第3章 タイムマシン

ガキの頃の話だ。俺は、星や宇宙が大好きな子供だった。ブラックホールとか超新星爆発とか、分かりもしないのに好きだった。だから、俺にとってのヒーローは、TVアニメとか戦隊ものの主人公ではなく、リアルに働いている科学者だった。今にして思えば、とても扱いにくいガキだったろうと思う。今更ながら先生どうもスミマセンと、お歳暮とかお中元とか、季節に関係なく配って歩きたくなるほどにだ。けれども、ガキだったから、科学のことなんて本当のところ、何も分かっていなかった。

今でも赤面するのは、小学校の頃のノートに俺が描いたブラックホールの漫画があって、それに何かをぶつけると、ブラックホールの一部が欠けたりする描写びょうしゃがあることだ。シュバルツシルト半径上には事象の地平面はあっても、そこまで物質が詰まっているわけではない。そこから、破片を取ってくることなど出来やしない。

タイムマシンがあったら、当時の俺にコンコンと説教をしてやりたい。いや、しなきゃならない。これは義務だ。俺にせられた義務だ……とすら思う。だが、一方で、もしそれが可能だったとしても、いくら正論を言って聞かせたとしても、ガキの俺は聞く耳を持たないだろうことは重々承知だ。ある意味、無知というのは強い。そこには思い込みしか無い。理論もへったくれもない。科学にあこがれていながら、俺は科学とは最も縁遠い妄想にしばられていた。


そんな中、俺の一番のヒーローだったのは、戦う物理学者……と形容していいだろう、当時の宇宙工学研究所の重力研究室所属、佐々木主任研究官だった。アインシュタインの最後の宿題と称される重力波検出フィーバーの中、佐々木はXYZ三軸全て同感度のスタンドアローン型重力波望遠鏡の建造を主張していた。地面に横たえる形の共振型重力波望遠鏡はあっても、垂直に吊り下げるものは存在していなかった。たとえ、それらが無かったとしても、国際協力によって、Z軸に相当するデータをもらえばいいじゃないか……というのが、大抵の〝お偉いさん〟の主張だった。当時に限らず今でもそうだが、基礎科学など、実利じつりに直接つながらない分野の研究予算は、国民的な〝ウケ〟が取れない分野から削られる傾向にある。そういう風潮・思想に佐々木は頑として立ち向かった。

3次元のデータは同一の原理で作動する機器、単独の制御装置によってその精度が保証される。コンパクトでスマート、精度的に優秀な機器を作るのは日本のお家芸ではないか。ならば、国家の威信を賭けででも、そういう装置を作るべきだと。

それから数年後、国産初の……いや、世界初の三軸共振型重力波望遠鏡は完成した。それまで存在しなかった垂直型の共振型重力波望遠鏡は佐々木自らの設計によるものだ。そして、その完成の年。重力波をともなう天体衝突は3例発生したが、その全てにおいて、真っ先に現象を捉え、該当天体を特定したのがこの望遠鏡だった。『重力波を捉えたら、位置はDr. SASAKIに聞け』というのが、世界各国の重力波研究者の合い言葉となった。そのうち、『次に何処どこで発生するかもDr. SASAKIに聞け』と、ジョークまじりに予言者扱いされるようになった。そうなると現金なもので、一般受けするセレモニーとセットで次々と予算が通るようになった。異なる振動数の重力波を捉えることができるようにと、多段式になったのもそういう経緯からである。


そんな佐々木にあこがれをいだいていたガキの頃の俺だったが、中学生のとき、彼のTVインタビューを聞いて、考えを改めることになった。佐々木が何か理学生向けの講演会を行ったときの様子を録画したニュース映像だったと思う。話の内容は全然分からなかったが、重力波望遠鏡のことのみならず、色々な苦労話をおもしろおかしく話した後、『皆さんは物理ファンになってはならない、物理屋になってもらいたい』と語ったのだ。それまでの俺は単なる物理ファンだったことに気づいた。科学者とかそういうのは憧れるものじゃない。なるものだ。

それから十数年後。重力研究室は重力研究所として独立し、佐々木は一線を退いて、所長となり、俺はそこで働く研究者となった。所長には『昔、憧れていました』などとは一切言っていない。『TVで見たことあります』程度は言っただろうか? 確か所長は『そうかぁ……』とか言って照れくさそうな顔をしていたように思う。


こんなことを言うと、夢が叶って順風満帆じゅんぷうまんぱんのように感じるかも知れない。だが、子供の頃に興奮して見ていた多段三軸共振型重力波望遠鏡の実物を目の前にし、俺は少しばかり憂鬱になっていた。

科学・技術分野の中で、十数年は長い。途方も無く長い。最新鋭の機器は2~3年で凡庸ぼんようとなり、5年で時代遅れとなり、10年を待たずに破棄対象となる。改良を加えるとはいえ、最新鋭機になるわけではない。十数年もたては何の取りも無い、維持費だけがかかるお荷物と化すのが普通だ。そして、俺も大人になっていた。子供のままであったなら、こんな古いものでも目を輝かして見ていたかもしれない。

考えてみて欲しい。例えば、アポロが未だに現役で人を宇宙に飛ばしているとしたら?

ENIACが今なお科学計算に現役で使われているとしたら?

子供の頃憧れたアイドルが十数年後、厚化粧で肩で息をし、現役で踊っていたとしたら? 

……そこで働きたい、あるいは直接会いたいと思うだろうか?


重力研の重力波望遠鏡は2年前、5年毎に行われる更新契約を打ち切られる公算が大だった。今となってはコイツの感度は、ちょっとした大学の学生実験で使われるモノより多少良い程度でしかなく、その割に図体もでかい。また、星々の衝突による重力波については、既にあらかたの研究が終わりつつあり、今は、銀河団同士の衝突や、宇宙背景重力波などの、より波長の長い……宇宙空間で展開されるレーザー干渉型でしか感知できない事象の研究が主流だ。すなわち、機械の寿命という観点からも、研究の目的の推移すいいという観点からも、コイツを現役として存続させる理由が立たないのである。

俺はその2年前、業務仕分けの税務監察官に対し契約更新の説明をするため、所長と共に霞ヶ関に出向いた。俺の役割は、現在の重力波望遠鏡の直接の担当者として、所長の話を技術的な面でサポートすることだったが、ほとんど出番はないだろうと考えていた。

俺自身、コイツは科学博物館に展示されることが望ましいとさえ思っていた。現役でさえ無ければ、俺は昔のキラキラした目でコイツをみる事ができる気がした。だから、契約は打ち切られて終わり。その方が良いだろうと……。


監察官はあからさまだった。

「既に役目は終わった」

「他機関も、このクラスの重力波望遠鏡は利用していない」

「これ以上、新しい発見が想定されるのか」

「費用対効果を考えろ」

……言いたい放題である。もちろん、こちらも想定問答は作っていて、それなりに答えは用意しているが、監察官の言葉の方が正論だと思える部分が多い。もしも俺がガキのままだったならムキになって反論しただろう。『だって、コイツ、カッコイイんだもん』……と。そいつは理屈なきワガママってもんだ。

それに、監察官はではない。どちらかというと同士だ。彼らは我々の主張を、政治家に対し〝専門家〟として伝えなければならない。要するに監察官は、我々が述べた言葉を〝武器〟にして、更に理不尽な相手を説得せねばならない立場にある。我々が監察官を納得させることが出来ないなら、彼らがその上を納得させられる訳が無い。


所長はあくまで柔和にゅうわに正面を。俺はその横で、手持ち資料に目を向けながら、ひたいで話を聞いていた。監察官は最後に同情を込めて、こう言った。

「昔は、この望遠鏡も巨大なものだったかもしれん。沢山の発見もした。それは認める。だが今は、小さい望遠鏡だ。そうだな……。ほら、あの天体望遠鏡の横に付いている小さい……」

「ファインダーですね」

所長は少し笑みを浮かべながら回答した。

「そう。その程度のものだ……」

俺は、その時、所長の横顔を見て息を呑んだ。顔は相変わらず柔和でおだやかだ。だが、眼光がんこうはガキの頃に見たあの戦う物理学者になっていた。

「確かに、ウチの重力波望遠鏡は、今ではファインダー程度の感度しかありません。しかしながら、天体望遠鏡には必ず小さなファインダーが付いているんです。どうしてか分かりますか? 理由は簡単です。見るべき星を探すための道標みちしるべが必要だからです。星同士の衝突による重力波は、最初こそ派手な振動を起こしますが、規模が小さい分、直ぐに減衰する。早く星を特定してデータを取らないと、手遅れになる。精密な観測は、他の最新鋭の望遠鏡に譲りましょう。国際協力にもなるし、その方が効率的だ。我々の望遠鏡の観測目的は、いち早く観測し、位置を特定し、世界各国の各研究機関にその情報を知らしめるもので、開設当初から何ら変わっておりません。その分野では今でもトップの成績にある。今、ファインダーが無くなれば、本体の望遠鏡が巨大になり過ぎた分、どこ見ればいいのか分からなくなるでしょう。我々が残っているから、他機関は安心して巨大化できるんです。これも国際貢献、役割分担ですよ。……酒井君、世界各国にある重力波望遠鏡の重力波源特定成績と、その誤差の資料を……」

「はい!」


性急せいきゅうさと正確さはトレードオフの関係にある。急いで結論を出せば、正確さに欠ける。正確な測定を心がければ、時間はいくらあっても足りない。ウチにある重力波望遠鏡の役割は、いち早く重力波源を見つけ出し、適当と思われる位置に最初のくさびを撃ち込むことだ。手元の資料を検索しテーブル上にポップアップさせる。精度評価では公共機関が運営する大多数の望遠鏡に及ばないが、即時的に発表するという面ではピカイチだ。

面白いことに、他機関は、年代が上がるにつれて観測精度は良くなるものの、成果発表のタイミングが遅れる傾向にある。バージョンアップのたびに機器の特性が変わるため、精度的に行ったり来たりしているものもある。ところが、ウチにある重力波望遠鏡のデータはブレがない。データ的には少しずつしか改善されておらず、結果的に色々と追い抜かれてる面は多いのだが、これほどまでに同じ傾向・安定性を見せている重力波望遠鏡は、他に無いのだ。

「……なるほど、興味深い切り口ですね。あとで、説明資料としてまとめて下さい」

監察官もまた、所長の顔を見てかすかに微笑んだ。


例えば、最高水準の医療スタッフ、最新鋭の機器、専門の医者がひしめく大病院があったとしても、緊急医療チームが無くなることはない。彼らは専門医に比べれば知識も技量もとぼしく、利用できる機材も少ないかも知れないが、現場にいち早く出向き、可能な限りの応急処置をし、大病院へ搬送はんそうするまでの最も大切な仕事をする。そこまで命をつなぐこと。それが使命だ。俺は、機材しか見てなかったのだ。最新鋭の機器が大病院にあるのに、何故こんなチープな機器が現役なのかと……。

所長は決して、惰性だせいやノスタルジーで、この重力波望遠鏡を使っているのではなかった。明確な目的意識を持って使い続けているのだ。おそらく、その目的が果たせなくなったならば、所長は躊躇無くコイツを手放し、その予算を他の分野に振り分けるよう、自ら進言するに違いない。そういう人だ。

その時、俺は誓った。コイツで捉えられる重力波なら、必ず世界で最初にその波源の尻尾を捕まえてやる。尻尾だけでいい。後は煮るなり焼くなり好きにすればいい。だが、先陣せんじんは誰にも渡さない……。


        *  *  *


「駄目っスよ。仕事中に彼女連れてきちゃ」

「だから、仕事だって言ってるだろ! 共同研究だって!」

「仕事で知り合ったんですかぁ。へぇー。中々カワイイじゃないっスか」

「かわ……。お前なぁ……」


あれから三日経っていた。重力研究所の一階にある富士屋食堂で偶然顔を合わせた関山は、五目きしめんをすすりながらニヤニヤしている。悪気は無いのは、これまでの付き合いで分かっているのだが、何でもズケズケ言うヤツだから、時々ムカつく。

「ほれ。これが名刺だ」

俺は関山に、ヒカルからもらった名刺を見せた。

「ふーん。で、アオイちゃんスか? それともヒカルちゃん?」

ああ。名刺裏面の英語バージョンを見たのか。確かにどっちもファーストネームになり得るな……って、そこかい! 見るとこ。第一、AOIとが名字だってことぐらい知ってるだろ。母音が3つで欧米人は発音し辛いだろな。

「葵が名字で、ヒカルが名前だ。量子コヒーレンス研究室の主任研究員……。そういえば、ここの恒星干渉計も量子コヒーレンスを使っているとか何とか言ってたぞ」

俺は無理矢理話題を変えた。

「ははぁ。まぁ、そうっスねぇ。一応、光子の干渉縞フリンジを観測してんですから」

「どういう原理だ?」

「今まで知らなかったンですか?」

やっぱりムカつくヤツだ。

超長基線電波干渉計VLBIとは違うのか?」

「あぁ。やっぱりそっちに行きますか。まぁ、フツーに天体を計っている干渉計っていったら、VLBIだのVSOP-4だのに行きますからねぇ。そう考えると、先輩のやってる共振型の重力波望遠鏡も主流を外れてるって言うかなんつーか、老い先短いって感じだし、ウチの研究所はマイナーな機器ばっかで、この先大丈夫ですかね。科振費予算もなかなか取れないし……」

とても所長には聞かせられない会話である。しかし、関山なら所長に対しても面と向かってそれを言うだろう。陰口かげぐちを言わないってところは評価してやる。だが、相手を選んだ方がいいぞ……と思う。関山は構わず話を続けた。

「……まあ、その分、競争相手が少なくて、妙な具合に機器が進化しちゃったりして、ガラパゴスみたいで面白いンですけどね。で、何の話でした……?」

頭痛がしてきた。

「ここの恒星干渉計の原理のハ・ナ・シ・だ!」

「ああ、そうでした。一括ひとくくりに恒星干渉計って言っちゃうからいけないんスよ。恒星干渉計って呼ばれるのは、ふつーマイケルソン型の干渉計のことで、ウチにあるのは天体強度干渉計ってヤツです。不確定性原理くらいは知ってるでしょ?」

「それくらいは知ってる。運動量と位置は同時に精度よく計れないってヤツだろ? ウチの重力波望遠鏡だって、いくら冷やしても零点振動が残る……」

俺はヒカルの話を思い出していた。で送るのは『運動量の和と相対位置』だと言っていた。それから、礼奈の予備実験での説明。確か『スクイーズ状態』が云々うんぬん言っていたが、重力波望遠鏡の世界でも圧縮スクイーズ光は使われていて、非平衡な状態下で量子的な振動を減らすことができるシロモノだ。不確定性原理に反するんじゃないかと思ったことがあるが、非平衡だからトータル的には元が取れているらしい。まあ、俺はよく分かっていない。おそらく、ヒカルや礼奈に聞けば、丁寧に教えてくれるだろうが、何日か寝込みそうだから止めておく。

「じゃあ、話は簡単。遠くの星から届いた光は横向きの運動量がほとんどゼロだから、その分、位置が不確定……」

「はあ?」

「不確定性原理知ってるって言ったじゃないですか」

「言ってる意味が分からん!」

「数百光年も向こうから、このちっちゃいパラボラにぶつかって来るんスよ。少しでも照準が横方向にブレてたら当たんないじゃないっスか」

つまりはこういうことだ。光は数百年間飛んできて、ほとんど横向きの運動成分がないからこそパラボラに当たる。横向きの運動成分がほとんどゼロだから、逆に、横向きの位置がそれだけ不確実だということだ。

「……ということはアレだな。確実にカップ方向へ打てるゴルファーがいたとしても、ボールはカップに入るとは限らないってことだな」

「たとえ話がオヤジっスよ」

「ほっとけ! で、どのくらい位置が不確実になる?」

「まあ星の大きさで変わるんスけど、普通は500光年で3mくらいですかね」

「以外と小さいな……」

「プランク定数、ちっちゃいスからねぇ。まあ、もっと遠くの星なら地球全体に波動関数が広がってる場合もあるし……。でも、遠すぎると干渉縞フリンジが出るまで時間がかかり過ぎて、その間、ヒマでヒマで」

「ふーん。しかし、干渉縞フリンジが出る機構がよく分からんな?」

「ああ。言い忘れましたぁ。アンテナは2つ用意して検波した後に乗算スんです。3m以上離して干渉縞フリンジが出なくなったら、その距離が波動関数の大きさで、そっから逆に星の大きさが分かると……」

なるほど、彼女の言っていたことが分かってきた。

「アンテナ1つでも干渉縞フリンジを観測できる方法を、俺は知ってるぞ」

俺は得意満面の顔でニヤケてやった。ちなみに、全然関係ないが、俺が今食っているのはカキフライ定食である。タルタルソースが旨いんだ。太るがな……。

「無理っスよ。そんなの。第一、干渉するには最低2つの波が必要でしょ」

「途中に重力源があって、重力レンズによって2つに分かれた波が1つのアンテナに届く……としたらどうだ?」

関山が珍しく真剣な顔をしている。

「それなら……あり得ます。でも、そんな偶然……」

「偶然じゃない! 探すんだよ、そのピッタリの方位を。おっ?」


不意に携帯のアラームが鳴った。まあ、携帯のアラームは不意に鳴るものと相場は決まっている。鳴りますよと事前のアラームが鳴れば、その事前アラームが不意に鳴ることになるし、じゃあその事前アラームの事前アラームを……って、下らん再帰話マトリョーシカを考えている場合ではないな。アラームの元凶は、宇宙シミュレータの常駐ソフトデーモンからだ。噂をすれば影がすとはこのことだ。

「げっ。ジョブがコアcore吐いて死んでる」

「ウチのスーパーっスか?」

「そうじゃない。もっと厄介やっかいだ。その共同研究で使っている、宇宙シミュレータからの呼び出しだ」

「そりゃ本当に厄介っスねぇ。今から横浜?」

「放っとくわけにもいかんしな。ちょっと行ってくる」

俺は、カキフライの残りを口に押し込んで、席を立った。二、三歩歩き出した背中から関山のニヤケ声がした。

「そう言えば、ヒカルちゃん、26才独身だって言ってましたよ!」

俺はスッ転びそうになった。んなこと聞いてたんかコイツは……。


宇宙シミュレータは、普通のジョブなら、申請すれば外部からネット経由で使うことができる。俺が地下の研究室にこもっていても、一応の論文が書けたのはそのお陰だ。ところが、今回提供された、例の萌え萌えキャラ付きの〈那由他モジュール〉は、門外不出、一子相伝、千客万来……はちょっと違うが、要は、現地に行かないと使えない仕様になっていた。『実は開発者が裏口バックドアをこっそり作ったらしい……』というまことしやかな噂もあるが、あくまでも噂でしかない。ただ、常駐ソフトデーモンを使って外部へメッセージを発信させることは可能で、これを使って〈那由他モジュール〉の動作を知る事はできる。こちらから、定型のコマンドでも打ち込むことができれば、使い勝手は格段に良くなるのだが、不正アクセスを嫌って許可されていない……というか物理的に回線が無いっていう話だ。徹底的に身持ちの堅い〝箱入り娘〟ぶりである。次期システムでは、量子暗号通信機能を使って双方向通信ができるようになるという噂だが……。ホント、噂ばかり多いシステムである。

ちなみに、〈那由他モジュール〉からの異常終了アベンドアラームは、那由他量子──だったっけ?──がバナナの皮でスッ転んでいる画像とともに送られる仕様だ。誰も止めなかったのか? その仕様……。これも量情研部長の趣味か?


で、その宇宙シミュレータは宇宙開発推進機構が管理していて、現物げんぶつは横浜研究所内にある。所長が、出張あるいは出向と言っていたのは、お隣の素粒子研にではなく、ココに来ること……通称〝横浜もうで〟を想定してのことだ。そりゃ、プログラムが異常終了アベンドするたびに、遠距離を行ったり来たりするよりは、近場で寝泊まりした方が楽だ。逆に、重力研究所内のデータは、こちらでいくらでも入手出来るし……。

そういうわけで、〈那由他モジュール〉の使い勝手は、〝最低・最悪〟と言わざるを得ないのだが、コイツを利用するのはほとんどが研究者で、当然ながらほとんどが研究目的の利用だから、このような形態でも一向いっこうに構わない……という向きもあるらしい。必要ならば交代で人を貼付はりつけておけばよい。事実、超新星絡みの重力波イベントが生じた時は、本筋メインのプログラムはもちろん、それが落ちた時に自動起動するサブセットも用意し、さらにここに常駐者みせばんが居て、落ちたルーチンの担当者に一報を入れて、その後の指示をあおぐという体制が出来ている。我々はその状態をと呼ぶ。屋台は出ないが、昼夜の区別なく人が増えるので、付属のレストラン〈リストランテ・スパティオ〉が深夜営業を始める。ちなみに、パルミジャーノのリゾットが旨い。なんか、食い物の話ばかりだな。

以前、常駐者みせばんを置くのは面倒だということで、カメラとマニピュレーター付きのロボットをコンソール前に置いて、遠隔で操作してはどうだ……という話が、呑み会のネタとして出た事があったが、まあ、本末転倒だから許可は下りないだろうというオチで終わった。


        *  *  *


俺は湾岸沿いに走るリニアに乗り込み、速すぎて焦点の定まらない風景を見ながらジョブが落ちた原因を考えていた。ここから横浜までは300㎞近くはあるが、リニアで行けば1時間ちょいで行ける。そこから先は無人搬送車タクシーで5分だ。経理も太っ腹なことに、1ヶ月定期パスをポンとくれた。夜な夜な遊びに行っても……いや、搭乗記録が残っているから、そうはいかないな。

これまで、重力波源を特定するために開発した、『逐次ちくじ同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』が途中で落ちたことは無い。コイツは、元々は関山が、重力研究所付属のスパコン用に作ったものだが、その後、俺が宇宙シミュレータ用にアレンジし直して今に至っている。『動いているプログラムには、手を加えるな』の格言の通り……いや、そんな格言があるかどうかは知らないが、ここ一年はパラメータを変えるだけで、根本的にソースはイジっていない。このプログラムは、計算途中でCFL条件が満たされそうも無いと判断すると、勝手に入れ子格子マトリョーシカを作って計算を続行するようになっていて、ちょっとやそっとじゃ落ちない仕様になっている。逆に言えば、落ちることはほどんどないが、その分、計算時間がとんでもない事になって、何時いつまでたっても終わらない……というタイプのプログラムだ。

今回、計算に利用できるノード数が桁違いに増えたため、最低限の改造はした。だが、それが原因で落ちたとは思えない。シングルからマルチに切り替えた時のプログラム変更は結構大変だが、最初から複数のノードで最適化されたものは、4が32になろうが128になろうがあまり変化が無い。……というか、ノード数の増減によるパイプラインの分散化効率作業のほとんどは、宇宙シミュレータのメインシステムが勝手にやってくれるから、こちらであまり考慮する部分が無い。

となると、やはり問題なのは〈那由他モジュール〉だ。コイツに任せるのが最適だと思う計算は、メインルーチンから全てことにした。だから、落ちる原因はココしか考えられない。コイツの扱いはかなり難しい……というか、今までのコンピュータと動作原理が全く違う。通常のコンピュータは0か1のビットで情報を表し、0〝または〟1の情報しか載せられないが、量子コンピュータは0〝かつ〟1が載せられる。今までのビット情報とは違うということで、これを『キュービット』と呼ぶらしい。ヒカルの胸にあった量子コヒーレンス研究室のマーク──天使が2本の矢をつがえていたヤツ──が何故天使だったかというと、キュービットとキューピットをかけたシャレ……らしい。なにか脱力。

〈那由他モジュール〉が得意なのは、全体を全体として一度に処理する作業だ。これまでみたいに、条件毎に場合分けしなくても済む。理屈は分かっているのだが、どうも体が覚えてくれない。そもそも、量子コンピュータは、〝逐次〟に計算する必要が無く、〝マルチ〟に〝アンサンブル〟する必要も無いのだが、物事ものごとを細分化していく方法論が染み付いている俺に取っては、コペルニクス的転向を求められるわけで、かなり苦痛である。言わば、価値観の全否定だ。

じゃあ、逆に開き直って、『今までのスタイルを変える気は無い!』と、プログラムを変更しなかったらどうなるかというと、〈那由他モジュール〉は、そこいらに転がっているゲーム機より処理速度が遅いシロモノに成り果ててしまうのである。ある意味、非常に贅沢な使い方というか、フェラーリで100m先のコンビニに買い物に行くような。そんなんなら、ママチャリで十分だろと言うか……。

こちらが手を抜くと、全然相手にしてくれない。とことん尽くせばトンデモない能力を発揮する。那由他量子……かなりのツンデレである。


横浜駅は思ったよりいていた。というか、平日のこんな時間に来たことはほとんどないから、何が『思ったより』なのか分からない。俺の記憶の中では、平均と標準偏差を取って比べられるほどのデータがない。最大エントロピー法MEMでも使って調べるか?

外の暑さは相変わらずで、熱気にやられて倒れる前に、さっさと無人搬送車タクシーに乗り込む。研究所に着いたら、まずは〈リストランテ・スパティオ〉でアイスコーヒーを飲もう……と考えているうちに到着。館内は冷房がよく効いており、すぐにアイスコーヒーはどうでもよくなった。まあ、人間用の冷房じゃなくて、宇宙シミュレータ用なんだろうけどね。

守衛さんに挨拶してIDカードを渡し、スキャンしてもらって再び受け取り、入退帳簿に記帳する。その気になれば、静脈認証やアイリス認証システム、IDカードには個人のDNA記録までもが入っているご時世だというのに、ここのゲート通過儀礼は、旧態依然きゅうたいいぜん古色蒼然こしょくそうぜんとしている。要はセレモニーなんだろう。それに、ここにくる研究者は──俺を除いて──変人ばかりだから、例え本人であったとしても、『今日はいつにも増してヤバいな……』と守衛さんが判断したら入れてもらえないとか?


ゲートを通って、その先の研究者用エスカレータに乗る。右側には、2階までぶち抜きの巨大な一面ガラス張りの壁があり、その向こうで林立するスパコンの群れが見える。向こうがかすむくらい広い。今までそういう目で見ていなかった所為せいか気づかなかったが、〈那由他モジュール〉がある一角だけ色が派手で、那由他量子が腕組みをして突っ立っている絵が、モジュールの壁面に描かれていた。まあ、広報に一役買っているのは確かかも知れないな。

研究者用のエスカレータは3階までの直通だ。ここまで上がると、スパコンの実物は見えなくなり、普通の研究所のように無味乾燥な空間となる。狭い廊下の先は、全面ガラス張りで端末がびっしりと並んだコンソール・ルームが広がる。誰が言い始めたのかは定かではないが、我々はココを〈金魚鉢〉と呼んでいる。その中でアップアップと泳いでいるのは、様々な研究者だ。ちなみに、内部でのエサやり・エサの持ち込みは禁止である。そりゃそうか。2階には一般客用も兼ねたスパコン展望デッキと、売店、喫茶店が入っている。1階〈リストランテ・スパティオ〉の真上だ。小腹が空いたり喉がかわいたらそこまで行けということである。

俺は、お気に入りの場所にある端末に座り、IDカードをスキャナにくぐらす。今まではこれで終わりだったが、3日前からはさらに〈那由他モジュール〉専用カードもスキャンさせる。本来ならば、特別なゴールドカードを手に入れたようなものだから、これ見よがしに見せびらかしたい……筈なのだが、なにせ萌え萌えカードなので、人目を気にしてコソコソ。それだけならまだいい。コイツをくぐらすとコンソールの画面が切り替わって……

「お帰りなさいませ。ご主人様!」

……って出てくるんだぜ。しかも、音声付き。広報で一般客相手なら分かるが、何故に研究者しか出入りしないこんなところで、これなんだ。何故こんな仕打ちを受けねばならんのだ。もっと金をかけるべきところがあるだろう。ほんと、せぬ。


ため息をひとつついてからキーボードを叩き、ログインしてディレクトリを辿たどる。コアcoreファイルを見るのは後回しにして、途中経過で残されたデータのフォルダを見る。そもそも、コアcoreを開けて解析するよりも、残されたデータを見て判断する方が近道だということを、大抵のプログラマは知っている。

ファイルには、仮想重力波源から、これまた仮想の重力レンズ源で経路を曲げられた重力波の、大量の探索線トラジェクトリーが残されている。ディスプレイに表示しても、大量過ぎて線の一本一本は視認することができない。〝アンサンブル〟という手法は、少しずつ初期値の違ったデータを用意して大量に計算結果を流し、その行くすえを見て、観測値と合っているか否かを調べる手法だから、が沢山あればあるほどいい。ここのアルゴリズムを〈那由他モジュール〉用に書き換えたというのが、今回の改造のキモの部分である。全体を全体に。髪の毛の束のような個々の計算を、水飴みずあめの流れのような面的な密度計算にしたというか……そういう感じ。

その探索線トラジェクトリーは忍者がクモの糸を放つがごとく、カオスによって色々な向きに散らばっていく。ただ、見当違いの場所でいくら走らせても資源の無駄だから、そこは頭の使いようだ。

探索線トラジェクトリーたばは、確からしい場所では密に、そうでない場所ではになるから、空間を格子に区切れば、通過経路をまとめて分布図を作ることができる。ただし、チェックすべきなのは格子内の束密度だけではない。個々の経路の方向も重要だ。密度が濃いからといって、探索線トラジェクトリーの入出力方向がバラバラならば、単なる烏合うごうしゅうの集会で、たまたま集中してただけだ。流れがキチンと揃っていれば、それだけ確からしい場所ということになる。探索線トラジェクトリーの密度と方向……カッコ良く言えば、スカラー量とベクトル量の兼ね合いを見れば、探し出すべき星の〝アタリ〟が何となく分かる。言うは易しで、その兼ね合いのが難しいのだがな……。

で、ある程度目星めぼしがついたら、そのデータを使って、最初よりは絞り込んだ初期値を作る。後はこれの繰り返し。計算量は膨大だが、所詮しょせん、それは機械がすること。こっちは『働け!』とムチを入れて帰ればよい。

那由他量子にムチ入れか……ふむふむ。いかん! なんか毒されてきた。


分布図は8枚分出来ていたので、9世代目で異常終了アベンドしたようだ。8枚全てを見ても、重力波源の位置が絞られた形跡けいせきがあまりない。やはり髪の毛座方面でボヤッとしているだけだ。見た目では分布図ごとの微細びさいな差が分からないので、差分を取って3D表示にし、グルグル回してみるが、変化があまり分からない。差し渡し200光年分位を拡大して見てみても、雲の中を歩いているみたいにモヤモヤしているだけだ。これじゃあ今までと変わりがない。まあ、これまで1ヶ月かかった計算がほぼ一日で終わったのだから最初の投入サブミットにしては上出来じゃないか……となぐさめモードに入っていたが、肝心なことを忘れていた。

『なぜ落ちたか?』……だ。

原因は〈那由他モジュール〉だと言うことは分かっている。コイツが次々と計算をこなしたために、自動作成された格子が次々と入れ子マトリョーシカ状態で繰り込まれ、割り当てられたスタック領域を食いつぶして、システムに怒られた……ということのようだ。設定ミス……というより、そこまで計算が進むとは思っていなかったというのが正直なところ。やるじゃん、那由他量子。

それに、コイツが恐ろしい速さでちゃんと動いたということは、俺もコイツを使いこなしているという証拠だ。やるじゃん、俺。

もっとも、出力結果を受け取るサブルーチンの作り込みが甘かったのは失敗だったが、ここの処理をイジるのは面倒だが難しくはない。何とかなる。

異常終了アベンドの大体の原因は分かった。となれば、どの空間で入れ子格子マトリョーシカが大量に発生しているかを調べれば、落ちた原因を特定できる。うまくいけば、重力波源に由来ゆらいするを発見できる……かも知れない。ポチポチとキーボードを叩いて、3D表示を格子距離に変えてみる。一見しただけでは格子間隔はどこも大差ないようだ。全データをソートして数値で表示させると、非常に狭い空間に折り畳まれた格子の場所が特定できた。場所は……、場所は?

は? 地球と火星の間くらい?


その場所は点ではなく僅かに線状で、円弧状にグルッと回り込んでいるように渦巻いていた。その渦に沿って螺旋らせん状に細かくなった格子が重なっている。空間的には狭い領域なのに、格子数は異常に多い。この螺旋格子が異常終了アベンドの直接的な原因だろう。格子群の形状を見て、俺は一瞬、昔流行はやったツイスター理論を思い出したが、この格子の渦は、そもそもは探索線トラジェクトリーねじれによるものであり、ツイスターとは似て非なるものだ。

「ふぅ……」

俺は、ひとつため息をついた。どちらにしても、この解はおかしい。おそらく、初期条件がきびし過ぎたのだ。さらに調べていくと、似たり寄ったりの螺旋格子の入れ子が、地球の周辺のあちこち見つかった。格子群は極端に狭い領域に閉じ込められているから、3D表示で一瞥いちべつしても全然分からない。その領域を一万倍位に拡大すると、ようやく『あれ?』と感じるくらいである。

こんな変なものが発生した原因は、まあ、大体分かる。量子は苦手だがなら任せてくれ。元々の初期設定は、遠くで発せられた重力波が、途中のブラックホールで曲げられて地球にやってくるというものだ。そして、ちょうど地球周辺が〝焦点〟となる。いや、地球周辺が〝焦点〟となるような条件にワザワザ設定した……というのが正しい。で、重力波は面白いことに、になる。だから、重力波が一カ所に集中するようなことがあると、集まった重力波同士がさらに極端に集中して凝縮ぎょうしゅくする。要するに、ある臨界点を越えると勝手に自己凝縮が生じるわけだ。異常終了アベンドを引き起こした螺旋格子は、こうして出来たものだろう。これはこれだけで、面白い論文がひとつ書けそうなネタだが、そういうのは理論屋に任せておいて、さて、どうするか?

とりあえず、このままでは何度やっても落ちてしまう。かといって、重力波の観測結果を反映させるためには、地球周辺を〝焦点〟から外すわけには行かない。もっとも簡単な解決法としては、地球周辺のみに限り最小格子間隔を設定して、それ以上は計算させないという条件を付け加えることだ。ある意味、妥協の産物なのだが、それ以外のうまい方法はすぐには思いつかない。まあ、一日動かせば結果が出るのだから、とりあえずやってみればよい。4ノードで半月以上走らせ続けて出た結果がこれなら、『俺の青春の日々を返せ!』……と、いい歳したオヤジが三日ぐらいやけ酒になるところだが、計算機資源が潤沢じゅんたくにあるというのはいいことだ。『とりあえずやってみる』が出来るという、この贅沢。こういうのを『金持ち喧嘩せず』というのか……などと、少しズレた感慨かんがいにふけった。


どういうアルゴリズムにしようか考えながら、俺は一旦、〈金魚鉢〉を抜け出し、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉でホットコーヒーを飲むことにした。ここは生クリームがのったシフォンケーキが美味い。おやつ時はとっくに過ぎているが、夕食にはまだ早いというタイミングで、店内は割と空いている。海が見える窓際でホッと一息。ここからは見えないが、西日はかなり傾いているだろうことは分かる。本日の営業は、横浜で終わり。プログラムを改良してジョブを投入サブミットしたら、宿舎に直帰ちょっきだななんて漫然まんぜんと考える。

コーヒーを飲みながら、携帯でネットをめぐっていると、アメリカの宇宙重力波望遠鏡網……通称LISA−NETの観測スケジュールに、今回の〈ゴースト〉探査ミッションが組まれていることに気付いた。3ヶ月前ならばいざ知らず、現在、地上に置かれた重力波望遠鏡では、共振型はもちろんのことレーザー干渉型でも、既に重力波データは取れない〝後の祭り〟状態なので、今から重力波を実測しようとするならば、桁違いに感度のいい宇宙空間のヤツを使うしか手だてはない。ただ、図体がデカイ……というか、鏡面センサーなどの衛星機器同士の間隔が大きいので、太陽光帆で移動させるにしても時間がかかる。観測開始スケジュールは1ヶ月後だ。

俺はしばし考え込んだ。LISA−NETが観測結果を出した後で論文を出してもインパクトが薄いのは当然だ。結果を見てから、それを最もらしく説明するなんてのは誰でもできる。観測前にこういう結果が出るだろうとプレプリントでもいいから出しておいて、それに沿って発見に至った方が断然、カッコいい。多少、外れていてもかまわない。ウチの〈オルガン〉の役目はキッチリ果たせたことになるしな。1ヶ月の間に俺もそれなりの結論を出して、同業者カリーグに言いふらしておくことにしよう……って、カッコ悪いな。


〈金魚鉢〉に戻って、入れ子格子マトリョーシカ制限用のサブルーチンを書く。逐次ちくじ、格子の大きさを走査して制限を加える方法ならプログラムは楽だが、メインの計算ループに新たに分岐点を設けることになるから、速度的に不利だ。『は育つ』とはよく言ったもので、気を抜くとすぐに抜け出せないアリ地獄のように深くなる。少々考えて、世代ごとにチェックを加えることにした。全部揃った段階で、〈那由他モジュール〉に突っ込めば、ごっそりと計算結果がでてくる。キュービット様々だ。

今回、8世代までは大丈夫だったのだから、メインルーチンをイジる必要は無い。次世代への計算を始める時に、格子が小さくなり過ぎていたら、平滑へいかつ化して大きな格子に振り戻す。おそらく、それだけの改造でいい。

ソースコードはすぐ書けた。コアcore落ちしたデータセットを消去して、8世代目を換装かんそうし直し、格子制限サブが実際に作動するか、手動モードでチェックする。加工されて吐き出されたデータセットには、特徴的だった螺旋状の構造は無くなっており、一応、意図した通りの動作はしている。念のため、汎用物理シミュレーションプログラムを別ウィンドウで起動し、格子変換の前後で、通過する重力波の軌跡がどう変わるかを確認することにした。極々中心付近を通過する場合を除き、ほとんど同じ軌跡であることが望ましい。いや、望ましい……では生温なまぬるい。そうあってしかるべきと言わねばなるまい。

そもそも、空間の格子切り分けは、計算機上に宇宙空間を再現するにあたって、で勝手に作ったものなのだから、人間の都合の部分でシミュレーション結果が変化したならば、何をやっているのか分からなくなる。変換によって精度プレシジョンが落ちるのはある程度覚悟する必要があるが、確度アキュラシーが変化するのは困る。

もっとも、単に座標変換しただけとか、オイラー的なプログラムをラグランジュ的に変えただけで確度アキュラシーが変わり、それを起点にカオスによって、その後の結果がガラリと変わってしまうことはよくある話で、理論的にはあってはならぬが、プログラムを実装する側としてはナイーブで非常に苦労する部分だ。また、変更したからといって何か新しい発見があるわけでないことが分かっているので、努力がむくわれない。モチベーションを維持するのが難しい作業である。

たまに物理学会で、単に座標変換しただけなのに、『こんな事実が発見されましたぁ!』と有頂天で話す発表もあり、その手の発表は、主催者側のいきはからい──なのか?──で、人の集まりの悪い早朝にスケジュールが組まれている。最初からそういう目で見る分には、それはそれでツッコミどころが多くて面白い。予稿を一目見ただけで爆笑……いや、とりこになってしまうネタは事欠かない。『俺もあんなんで、嬉々として発表できたら、どんなに人生バラ色か!』とか、時々、ダークサイドに落ちそうになるが、俺の理性というか羞恥しゅうち心がそれを許してくれない。そんなことでは立派なヨゴレ芸人になれないぞ! なる気はないが……。

妄想にひたっているうちに、確認ジョブはつつがなく終了。その結果、探索線トラジェクトリーのズレは必要最低限の変化に留まっていることが確認できた。また、解析的にも連続の式は満たしていたし、エネルギー輸送量も保存され、妙な散逸・発散は無さそうで一安心。早速、サブルーチンをメイクファイルに書き込みコンパイルして再投入サブミット。初期値は8世代目データセットからで、もし次に止まっても、続きから開始できるようにした。今回は、世代が進めば、落ちても落ちなくても常駐ソフトデーモンから携帯に連絡があるようにセットしたから、堂々巡りをしていたらすぐに分かる。


既に日も暮れかかってきていたし、そろそろ撤収どきだった。だが、別ウィンドウで開いた画像に、気にかかる部分がある。今回の異常終了アベンドの件ではない。ヒカルの研究室で共同研究の話をしていた時、心の片隅に引っかかっていた部分だ。9世代目のデータセットが正常に作られるまでは、〈金魚鉢〉の中にいるつもりだったから、暇つぶしを兼ねて、俺はその心のモヤモヤを調べてみることにした。

その別ウィンドウには、異常終了アベンドした9世代目が表示されている。無数の探索線トラジェクトリーに取り囲まれた螺旋格子の一万倍の拡大画像。コイツをさらに拡大してみる。そこには、置石おきいしで引き裂かれた水流が、その背後で再び合流する石庭せきていのような重力波の流れがあった。空間的に引き離されたものが、再び出会う。それはそれでいい。その重力波の再会を、ヒカルは使いたいと言っていた。いや、それは俺自身の提案ということになっていたか……。

俺は、とりあえずそのウインドウを閉じ、標準的な質量のブラックホールを配置しただけの、他には何も無い仮想宇宙空間のウインドウを用意した。物事を考えるには、まずはもっともシンプルな設定の方がいい。これは物理屋の鉄則だ。無限遠からやってくる重力波の探索線トラジェクトリーを適当に配置し、軌跡きせきを描かせてみる。仮想的な空間だから、画面上の重力レンズ効果は見事に対称だ。このままでは枯山水的にも面白くないので、ブラックホールに回転を加えて対称性をくずしてみる。ブラックホールが回転していれば──自然界では回転していない方が珍しいのだが──時空が引きずられるレンズ−シリング効果によって、重力波の左右の通過速度が異なる。エルゴ領域ならば、一方は光速の2倍以上、他方は光すらその領域に入れないということになるが、そこまでブラックホールに近づかなくても、多かれ少なかれ、左右の通過時間は異なってくる。

こいつを確認するには、探索線トラジェクトリーの広がりを等時間面で表示させてみればいい。カシャカシャとキーボードを叩く。無限遠からブラックホールの少し手前までやってきた重力波は、ゲートから一斉いっせいに飛び出した競走馬のように、各馬横一列の直線になる。コイツに宇宙空間の実測値としてDDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータを入れ、200光年先の天体から重力波が届いたとして再計算。実データを入れても、通過経路上にめぼしい天体が無いためか、微妙なよじれはあるものの、探索線トラジェクトリーひん曲げるような現象は見られない。モノサシで引いた直線が、手書きの直線に変わった程度の差だ。

だが、ほぼ一直線だった等時間面は、ブラックホールに到達すると劇的に変化する。その中心部は因果地平に吸い込まれて二度と出てこないため、ぽっかりと穴が開く。穴の大きさは理論上、シュバルツシルト半径の約2.6倍だが、あまりに近づき過ぎたものは極端に曲げられてしまうので、地球にまで到達する探索線トラジェクトリーは、シュバルツシルト半径の5倍は離れた地点を通ったものとなるようだ。当然ながら、ブラックホールに近い場所を通ったものほど、通過に時間がかかるため、等時間面はブラックホール周辺でV字型の漏斗ろうとのような形状になっている。さらに予想した通り、そのへこみ方は対称ではなく、波打っていた。Vと言うよりチェックマークである。ブラックホールの回転によるレンズ・シリング効果は、回転の順方向と逆方向では効果が逆だから非対称になるのは当然と言える。野球のボールが回転によって、左右の気流の速度差を生み、変化球となるのとそう変わらない理屈だ。

等時間面は、ブラックホール通過後、中心にポッカリ開いた穴を埋め合わせるように縮んでくる。探索線トラジェクトリー軌跡きせきが内側に向くからだ。最終的に地球付近で集結したころには、穴は完全にふさがれている。逆に言えば、塞がっていないならば、宇宙空間にぽっかりと黒い穴が見えることになり、そうであるならば、光学系の望遠鏡でもその姿ははっきりと分かるだろう。

もっとも、これまで見つかっている数百を越えるブラックホールは、どれもこれも降着円盤をまとっており、黒いブラックどころかまばゆいまでの光を放っていたものがほとんどだ。逆に考えれば、そういうのブラックホールしか、我々はこれまで観測できなかったということなので、今回の〈ゴースト〉は、文字通り、の最初の発見例になるかもしれない。

最終的に地球にまで届いた等時間曲線の形はかなり歪んだ形となった。問題は、左右に分かれた探索線トラジェクトリーの到達時間差である。空間的に同じ場所で再び出会っていても、その時間経過が同じとは限らない。これは『双子のパラドックス』と同じ現象だ。出発時に同い年の双子であっても、別経路で旅行をし、再び出会った後まで同い年とは限らない。若い兄が年老いた弟を出迎えることだってあり得る。


……と、ここまでは、俺の頭脳で分かるテリトリーの話。これにヒカルと関山から頂戴した、付け焼き刃的知識のエッセンスをトッピングしてやるとどうなるか?

まず、等時間曲線を構成する探索線トラジェクトリー一本一本は、実は幅の無い線ではなく広がりを持っている。出発時はそれほどで無かったとしても、次第に波動関数の広がり──関山の話だと、『500光年で3m』だったか?──を加味しなければならない。探索線トラジェクトリーが、ブラックホールを挟んで左右〝どちらか〟を通過する……と考えたが、仮に、ブラックホールの大きさに比べて、波動関数の広がりの方が大きかったらどうなるだろう? 左右〝どちらか〟を通過するのではなく、左右〝どちらとも〟通過することになりはしないか?

要するにこれは、俺でもよく知っている『2重スリットの問題』そのものではないか。波動関数の広がり分だけ何処を通過したかは分からないのだから、ブラックホールに落ちるヤツは別として、焦点である地球上で、重力波の干渉縞が生じる……というのが頭脳の結論。


このエンタングル状態をヒカルが研究に使おうとしているわけだが、話はそう単純ではない。カー・ブラックホール……すなわち、回転しているブラックホールの場合、右回りと左回り、どちらを通るかによって重力波の到着時刻が異なるのだ!

ということは、何か? 若い兄と年老いた弟が混ぜこぜエンタングルになっている状態というのがある……ということか?


心の片隅に引っかかっていたモヤモヤを取ろうとすると、ますますモヤモヤが広がっていく。全くの五里霧中状態である。このまま突っ走っても、おそらく遭難するだけだ。

俺は、これ以上深入りするのを止め、話の原点に戻ることにした。そもそも、ヒカルが語った話では、重力波源から出たエンタングル粒子──光子なのか重力子なのかは曖昧だったが──は、一度引き裂かれた後に重力レンズで地球上で再び集められている筈で、その粒子を使って量子テレポーテーションの実験がしたい……と、そういう提案だった。ということは、右回りと左回りの粒子が地上で出会うというのは最低条件である。『兄は到着したが弟はまだ着いてないんです。どうしましょう?』……的な状況があり得るということは、俺がここでウンウン考えるよりも、共同研究者であるヒカルに話して相談すべきだし、ヒカルに聞いた方が早く答えが出るだろう。

ヒカルには、話をどう切り出せばいいだろうか? 右回りと左回りで出会った2つのエンタングルした光やら重力波やらは、空間的には隣同士にまで戻ってきているが、時間的には『双子のパラドックス』と同じ原理で、数時間とか、下手をすると数十年くらいズレて届いて……くる……から……。


「そうか! そういうことか!」


モヤモヤの中から怪物のシッポが見えた。全体像はまだ見えないが、いずれ全てを引っ張り出すことができるはずた。

エンタングルした右回りと左回りの光があって、右回りの光の方が1日遅く届くとしよう。ヒカルの話では、エンタングルした一方の光を偏光フィルタを通すことによって、水平偏光か垂直偏光かを観測した〝瞬間〟に、他方の偏光状態も確定するという。だが、今回の設定の場合、右回りの光を偏光フィルタで観測しても、その〝瞬間〟に左回りの光の偏光向きが確定するわけではない。今この〝瞬間〟に届いた右回りの光とエンタングルしている左回りの光は、のだ。

さらにもうひとつ。偏光フィルタで観測されれば、エンタングル状態はその〝瞬間〟に解除される。解除の有無を調べるには恒星干渉計を使う。恒星干渉計で干渉縞フリンジが出たならば、途中で何者とも相互作用することなく地球に届いた光……つまり、エンタングルしている光だということになる。エンタングル状態が解除されていたなら干渉縞フリンジは出ない。

まず、が届く位置に偏光フィルタを置く。そして、が来る部分に恒星干渉計を置く。を偏光フィルタで観測したかどうかで、恒星干渉計で測定した干渉縞フリンジの有無が決まる。だが、干渉縞フリンジの有無は観測の前日で決まる。

つまり、当日の恒星干渉計の干渉縞フリンジの有無が、翌日の偏光フィルタの有無で決まるのだ。

もしも、偏光フィルタが自動制御されていて、『株価が上がった時に設置される』作りだったとしたらどうだ。前日の段階で、恒星干渉計の干渉縞フリンジが出ていれば、株は下がったことになるから売ればいいし、出ていなければ上がったことになるからそのまま持っていればいい。


こいつはタイムマシンだ。


物理的に過去に行くことは出来ないが、はできる。いや、未来にもだ。左右の関係を逆にするだけでいい。時間のズレ具合は、ブラックホールの規模と回転速度が分かれば計算できるから、干渉させるエンタングル光の経路を選べば、任意の時間に設定できる。任意と言っても、エンタングル光が発射された時刻以前にはさかのぼれないが、なにせ天体からの光を使っているんだ。数年から数百年分のズレとかはざらに存在しているから、〝実用的な範囲で〟遡れる筈だ。一万年もズレたら逆に困る。


携帯のアラームが鳴った。ハッと気付くと既に外は真っ暗だ。アラームの主は常駐ソフトデーモンから。メインディスプレイに目をやると、9世代目の計算が終了したことを示す表示が、色々なパラメータと共に流れていく。どうやら小手先の修正が功を奏して、異常終了アベンドせずに動いているようだ。ホッとすると共に腹が減ったことを思い出す。ディスプレイのハードコピーを取りログオフして、〈金魚鉢〉を後にする。折角の横浜だから、海軍カレーでも食べて帰るかとか考えながら、入退帳簿に時刻を記入して帰路につく。外はまだ暑かったが、潮風が心地よかった。


        *  *  *


翌々日、これまでの成果をヒカルに報告するために、お隣へと向かう。運河のような道路は相変わらず。今日は日が照っていないだけ、幾分は涼しい。この前よりは時刻が早いしな。

自動ドアを2つ通って、今日は守衛さんが横に立っているゲートを抜け、その先の各棟に続く通路へ。出勤時間に合わせたから、人もそれなりに多く、動く歩道も動いていた……って、それが普通だと思うが。だが、多くの人はその上をさらに早足で歩いているから、多少は到着時刻が早くなる程度しか、動く歩道の恩恵おんけいを受けていない。俺は手すりにひじをついてのんびり乗っていた。特段、あせる必要は無い。

その間に、携帯から何世代まで計算が進んだかをチェックする。既に23世代まで進んでいるようだ。ついでに、寝ている間に解除していたアラーム音を復活させる。世代計算を終えるたびにアラームが鳴るように設定したのは、一昨日おとといの俺だが、いかんせんウザすぎる。やっぱり異常終了アベンド時だけでいいんじゃないか? 昨日も横浜もうでをして、江戸清の豚まんを食べてきた……もとい、データを吸い上げてきたんだから、その時に元に戻しておけば良かったと思う。喉元のどもと過ぎればなんとやら。プログラムがまともに動き出すと、常駐ソフトデーモンの定期報告がわずらわしい。

量子情報処理研究棟の2階受付で、にこやかな笑顔と交換で、外来IDカードをもらう。これって、本当に何の役に立つのかな。チップも付いてないようだし……。左通路を進み、ヒカルの研究室『2EⅣ』をノックする。

「はい。開いてます」

返事はヒカルからだった。

中に入ると、紅茶の甘い香りがただよっていた。ウチの研究所と違って優雅ゆうがでいいなここは。ま、部屋次第だろうけど。ヒカルはこの前見た、真っ赤なマグカップ。礼奈はいかにもという、薄手のカップ&ソーサーで、金のスプーン付きである。

「あ。今、紅茶入れますね」

礼奈があわてて立ち上がる。

「……おかまいなく」

と言いながら、ちょっとだけ期待。ああ、そうだ。その前に……

「それと、お土産みやげにこれを買ってきました」

「わぁ。『横浜煉瓦』。これ美味しいんですよねぇ! さっそく頂きます!」

「え? 朝から?」

「甘いものは別腹です。ほら、善は急げって言うでしょう」

いや。それは慣用句の使い方違うと思うが……。

ヒカルはソファで、微笑とあきれ顔の中間のような顔をしている。今日のヒカルは礼奈と同じくポニテで、巨大な輪ゴムのような……えーっと、この髪留めの名前は知っているぞ。確か、シュシュとか言うヤツではないか?

礼奈は、もう見るからにテンション上がっていて、いそいそと紅茶を注いでいる。この程度の土産で喜んでもらえるなら、買ってきた甲斐があったというものだ。俺は横浜に贔屓ひいきの喫茶店があって、通り沿いでたまたまコイツを目にして買ってきただけなんだが。ちなみに、その喫茶店のアイスコーヒーは、コーヒー自身を凍らした氷がデデーンと入っていて豪快ごうかいである。マスターは無愛想だが。


「端末借りますよ」

と、俺。

「どうぞ。テーブルに持ってきた方がいいわよね」

と、ヒカル。

礼奈が紅茶を入れている間に、俺は、ジーパンのポケットからプレゼン用メモリを取り出し、操作グローブをめた。ヒカルは、自分のテーブルからノート端末を持ってきて、ソファ前のテーブルにセットする。メモリーのウィルスチェックを終えた頃、こちらの準備も終了。そのタイミングで、俺の買ってきた『横浜煉瓦』という名のチョコレート系お菓子と共に、紅茶が運ばれてくる。

「あたしも見てていいですか?」

「どうぞ、どうぞ」

……と、礼奈には言ったものの、専門畑が違うから、分からないと思うぞ。遺伝子工学と重力波観測じゃあ、接点は皆無だからな。もっとも、単なる奇麗な3D画像として考えれば、小型プラネタリウムとして楽しめるかもしれない。

ヒカルはどうなんだろう? よく考えると、量子コヒーレンス何とかと言うのも重力波と接点はほとんどない筈だ。だが、俺の論文に目をめたということは、仕事に何か関係があったのか、それとも別な理由で興味があったのか……。

そういや、ヒカルと礼奈の関係……量子コヒーレンス研究と遺伝子工学との接点もよく分からない。二人は同じ研究室に居るわけだから、結びつきはもっと強い筈なのだが、はてさて……。


考えていても仕方が無いので、俺は、宇宙シミュレータから持ってきたハードコピーを、いちから説明することにした。だと思って……。

まずは、DDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータのみを展開する。これだけでは、単なるプラネタリウムでしかない。案の定、礼奈は『わぁ、奇麗!』とか言っている。絵に描いたような反応で、うれしい。重力研の一般公開日にくる小学生でさえ、最近はもっとひねくれているような気がする。

「ここは?」

ヒカルは、きらめく星々の中、不自然に一直線になっている光点群を指差した。異常値アノマリーを見つけ出す能力は高いようだ。だが、最近の小学生の方が……以下略。

「それは探索線トラジェクトリーの起点のひとつで……。そこからの軌跡を全部出すと……」

「わぁ!」

蜘蛛の子を散らしたというのはこういうのを言うのだろう。無数にある線が真っすぐに、時には絡まり、時には吸い込まれて消え去ったりして、全体像が次第に現れる。いや、現れなくなってくると言う方が正しい。散らばった蜘蛛の子は、どこかに収束する気配さえ見せず、段々と霧が濃くなるかのように、広がる一方なのだ。

「これが逆解析で得られた第一世代の画像。地球での観測結果を元に、その重力波源をたぐり寄せるとこんな感じ」

「単に広がっているだけで、どこにも中心がない。これ全部が重力波源なの?」

ヒカルが口を尖らせて腕組みをしている。ちょっとイライラしているみたいだ。

「いやいや。これは重力波源の集合で、これ全部が重力波源じゃない。この中のどこかに本物が埋まっているとでもいうか……」

「ああ。収縮前の確率分布みたいなものね」

なるほど。そういう表現をするとヒカルは分かりやすいのか。

「……で、どうやって、本物を探し出すの?」

「第一世代は仮定だらけの初期値だから、全然収束しないのは当たり前で、これが次の初期値の元になる。あとは再帰的サイクリックに動かして、絞り込む。ここから、カルマンフィルタを使って観測値……といっても、初期値は推定値だけども、これを逐次反復して、誤差が大きい部分はフィルタが自動で重み付けをするから……」

「ちょっと、ごめん」

「……?」

ヒカルが、例の波動関数のポーズをしている。

「さっぱり分からない。結局、どこに重力波源があるの……?」

気の短いヤツだな……とは思ったが、口には出さず、心の中にしまっておく。


まあ、計算の手法・原理から様々なパラメータまで説明してたら、それだけで夏休みが終わってしまうくらいの時間が必要だとは思う。相手が同業者カリーグで無い以上、解析手法を詳しく説明するのは、かえって混乱するだけか……。『まずは結論から言え!』というのは、プレゼンの鉄則だからな。

それに、このプログラムの横断的な説明はできても、個々の詳細については、俺だってあやふやな部分がある。カルマンフィルタのサブルーチンは関山のお手製だし、アンサンブル手法はオープンソース。ブラックホールのカー・ニューマン解を状態方程式……とすると計算が厄介なので、擬ニュートンポテンシャルを組み込み、DDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のマップを最新の時空分布フォーマットに変換したものを初期段階の真値として、〈那由他モジュール〉でブン回したのがこのプログラムだ。個々の分野での専門家は居ても、全てをキチンと理解している人は、おそらく誰もいない。それでもプログラムは動く。

結局のところ、既存の観測結果をちゃんと再現できて、二乗平均平方誤差RMSが最も小さいものがだと言う、厳然げんぜんたる基準がある。理屈が合っていても、現実を再現できないプログラムは捨てられる。後世から見ると、『こんなバグがあったのに、よくちゃんと動いていたな』と思われる傑作プログラムも無くはない。いまいちに落ちない部分もあるが、それが現実だ。まあ、そういう基準でしか計れないんだろうな。観測を正しく再現できていればOKというのは、言わば『チューリング・テスト』みたいなモンだな。


「うーん。では、世代順に……。このボヤッとしているのが収束すれば、そこが求める星ということだから」

途中の解説を飛ばして、俺は画像を順繰りに映した。細かいこと言えば、収束したとしても、エンジェルエコーと呼ばれるまぼろしだったり、擬似的に発生した重力場による振動のふしの部分だったりして、必ずしもそこに求める星が存在するとも限らないのだが、今それを延々と述べても仕方あるまい。それに、今見せようとしている結果は、星の特定とかのレベルには全然達していない中間報告なのだ。

「……と、これが昨日の終わり、最終の20世代目」

ヒカルは、腕組みをしたまま左上を見上げる。お決まりのポーズだ。左上にはお前の守護霊でもいるのか?

「なーんか、5世代目位までは順調に収束してたみたいな気がするけど……後は変化がよく分からない。あたし、何か見落としてる?」

「いや、見たまま。まぁ、ぶっちゃけそんなもん……だ」

俺は肩をすくめて見せた。ヒカルも同じポーズでこたえる。

「うーん。礼奈ちゃんどう思う?」

「えっ、えっ!」

それまで、ほわーと見ていた礼奈は、目をパチクリさせて、思いっきり動揺していた。どちらかというと、横浜煉瓦──礼奈に後で聞いたが、フォンダン・ショコラというものに属するケーキだそうだ──を食べて幸せ♡という感じだったので、正直、あまり見ていなかったに違いない。

「えっと、えっと。私にはよく分かりませんでした……」

「ちょっとグローブ貸して」

おいおい。礼奈に話を振っておきながら、フォロー無しかよ。

ヒカルは、俺が差し出した操作用のグローブを奪い取り、20世代分の画像を、拡大したり縮小したり、行きつ戻りつしながら、グルグルと振り回していた。その間、俺は少し冷えた紅茶をすすりながら、ケーキに手をつけた。思いっきり甘い。

礼奈はひとつため息をついてから立ち上がり、例の水槽に近づき、ピペットで何やらゴソゴソしている。これも後で聞いたのだが、アルテミアとか言うエサをあげているのだという。

5、6分した頃だろうか。

「9世代目って何故こんなに時間がかかっているの?」

神のごとき視点で、銀河をブンブン振り回すのに飽きたヒカルが、ログファイルを覗いていた。そこに気付きましたか……。

「地球周辺で、重力波集中による疑似重力場が発生してをしたので、それを切った」

「悪さ? その画像は?」

「えーっと、“9gene.cdf.bak”と……、そう、それ」

ヒカルは早速、画像を開き、地球周辺を拡大して見ていた。探索線トラジェクトリーがそこで絡まり、まるで螺旋状に移動する台風のような、あるいは、サーフィン映画で登場するチューブと呼ばれる巻き波のような、そんな形状のモノがそこに現れた。

「……何故、これを切ったの?」

「何故って?」

「これが本物って可能性は?」

「全くゼロではないがほとんどあり得ない。でもって、そいつのお陰でプログラムが……」

「もっと調べるべきよ!」

ヒカルは、この奇妙なツイスターを凝視ぎょうししながら、そう言い放った。よほど気に入ったらしい。だが、そいつはちょっとな……。

「髪の毛座方向の探索は? 可能性はそっちの方が……」

「そっちはこれ以上やっても進展が無いんでしょ。こっちが本物よ!」

おそらく、俺は渋い顔をしていたに違いない。だが、それ以上に、こちらを向いたヒカルの目は真剣だった。ほとんどにらみつけていると言ってもいい。そのパワーの源はなんだ。何故、『こっちが本物』と決めつける? ブラックホールとか重力場とか、そっち方面の知識は、どう考えても俺の方が上だぞ……とか言っても、聞く耳を持たなそうな強い瞳だった。


もし、ブラックホールが地球付近をかすめて飛んで行ったとすれば、それはかなりセンセーショナルなことで、俺としてもワクワクする事態だが、確率的にほとんどあり得ないことだ。地球に偶然、宇宙人がやってくる確率くらい低い。もっとも、だからと言ってそれを無視するのは研究者としてどうかと思う。第一、『世紀の大発見』とか言われるものは、あり得ないくらいの偶然を、執念しゅうねんを持って探し出したからこそ発見できたのだから、最初から諦めていては、何も発見できない。

俺が、そのツイスターを切ったのは、確率云々以外に、ちゃんとした根拠がある。もしもコイツが本物だとしたなら、重力波の異常検出程度では終わらない、もっと華々しい観測結果が得られている筈なのだ。ブラックホールは一般に思われているほどブラックではない。地球の近くを通過しようものなら、周辺に様々なわざわいを振りまくだろう。それは、ブラックホールが大きくても小さくてもだ。今回は、そういう華々しい現象が、全然無いから困っているのである。

それともうひとつ。こちらは少々個人的な理由で、全く問題なのだが……。

……要は、このツイスターを本物として解析しようとすれば、かなり大幅なプログラム改修が必要だってことだ。適当にパッチを当てるだけではどうにもならない。個別にライブラリ化できればいいが、そうでなければ、メインのソースを大幅に改造しなければならない。もちろん、コイツが本物であるならば、螺旋の渦の先がどうなっているのかは、俺だって興味がある。

で、プログラムの改造には、ブラックホールに対する深ぁーい知識と頭脳が必要になってくる。重力研の中で、その部門を担当しているのが、その名もズバリ、『ブラックホール解析室』……通称〈BARBlackhole Analysis Room〉で、一般化された富松・佐藤解をイジり倒して、特異点に結び目を作る方法をシミュレートしたりとか、宇宙紐のコンパクト化とか、およそ常人には理解できない研究ばかりしている。一般人から見れば重力波観測の仕事だって、浮世離れしていることには変わりがないだろうが、研究所内で『一番変わっているトコはどこか?』と問えば、10人中10人が〈BAR〉だと言うだろう。研究者っていう変人の集まりが太鼓判を押す程の変人の集合体だ。それだけでもどれほど恐ろしい所かは分かるだろう。

確かにあそこなら、それなりのツールが揃っているかも知れないが、およそそのツールは全て作りかけで、研究者個人の思いつきで臨機応変に変えられている筈だ。使い方を書いたマニュアルなんて皆無に等しい。後任が来たときに引き継げなくて困るじゃないか……というのは、我々凡庸ぼんような人種の考えることで、彼らが引き継ぐのは研究テーマだけ。ホワイトボードに何やらゴチャゴチャ数式を書いてワーワー言っていたかと思うと、半日で終了とかそんな感じ。残されたホワイトボードを見ても、何の研究なのかすら分からなかったりする。『他人のツールを使うなら自分で書いた方が早い!』という輩しかこない。彼らは、まるで見てきたかのように11次元を把握し、メモを書くようにソースコードを書き、飯を食いながらノーベル賞級の論文を書くのだ。見た目は単に野暮ったい若者やオヤジなんだけどな。

かく言う俺も、実は2年間だけ居たことがあるのだが、まともなことは何も出来ずに追い出されてしまった。要するに、当たって砕けたクチだ。そういうわけで、かなり敷居が高い。


「それはそうと、宇宙シミュレータで計算してるときに気付いたんだが……」

俺は、話の流れを変えるため、例の仮想実験を披露ひろうすることにした。シミュレートした結果は持ってきたメモリに入っている。どちらかと言うと、俺としては、こっちの話の方が今日のメインだ。

ヒカルが投げ出したグローブをはめ、表示しているデータを切り替える。打って変わって殺風景な映像。10本程度の平行な探索線トラジェクトリーと、中心にブラックホールがひとつあるだけだ。

「……ブラックホールが仮にここにあるとして、これが回転しているとすると、周囲の時空が引きずられて……おっと!」

中心に浮かばせたブラックホールを手で回し過ぎて、事象の地平面の外側にリング特異点が飛び出し、警告画面が浮かび上がった。あわてて逆回転のブレーキをかける。

「ここに、遠地点から平行に光がやって来ると、ブラックホール回転の順方向では光がすばやく移動して外に出る。でも反対方向は中々出てこない」

「ここは? 光が止まってるみたいだけど」

腕組みしていたヒカルが口を挟む。ブラックホール近傍。光が中々出てこないどころか、よどんで停滞している領域がある。

「ああ。そこはエルゴ面っていう……引きずり速度が光速になる面があって、それより内側には光は進めない」


……そういえば、タイムマシンと言えば、コイツを使うのが定番だよなぁ……ということを思い出す。後は宇宙ひもを使うとか、ワームホールとか……。一番古いのはゲーデルの定常的な一様回転宇宙モデルかな? あれはタイムマシンというよりは宇宙全体が一周して回帰的に戻ってくるという、エルゴート仮説的というか、ダカーポD.C.の付いた楽譜的というか、そういうものだが……。

これら事象の地平線を用いたタイムマシンは、全てその場所で光円錐えんすいが横倒しになる原理を応用している。要するに、基準となるミンコフスキー座標系に対して超光速となり得る場所を利用する。だが、通常はそんな都合のいい場所や物質は存在しない。エキゾチック物質を使ってワープしようとしたら、宇宙全てのエネルギーが必要だという論文すらある。まあ、タイムトラベルする宇宙船の極々近傍きんぼうだけに限定してもの凄くケチれば、銀河ひとつ分くらいで何とかなる……っていう論文も後に出ているが、理論屋のお遊びの域を出ていない。

ところが、今考えているタイムマシンは、。たまたまブラックホールが絡んでいるが、要はエンタングルした粒子が時間差を持って出会えばいいのだから、エンタングルした光の一方を、月まで往復させれば、2.6秒ほどのタイムトラベルが可能だってことだ。原理的には、跳躍時間を延ばすことはいくらでも可能だ。


「ふーん。それで……」

ヒカルはミルクをたっぷり入れた紅茶をすすりながらあいの手を入れた。礼奈は何か真剣な面持ちで聞いているが……分かっているのか?

「ブラックホールを通過して来た光は、元々は同時に出た光だが、左右の時空の引きずりの為に、地球に集結するときには時間差タイムラグを持ってやってくる。エンタングルした光が、一方は昨日、他方は今日やってくる。すると……」

ヒカルがため息をついて、こう続けた。

「今日の光を垂直偏光フィルタで観測すると、昨日の光は水平偏光だと確定する。だから、エンタングルしている片割れの光が、二重スリットを通るようにしておけば、未来の出来事が干渉縞の有無として分かる……という話じゃないの?」

「えっ?」

「つまり、先に届く光を二重スリットに通して、スリットの一方を水平偏光、もう一方を垂直偏光になるようにしておいて、後に届く光をノーチェックで通せば、先にやって来た光は水平・垂直どちらとも確定していないから、二重スリットの。だから干渉縞ができる。でも、後で届く光が水平・垂直どちらであるかを観測したら、先にやってきた光も水平・垂直どちらかが確定しているから、。だから干渉縞はできない。時間的に後で行う観測によって、先に通過した光の干渉縞の有無が決定されるってことでしょ。その事実は、これまで何度も実験で確かめられているわ」


ヒカルに美味しいところを持っていかれて、言葉が出なかった。とんびに油揚げをさらわれた。……何か違う気がするが、そんな感じだ。もちろん、この話はヒカルの専門分野テリトリー。ストライクゾーンど真ん中に違いない。釈迦に説法なのは重々承知の上だが……でも、ちょっとくやしい。

「これって、そのスジの人には有名な話?」

「デジャブだわ……」

「デジャブ?」

何度も聞いて聞き飽きた。ハイハイ、分かった分かった……という意味で『デジャブ』と言ったのだと思った。だが、ヒカルの顔はうつむき加減で、何故か寂しそうだった。こういう時こそ波動関数のポーズをすべきじゃないのか?

「何でも無い……。基本的な事後変位操作のコンセプト実験は今世紀初めに盛んだったから、かなり前。最近は、量子暗号通信で、データを盗聴するエンタングル状態が崩れる筈だから、盗聴を未然に防げるんじゃないか……なんて言う論文がいくつか」

この分野の研究は俺の知らない所でとんでもないことになっているらしい。盗聴前に、盗聴されることが事前に分かるのか? 昔そういう映画があったような……。

「でも、そうすると、盗聴前に犯人を捕まるから、盗聴は成立しない。そうすると……」

「タイムパラドックスが起きる……」

「うっ!」

またもやヒカルに美味しいところをさらわれた。ヒカルは、本当にしょうがないなぁ……というような顔で少し微笑んだ。だが、相変わらず寂しそうな目をしている。

「……でもね。実験室中での検証だけど、そういう場合は振動するらしいわ」

「振動?」

「盗聴する行為から盗聴を防ぐ行為までの間に、観測時間というタイムラグが必ずあるでしょ。その周期によって、干渉縞そのものの有無が周期的に変わるという結論よ。結局、その振動も確率的に決まるから、盗聴できるか、あるいは先に捕まって盗聴できないかという、二者択一の古典的と思える問題も、波動関数で記述されることになるみたい。私は専門じゃないけど、そういう発表をどこかのポスターセッションで見たことがあるわ」

ここまでくるとほとんどついていけない。ともかく、この分野で俺の出番は全くなさそうだ。その表情を察してか、彼女は少しばかりフォローをした。

「まあ、そんなにしょげないで。少なくとも、この現象は実験室の中か、せいぜい数キロの範囲、時間差にして数μ秒のタイムマシンとして働くことしか確認されていない。それもかなり不完全な形でね。あなたのように、宇宙スケールで検証を考えたのは、私の知る限り……」

彼女はまた、ため息をついた。

「……2人目ね」

「もう1人というのはヒカ……、葵さん?」

彼女は両手を上に広げて見せた。ここで波動関数のポーズか……。

「残念。あたしじゃないわ。確かに今はその仕事をいるけど、このアイデアはあたしじゃなくて〈彼〉のものなの」

「〈彼〉? ここの研究者とか?」

「違うけど、まあそんなとこ……。そのうち、会ってもらいたいけど、今の調子じゃまだ無理ね」

「えっ?」

〈彼〉というのは彼女の恋人のことだろうか?。しかし、それなら、わざわざ俺に会わせる必要はない筈だ。となれば、この共同研究に一枚噛んでいるヤツ……ということになるだろう。じゃあなんで姿を見せない。『まだ無理』ということは、そのレベルに俺は達していないということか? 何となく落ち着かない話。率直そっちょくに言うと、ちょっとムカツく。何様?

ヒカルを少しばかり問い詰めようかと思ったが、そこはかとなく、〝ソコはお察し下さいビーム〟が出ていて、聞けなかった。こう見えても、俺はちゃんと空気を読めるぞ!


「あのう……」

見上げると空気を読んでなさそうなのが一人。

「もう一杯、お紅茶飲みますか?」

「……あ。下さい」

「はい!」

礼奈は満面の笑みでカップに紅茶を注いだ。お茶くみ当番じゃあるまいし、この人がココに居る理由も目的も結局分からずじまいだったな。今度暇があったら聞いてみよう。

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