そいつの考察は後回しにするが、
逆に、過去の記憶が転送された場合は、今現在から転送先の過去までの記憶が消去されるのと同時に、忘却してしまった記憶が、再びリフレッシュされて書き直されることになる。1年前の夕食のメニューを思い出す事も不可能ではない。……もっとも、それが何の役に立つかは不明だが。
データ転送という情報処理の観点から見れば、記憶の追加であろうが消去であろうが、どちらも同じ書き換え作業だ。ということは、遠い未来……あるいは遠い過去へ行くほど、交換すべき情報量が増えることになり、その分、
実験の成否は、エンタングル光の集中的な生成、複合的で
脳ミソ空っぽの方が転送しやすいってことだ……。
……では、タイムマシン実験が〝失敗〟したらどうなるのか?
続く、第二回目の〝留〟の時は、タイムマシン実験の予定はなかった……とヒカルは言う。粘菌の予備実験と同様、人から人への記憶の転送実験である。被験者はまたしても〈彼〉だ。
礼奈は言っていた。『不老不死の私の研究は、葵主任の量子テレポーテーション技術とセットじゃないと完成しない』……と。だが、記憶の転送実験だけであるならば、〈ゴースト〉を経由する必要はない。素粒子研の地下施設……『素粒子研究所粒子加速器施設』で生成されたシンクロトロン放射光を使えばいい。まさに
だが、〈彼〉が、どうしてもタイムマシン実験がしたい。そのために〈ゴースト〉経由でやりたい……と言い張ったのだそうだ。第一回目の実験の時といい、〈彼〉は俺よりワガママなようだな。何か特別な理由でもあったのだろうか?
量子テレポーテーションを使った記憶の転送実験ならば、それは正確には転送ではなく
そして、行われた実験で、俺は〈彼〉のクローン体で目覚めた。元々のクローン体の脳の中身は空っぽだったであろう。ということは、今、液体窒素の中で永遠の眠りについている〈彼〉の脳には何の情報も入っていない……正確に言えば、何の情報も入っていない空集合を転送された状態だということになる。
……いや、それはおかしい。この実験には俺と〈彼〉とクローンの三人が絡んでいる。俺とクローンが記憶を
* * *
俺とヒカルは、俺があの日目覚めた部屋で向き合っていた。大筋の経過は分かった。確かに、こんな突拍子も無いことを、会ったその日とかに真顔で話されても困る。だが、ヒカルの説明は肝心な点がすっぽり抜け落ちている。
「で……」
と俺は話を続けた。
「細かい点はいい。とりあえず2つだけ聞きたい。〈彼〉は何故死んだ? そして、俺は何故ここにいる?」
「〈彼〉は……。実験前に死んだの……。脳動脈
「何⁈」
「一回目の実験のとき、破裂寸前の〈彼〉の脳動脈瘤に気づいた。でも場所がとても深いところにあって、
……確かに、記憶の転送装置は、
ヒカルは話を続ける。
「私は全く別のアプローチで〈彼〉を助け出すことにした。それが……」
「クローンへの記憶の転送か」
「……そう。でも、間に合わなかった」
ヒカルは始終、
冷静に考えれば、この〝治療〟は人体実験も
もっとも、だからと言って救急車を呼んで、公的に〈彼〉の死亡が確認されたとしても、〈彼〉の立ち位置というか立場をほぼ完全に引き継いだ俺は普通に生きているわけだし、下手すると俺自身が〝故人へのなりすまし〟と見なされかねない。それはそれで、太陽がいっぱい過ぎる。
「……じゃあ、俺は? 俺は何故……
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない。俺は理由が知りたいんだ!」
「〈彼〉は死んだの。死体からクローン体に記憶を転送しても、生き返ったりはしない。生ける
「生ける屍⁈」
「記憶の転送先のクローン体には何の損傷も無い。脳の活動も正常。そして、転送元が死後数時間までなら脳内の化学変化も微小で、記憶の情報もちゃんとクローン体に転送される。でも……それでも、意識は戻らない。意識だけが何処かに行ってしまうのよ」
ヒカルは
「あたしはこれまでに何度も実験をしている。粘菌でも、ヒドロゾアでも、モルモットでも、ウサギでも……」
「そして……人でも?」
「違う! 人体実験なんてしてない! 〈彼〉は、あたしがここに到着した時には既に死んでいたの!」
俺はヒカルの
「わ、わかった。信じよう。で、〈彼〉はどうなったんだ。俺との関係は?」
ヒカルは自分を落ち着けるため、深呼吸をひとつしてから話しだした。
「ヒントをくれたのは〈彼〉自身よ。〈彼〉は、あたしが行う転送実験の後、二回目のタイムマシン実験をするつもりで、あの日を選んだ。だからALMAとの量子回線は繋がっていた。あたしは、生きている〈彼〉を過去から連れ戻すことにした……」
「何だって?」
「〈彼〉は数時間前までは生きていた。だから、その時点の〈彼〉の記憶をクローン体に転送すればいい。けれど……ALMAを経由したタイムマシンの回線は細すぎる。転送出来る情報量が圧倒的に少ない」
第二回目の実験がALMAの
だが、死者からの記憶転送は、〝生ける
「そいつが……俺か?」
「そう。ここの転送装置で〈彼〉の記憶をクローン体へ転送した後、ALMAへの量子回線を使って、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟と、同時刻のあなたとの記憶の
「いや。分からんな……。クローン体に〈彼〉の記憶を全て転送した後に、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を連れてくればどうだ。そうすれば俺の出番はないだろ……」
「それは無理。クローン体には4時間前の記憶が無いから……」
「ん?」
「〈彼〉の記憶が全て転送されていたとしても、タイムマシンで過去に
「うーむ…………」
「いい? 例えば、過去から人を連れて来られるタイムマシンがあれば、10年前のあなたを連れてくる事は可能なはず。でも、100年前のあなたは連れて来れない。まだ生まれてないから。同じように、クローン体に数十年分の記憶を転送したとしても、それは今、記憶を植え付けただけ。実際に時間を遡って行く事は不可能……」
「それなら、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を、タイムマシンで〈彼〉に連れてきてから、その全記憶をクローン体へ転送すればどうだ」
「〝生きていた〈彼〉〟の記憶を、亡くなった〈彼〉に転送しても、〝生きた意識体〟が戻ってくることはない。それどころか、一度でも死者を経由すれば、〝生きた意識体〟はそこで消える。それも、予備実験で実証済みだわ」
「何?」
「アリスとボブの記憶を
「…………」
完全に理解するには少し時間が必要だった。だが、ひとつ分かった事がある。
俺があの日、午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶が無いのは、記憶が消されたからではなく、そもそも記憶すべき時間の方が無くなっていたということだ。俺は午後8時過ぎから、4時間を飛び越え、いきなり真夜中に
「ヒカルがここに来たとき、〈彼〉は既に死んでいたんだな?」
「……そう」
「おかしいな? 倒れた現場を見てもいないのに、何故、4時間前までは〈彼〉が生きていたと言えるんだ」
「それは……。〈彼〉が操作したコンソールのログが残っていたから……」
「4時間前?」
「3時間前まで……。あたしがここに来る3時間前まで、〈彼〉はタイムマシン実験の準備をしていた。〈彼〉の理論によると、〈ゴースト〉へのエンタングル光の入射位置を調整すれば、経路の違いによる到達時間の差分だけ、過去に戻ることが出来る。あの日、ALMAの観測は、4時間分だけずらして調整されていた……」
「……それはまた、用意がいいことだな。〈彼〉は
ヒカルは顔を上げ、何か喋ろうとしたが、その言葉を飲み込んだ。
「理由は……理由は分からない。調整したのは〈彼〉だから……」
俺と〈彼〉は、あの日の午後8時までは、全く何の関係もなく違う世界を生きていた。そのまま行けば、〈彼〉は数時間後に脳動脈瘤破裂……要するに、くも膜下出血で亡くなり、俺はいつもと変わらない日常を続けていたことになる。
だが、そこにヒカルが介入する。ヒカルは亡くなった〈彼〉を助けるため、素粒子研のシンクロトロン放射光を使い、〈彼〉の記憶を〈彼〉のクローン体と
さらにヒカルは、〈彼〉が首尾よく調整したALMAの回線を使い、時間を4時間
何ともご都合主義満載だな……。一体、どこまで信じればいい?
「ヒカルの言うことが事実だとするなら、俺は、今までとは違う世界に突然呼び出されたことになる。それなのに違和感が全く無いのは何故だ? 元の世界とこの世界は、それほどまでに同一なのか?」
「記憶の
「どういうことだ?」
「4時間前の〈彼〉とあなたの記憶の差分情報がどの程度あるのかは未知数。本来ならば、差分を全て交換し終えれば、記憶の量子テレポーテーションは完了する。使えるエンタングル光が
「記憶に不一致がある3ヶ月分だけが交換されたってわけか……」
「それは分からない。それ以前の〈彼〉とあなたの記憶が全く同一であったならば、交換する必要が無い。全てが完全に入れ替わったという可能性も否定出来ない。それに……」
「それに?」
「〈彼〉とあなたの記憶は、今でもエンタングルした状態が続いていると考えられる」
「は⁈」
「〈彼〉とあなたの記憶は、未だどちらのものと確定していない状態が続いていて、どちらかが明確に思い出すと、相手の記憶はおぼろげになる……。そういう状態」
「じゃあ、なるべく楽しい思い出を思い出すことにしよう……」
「楽しい思い出の記憶が同一のものなら、交換しても何も変わらない。量子はそんな無意味な交換はしないわ」
頭がクラクラしてきた。俺の記憶のほとんどの部分が〈彼〉のものなのか? それとも、ここ数ヶ月を除いて、ほとんどが同一だから、どちらのものという区別そのものが無意味なのか……。
「〈彼〉と俺との記憶の明確な違いは……ヒカル、お前だ」
「えっ⁈」
「〈彼〉の記憶には、お前の……ヒカルの存在が常にある。だが、俺にはその記憶が無かった。これは何故だ」
「それは……、あたしにも分からない。〈彼〉に最も類似した存在があなただったということ。その記憶の中に、あたしが居ない理由は、あたしにも分からない……」
ヒカルは寂しそうにうつむいた。
「……最後にもうひとつ。俺は
「エヴェレット解釈はあたしは信用してないし、そもそもシュレディンガー方程式は線形だから、例えパラレルワールドが存在していても、相互干渉はできない。おそらく、〈ゴースト〉で広げられた
……いや、俺はヒカルの言っていることが全く分からんのだが。その〝別の時空〟とパラレルワールドの違いは何なのか? もっとも、パラレルワールドってヤツの定義が何なのかも、実はよく分かっていないのだがな。
* * *
俺は、部屋の中を改めて見回した。以外と小さく、そして静かだ。もちろん、ここの機器だけでは何も出来ない。シンクロトロン放射光施設とALMAの観測システム……さらにその先端に〈ゴースト〉が含まれてこその実験だと考えれば、途方も無い規模の実験なのが分かる。どれが欠けても実験は成功しない。そして、その〝駒〟のひとつに、選択の余地無く、俺は組み込まれている。いい気分はしない。勝手に連れてきておいて、『帰るかどうかはあなたに任せる』と言われても困る。
だが、ヒカルにも選択肢が無かったのだ。ヒカルの頭の中には、〈彼〉をそのまま死なせるという考えは、
ドアの正面。俺が目覚めたその装置は、頭部にヘルメットと言うには大き過ぎる、直径1メートル強の円筒が備え付けられていた。今はかなり上の方に
ヒカルはあの日、俺が立ち去った後、〈彼〉を超低温貯蔵庫まで運び、液体窒素漬けにした。おそらくたった一人で。そんなことをしたのは、俺のためじゃない。俺に説明するために〈彼〉の
だが……。だが、ヒカルは〈彼〉にどうしても会いたかったのだ。
……分かった。負けましたよ。この世界には、確かに俺の居場所は無さそうだ……。
「で……」
と俺は話を切り出した。
「どうすれば、俺は元居た世界に帰れるんだ? いや、〈彼〉を……。どうすれば〈彼〉をここに呼び戻せるんだ?」
「えっ⁈」
「この椅子にもう一度座ればいいのか?」
「……ありがとう」
「ふん。礼はいい。それに、タイムマシンで別の時空に行くなんて、そうそう経験出来るものじゃないしな」
「……ありがとう」
ヒカルは泣いていた。どうもバツが悪いな。くそったれ!
「えっ?」
俺はヒカルを抱きしめていた。
「〈彼〉は恋人だったんだろ……。泣くのはヤツが帰って来てからにしろ」
「う、うん……」
ヒカルはびっくりしたのか、泣き止んでいた。意地を張るなら最後まで張れってんだ。
「それはそうと……」
腹は決まった。そうなると少しばかり気になることがある。
「〈彼〉は今頃何をしているんだ。記憶の交換なんだから双方向だろ。こっちだけ準備したとしても、〈彼〉と〝シンクロ〟してなきゃ意味が無い」
「それは大丈夫。〝シンクロ〟している〈彼〉をエンタングル光が選び出して、こっちとリンクしてくれるわ」
「そんな、都合良くいくのかね?」
「じゃあ、あなたが、ここにやって来た時、〈彼〉との〝シンクロ〟を考えた?」
「……いや」
「以前言ったでしょ。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した相手を自発的に捜し出して入り込むって」
「そうだったかな……」
「そうよ」
「……そうか」
まあ、この分野はヒカルに任せておけばいい。だが、ヒカルは少し考えながら、こう付け加えた。
「でも、捜しきれない場合が無いとは言えない。〈彼〉とあなたの記憶に大きな隔たりが出来ていたら、記憶の差分情報が膨大で対応しきれないことも考えられる。その場合は、信号そのものが弾かれて、何も起きない。それに〈ゴースト〉の状態も気になる……」
「どんな?」
「〈彼〉とあなたは〈ゴースト〉を介して、記憶を交換した。そして、今でもエンタングルした状態が続いているかも知れない。これは記憶を再交換するには非常に有利なこと。新たな情報の交換が最小限で済むから。でも、もしも、〈ゴースト〉が様々な干渉を受けていたとしたら、エンタングルした状態が切れてしまう」
「量子通信でデータ盗聴するとエンタングル状態が崩れるっていうあれか?」
「そう。そうなれば、〈彼〉とあなたの繋がりはほとんど無くなり、永遠に切り離されてしまう。そうなったらもうお手上げ。〈彼〉は戻ってこない……」
なるほど。それでヒカルは、〈ゴースト〉の軌道や位置情報を公表したく無かったわけだ。だがそれも時間の問題。LISA−NETの連中も、二度と同じヘマはしないだろう。もっともその前に、〈ゴースト〉自身が太陽系からおさらばしてしまうけどな。まあ、実験する前から失敗後のことを考えても仕方が無い。失敗したら、今の状況に何ら変化が無いだけだから、俺は特段困らない。ヒカルは悲しむだろうが……。
では、成功したとしたらどうなる? 何か困ることは無いか? ……そうだ!
「妙なことを聞いていいか?」
「なに?」
「〈彼〉はこの1ヶ月の間、何をしていたと思う?」
「どういうこと?」
「いやな……。この1ヶ月の間、俺が住んでいた世界に、俺に成り代わって〈彼〉が影武者として居たわけだ。実験が成功したなら、俺は何食わぬ顔をして〈彼〉とバトンタッチする必要がある。何と言うか、『王様と乞食』の物語で二人がこっそり入れ替わるような……」
「それは……そうね」
「ということは……だ。彼が1ヶ月の間に
「ふふっ……」
ヒカルは笑った。笑いやがった。
「大丈夫。あなたと全く同じ。心配しなくてもすんなり
「だが、向こうの世界では、俺とヒカルは知り合いでも何でも無かった。〈那由他モジュール〉が使えなければ、〈ゴースト〉の軌道計算が間に合わない。間に合わなければ、今回の……第3回目の実験もできなくなる」
「大丈夫。〈彼〉はなかなか強引よ。あたしが保証する。例え地面に穴を掘ってでも、あたしの所までやってくるわ」
「どういう意味だ?」
「文字通りの意味よ」
* * *
ヒカルの腕時計のアラームが再び鳴った。どうやら最終便の時間が来たらしい。
「本当にいいのね……」
「何度も聞くな。気が変わったらどうする?」
「分かった……。ありがとう」
俺は早速、装置に座り込もうとしたが、念のため、フライトの前にしておくべきアイデアを思いついた。
「メモ用紙はあるか? それとペンも……」
「あるけど……」
ヒカルは、
「何に使うの?」
ヒカルは俺の手元を覗き込もうとしたが、俺はそれを隠した。
「実験が成功したなら、ここには1ヶ月ぶりに〈彼〉が帰ってくることになる。これは俺から〈彼〉に対しての伝言メッセージだ。俺がここに来た時は何も分からず苦労したからな。手に握っておけば、嫌でも気づくだろう。それに、目覚めて、手に紙が無くなっていたら、俺はちゃんと向こうに着いたという証明にもなる。一石二鳥だ」
「そう……。で、何て書くの?」
「それは秘密だ。運良く〈彼〉に会えたら、〈彼〉から聞いてくれ」
「……分かったわ」
ヒカルは、直ぐに興味を無くしたのか、それとも時間があまり無いからか、転送装置脇の制御卓に移動し、操作を始めた。無機質なキータッチの音だけが響く。俺は、転送装置の座面に横向きに座り、心臓部とでも言うべき、巨大な円筒の内部を下から覗いてみた。頭がすっぽり入るだけの隙間があるだけで、特に何の
……などと、いつもの下らない妄想に取り付かれていると、ヒカルが何やら
「……なんだ、その注射器は!」
「ちょっとね。なるべくシナプス後神経の活動を抑えておいた方がいいし、ちょっとリラックスしてもらった方が、信号ノイズが減るの。気休め程度だけど……」
「いやいや。そういうのは資格が必要だろ」
「
「いや、しかし……」
「もしかして、怖いの?」
「そうじゃない」
「だったら肩出して」
どうせなら、ナース服でやってもらいたかった……とは言えず。まあ、これまでの話を聞いていると、ヒカルは医学関係も少しはカジっているのかも知れない。礼奈と同じく、医療工学の方がメインのような気もするが。
「本当に、ありがとう……」
転送装置の座面に座り直し、例の円筒形の装置が静々と音も立てずに下り始めた時、ヒカルはまた礼を言った。俺は笑って右手の親指を立てるしかなかった。少しばかり眠い。薬が効いてきたのかもしれない。
「あなたのことは忘れない……」
「俺もだ。戻ったら、向こうのヒカルをデートにでも誘うよ……」
装置の下端が目線まで下りて来た。もう、ヒカルの顔を確認することはできない。
「……ひょっとしたらね。あなたにもう一度会えるかも知れない」
ヒカルの声だけが響く。少しばかり意識が遠のいて来た。
「会えるさ。この実験が終わったら〈彼〉に……」
「ううん。そうじゃないの……。もしかしたら……」
「…………」
俺は目を閉じた。開けていても既に真っ暗だったし。
遠くの方で、何かキーを叩く音がしていた。長いような短いような、
白い光を見たような気がする。音も、痛みも、嫌悪感も無かった。俺は文字通り、眠るように意識を失った。
* * *
どれくらい時間が経っただろうか? ぼんやりしていた意識が次第に自分のものになってくる。記憶が消えていないか確認しようと考えたが、消えていたなら、それに気づく
これは想定外だった。何も変わっていない! 俺は単に寝て起きただけだ。あれだけ苦労して、その結果がこれか?
「どぉ? 結果は?」
ヒカルの声がする。こんな時、どう返答すればいいものか。
「どうもこうもない……」
「だから言ったでしょ。あなたにまた会えるって……」
「はぁ」
溜息しか出なかった。頭の装置は、静々と再び上がって行く。どのツラ下げてヒカルの顔を見ればいいんだ。……いや、俺には何の落ち度も無い筈だ。堂々と見ればいい……ってわけにはいかないよな。
「こうなるんじゃないかと予想はしてた……」
半分、ヤケクソ気味なのか、ヒカルの声は妙に明るい気がする。装置の下端は鼻先まで上がり、足元が見えてくる。
「
「‼」
視界が開けた。目の前にあるのはドアだ。配置は変わっていない。変わっていないが……変だ。俺は立ち上がった。少しフラフラする。薬の
「急に立ち上がらない方がいいわよ」
ヒカルの声が右後方からする。だが、俺の意識は目の前のドアに向けられていた。光だ。ドアの周囲に、
目が
これは……。いや、ここは……、ALMAだ!
「未来には行けなかったみたいね」
「……そのようだな」
何故か知らないが、笑みが漏れる。そうか、そういうことか。ここに出て来たのか。確かに、ヒカルにはまた会えるかも知れないな。少しばかり時間が必要そうだが……。
「しょうがないわね。約束は、約束だから、デートしてあげる」
「へっ?」
俺は、膝に手をついたまま振り返った。ヒカルは腕組みをして片眉をつり上げていた……が、『しょうが無いなあ』という表情の中に、むしろ楽しんでいるような笑みが含まれている。コイツは……〝ツンデレ〟だったのか?
「……その代わり。デート代はそっち持ちだからね。デートコースもちゃんと計画しなさいよ。妙なテーマパークに行って終わりってのはナシだから」
「デート代は経費で落ちませんか?」
「落・ち・ま・せ・ん!」
〈彼〉は……相当、
だが、この状況は、俺にとってよいことばかりでは無い。むしろ、事態はより
この先どうなるかはよく分からないが、今の段階で、確実に言えることがひとつだけある。
──俺の日常が戻ってくるのは、当分先のことになる……てことだ。Ψ
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