第5章 サイトカイン・スイッチ
「どういうことだ。理由を説明してくれ」
「今は……今はまだ言えない。時期が来たら話す」
「だから、明日までにプレプリントを発表しなければ、LISA−NETの観測に間に合わないんだ……」
* * *
俺は、ヒカルの研究室に居た。アポを取った午前10時。思わず笑みがこぼれてしまう程、意気揚々に重力波源特定の報を
だって、そうだろう。そもそも、『こっちが本物!』と言った張本人が、その直感が大当たりだったということを聞いて喜ばない方がおかしいってもんだ。
前回同様、操作グローブを手に
ヒカルは真剣に、食い入るように見つめてはいたのだが、キラキラした目ではなかった。親の
俺が説明し終わると、一言。
「これが全ての
と、一本の軌跡──実際には数えきれない程の
「……それと」
俺は、第一報として……いや、第一報は、俺とマクシュートフの共著論文だから、第二報になるのだが、〈ゴースト〉の位置&軌道情報を
第一報は単に『髪の毛座方向』としか書いていなかったし、そもそも、重力波発生の機構が全く違っている。〈ゴースト〉はかなり遠くにあり、その前面にある別な天体が引き起こす重力レンズ効果によって、見かけ上、地球近傍に重力波源が出現したように見える……というのが、第一報の筋書きだ。太陽光が虫眼鏡によって地上の紙を
だが、事実はもっと単純明快だった。地球
コイツの発見が遅れたのは、素性が普通のブラックホールや中性子性と違い、特異点が丸見えとなっている裸の特異点だったということである。これまで、想像の産物でしかなかった奇妙な天体が観測されたわけだ。裸の特異点には事象の地平線が存在しないから、ベケンシュタインが提唱した熱力学も適応できないわけで、蒸発のしようがない。もっとも、特異点の向こうからは『緑色のスライムと無くしたソックス、それからテレビセット』が飛び出してくるかも知れない……。
この手のヘンなものの扱いは、ある意味、理論屋の
これに対して、観測屋は得てして保守的だ。未知の観測結果が出てきたとしても『未知のものを発見した』などとはまず考えない。もしも、そう考えるヤツがいたら、それは観測屋に向いていない。まずは、既存の成果の中から
で、今回の裸の特異点は、楕円体に集合した星の
……話が脱線したな。
で、俺は、とりあえずここまでの成果をプレプリントとして発表する……とヒカルに伝えた
「それはダメ!」
と、ヒカルがスゴい
その直後、取り繕うように、声のトーンを落とし、
「……ごめん。しばらく待って欲しいの。このデータを使って実験するまで……」
と言い換えてきた。何か知らないが、明らかに動揺している。そこからは、押し問答だ。
「それはいつ?」
「このデータを使ってちょっとした計算と準備が必要なの。そんなに時間はかからないと思う」
「分かった。しかし、そのデータを先に公表したって何の問題もないんじゃないか?」
「それはダメ。これはあなたのためでもあるの……」
「それならなおさら、理由を教えて欲しいんだが?」
ヒカルはこちらを見つめて何か話そうとしたが、直ぐに下を向いた。いつもはもっと強気だった筈だが。重力研に押し掛けてきた時がこんな感じだったかな?
「……信じて……もらえないと思うから」
「え?」
「何でもない。ともかく、実験が終了するまで待って」
「うーん」
堂々巡りだ。すこし切り口を変えてみよう。
「で、その実験ってのは? 量子テレポーテーションの実験……」
「そう……」
「どんな?」
「それも、
「揃う? 何が?」
「〈彼〉が……」
「彼?」
「その時になったら話すから……。お願い……」
この現場を誰かに見られたら、どう考えても俺の方が悪人だよなぁ。正論を言っているのはこっちなんだけどね。ただ、これ以上言っても、平行線のままだ。下手をするとヒカルが泣き出しかねない。そんな雰囲気になっている。
一昨日、俺は、『ヒカルの肩を揺さぶり問い
とても納得はできなかったが、この短時間で重力波源を突き止めることが出来たのは、ヒカルのお陰だ。ヒカルが提供してくれた32ノード分の計算機資源と〈那由他モジュール〉、そして、ヒカルの的確な予想があったからだ。どれかひとつでも欠けていたら、〈ゴースト〉の尻尾すら
「わかった。
「ごめんなさい」
ヒカルはぺこりと頭を下げた。今日の髪は、坊さんが買ってきそうな赤い玉の付いたかんざしひとつだ。何故これで固定できるんだ。トポロジー的にどうなってる? いや、そんなことはどうでもいい。
「しかし……」
俺は、ひとつだけ素朴な疑問を述べた。
「俺が公表しなくても、数日経てばLISA−NETの観測で、波源が分かっちゃうんだけどなぁ……」
「それは大丈夫」
ヒカルはほんの少し微笑んだ……ような気がする。
「彼らは発見出来ない」
「どうして?」
「観測点が少しズレているから」
「え? どうして分かる?」
「〈彼〉がそう言ってたの」
俺は渋い顔をした……のだと思う。ヒカルは微笑んだ。今度はハッキリと。
〈彼〉って誰だ?
* * *
その日の午後、俺は〈金魚鉢〉の中に居た。プレプリントを今日中に出すことは無くなったが、いつでも出せるようにまとめておく必要がある。ヒカルが言うようにLISA−NETの観測が空振りに終わるなら、公表が少々遅れても
それに、16世代目以降の計算はまだ走らせっぱなしで、結果を見ていない。
さらにもうひとつ、調べるべきものが残っている。
ジョブは40世代目で終わっていた。
で、何世代まで回したら、観測値の精度を超える無駄な計算になるかは、
次があるのかどうかは分からないが……。
問題は、もうひとつの調べものの方である。
いつだったか忘れたが、10日程前。ここのデータの整理をしていた時、あまり記憶の無いツールが出てきたことがあった。世代の古い〈佐藤スキーム〉、〈ゴースト〉用と思われる自作描画ソフト、その他様々なパッチ群に、出来損ないのプログラム・ソース。これは一体なんなのかを調べる仕事だ。単に忘れているだけならいい。今のうちに、モノになりそうなものは整理して、要らないものは捨てるだけだ。『いつか使えるかも?』とガラクタを残しておくと、そのガラクタを理解する時間の方が長かったりする。この場合、内容を覚えているうちにスッパリと捨ててしまうのが良い。……と言いながら、貧乏性なもので、全部取ってあったりする。だが、後で見返したことは一度たりとも無い。まあ、そういうものである。
しかし、このファイルの残骸が、実は第三者によるハッキングの結果だったとしたなら、そうそう笑ってもいられない。ただ、その可能性は低いだろう。ハッキングした人間が、好き好んで〈ゴースト〉調査用のファイルを作成するとは思えないからだ。どのみち、ソースをじっくり見ればわかる。ソース内のコメントに書かれた署名とかは誰でも偽装することが出来るが、ソースの書き方の
調べた結果、全てシロ。残されたファイルは全て俺が書いたものだ。納得はいかない。いかないが、客観的に見てそういう結論なのだ。後はヒカルに聞いてみるしか無い。ここでの作業にヒカルは一切タッチしていないが、俺の記憶の曖昧さを問い質したのはヒカルである。絶対何か知っている。やはり、『肩を揺さぶり問い質す』べきか? でも、目の前にいると出来ないんだよなぁ。紳士の俺としては……。
「そういえば……」
と、またまた別の調べモノを思い出す。ヒカルは、LISA−NETの観測はズレていると言った。本当かどうか調べるのは簡単だ。〈ゴースト〉の軌道と、LISA−NETの観測範囲を重ねて見ればいい。
「おおっ。確かに!」
〈ゴースト〉は辛くも探査の目をかいくぐり、闇に
さらにもうひとつ。これが何かの役に立つのか分からないが、〈ゴースト〉の軌道をよくよく確認して気づいたことがある。コイツの軌道は地球軌道面に比較的近いが、典型的な双曲線軌道だ。要するに、無限遠からきて無限遠に飛び去るという〝
異常な重力波が観測された4ヶ月前のあの日、俺は、〈ゴースト〉が地球に最接近したから、重力波が地球でも観測された……と勝手に思っていた。だが、実際はそうではない。郷田の話にもあったように、ループ量子重力効果がどうのこうので、たまたま地球に向けて、強い重力波が発散されたのがあの日だった……というのが真相である。実際、〈ゴースト〉の軌道をツラツラと見てみると、コイツが地球に最接近したのは、その日からさらに2ヶ月程度後の事だ。
ちなみに、地球にはもう一度接近する日がある。異常な重力波が発生した日、〈ゴースト〉は確かに、地球と火星との間の空間に居た。だが、今は金星軌道付近にまで太陽に近づいて居る。近日点は既に越えているが、太陽系から去って行く前に、もう一度地球に挨拶するつもりらしい。もっとも、絶対にぶつかる軌道ではないから、安心してくれ。
そして、ここまで調べたなら、ついでに確認しておきたい日付がある。俺が、素粒子研の地下施設で目覚めたあの日の〈ゴースト〉の位置だ。その日が〈ゴースト〉の地球最接近日だったりすると、何となく話が
俺は、ディスプレイの表示を、地心黄道座標系に切り替えた。つまり、地球上で見た場合、〈ゴースト〉が星座上をどのように動くか見るための星図表示である。すると……、〈ゴースト〉は、その日、〝
惑星や彗星などの星の軌道は、太陽以外の引力を無視すると、楕円軌道、放物線軌道、双曲線軌道のどれかに分類される。太陽系の外から
だが、〝留〟は天文学的な特異日と言うわけではない。地球の公転によって生じる、言わば見かけ上の特異日に過ぎない。さらに、〈ゴースト〉の逆行は2度あり、その結果、〝留〟は、太陽系外に飛び去るまでに3回もある。逆行が2回なら〝留〟は4度じゃないかとも考えたが、〈ゴースト〉は無限遠に飛び去ってしまうので、4度目は観測できないようだ。まあ、どっちにせよ、あくまでも地球上から見た故の、見かけ上の
素粒子研の地下施設で、俺が目覚めた日の〝留〟は第2回目にあたり、これを量子テレポーテーション実験と結びつけたいのは山々だが、俺が目覚めたのは真夜中だ。しかし〈ゴースト〉は、ほぼ期間を通して日中しか見る事ができないのである。重力波やニュートリノならばいざ知らず、地球の裏側の〈ゴースト〉を観測するのは不可能だ。
ちなみに、1回目はその1ヶ月半前。異常重力波騒動でてんやわんやしていた時だから、もちろんヒカルとは面識も無かった時期だし、そもそも共同研究なんてしている暇は全く無かった頃だ。3回目は……おお、3日後じゃないか。しかし、この事実が何かの糸口になるのか、それとも単なる偶然なのかはさっぱり分からん。ま、俺は俺の仕事を続けるのみだ。
ひと通りの調べものが終わり、さてと、本題である筈のプレプリントの仕上をする……って、書けないんだよなこれが。〆切が先延ばしになったものだから、何となくモチベーションが下がってしまっている。あらかたのストーリーは書いているから、後は、シミュレーション
15時頃、やる気も無くなりダレて来て、大きく伸びをした時だ。
「あ。酒井さん。こんにちは」
後方から聞き覚えのある声がする。腕を伸ばしたまま振り返ると、ポニーテールに丸メガネ。タヌキ顔の礼奈がそこに立っていた。
「あれ? どうしてここに?」
「今日は、ここの〝那由他ちゃん〟を使う用事があって……」
そうか。ヒカルは『礼奈は出張』と言っていたっけ。インターンに出張は無いだろうと思っていたが、そういうことか。
……というわけで、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉でお茶することになった。俺が
俺は、コーヒーと紅茶のシフォンケーキ。礼奈はレモンティーにザッハトルテとか言う、いかにも甘そうなケーキを頼んでいる。まあ、〝甘くないスイーツ〟ってのは、豪華な粗品、大きなミニバン並に、自己矛盾しているから、甘くていいのだ。
「いただきます!」
礼奈は、ちょこんと手を合わせ、ケーキを一口食べた。満面の笑み。そこまで喜んでもらえば、シェフも本望だろう。
「あれ? 酒井さんはコーヒーなのに、紅茶のシフォンなんですか?」
「え? ああ。そう言えばそうだな……」
そういう目で見たこと無かったな。紅茶の香りは好きなのだが、俺は大のコーヒー党だ。ここのシフォンケーキには生クリームが載っているので、コーヒーと一緒に食べるとアインシュペンナーみたいで美味い。ウインナーコーヒーじゃないぞ!
「今日は何のためにここへ?」
「えっと……、この前お見せした、量子テレポーテーション後のディクチオステリウム=ディスコイディウムの比較ゲノム解析です。〝那由他ちゃん〟はスゴいんですよ。ゲノム丸ごと取り込んで、一度に全ての
「……そ、そうなの?」
「はい!
「へぇー」
ああ。聞くんじゃなかった。彼女とは知識ベクトルが線形独立だったのを忘れていた。
確か、礼奈に始めて会ったとき、『星がつぶれたら、最後は消えて無くなっちゃうんですか?』とか何とか言われて、目がテンになったんだった。今は立場が逆転してる。俺がここでどんな質問を言おうと、きっと彼女の分野では的外れで、今度は礼奈の目がテンになるんだろうな。
「……いやぁ。俺にはさっぱり分かんないな。ハハハ……」
とりあえずケーキを食う。口にモノが入っている間は喋らなくていいからな。礼奈もニコニコしながら両手を添えてレモンティーを飲んでいた。ちなみに、礼奈の今日の衣装は白衣ではなく、デニムのショートパンツにフリフリした白っぽいブラウスという、〝普通の女の子〟っぽい出で立ちである。
「ところで、橋本さんって、何年生なの」
「M1です」
「そういえば、卒論はクラゲだったよねぇ。研究室で飼ってる……」
「そうです。あの子たちは私が設計したんですよ」
「設計? 遺伝子組み換え生物ってヤツ?」
「はい。サイトカイン遺伝子を色々と……。でも難しくって。
「腹切り⁉」
「はい。
「………………」
いつの間に、時代劇の話になったんだっけ?
「あ。でも、あの子たちは大丈夫です。もう10回も生まれ変わってます。テロメターゼ遺伝子に、
「……えーっと、基本的なこと聞いていいかな?」
「なんでしょう?」
「橋本さんって、何の研究してるの?」
「不老不死です!」
「不老不死ぃ……」
……なのだそうだ。何か聞いてはいけないものを聞いたような気もするが、まともな研究なんだよな。多分……。どうも生物系は昔からからっきし弱いので──お前に強いものなどあるのかと声が聞こえるが、あえて無視──さっぱりだ。礼奈は相変わらずニコニコしながら、ティーポットの
「あー。でもでも」
礼奈は紅茶を一口飲んで、話の続きを切り出す。
「……不老というのは本当は嘘なんです。老化のスイッチを逆転できるんです」
「逆転……というと、若返るとか?」
「そうです! あの子たちは、年を取ると初期化されて赤ちゃんに戻るんですよ」
ドイツに、そんな若返りの泉を描いた画家がいたっけ……。
「それで生まれ変わりか。どうせなら老化を止められればいいんだけとな」
「それは無理なんです。進めるのは割と簡単なんですけど」
「老化が早まっても全然メリットないなぁ……」
「そんなこと無いです。最近の培養臓器移植は、
「……モヤシみたいだな」
確かに、最近の再生医療……って言うんだったか。病気や怪我で臓器不全になると、本人のiPS細胞とやらを元に、1ヶ月もしないうちに臓器を作り出して移植する手術を行ったりしている。普通なら1ヶ月じゃあ培養できないよな。何かそう言う魔法で、促成栽培しているわけだ。『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』と言ったのは誰だったっけ?
「ところで、なんで、ヒカ……葵さんのトコでインターンやってるの? 〈那由他モジュール〉を使えるから?」
「それもあるんですけど、
「どんな?」
「記憶が引き継がれないんです」
「記憶?」
「ええ。赤ちゃんに戻ると、記憶までリセットされちゃうんですよ」
「それじゃあ若返ったとしても意味ないなぁ」
「ないんです」
……ははぁ。段々と、ヒカルの研究との接点が見えてきたような気がする。
「ということは、この前の粘菌の実験は、年取った粘菌の記憶を、若返った粘菌に転送する実験だったということになるのかな?」
「です、です。そうなんです。だから、不老不死の私の研究は、葵主任の量子テレポーテーション技術とセットじゃないと完成しないんです」
「なるほど……」
いやはや、なんとも
「あ! もうこんな時間!」
礼奈は左手首の時計を見ながら、右手で口を押さえた。少女漫画で出てきそうなポーズだな。少女漫画読まないけど。俺は、伝票を持って立ち上がりレジに向かった。
「あ。やっぱり、払います」
「いや。俺が
「でも、主任に怒られそうで……」
「ん? 何でそこで葵さんが出てくるの?」
「だって……」
「?」
「酒井さんと主任とは付き合っているんですよねぇ?」
俺は、吹き出しそうになった。関山といい、礼奈といい、どうしてそういう誤解が生じるのかね?
* * *
喫茶店を出て礼奈と別れた……といっても、行き先は同じ〈金魚鉢〉の中なのだが、その後にプレプリントの仕上げなどやる気にならなかった。あるひとつの疑惑が、頭の中をグルグル回り、そいつを確かめない限り、どうにも先に進めない状態になってしまったからである。
〈ゴースト〉の解析データは早々とメモリに入れたし、プレプリントなら重力研に持ち帰って続きを書く事もできる。
俺は礼奈に『じゃ、また』と挨拶をしてから、早々に重力研に戻る事にした。早々と言っても、16時近くになっていたから、向こうに着いた頃に終業の時間となる程度だろう。ま、そんなに早く帰った事はないけどな。
あるひとつの疑惑とは、もちろん俺の〝記憶〟のことだ。素粒子研の地下施設で目覚めたあの日。俺には、その前数時間の記憶が無い。おれは勝手に、酔っぱらっていて記憶がないと思っていたが、呑み始めの記憶すら無いというのは、やはり冷静に考えるとおかしい。
それ以前の記憶に曖昧な点は無いが、もしかすると、その記憶は〝転送〟されたものかもしれない。礼奈の話を聞いた後だけに、なおさらそう思う。その原理も理屈もよく分からないが、その鍵を握っているのはヒカルだ。あの地下施設に何があり、何が行われたかは、ヒカルが知っている。俺は今までそれを聞くのを避けていた。何があったにせよ、俺に非があるのは間違いない……そう思い込んでいたからだ。だが、〝酔っぱらいにありがちな行動〟にしては、その後の話の展開がおかしい。
ヒカルが俺の記憶を〝転送〟したのだと仮定して……では何故、そんなことをする必要があったのか? 動機がまるで分からない。
ブラックホールを使った量子テレポーテーションの実験がしたいから?
「いや、違う!」
つい、帰りのリニアの中で声を出してしまった。周囲の客が数人、何事かといぶかしそうにこちらを見ている。俺は、ペコペコと頭を下げた。
……違う筈だ。要は、重力レンズを引き起こす天体があれば、宇宙を実験場にした量子テレポーテーションの実験は可能だ。そして、そんな天体は、これまでに沢山見つかっている。観測された天体が
探したけど適切なのが無かった……としても変だ。それだけ探して無かったのに、発見すらされてない〈ゴースト〉を『実験に使える』と決めつけ、共同研究を申し込む……とか、あまりにも不自然。それにヒカルは、『俺の方から共同研究を申し込んで来た』と言っていた。ならば、その〝記憶〟を〝転送〟し、元に戻しておけば万事解決じゃないか。
ん? ヒカルによれば、量子テレポーテーションは、あくまでもテレポーテーションであって、コピーでは無いと言っていた筈だ。コピー&ペーストではなく、カット&ペースト。ということは、俺の〝記憶〟は、どこかの誰かに飛んで行って、そのかわりに、誰かの〝記憶〟が俺の脳に入っているのか?
いやいや、そうじゃない! 俺は俺だ。俺が、他人の体に乗り移ったと考えるべきだ。体が主ではなくて、脳……記憶があるところが主だ。『我思う、故に我あり』と言うではないか。俺の脳を他人の体に移植すれば、その体が俺になる。だが、脳を取り去った俺の体に他人の脳を移植すれば、それは他人だ。見た目は完全に俺なのだが、それをコントロールしている脳が他人であれば、それは他人だ。
誰かの〝記憶〟が俺の脳に入っているとすれば、それは俺ではない。俺の〝記憶〟が誰かの脳に入っているなら、そいつが俺だ。
しかし、俺の記憶が他人の体に〝転送〟されたのだとしたら、俺はあの地下施設で目覚めた後、自分の顔を見て『お前は誰だ!』と言わねばならない筈である。唯一、それに近い反応をしたのが、俺と面識の無かった筈のヒカルだ。『過去の記憶はあるか?』と……。今にして思えば、この問いかけは『お前は、昔のお前なのか、それとも違うのか?』を確認したものだと考えられなくもない。
いやいやいや……。妄想が膨らみすぎてしまった。記憶の転送だとか言い始める前に、そもそも、〈ゴースト〉は、夜中には地球の反対側にあるじゃないか! いくらヒカルでも、地球を通して向こうを見通せるわけがない! 俺の記憶の欠落と、〈ゴースト〉を使った量子テレポーテーション実験を結びつけるのは、やはり意味の無いことなのか?
ああ。それこそ、頭が爆発しそうだ。一体どうなっているんだ。俺の考えていることは全てが妄想なのか? それともやはり『ヒカルの肩を揺さぶり問い質す』べきなのか。
こう見えても、俺は研究者の端くれである。こういう場合、
初っ端の疑問とは、『俺の記憶は正しいか?』である。コイツを確かめるのは簡単だ。俺が記憶している通りに、過去の俺は行動していたか? を調べれば良い。そう考えると、調べるべき
……というわけで、今、俺は、重力研玄関脇の守衛室で、守衛さんと話している。
「地下の重力波観測施設の定点防犯ビデオねぇ。そういうのは、本当は総務課を通してもらわないといけないんだけどねぇ……」
「はぁ。そうなんですけど、ちょっと、バツが悪くて」
「うーん」
重力研にも他の機関と同様、最低限の防犯設備は整っていて、それらの監視とコントロールは守衛室で行っている。普段は全然気にしていないのだか、人が
まず、場所は、地下千メートルの斜行エレベータ前だけでいい。そして、俺自身が映っている映像の画像と時刻だけでいい。録画された全画像には、コンピュータの自動判別による
そして、その情報が欲しい理由というのが……
「彼女に『横浜煉瓦』というお菓子をあげたら、『誕生日には1ヶ月早い』って言われたんですけど……その日付を忘れちゃったんです。お菓子は地下施設の冷蔵庫から持って行ったから、それを手に持ってエレベータに乗った映像を探せば、日付が分かると思って……」
……ということにした。何故か知らないが、女性はアニバーサリーには敏感というか、ウルサいからな。それに、忘れたとでも言おうものなら大変なことになる……と、以前誰かが言っていた(汗)。だから直接は聞けないと……。うんうん。我ながら完璧な理論武装。
4ヶ月前からの〈ゴースト〉騒動で、俺は夜食を買いに、頻繁に近くのコンビニまで足を運んでいたから、守衛さんもそれは覚えている。
「お出かけ?」
「また泊まりなんでエネルギー補給です。ついでにアンパンでも買ってきましょうか?」
……とか、調子良く挨拶していたのがこんなところで役に立つとは思わなかった。愛想ってのは大切だな。
結局、俺だけが映っているファイルを、守衛さんがチョイチョイと検索し、
「ファイルを持ち帰るのはダメだが、ここで見て探す分にはいいよ」
ということになり、守衛室の一角でそれらを見ることになった。自分の顔を大量に見る羽目になるかと思ったが、エレベータで頻繁に上下するのも以外と
ヒカルと会う前の一週間を集中して見てみたが、俺はちゃんとここで働いているようだ。昼飯に上がるか、夜食を買うかしている。ずっと外出しているとか、そういう事実もなさそうだ。もちろん、一分一秒まで正しい、弁当の種類も完全に一致……とまではチェックできない。そこまで記憶しているわけではない。だが、少なくとも、俺の〝行動〟は、俺の〝記憶〟と合致している。
ヒカルが訪ねてきた前日。俺は少し緊張した顔でエレベータから降りている。時刻にして午前0時を回ったころ。結局、あの日はそのままソファで寝てしまったことを覚えている。翌日。俺はエレベータ前で、多少ニヤケた顔で立っているのが分かる。ヒカルの出迎えの為だが、検索結果には、〝プライバシー保護のため〟ツーショットの映像は含まれていなかった。だが、ヒカルを送り出す映像には、彼女の後頭部がチラっと映り込んでいたから、彼女があの時に来たのは間違いない。時刻も俺の記憶と合致している。
記憶と行動の
そして、その次の映像というのが、午前0時を回り、緊張気味に再び地下に戻ってきている映像なのだ。つまり、その前段階のエレベータを昇って行く映像が無いのである。
もっともらしい推測としては、誰かがエレベータで降りてきて、俺が一緒に昇ったとすれば、〝プライバシー保護のため〟その映像が開示されなかったということが考えられる。誰が誘いに来たのかはまるで分からない。ヒカルだろうか? だが、部外者がいきなり地下施設に来るとは思えないし、そもそも手続きが必要だ。記録に残っていない筈が無い。それとも、ヒカルがいろいろと手を尽くして、あらゆる記録と記憶を消去したとか……?
それもかなり怖い話だ……が……、俺はもうひとつの可能性に気づいた……。
いや、そんな……そんな筈は……。
「ありがとうございました。おかげで見つかりました」
俺は守衛さんに、『横浜煉瓦』を手にしている映像を見せた。礼奈に横浜のお土産として持って行った日のものである。
「おー、それは良かった。今度は忘れるなよ。相当、おっかない彼女みたいだなぁ」
「はい。あー、いえ、そんなことはないです。どうも、お手間を取らせました」
俺の顔がひきつって見えたのだろう。守衛さんは変に気を回している。
「……それと、お手間ついでにもうひとつお願いできます?」
俺は、突然頭に沸き上がった、その可能性を確かめる方法をひとつ思いついた。
「このIDカードに記録されている、各機関のゲート入出力ログを出力して頂く事は可能ですか?」
「おう。それならできる。本人の情報だからな」
俺は、首からぶらさげていたIDカードから、ヒカルと出会う前後の日時のゲート入出力ログを印刷してもらい、再びお礼を述べて守衛室を離れた。印刷されたログを今すぐ見たいという
俺はソファに座り、足を投げ出し、印刷されたログを両手で握りしめたまま肘をついていた。数分の後、俺は意を決してログを見た。しわくちゃになった紙を広げ、日付を追って行く。
ヒカルに会う前日の19時3分。重力研のゲートを通り、俺は外に出ている。
同日19時15分。素粒子研のゲートから中へ。……そうか。あそこで夕食を食べたんだった。ペペロンチーノだったかカルボナーラだったか。
その後、飯を食い終わって、20時2分に素粒子研のゲートを通り、外へ。
20時14分。重力研のゲートを通り、地下施設へ戻る。ここは、エレベータの映像と合致している。そして……。
23時52分。素粒子研のゲートを通り、再び外に出て……。
翌日の0時7分。重力研のゲートを通り、再び施設の中へ……。
手が震えているのが分かる。右手で左手を押さえても、逆をやっても、その震えは止まらなかった。俺は、見てはいけないものを見てしまったのかも知れない……。
午後8時過ぎ。俺は、外からこの地下施設に戻って来た。
翌日午前0時過ぎ。俺は再び、外からこの地下施設に戻って来た。
その4時間ほどの間、この地下施設から誰一人、外へ出たものはいない。
────俺は誰なんだ? 本当の俺はどこにいる?
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