第4章 コンパクト星

ブラックホール解析室……〈BAR〉の中は、相変わらずストレンジネスな熱気とフレーバーがあふれていた。別に怒号どごうが飛び交っているわけではない。見た目は至って静かである。とても熱いのに沸騰もせず超流動でサラサラ流れているみたいな、中性子星コアのハイペロン超流動体のごとし。実際、ソレを研究テーマにしているヤツもいるな。

まあ、一事が万事そういう具合だから、皆、一般人には理解不能な、とがったテーマの研究にいそしんでいる。定期的に行われる研究発表会コロキウムではその一端いったんを見る事ができるが、多くの場合、タイトルを見ても何の話なのかさっぱり分からないし、大抵は英語である。


「あれ? どうしたの?」

「ちょっと頼み事が……」

幸いな事に、入れ子格子マトリョーシカを作成する自動多重格子発生ルーチンの基礎プログラムを作ったのは、俺が以前、ここにいた時の同僚だったGOOさんだから、そこから芋づる式に最新の情報を仕入れていけば何とかなりそうだった。ただ、情報やオリジナルのソースを貰えたとしても、それを理解してあの解析プログラムに組み込むまでの道程みちのりはかなり遠そうに感じられる。具さんは人がいいから、無理を言えば組み込みの手助けをして貰えるかもしれない。だが、それは具さんの業績として残らず、多大な迷惑をかける可能性大だから、ここはグッと我慢。〈BAR〉の人たちは皆、違った困難さを山のように抱えて研究をしている研究者なのだ……と、トルストイは言っている。トップスピードで走っているアスリートに、幼稚園児のかけっこのコーチをしてくれとは、口が裂けても言えない。

まあ、『どうしても無理! 助けてくれっ!』となったなら仕方が無いが、その場合は、正式なルートで要請をしなければならず、それには科学的困難さとは全く次元の違う色々とわずらわしい手続きが必要だった。それはそれで、頭の使いどころが違うので、ウンザリだったりする。どっちにせよ、一人で解決できるに越したことは無い。

もっとも、既に、一人で解決できていないわけだが……。


「うーん、そうねぇ。それなら〈佐藤スキーム〉って言うのがあるから、それがいいかな」

「佐藤さんって、ここのチーフの?」

「そーだよ。論文もあるから一緒に持っていくといいよ」

「ありがと」

「……でも、3ヶ月くらい前に同じスキーム持って行かなかった?」

「いや、持っていってないけど」

「そうか。勘違いかな……」

具さんは、四角いメガネを押さえつつ、英語、日本語、ハングルがごっちゃになった資料の山の中から迷うこと無く一冊の論文を抜き出し、その場でスキャンして手渡してくれた。〈佐藤スキーム〉のソースはMailで転送してくれるそうだ。

論文は、最初こそ有理ルンゲ・クッタ法を用いたオーソドックスな話が書いてあるが、格子分解能を局所的に上げる不等間隔格子の折り畳みであるとか、ネスティング間隔の最適解の計算であるとか、ほとんど見たことのない手法のオンパレードで、一読しただけではさっぱり分からないものだった。参考文献をチェックしながら、十回ほど読むと、この手法のメリットがおぼろげながらも見えてくる。

特に、ブラックホール形成のような自己重力による構造形成過程が含まれている場の記述においては抜群の効率性を持っている。まあ、〈BAR〉の中で開発されたものなのだから、ブラックホールに最適化されたものであるのは間違いないとしても、俺のつたない説明だけで、具さんがこれを一発で推薦すいせんするというところが素晴らしい。

そもそも、〈那由他モジュール〉が吐き出したデータを処理しきれなかったのは、格子数が極端に多くなり、スタック領域を食いつぶしたからだが、実際には、格子数が倍に増えたとしても、全ての格子の値が独立ではないので、情報量が倍になったわけではない。そこは、格子間の類似部分を除外オミットして、情報量を削ぎ落とす工夫をすれば、オーバーフローさせずに処理できる。類似性の評価は3次元方向と時間軸はもちろん、コンパクト化した余剰よじょう次元方向でも行う。重力子のみが余剰次元を感じ取ることができるのだから、これは当然だろう。

で、〈佐藤スキーム〉の一押しのところは、計算途中で発生する入れ子格子マトリョーシカ生成の暴走により、計算量がに増えてしまう部分が、な増加で収まるという点だ。これなら相当な無茶をしても、メモリを食い潰して破綻はたんしてしまうことがない。


残された……しかし、重大な問題は、その〈佐藤スキーム〉のソースをどうやって、『逐次同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』に組み込むか? ……である。

なんと言うか、ソースのアルゴリズム云々の前に、そもそも、ジョブを走らせるまでの設計思想からして違う。メイクファイルの段階で、自動でソースを取捨しゅしゃ選択して、それらを動的に書き換えてコンパイルするような、そんな変な構造になっている。つまり、処理するデータが異なると、処理するプログラム自身もまた書き換えられるようになっている。そして、プログラムの書き換えを指示するメタ・プログラムが、その上に存在しているのだ。なんという発想。関数に対する汎関数みたいなモンかな。こんなモンどう料理すればいいんだぁ!

……とビッグ・バンの中心に向かって叫んでも、自分では作れないのだから仕方が無い。ちなみに、ビッグ・バンには中心は無い。念のため……。

そんなこんなで、それからしばらくは、四角い穴に丸いくいを打つような作業が始まった。


結局、迷惑をかけたくないとは思いつつも、何度となく具さんのところに足を運び、横浜もうでを繰り返して〈那由他モジュール〉にムチ入れするも、『あたしを使いこなそうなんて、100年早いわよ!』と返り討ちにあい、挙げ句の果てに、経理からは、

「横浜までの定期にしましょうか?」

とイヤミを言われて、夢破れて山河すら無し。とほほ……。

まがいなりにも、異常終了アベンドせずに組み込みが完了したのは一週間後。ちまたでは、ちらほらとヒグラシの鳴く季節となっていた。ただし、落ちなくなったと言うだけで、計算結果はヒドい。光速度の2000倍で移動する探索線トラジェクトリーが出てきたり……。ま、ここからが本当の意味での試練の始まりで、モグラたたきのように、バグを1つ潰すと新種のバグが2つ増えるという、お前はポケットに入れたビスケットかっ!


いつ果てるとも分からないバグ取りも、体力と精神力を限りなく吸い取る高分子吸収体ハイドロポリマーのごとき存在なのだが、それに加えて、もうひとつ。モチベーションを無限井戸型ポテンシャルの奥底まで追いやってしまう懸案けんあん事項が、他にも存在していた。

もしも、〈佐藤スキーム〉の組み込みが完璧で、どんなブラックホールでも破綻無く再現が可能になったとしても、再現すべき観測データが正確無比でなければ何にもならない。精密な解析用のプログラムだけ存在して観測結果がないというのは、名シェフを揃えたのに、調理する具材が無いような状況である。もちろん、世界各地で観測された重力波の記録はあるが、精度がまちまちで絶対数も少なく、それだけでは軌道の特定は不可能に思われた。そういう状況にも強いのがカルマンフィルターの良いところなんだが、いくら名シェフでも、渡された具材がメダカ一匹だったらどうしようもあるまい。まあ、シェフの方も、今はを受け取ってアタフタしている、迷シェフ状態なのだが……。

重力波のデータは、他機関から個人的に頂けるところは、レベル1のオリジナル値まで調べた。半分以上は、ロシアのマクシュートフからのツテである。今度日本にくる時には、彼の大好きな赤霧島を用意して待っていると、ネットで話をしたら、えらく喜んでいた。明日にでもやってきそうな勢いである。いや、それはちょっと勘弁して欲しいな。彼の呑み方はハンパ無いからな。

ただ、レベル1のデータは、それこそ近所の道路工事による振動の影響までモロに入っているので、そのまま平均しただけでは全く使えない代物しろものなのだが、もしかすると、ノイズと見なして落とされた部分にヒントが眠っているかも知れない。逆畳み込み処理デ・コンボリューションでなんとかするかな……?


また、それとは別ルートで、もしも何らかの天体が地球近傍を通ったというならば、それなりのデータがあるかもしれないと思い、関山の協力を得て調査した結果、NASAジェット推進研究所の地球接近天体計画局NEOP Officeから情報を入手することができた。しかしながら、それほどかんばしい結果が得られたわけではない。一言で言えば、『そんな巨大質量の物体が通った形跡はない』ということが追認されただけで終わった。

ただ、関山との会話の中で、

「そんなに近くを通ったンなら、宇宙に目ぇ向けてる測器だけじゃなくて、地球を観測している衛星とかが何か拾ってるってことはないっスか?」

という話になり色々と探した。例えば、地球のレンズ・シリング効果を利用してマントルの移動速度を測定している重力探査GP-D衛星や、地球のジオイドを測定している重力観測衛星GRACEミッションとかである。我々は宇宙ばかりを見ているが、それとは対照的に地球ばかり見ている測地研究者も多数いる。

だが、目線が上下に違うだけで、その会話の成り立たないことと言ったら!


測地衛星には、数百キロから数千キロ離れた衛星軌道を並走して飛ぶ衛星間距離測距衛星Low-Low SSTや、コイツを一体化した重力傾斜観測衛星Advanced GOCEがあり、相互にレーザーを打ち合って干渉測位を行う。これらは既に数十機の衛星ネットワークが完成していて、昼夜を問わず観測をしている……と、測地屋は異口同音に話した。『そんなことも知らんのか?』という扱い。

その反面、こちらが説明するブラックホール云々は、測地屋にはほとんど縁がないらしく、『何でも吸い込む魔法の物体』扱いであって、たまに〈オルガン〉を見学に来るお偉いさんとほとんど同レベルである。

そんなこんなで、果てしない蒟蒻こんにゃく問答の果てに、『これは!』と思うデータが見つかった。異常終了アベンドした9世代目のデータセットに現れた異常な螺旋格子の近傍きんぼう。ほぼ同時刻に周囲を回っていたL−L SST衛星のデータに、他の部分とは明らかに精度のおとるデータを見つけたのだ。平均値としてのジオイド面のデータは平凡な値なのだが、その算出に使われたオリジナルデータの数が少なく、かつ、標準偏差が大きい。教えてもらった測地関連のデータセンターからはそれ以上の情報は得られなかったが、オリジナルのデータを見れば何か得られるかも知れない。この衛星の管理は、現在はロシアがおこなっていたので、俺はまたまたマクシュートフに連絡を取った。彼も分野違いではあるが、『そいつは面白い』というノリで、管理センターに直接コンタクトを取ったらしく、数日後にはこっそりとオリジナルデータを送って来てくれた。正式ルートではないので論文に引用することはできないが、解析の結果、それなりのメドが立ったならば、また共同で作業をしようということで話がついた。古酒クースーおごらないといけないな、こりゃ……。

データには明らかな衛星間の振動が見られた。もちろん、衛星同士がバネで結ばれているわけではないので、この振動は外部の時空からもたらされたものである。さらに、その周期から地球の振動の影響ではないことが分かる。地球の回転や振幅に最も短周期で影響を与えるのは、地震とそれに伴う津波などの震動であり、次いで大気の振幅……要するに低気圧・高気圧の波、ロスビー波に代表される惑星の大気大循環および海洋振動である。地震の影響は数分から精々数日まで、気圧変化も数日、大気大循環に至っては年単位のものまであるが、今回のデータからは数時間単位の変動が見て取れる。この周期に該当するのは地震しかないのだが、地震による変化は測地屋さんが最も注視している部分だから、自動でデータをはじく処理が行われている……って、よく知っているかのように述べているが、全てはたずね歩いた測地屋さんからの受け売りだ。

余談だが、測地屋さんとの会話で混乱したのが〈重力波〉という用語。彼らにとって〈重力波〉とは、地球の重力を復元力として振動する波のことで、ぶっちゃけ、水面に小石を投げて出来る波も〈重力波〉である。〈内部重力波〉とか言う用語も出てきて、『重力波に内部も外部もあるか!』とかツッコミを入れるとこだったが、誤解が解けてみれば何のことは無い。ただ、この用語の混乱の所為せいで、測地屋さんとの会話の冒頭10分はコイツの説明についやされることになった。

で、今回の衛星間の振動は、この地震波除去の自動処理によって消されたのだろう。だが、詳しく見ていくと、これを再現できる地震は起きていないことが分かる。測地屋さんには未確認アンノーンな事象で、単なる機器のノイズにしか見えなかったのだろうが、この問題に数ヶ月取り組んできた俺としては、このデータは宝の山に見えた。

そういう目で見ていくと、色んなものが見えてくるから面白い。当初、異常な螺旋格子の近傍を回る衛星のみが影響を受けたと考えたが、実はかなり広範囲に影響が及んでいることが分かった。マクシュートフは、重力波が発生した当日の全測地衛星のデータを提供してくれたので、三次元的な解析も可能となり、ノイズに埋もれたお宝の形が浮かび上がってきたのだ。このデータを初期値として逐次反復すれば、完璧な軌道が分かるかも知れない。そのためには、何とかして〈佐藤スキーム〉を組み込まねば……。


目標が明確になると俄然がぜんやる気が出てくるもので、〈金魚鉢〉にこもる日が多くなった矢先である。

「先、越されましたねぇ!」

関山がいつもの調子で、NASAの技術論文サーバNTRSから取ってきたと思われる数ページの論文を持ってきた。それは『ミニ・ブラックホールが地球に急接近か?』というベタなタイトルで、主旨としては正に、俺が追い求めていた〈ゴースト〉の正体に迫るものだった。彼らは地球の測地観測ではなく、月の観測に着目していた。

NASAは30年代に月面基地を構築した後、月面のあらゆる場所に様々な機器を展開していったのはご存知の通り。独断で展開しているということで、月面の植民地化だの色々と騒動の種になっているのだが、それはひとまず置いといて、そのひとつにデイジー計画という名前で展開された機器がある。簡単に言えば、地球から見た月のふちの部分に、巨大な再帰反射体コーナーキューブミラーを12台、均等に設置し、地球–月間で大規模なレーザー干渉計を構築したものだ。月の公転と地球の自転の周期が一致しているからこそできる技だが、実際は月の軌道が楕円で、かつ、地球の公転角に対して5度も傾いているから、月はフラフラと秤動しょうどうする。だから、正確に淵の部分に設置したら、鏡が見え隠れして都合が悪い。これを見越して、鏡は淵より少し内側に設置してある。ヒナ菊デイジーの花びらと言うより、時計の文字盤に近い。ちょうど12個あるしな……。

もっとも、初期計画ではもっと沢山の鏡を置く予定だったのが、財政難で計画が途中で頓挫とんざした……とも聞いた。

NASAの論文は、この鏡を使って月の振動を徹底的に調べたものだった。もちろん、秤動しょうどうによる揺れは桁違いに大きいが、コイツはいつものことだから調べ尽くされている。また、月震と呼ばれる潮汐力や隕石の衝突による月の地震も、波形が独特だからすぐに判別可能だ。これらを除いたものの中で、機器のエラーとは思えないものを丹念に洗い出せば、他の天体の重力による影響が分かってくる。要するに、これは、月という巨大な球体を用いた、球形共振型重力波望遠鏡そのものになり得るわけだ。解析に使われたデータの多くは公開されているものだし、手法にさえ気付けば誰でも発表できる代物だった。なおかつ、月は地球と違って既に〝死んでいる〟から意味不明な振動はきわめて少ないし、人工的な振動源も限られている。なるほど、敵ながらアッパレだ。敵じゃないけど……。

ただ、この解析には1つだけ難点があった。解析が2次元的なのである。月は3次元だが、デイジー計画の鏡の展開が2次元だから仕方が無い。このため、〈ゴースト〉が地球と月の直線上の近くを通った期間の位置と軌跡については詳細なのだが、その前後に曖昧あいまいさが残っていて、地上の重力波望遠鏡で得られたデータを元に補間している。彼らの最終的な結論は、〈ゴースト〉は銀径120度から銀河北極へ至り、そのまま反対へ双曲線軌道で抜けていったミニ・ブラックホールだとしている。最接近が銀河北極周辺であるから、髪の毛座方向であることは間違いない。

質量は『月質量の80分の1よりは大きい』とあるが、ある意味それは当然のことだ。相手がブラックホールならば必ずホーキング放射を出す。この放射が地球周辺で観測にかからない程度の温度でなければならないから、下限がこの程度とならざるを得ない。

不思議なのは、質量上限の記述が無いということだ。NASAはブラックホールだけでなく、白色矮星や中性子星など、他のコンパクト星の可能性も検討した筈だ。星の温度にもよるが、他の光学系観測網に全く引っかからなかったということが、逆に条件となり、星の大きさの上限が決まる。もしかすると観測の網を逃れた可能性も否定できないが、NASA自身が運営している地球接近天体計画局NEOP Officeのメンツってものがあるから、データ抜けが万が一あったとしても公表しないだろう。緻密ちみつな計算の割には、どうも最後の詰めが中途半端な印象を受ける。NASA単独でデータをかこっておけるのならば、キッチリとした論文が出るまでデータを公表するのだろうが、国際的にデータを解放している手前、そうもいかないのだろうと推測される。

まあ、色々と気がかりな点はあれど、結局のところは『先を越された』という関山の指摘は正しい。ケチを付けたところで、負け犬の遠吠えに聞こえるだけだ。普通なら、今日はやけ酒でも飲んで早々に寝てしまうか……と思うところだが、〈ゴースト〉の特定は共同研究の一環なので、駄目だったからといって次のテーマに切り替えるわけにはいかない。少なくとも、このNASAの論文の軌道が正しいかどうかの検証を行い、ヒカルに報告する義務がある。

ヒカルは、『アメリカかヨーロッパのグループの方が先に〈ゴースト〉を突き止めるだろう』と俺が言ったとき、『それでは間に合わない』と不機嫌そうに言っていた。何か、彼らより先に突き止めなければならない理由があるのだろう。それは俺だって同じだ。

まあ、アメリカが本当に正しい結論を導きだしたかどうかは、〈ゴースト〉を直接観測するまでは分からない。まだ決着はついていない。


「そう言えば……」

唐突に思い出した。確か、アメリカLISA−NETの観測スケジュールに〈ゴースト〉探査ミッションが組まれていた筈だ。あせって検索すると期日は二週間後にまで迫っている。さらに、そのミッションは、当初の髪の毛座方向から、NASAの論文で計算された、二週間後の飛翔ひしょう先に観測方向が修正されている。この観測で何らかの痕跡が発見されれば、〈ゴースト〉はゴーストで無くなる。そして、それは、本当に我々の負けを意味することになる。

もっとも、『髪の毛座方向』ということを最初に述べたのは、俺とマクシュートフなのだが、それをもって、第一発見者とは言い難い。未だに各国が〈ゴースト〉をという状況を考えればわかる。これでは、ファインダーとしての〈オルガン〉の役割が全うしたとは言い難い。ヒカル以上に、俺は焦燥しょうそう感を強めていた。

……といっても、〈オルガン〉のデータをあまり使っていないんだよなぁ。今回の場合。


ぶつぶつと文句を言っていてもしょうがない。抜かれそうになったら抜き返すしかない。未だにDDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータライブラリ上に、天体として登録されていない〈ゴースト〉なのだから、決着がついていないのは事実。まだチャンスはある。

翌日から、〈佐藤スキーム〉の組み込みを急ピッチで進めた。とは言っても、作業は俺一人なのだし、1世代走らせてみては、前回のものと違いをさぐるという、とても地味な作業の繰り返しで、計算中は何もすることがない。〈金魚鉢〉の中は飲食禁止だから、コーヒーも飲めないし。かといって、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉まで、常駐ソフトデーモンの呼び出しがあるまで往復するのも面倒だ。ジッと待っている時間は長いが、ゆっくりくつろげるほどの時間はない。だからと言って、待っている時間にあれこれアルゴリズムの改良を考えても、大抵は〝余計な考え〟になるだけで、ろくな事が無いのが相場だ。

こういう時間には、現場を離れず……だからと言って、いま走らせているプログラムの結果がどうなるかという推測はしないようにして、何か別な……かといって、全く無関係ではない作業をするのがいい。例えば、これまで作ったデータの整理とか、作ったプログラムの動作マニュアルの作成とか……。

マニュアル作成と言っても、プログラムをに引き継ぐつもりはない。数ヶ月もたてばが赤の他人になるのである。その時に浮かんだアイデアとかアルゴリズムはもちろんのこと、自分で作ったツールの使い方すら奇麗サッパリ忘れているものである。〈BAR〉のヤツラならそんなことはないのだろうが、俺は俺自身の凡庸ぼんようさをイヤと言うほど知っている。

その昔、自分が作ったプログラムを『何でこんなにややこしいことをしているんだ。今の俺ならもっと簡単に組める』とエレガントに組み直したら、あちこちでエラーやらオーバーフローを起こし、苦労して修正したら、何の事はない、最初のプログラムとほとんど同じになってしまって、『苦労したんだ、昔の自分……』と感慨かんがいひたったりすることがある。要するに、途中の経過を忘れていて、全く同じ過程を踏まねば、当時の自分のレベルにまでい上がれないのだ。

おそらく、今回の解析で9世代目でプログラムが落ちた理由なんてのも、3ヶ月もしないうちに忘れるに違いない。今、記述しておかないと、同じような局面に遭遇した時、同じてつを踏み、同じように落っこちてアタフタする自分の姿が手に取るようにわかる。そしてまた、同じ解決法を〝再発見〟する。この過程は非常に疲れるだけでなく、再発見に至るまでの時間は明らかに無駄なので、作業内容を自分が全て把握しているうちに文書化しておくことが必要だ。これは、凡庸たる俺が身につけた知恵である。

そういうわけで、ジョブを走らせている合間に、いそいそとデータの整理をしていると、見知らぬフォルダを見つけた。他人がアクセスできる領域ではないので、俺が作成したものには違いないが、ほとんど……いや、全く記憶が無かった。やっぱり、そういうものが出てきたか……という感じ。フォルダの中には、何やら作りかけのパッチが沢山あり、不思議なことにバージョンが少し古いと思われる〈佐藤スキーム〉もそこに入っている。日付を見ると3ヶ月ちょい前だ。そういえば、具さんが『以前渡した』と言ってた気がする。しかし、〈佐藤スキーム〉が必要となったのは、地球をかすめるブラックホールの可能性を調べるためのものだから、精々十日程前の筈だ。何故、これがここにあるのか。そもそも、どこから手に入れたのか……おそらく、具さん経由だろうが……。

少し気がかりだったが、とりあえず、経緯の詮索は後回しだ。パッチ類の中に、今回の解析に有用なものが無いかを探した。自分で言うのも何だが、あちこちから切り貼りして作られたものらしく、必要の無いライブラリやら、無駄なループが随所にあって読みづらい。後から何かをそこに組み込もうとしたと思われる、エンターが押されただけの無用な空白行もある。かなり慌てて作った……そんな感じだ。それなのに覚えていないというのは奇妙だが、まあ、今の現状も似たようなものだ。二週間以内にこのプログラムを完成させ、LISA−NETが動き出す前に何らかの結論を出さなければならない。シミュレーションに2日、公表……というか、ためには1日かかるとして、実質の開発期間は10日程度しかないことになる。

役立ちそうなものはほとんど見つから無かったが、〈ゴースト〉の軌跡を描画するための〝お絵描きソフト〟が見つかった。これを使って描いたと思われるデータもあり、髪の毛座方向を通過する〈ゴースト〉と共に、地球近傍を通過する〈ゴースト〉の軌跡の例も数枚見つかった。だが、これはおかしい。宇宙シミュレータでの計算は、ヒカルに32ノードを貸してもらうまでは4ノードのみの計算であったから、それほど多くの事例を見ていたわけではない。さらに、地球近傍を通過するパターンに注目したのは、ヒカルが『こっちが本物!』と言った後だ。いくら、もの忘れが激しい俺だからと言って、そういう、作業のトリガーとなる事実まで忘れやしない。忘れるのは、作業の過程だ。


これは本当になのだろうか?


        *  *  *


〈佐藤スキーム〉の完全な組み込みは、結局のところ、それから8日もかかった。ひと山超えた感はあるが、全体のチューニングはこれからなので、もうひと頑張りである。

プログラムの設計思想が違う部分は、どちらかをどちらかに合わせてソースを書き直すには、開発期間が短過ぎた。少なくとも、俺の能力では無理だ。妥協案として、全種類の中間コードを吐かせて、テーブルとして準備しておき、呼び出しがある毎にそれらのチョイスをするフロントエンドを書くことで解決した。個人的な美意識からすると、この改修は非常に汚い部類に入る。問題を解決する為に、別の問題の温床おんしょうになるものを付加して、ドンドン大きくなるシステムというのは、いずれ破綻はたんするのが目に見えている。『いつかホレボレするようなソースをちゃんと書いてやる』と思っているが、それが叶うことは、これまでもほとんど無かったし、これからもないだろう。それが出来るのは、〆切が無く、時間を自由に使えるご隠居の身分になってからだと思うが、ご隠居になってまで、こんなことはしたくないものだし、3ヶ月で忘れてしまうような複雑な作業を、どうやって、ご隠居になってから思い出せというのか?

そんなわけで、プログラムを書く作業はいつも暫定ざんてい版で終わり、完成はしない。科学の分野に完成という概念がない以上、それはそれで真理なのかもしれないが……。

9日目……正確には10日目の未明には『逐次同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』改め、『不等間隔格子逐次折り畳み同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』が完成した。幸か不幸か、宇宙シミュレータは24時間営業で、夜間にもそこそこ人がいる。どらちかというと、徹夜でコードを書く人の方が多いくらいだ。

それにしても、このプログラムは当初の形がどんなものなのかも分からない程、改造している。最初は単純にナッジング処理した『重力波源探索逆解析プログラム』だったのに、計算機が早くなったからと並列動作のアンサンブルを付け、少ない観測でも精度が上がるようにカルマンフィルタによる同化を組み込み、更なる高速化で『逐次』を付け、そして、今回の改修である。初期のころは、『アンサンブルで、同化がナッジング』ということで、〈アン同ナツ〉というオヤジギャグ的愛称を付けていたのだが、ここまでくると、『寿限無、寿限無……』と同じで、『あの長い名前のヤツ』で通ってしまう。名は体を表す。付け足し、付け足しの開発作業が見事に具現化ぐげんかされている。今回さらに名前が伸びたが、これに気付くやからはいまい。

折角せっかくだから、ここで略称を募集する。〈アン同ナッツー〉とか、安易過ぎる名前はボツな。笑えるヤツをひとつ頼む。


宇宙シミュレータでの連続計算は、プログラムの完成直後から流した。徹夜明けで、まぶたをピクピクさせながらの投入サブミット。携帯のアラームは、今まで通り常駐ソフトデーモン経由で世代毎の計算が終わるたびに鳴らしており、追加でスタック領域のモニターが出来るようにした。モニターしようがしまいが、落ちるときは落ちる。それは分かっているが、最低でも9世代以上はクリアしてもらわねば困る。それまでは〈金魚鉢〉で待っていようかとも思ったが、さすがに体力的に限界だった。十代の頃ならいざ知らず、ほぼ2日の徹夜は、三十歳を前にした体ではキツい。それに、おそらく、ジョブが途中で落ちたとしても、今の状態でプログラムを書き換えたら、イージーミス連発で、逆に後始末が大変のような気がする。今日はおとなしく帰ることにしよう。

宇宙シミュレータから無人搬送車タクシーに乗り、横浜駅から早朝のリニアに乗る。明け方は意外な程涼しく、普通ならさわやかないい天気……と思うトコなのだろうが、そんな感情は全く湧かない。途中、ウトウトしているところを携帯のアラームで起こされ、心臓が止まるかと思う程、ビックリする。ちなみに、座席はちらほら空いていたが、座ると絶対に眠りこけてしまい、下手をすると仙台あたりで起きるなんてことになりかねないから、つり革に手を突っ込んで立っている。

アラームの主は、1世代目が正常に終了したとの常駐ソフトデーモンからの報告で一安心。だが、計算時間は微妙に長い。これは、気のせいではなく、〈佐藤スキーム〉の組み込みが雑で、余計なオーバーヘッドが発生していることと、NASAの論文で書かれたデイジー計画の軌道データも、品質に関する重み情報を付けて、初期値データに追加したからだ。逆に、微増で済んでいるのは、並列処理が増えても屁とも思わない〈那由他モジュール〉のお陰であると言える。

重力研に電話連絡して、休みをもらおうと思っていたが、研究都市についた時がちょうどいつもの出勤時間で、俺はパブロフの犬のように、ついつい、ゲートを通って、地下千メートルの〈オルガン〉に向かう斜行エレベータに乗っていた。習慣とは恐ろしいものだ。

早速、スタック領域のモニターを、ここの端末上で表示させて経過をみる。既に3世代目が終わっていた。順調だ。初期段階の超光速エラーも起きていない。携帯のアラーム機能を端末に引き継ぎ、世代毎に鳴るアラームを画面のポップアップへと変更リダイレクトした。画面を横目で見れば確認できるのだから、異常終了アベンド以外のアラームは必要ないだろう。次の山場は、おそらく、8から9世代目だ。時間的には午後のコーヒータイム頃だから、それまでアラームが鳴らなければ、第二段階はクリアだ。

……そう思いながら、俺はいつものソファに腰掛けた……までは覚えている。数秒で、俺は深い眠りに落ちた。


        *  *  *


──奇妙な夢だった。

あたりは薄暗く、蒸し暑い。周囲は岩場だらけで足音が反響している。そこは直径数メートルのトンネルで、ライトも何も無かった。正確には、ライトが付いていたであろうソケットとか配線のたぐいはあちこちに合ったが、とても電気が生きているとは思えない有様で、例えどこかにスイッチがあったとしても、何の反応もしないだろうことは保証できる。そういう状態だった。俺はそこを、肩に付けたライトひとつで歩いている。──何をしているんだ、俺は?

数百メートル歩いたところだろうか? そのトンネルの終点には、巨大な円筒状の機械のかたまりが眠っていた。瓦礫がれきに埋まり、ところどころさびが浮いたそれは、かなり昔に放棄されたと思われる機械だったが、かすかに油の匂いがした。モザイク状になっている円筒の淵に手をかけ、手慣れた具合で登って行く。──何のために?

全体の3分の2ほど登ったところだろうか。機械と岩場の間に、人がようやく立って通れるくらいの隙間が空いている。体を滑り込ませるようにその隙間に降り立ち、機械の側面に手を添えながら奥へ奥へと歩いて行く。隙間の向こうからは、かすかに風が吹いているようで、どこか広いところに繋がっているのだろうことが分かる。よく見ると、足場は踏み固められているようで、何度か人が通った形跡があった。だが、どう考えても、通勤用の通路じゃないな。

機械の側面も錆が浮いているが、かなり頑丈そうで、少々叩いたくらいではびくともしない。それどころか手で叩いたくらいでは全く音も振動もない。コイツも、手垢てあかとまではいかないが、胸元程度の高さの部分は土が付着しておらず、人が触った形跡が残っている。背中側のトンネル側面には、コンクリートの破片らしきものがところどころにあるが、ほとんどがき出しの岩盤であった。補強も何もなさそうなので、崩れたらひとたまりも無さそうだ。助けを呼んでも、誰も来ないだろうし……。

狭い空間を20メートルくらい横歩きで歩くと、次第に足音の響き方が変わってくる。やはり、どこか広いところに繋がっているらしい……と思った矢先に行き止まり。だが俺は、躊躇ちゅうちょなく機械のわずかな凸凹に手をかけ、上に登って行く。見上げると確かに穴が空いていて、どこかに出られそうな気配である。──何処に出る?

不思議なことに、落っこちたらどうしようとか、そういう恐怖感は全く感じない。〈オルガン〉の頂上にも登れない俺がである。もちろん、あっちは15mもの垂直な円筒だから、高々数メートル程度のロック……いや、マシン・クライミングと比べられるものではないが……。

歩数にして十数歩。ようやく、トンネルというか立坑たてこうというか、そこを登り切る。出たところは、やはり真っ暗だがトンネルではなく、テニスコート4面は取れそうな、だだっ広い空間である。壁面は様々な重機で削られたと見られる跡が残っており、実際、その部品と思われる金属塊があちこちに散らばっていた。遠くの方にかすかな明かりが見える。自然光ではなく、何か青白っぽい、人工的な光だ。俺は足元を確かめながらそっちに歩き出す。汗を拭いながら歩き続けると、青白い光は次第に近くなり、何か字が書いてあるのがおぼろげながら分かる。そいつは……


        *  *  *


「遅刻だ!」

俺は跳ね起きた。……が、遅刻も何も、ここは〈オルガン〉の横のソファだ。遅刻というのも社会人としては問題だが、仕事中寝ているのも大きな問題だと思うぞ。やっぱり、四の五の言わずに年休を取った方がよかったな。

俺が起きた理由は簡単だ。チャイムが鳴ったのだ。最初は、異常終了アベンドのアラームかと思い、端末をにらめ付けたが、ディスプレイは涼しい顔をしてスタック情報を流し続けている。5世代目に突入。今のところ、ディスプレイを見る限り、特に目立った変化は無い。変化があったなら逆に困る。計算時間は予想より少々遅い印象だが、午前中のジョブ投入が増えて、そっちに計算機資源が喰われているだけだろう。出勤直後の人間による作業と、朝9時過ぎに増える常駐ソフトデーモンによるジョブ投入が重なる時、宇宙シミュレータの稼働率が増えるのは周知の事実である。負荷が増えると分かっているならば、投入時刻を分散させればいいと思うかもしれないが、世界中のあらゆる観測は、世界標準時UTCで行われるから、9時間ズレている日本標準時JSTを考えると、どうしてもこの時刻に集中してしまうのである。文句があるなら、最初の基準となったグリニッジに言ってほしい。

明るく鳴ったチャイムは正午を知らせるもので、その音を聞いた途端とたんに腹が減ってきた。そういえば、朝飯は食べておらず、昨日の夕食に〈リストランテ・スパティオ〉であさりのペペロンチーノを食べて以来、固形物は食べていない。冷凍ハンバーガーなら、冷蔵庫に売る程入っているが、たまにはまともなものを食べてやらないと、体がまいってしまう。そうでなくともここのところハードなのだ。幸いなことに、数時間の睡眠が効いて、疲れはかなり取れてスッキリしている。変な夢の所為せいで寝起きは最悪だが、夢を見ていたということは、その間、体が休んでいたということの裏返しでもある。

久しぶりに、素粒子研で飯を食うか。ヒカルに会ってからというもの、これまでとは逆で、仕事で出入りすることが多くなり、飯を食いに行くことが無くなってしまった。ついでに、ヒカルに近況報告でもするかなと考えたが、今走っているジョブの結果が出てからでも遅くはあるまい。プログラム改良の苦労話を延々と聞かされてもつまらないだろうし、ヒカルとの共同研究で必要となるのは、ブラックホールの正確な軌道だから、それについては、前回の説明から何の進展も無いことになる。そいつを聞かされる羽目になるヒカルのイライラした顔が目に浮かぶようだ。明日の今頃なら、良くも悪くも結論が出ているだろうから、明後日には説明できる。今のうちにアポだけ取っておくことにしよう。


運河のような道を渡りきり、素粒子研の本館の右奥、レストラン〈ニュートラリーノ〉に入る。洋風な名前とは裏腹に、カツ丼とか、ざるそばとか、和物も結構ある。まあ、レストランというより食堂である。もちろん、セルフ。時間が時間だけに、中はかなり込んでいた。日替わりランチ──ポークソテーとポテトサラダ──を選び、お盆を持って並ぶ。実は、配膳係で最近入った女の子が結構カワイイ。……と言っても、衛生管理のため、鼻まで隠れる巨大なマスクを付けているから、つぶらな瞳と声しか分からないのだけどな。

ランチを載っけてもらい、スプーンを取り、セルフのお茶を注いで、窓際の適当な席を見つける。

「ふぅー」

自然と大きなため息が出る。まともな時間にまともな食事をしたのは久しぶりな気がする。共同研究が始まってから……というより、ヒカルに出会ってからまだ1ヶ月ほどだが、何故か遠い昔のようだ。

4ヶ月近く前に〈ゴースト〉が現れ、1ヶ月半前に、ピンボケながら、そいつ位置を示した論文が受理された。ひとまず、ウチの〈オルガン〉役目は半分は果たせたことになる。そして、SQUIDの冷却ポンプのメンテだとか、近所を通るタンクローリーの振動ノイズと宇宙の深淵から来る重力波の高調波成分の分離手法の開発だとか、いつ果てるとも分からない……いや、科学が発展する限り永遠に無くならないであろう重要な……だが落ち拾い的に地味で面倒な仕事に戻りつつあった時に、あの事件。そして、ヒカルが訪ねてきた。その後は、知っての通り、〈ゴースト〉の位置&軌道確定のためのデータ解析ばかりしている。今更だが、俺は、この解析作業というのが苦手だ。苦手というか、しょうに合わん。

俺は自分のことを、根っからの観測屋だと思っている。観測機器を使い、必要とあれば自分で設計して手作りで機器を追加し、重力波源を突き止める。この現場感というのが好きだ。やはり観測屋は観測してナンボだ。

宇宙シミュレータを使っての仕事も、結局は、〈ゴースト〉の位置を知るためにしているのであって、シミュレーションやその手法の開発が目的ではない。これはあくまで手段なのだ。狩人がライフルの手入れをするようなもので、製造メーカーの職人がライフルを作るのとはこころざしが違う。それでも、ライフル銃身じゅうしんの手入れとかならヤル気も出るが、今の仕事は、ライフルの照準に、手ぶれ補正だとか、組み込みスタビライザーとかを開発しているようなもので、何か違う。狩人なら狩人らしく、自分の腕をみがくべきだ。そうすりゃ、そんな自動化装置が無くても当たる。

……と、自分には言い聞かせるが、最新の機器を力技ちからわざでブン回すLISA−NETの研究者を見ていると、これに太刀打ちできるのは、日本のお家芸のシミュレーション分野くらいのものかも知れないと、ふと落ち込むことがある。


シミュレーションで重力波源の位置を求めていて落ち込むのには、さらにもう1つ原因があって、昔の物理学者の言葉を借りると、『数値的解法なんてごまかしだ!』という感覚が、俺のどこかにあるからだと思う。逆に言えば『おとこなら解析的に解け!』ということだ。いや、そういう言い方をするとコワレフスカヤ女史に怒られそうだが……。

もちろん、解析的に解けないからシミュレーションをするのであって、何も後ろめたいことはない筈だが、いつも、『何かもっと目も覚めるようなエレガントな解法がある筈だ』と邪推じゃすいしてしまうのである。シミュレーションは正にステップ・バイ・ステップで泥臭い。簡単なことを途方も無い手順で解く。もしかすると、この世の構造がそうなっているから、必然的にこの手法が正しく、エレガントな解法など何処にも無いのかもしれない。それならそうと、ちゃんと神様にその理屈を教えてもらいたい。俺は、常々そう思っていた。

だが、ヒカルから借りることができた〈那由他モジュール〉は、〝神様の手法〟を少しだけ垣間見させてくれた気がする。〈那由他モジュール〉はデータを個別に処理しない。全てを重ね合わせて丸呑みし、最適解を出す。これまでと同じように、0と1に分けて取り出すことも出来るが、マイナス1とプラス1に分離することもできる。切り分け方は後から任意にできる。こちらが見たい形で取り出せば、その形で出力する。だが、それは、から、というだけで、解がそれに決まったわけじゃない。

例えば、大きな平面を正三角形で隙間無く埋め尽くすことはできる。正方形でも可能だ。五角形は無理だが、六角形でもできる。ペンローズタイルで埋め尽くすことも可能だ。だからといって、『平面は、正三角形の集合体である』という結論はおかしい。『いやいや、平面は、正方形の集合体だ!』という反論は、さらに的外れだ。平面は平面だ。それと同じように、量子は量子なのだ。粒子になったり、波動になったりしているのではない。粒子の性質と波動の性質を併せ持つのでもない。量子は量子なのだ。

……俺のではこのヘンが限界だ。こんな禅問答みたいな結論が『エレガントな解法』であってたまるか!


日替わりランチを食べ終わり、エントランスに出る。例のエレベータの前で、しばし逡巡しゅんじゅん。コイツには静脈認証システムがあるんだから、出入りするには登録作業が必要になる。だが、俺はそんなことをした記憶が無い。じゃあ、何故ここから出てこられたのだろうか? それとも、記憶そのものが、おかしいのか?

もしも、俺の記憶がどこか狂っているとしたならば、他の人々がそれに気づかない筈はない。数時間程度の記憶喪失を除き、おれの記憶に曖昧なところは無い。……無いと思う。知り合いから、『お前、何か変だ』と言われたこともない……いや、具さんには『3ヶ月前に〈佐藤スキーム〉を渡した』と言われ、実際に〈佐藤スキーム〉の旧バージョンが、俺の管理しているファイルから見つかった。忘れていたと言うのも確かにへんな話だが、所長や関山、マクシュートフや、他の同僚から何か言われたことは無い。


ただ、今にして思えば、一番おかしな言動をしているのはヒカルだ。ヒカルは、俺の記憶の欠落直後、突如として現れた人物だ。さらに、俺がまともだと自覚している過去のことまで『記憶はあるか?』と聞いてきたのだ。出会いがあまりに衝撃的だったので、気が動転していたが、あの言葉にはどういう意味があるのだろうか?

疑念はドンドンと膨らむ。だが、ヒカルが一方的に何か嘘をついているのではない筈だ。俺の記憶に無い共同研究の話を、所長は知っていたのだから、俺の記憶の何処どこかがおかしいことは間違いない……。何か混乱してきた。

ここから、量子コヒーレンス研究室まで歩いて、ヒカルの肩を揺さぶり問いただしたい気持ちに駆られたが、その前に、俺も自分で確かめてみたいことがある。どのみち明後日にはアポを取り付けてあるから急ぐ必要はあるまい。それに、軌道計算のジョブがどうなったかも気になる……って、それが今一番重要な課題じゃないか。ジョブの確認は、携帯ではなく地下の端末に移してしまったから、ひょっとすると、今頃、向こうで派手にアラームが鳴っているかも知れない。

俺は急いで戻ることにした。全てはこの計算結果が出てからだ。


端末は7世代目に入ったことを告げていた。スタック領域の使用量は増えていたが、劇的に増えそうな予兆はない。さすがに何度も見ているだけあって、このヘンの感覚は肌で読み取れるようになった。何の変哲も無い数字の羅列だが、異常終了アベンドした時の状況とは明らかに違う。これは期待できそうだ。もっとも、『そうあってくれ』という願望……正常化バイアスってヤツが働いている感もいなめないが……。

俺は気を紛らわせるために、今回の解析結果のプレプリントを書くことにした。同業者カリーグに言いふらすためのものだ。結論コンクルージョンは書けないが、導入部分イントロダクション解析手法メソッドくらいは簡単にまとめることができる。いつものことだが、謝辞アクノレッジメントは色々と多いよな。

プレプリントの骨子は数時間もしないうちに書けた。小難しい解析手法の部分……例えば〈佐藤スキーム〉とかは具さんからもらった論文を引用文献リファレンスに載せればいいし、〈那由他モジュール〉の概要もリンクを張ればいい。結局のところ、俺がやった作業というのは、これらを継ぎはぎしただけで、何にも頭を使っていないなぁって感じ。まあ、俺は観測屋だから、基本的に重力波源の位置と、今回は太陽系内を通過したらしいブラックホールの軌道を的確に示せれば何も問題ない。解析手法は手段に過ぎないのだ……と自分に言い聞かせる。

問題は、ヒカルとの共同研究の件をどう盛り込むかだ。このプレプリントは、これはこれで閉じている仕事なので、共著者を誰にするかという問題は別にして、ヒカルとの共同研究とは切り離して、別枠で投稿しても何ら問題はないだろう。もちろん、事前にヒカルに了解を得る必要はある。

ヒカルが最終的に書こうとしている論文は、どういう形のものか、俺の今回の研究がどのように紹介されるのかがよく分かっていない。俺はヒカルに〝実験場〟を提供しただけという形になるのだろうか? それだけならヒカルの書いた論文の引用文献リファレンスに、今書いているこのプレプリントが載るだけなので、俺としては、プレプリントの最後に、謝辞アクノレッジメントとしてヒカルの名前を載せればいいだけのことだ。このあたりの相談もしなければならない。論文をまとめるのは結構好きなのだが、このヘンの調整って面倒なんだよな。


ハッと気づいて時計に目をやると15時過ぎ。端末の右隅に小さく表示した世代表示は8世代目の終了まじかだった。異常はない。異常はないが、お尻のあたりがムズムズしてくる。駄目だ。こうしちゃいられない。

今日は明け方まで、〈金魚鉢〉にこもっていたこともあり、アラームが鳴らない限り、もうあっちに行く予定はなかったのだが、とてもジッとしていられない精神状態だった。武田信玄みたいな指揮官には絶対なれないタイプだ。動き回ること野ネズミの如し。

9世代目の開始を待たずに、俺は重力研を飛び出した。リニアに乗ってから『しまった!』と思ったのだが、携帯にアラーム処理を変更リダイレクトするのを忘れていた。これでは、向こうに到着するまで状況が分からない。肝心なところが抜けているな俺って……。一応、重力研の端末には携帯からアクセスできるから、そこからログインして切り替えてもいいんだが……やり方忘れた。

宇宙シミュレータに到着し、引きつった顔を見せながら、守衛さんに挨拶して手続きをする。こういう〝如何いかにも焦ってます〟的な状態のときに入れてもらえないのかと思ったら、あっさり通過。急いで、3階行きのエスカレータに乗り、駆け足で〈金魚鉢〉へ。適当に空いている端末席に座り、IDカードと〈那由他モジュール〉萌え萌えカードをスキャン。手間、多すぎ。

「お帰りなさいませ。ご主人様!」

の声に、

「おぅ。帰ってきたぜ!」

と独り言。すっかり慣れてきてるジャン、俺。横浜だからって〝ジャン〟は余計か。新規ウインドウを開いて、プロセス・コマンドから情報を……。


一気に気が抜けた。ジョブは何事も無かったかのように10世代目に突入していた。異常終了アベンドもオーバーフローも、スタック領域の食いつぶしもない。極めて正常。正常過ぎて逆に不安になるくらい。しばらく机に突っ伏していたが、調べるべきことは、正常にジョブが走っている……ということじゃないことに気づく。そうだ、〈ゴースト〉だ。〈ゴースト〉の位置と軌道がちゃんと計算できているかだ。

コンソールを叩いて9世代目のデータを表示させる。表示には、過去に俺が作った……らしいお絵描きソフトを使用。以前、異常終了アベンドした9世代目のデータとの差分を表示させると、見事にブラックホールの軌跡が浮かび上がる。その部分の結果だけが違うということだ。地球に最接近した時間軸で表示を止め、集中的に拡大する。螺旋格子のその向こう。前回は分からなかった部分を広げていく。が、何もない。まるでマンデルブロート集合のようにいくら広げても底が無いのだ。『分け入っても分け入っても黒い谷』なのである。最終的に9世代目の限界格子まで広げて止まる。だが、そこは底ではない。シャレじゃないぞ。この底はあくまで〝人間の都合〟で勝手に終わった格子の底であって、世代が続けばもっと細かく突き進むことができる筈だ。

俺は結局、〈金魚鉢〉に夜まで居るハメになった。どうしてもが見たかったからである。10世代目も11世代目も変化が無かった。単に谷が深くなって行くだけである。諦めて帰り支度を始めたのが17世代目で、22時を回った頃だ。

唐突だが、猿にキャベツを渡すどうするかご存知だろうか? 中に何か入っているかと、葉っぱをめくり続け、最終的に何も無いことに気づいて怒りだすのだ。今の俺は、全くもってその状況と酷似していた。ウキーッ。違いと言えば、怒るだけの気力が残っていないという点だろうか?

さらにもうひとつ。俺は別の重大な問題点に気づいていた。20時を回った頃、15世代目の計算を行っている時、『底が見えないということは、事象の地平線がまだ見えないということだよな?』と気付き、その時点の最小限界格子を地平線の大きさと仮定し、ブラックホール質量の最大値を計算させてみたのである。出た結論は、『月質量の200分の1以下』である。これだけ軽ければ、ブラックホールは相当。およそ、数百度というところだ。NASAの発表のとおり、これだけ熱い物体が、光学望遠鏡で捉えられていない筈はないのである。

ということは、この螺旋格子は、ブラックホールではない。キャベツと同じく、中には何も無く、計算機が人工的に生み出したまぼろし幻影げんえいと考えるのが妥当だ。ヒカルの直感も外れていたことになる。相手が〈ゴースト〉だけに、有りもしないものに振り回された。脱力。俺の今までの苦労を返せ!

事態はフリダシに戻った……かに見えた。具さんの見解を聞くまでは……。


        *  *  *


翌日出勤後、俺は〈BAR〉に居た。16世代までのデータが入ったメモリと一緒にである。昨日の帰りのリニアの中で、解析結果が徒労とろうだったという結論を出すのは早いと考えたからだ。

俺は重力波の観測については、自分で言うのもなんだがスペシャリストの一員だと思っている。波形を見れば、起こっている現象はある程度分かる。ただ、〈ゴースト〉は別だ。最初から海のものとも山のものとも分からん化け物だった。その〈ゴースト〉の一端を捉えたかに見えた解析結果は、キャベツのように、開けても開けても中身の無いものであったのだが、コイツの解釈は俺の手に余る。ここはやはり解析屋に見せるのが一番だろう。餅は餅屋だ。もしも、そこで『こんなのあり得ない』と言われれば、俺も諦めがつく。また別な手段を考えよう。もっとも、その時は、LISA−NETの観測に先を越されているに違いないが、それは仕方が無い。少なくともベストは尽くさねばならない。


「あれ? どうしたの? 例のヤツ、ちゃんと動いた?」

具さんはいつもの調子でニコニコと、しかしバリバリと仕事をこなしていた。サウイウ人ニ俺モナリタイ。

「まあ、なんとか。で、今日はその結果を見て欲しいんだけど……いいかな?」

「はいはい。じぇんじぇん大丈夫!」

具さんは手際がいい。俺がメモリを手渡すと、ウィルスチェックを早々に済ませ、ピアニストのような早さでキーを叩き、ディスプレイ上にウインドウの山を展開していく。俺は後ろで、お目当ての螺旋格子の説明をするが、それより早く手が動いている。何も言わなくても多分大丈夫なんだろうな。彼にとっては……。

「あー、これは……。郷田サン、ちょっと」

郷田と呼ばれた白髪まじりの……だが若そうな男は、頭を上げて厚そうな黒淵メガネをこちらに向けた。

「これは貴方の領分だ。ちょっと見てくれる?」

郷田は飄々ひょうひょうとした風体ふうていで近寄り、具さんが示したウインドウを見た。ほんの一瞬だったが、彼の判断は早かった。

裸の特異点ネイキッド シンギュラリティだね。ハイパー・フープ仮説からの逸脱いつだつはどのくらいのものかな?」

「うーん。逆解析してみないと分からない。元が楕円体なのは間違いないと思う」

「軸は……剪断せんだん面どこかな?」

「ほらここ」

「なるほど。弱重力型じゃなさそうだ。ブラック・リングのなりそこないかな」

「それから、この最深淵しんえんの部分、ループ量子重力の効果が見える」

「ほう、おもしろいね」


……置いてきぼりを食らった。彼らが話しているのは何語なんだ?

「えーっと。酒井さん?」

「え? はい」

郷田は、中指でメガネの中央を押さえながら、俺のネームプレートを見て問いかけてきた。

「この軌道だと、えーっと、回転軸が歳差しているから……ほら、ここ。この時系列で重力震が発生している筈なんだけど」

「!」

郷田の指先は、正に4ヶ月前を示していた。なんて言い方が解析屋らしい。郷田の話は半分も分からなかったが、比較的安定していた裸の特異点の周囲にあったガスか何かが、タイミングよく……というか悪くというか、一カ所に集中しすぎてループ量子重力効果で斥力が発生して四散。そのタイミングで重力震が発生したらしい。光学系の機器で何故測れていないのかの説明は全然分からなかったが、大型サブミリ波干渉計なら検出出来ているんじゃないかとのこと。ん……何だって?

「大型サブミリ波干渉計?」

アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計ALMAだったっけ? あのパラボラの大群……」

「郷田サン、それちょっと古い。今は、キロ平米配列電波望遠鏡SKA

「そうだっけ?」

パラボラ関係なら関山が知っているかな? 後で聞いてみることにしよう。だが、どっちにしても、話にはついて行けてない。


ただ、ひとつだけハッキリしたことがある。そのとやらが今回の重力波源だと言うことだ。そして、その位置と軌道は、ヒカルの直感の通り、太陽系内にあり、そいつを俺は突き止めた!


イケる。LISA−NETの観測が始まる前に、これを公表すれば、ファインダーとしての重力研の立場は安泰あんたいだ。〈オルガン〉の出番が少なかったのは少々残念だが、この解析結果の初期値に〈オルガン〉の観測データが入っているのはまぎれも無い事実だった。

俺は、その夜、なかなか寝付けなかった。プレプリントも荒削りだが9割方できた。こんなにワクワクしたのは久しぶりだ。これで明日は、でヒカルに説明ができる。どんなもんだ!


だが、翌日。このワクワクを吹き飛ばしたのは、誰あろうヒカルの不可解な言動だったのである。

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