第3章 タイムマシン
ガキの頃の話だ。俺は、星や宇宙が大好きな子供だった。ブラックホールとか超新星爆発とか、分かりもしないのに好きだった。だから、俺にとってのヒーローは、TVアニメとか戦隊ものの主人公ではなく、リアルに働いている科学者だった。今にして思えば、とても扱いにくいガキだったろうと思う。今更ながら先生どうもスミマセンと、お歳暮とかお中元とか、季節に関係なく配って歩きたくなるほどにだ。けれども、ガキだったから、科学のことなんて本当のところ、何も分かっていなかった。
今でも赤面するのは、小学校の頃のノートに俺が描いたブラックホールの漫画があって、それに何かをぶつけると、ブラックホールの一部が欠けたりする
タイムマシンがあったら、当時の俺にコンコンと説教をしてやりたい。いや、しなきゃならない。これは義務だ。俺に
そんな中、俺の一番のヒーローだったのは、戦う物理学者……と形容していいだろう、当時の宇宙工学研究所の重力研究室所属、佐々木主任研究官だった。アインシュタインの最後の宿題と称される重力波検出フィーバーの中、佐々木はXYZ三軸全て同感度のスタンドアローン型重力波望遠鏡の建造を主張していた。地面に横たえる形の共振型重力波望遠鏡はあっても、垂直に吊り下げるものは存在していなかった。たとえ、それらが無かったとしても、国際協力によって、Z軸に相当するデータをもらえばいいじゃないか……というのが、大抵の〝お偉いさん〟の主張だった。当時に限らず今でもそうだが、基礎科学など、
3次元のデータは同一の原理で作動する機器、単独の制御装置によってその精度が保証される。コンパクトでスマート、精度的に優秀な機器を作るのは日本のお家芸ではないか。ならば、国家の威信を賭けででも、そういう装置を作るべきだと。
それから数年後、国産初の……いや、世界初の三軸共振型重力波望遠鏡は完成した。それまで存在しなかった垂直型の共振型重力波望遠鏡は佐々木自らの設計によるものだ。そして、その完成の年。重力波を
そんな佐々木に
それから十数年後。重力研究室は重力研究所として独立し、佐々木は一線を退いて、所長となり、俺はそこで働く研究者となった。所長には『昔、憧れていました』などとは一切言っていない。『TVで見たことあります』程度は言っただろうか? 確か所長は『そうかぁ……』とか言って照れくさそうな顔をしていたように思う。
こんなことを言うと、夢が叶って
科学・技術分野の中で、十数年は長い。途方も無く長い。最新鋭の機器は2~3年で
考えてみて欲しい。例えば、アポロが未だに現役で人を宇宙に飛ばしているとしたら?
ENIACが今なお科学計算に現役で使われているとしたら?
子供の頃憧れたアイドルが十数年後、厚化粧で肩で息をし、現役で踊っていたとしたら?
……そこで働きたい、あるいは直接会いたいと思うだろうか?
重力研の重力波望遠鏡は2年前、5年毎に行われる更新契約を打ち切られる公算が大だった。今となってはコイツの感度は、ちょっとした大学の学生実験で使われるモノより多少良い程度でしかなく、その割に図体もでかい。また、星々の衝突による重力波については、既にあらかたの研究が終わりつつあり、今は、銀河団同士の衝突や、宇宙背景重力波などの、より波長の長い……宇宙空間で展開されるレーザー干渉型でしか感知できない事象の研究が主流だ。すなわち、機械の寿命という観点からも、研究の目的の
俺はその2年前、業務仕分けの税務監察官に対し契約更新の説明をするため、所長と共に霞ヶ関に出向いた。俺の役割は、現在の重力波望遠鏡の直接の担当者として、所長の話を技術的な面でサポートすることだったが、ほとんど出番はないだろうと考えていた。
俺自身、コイツは科学博物館に展示されることが望ましいとさえ思っていた。現役でさえ無ければ、俺は昔のキラキラした目でコイツをみる事ができる気がした。だから、契約は打ち切られて終わり。その方が良いだろうと……。
監察官はあからさまだった。
「既に役目は終わった」
「他機関も、このクラスの重力波望遠鏡は利用していない」
「これ以上、新しい発見が想定されるのか」
「費用対効果を考えろ」
……言いたい放題である。もちろん、こちらも想定問答は作っていて、それなりに答えは用意しているが、監察官の言葉の方が正論だと思える部分が多い。もしも俺がガキのままだったならムキになって反論しただろう。『だって、コイツ、カッコイイんだもん』……と。そいつは理屈なきワガママってもんだ。
それに、監察官は真の敵ではない。どちらかというと同士だ。彼らは我々の主張を、政治家に対し〝専門家〟として伝えなければならない。要するに監察官は、我々が述べた言葉を〝武器〟にして、更に理不尽な相手を説得せねばならない立場にある。我々が監察官を納得させることが出来ないなら、彼らがその上を納得させられる訳が無い。
所長はあくまで
「昔は、この望遠鏡も巨大なものだったかもしれん。沢山の発見もした。それは認める。だが今は、小さい望遠鏡だ。そうだな……。ほら、あの天体望遠鏡の横に付いている小さい……」
「ファインダーですね」
所長は少し笑みを浮かべながら回答した。
「そう。その程度のものだ……」
俺は、その時、所長の横顔を見て息を呑んだ。顔は相変わらず柔和で
「確かに、ウチの重力波望遠鏡は、今ではファインダー程度の感度しかありません。しかしながら、天体望遠鏡には必ず小さなファインダーが付いているんです。どうしてか分かりますか? 理由は簡単です。見るべき星を探すための
「はい!」
面白いことに、他機関は、年代が上がるにつれて観測精度は良くなるものの、成果発表のタイミングが遅れる傾向にある。バージョンアップのたびに機器の特性が変わるため、精度的に行ったり来たりしているものもある。ところが、ウチにある重力波望遠鏡のデータはブレがない。データ的には少しずつしか改善されておらず、結果的に色々と追い抜かれてる面は多いのだが、これほどまでに同じ傾向・安定性を見せている重力波望遠鏡は、他に無いのだ。
「……なるほど、興味深い切り口ですね。あとで、説明資料としてまとめて下さい」
監察官もまた、所長の顔を見てかすかに微笑んだ。
例えば、最高水準の医療スタッフ、最新鋭の機器、専門の医者がひしめく大病院があったとしても、緊急医療チームが無くなることはない。彼らは専門医に比べれば知識も技量も
所長は決して、
その時、俺は誓った。コイツで捉えられる重力波なら、必ず世界で最初にその波源の尻尾を捕まえてやる。尻尾だけでいい。後は煮るなり焼くなり好きにすればいい。だが、
* * *
「駄目っスよ。仕事中に彼女連れてきちゃ」
「だから、仕事だって言ってるだろ! 共同研究だって!」
「仕事で知り合ったんですかぁ。へぇー。中々カワイイじゃないっスか」
「かわ……。お前なぁ……」
あれから三日経っていた。重力研究所の一階にある富士屋食堂で偶然顔を合わせた関山は、五目きしめんをすすりながらニヤニヤしている。悪気は無いのは、これまでの付き合いで分かっているのだが、何でもズケズケ言うヤツだから、時々ムカつく。
「ほれ。これが名刺だ」
俺は関山に、ヒカルからもらった名刺を見せた。
「ふーん。で、アオイちゃんスか? それともヒカルちゃん?」
ああ。名刺裏面の英語バージョンを見たのか。確かにどっちもファーストネームになり得るな……って、そこかい! 見るとこ。第一、AOIと大文字になっている方が名字だってことぐらい知ってるだろ。母音が3つで欧米人は発音し辛いだろな。
「葵が名字で、ヒカルが名前だ。量子コヒーレンス研究室の主任研究員……。そういえば、ここの恒星干渉計も量子コヒーレンスを使っているとか何とか言ってたぞ」
俺は無理矢理話題を変えた。
「ははぁ。まぁ、そうっスねぇ。一応、光子の
「どういう原理だ?」
「今まで知らなかったンですか?」
やっぱりムカつくヤツだ。
「
「あぁ。やっぱりそっちに行きますか。まぁ、フツーに天体を計っている干渉計っていったら、VLBIだのVSOP-4だのに行きますからねぇ。そう考えると、先輩のやってる共振型の重力波望遠鏡も主流を外れてるって言うかなんつーか、老い先短いって感じだし、ウチの研究所はマイナーな機器ばっかで、この先大丈夫ですかね。科振費予算もなかなか取れないし……」
とても所長には聞かせられない会話である。しかし、関山なら所長に対しても面と向かってそれを言うだろう。
「……まあ、その分、競争相手が少なくて、妙な具合に機器が進化しちゃったりして、ガラパゴスみたいで面白いンですけどね。で、何の話でした……?」
頭痛がしてきた。
「ここの恒星干渉計の原理のハ・ナ・シ・だ!」
「ああ、そうでした。
「それくらいは知ってる。運動量と位置は同時に精度よく計れないってヤツだろ? ウチの重力波望遠鏡だって、いくら冷やしても零点振動が残る……」
俺はヒカルの話を思い出していた。古典的な通信手段で送るのは『運動量の和と相対位置』だと言っていた。それから、礼奈の予備実験での説明。確か『スクイーズ状態』が
「じゃあ、話は簡単。遠くの星から届いた光は横向きの運動量がほとんどゼロだから、その分、位置が不確定……」
「はあ?」
「不確定性原理知ってるって言ったじゃないですか」
「言ってる意味が分からん!」
「数百光年も向こうから、このちっちゃいパラボラにぶつかって来るんスよ。少しでも照準が横方向にブレてたら当たんないじゃないっスか」
つまりはこういうことだ。光は数百年間飛んできて、ほとんど横向きの運動成分がないからこそパラボラに当たる。横向きの運動成分がほとんどゼロだから、逆に、横向きの位置がそれだけ不確実だということだ。
「……ということはアレだな。確実にカップ方向へ打てるゴルファーがいたとしても、ボールはカップに入るとは限らないってことだな」
「たとえ話がオヤジっスよ」
「ほっとけ! で、どのくらい位置が不確実になる?」
「まあ星の大きさで変わるんスけど、普通は500光年で3mくらいですかね」
「以外と小さいな……」
「プランク定数、ちっちゃいスからねぇ。まあ、もっと遠くの星なら地球全体に波動関数が広がってる場合もあるし……。でも、遠すぎると
「ふーん。しかし、
「ああ。言い忘れましたぁ。アンテナは2つ用意して検波した後に乗算スんです。3m以上離して
なるほど、彼女の言っていたことが分かってきた。
「アンテナ1つでも
俺は得意満面の顔でニヤケてやった。ちなみに、全然関係ないが、俺が今食っているのはカキフライ定食である。タルタルソースが旨いんだ。太るがな……。
「無理っスよ。そんなの。第一、干渉するには最低2つの波が必要でしょ」
「途中に重力源があって、重力レンズによって2つに分かれた波が1つのアンテナに届く……としたらどうだ?」
関山が珍しく真剣な顔をしている。
「それなら……あり得ます。でも、そんな偶然……」
「偶然じゃない! 探すんだよ、そのピッタリの方位を。おっ?」
不意に携帯のアラームが鳴った。まあ、携帯のアラームは不意に鳴るものと相場は決まっている。鳴りますよと事前のアラームが鳴れば、その事前アラームが不意に鳴ることになるし、じゃあその事前アラームの事前アラームを……って、下らん
「げっ。ジョブが
「ウチのスーパーっスか?」
「そうじゃない。もっと
「そりゃ本当に厄介っスねぇ。今から横浜?」
「放っとくわけにもいかんしな。ちょっと行ってくる」
俺は、カキフライの残りを口に押し込んで、席を立った。二、三歩歩き出した背中から関山のニヤケ声がした。
「そう言えば、ヒカルちゃん、26才独身だって言ってましたよ!」
俺はスッ転びそうになった。んなこと聞いてたんかコイツは……。
宇宙シミュレータは、普通のジョブなら、申請すれば外部からネット経由で使うことができる。俺が地下の研究室に
ちなみに、〈那由他モジュール〉からの
で、その宇宙シミュレータは宇宙開発推進機構が管理していて、
そういうわけで、〈那由他モジュール〉の使い勝手は、〝最低・最悪〟と言わざるを得ないのだが、コイツを利用するのはほとんどが研究者で、当然ながらほとんどが研究目的の利用だから、このような形態でも
以前、
* * *
俺は湾岸沿いに走るリニアに乗り込み、速すぎて焦点の定まらない風景を見ながらジョブが落ちた原因を考えていた。ここから横浜までは300㎞近くはあるが、リニアで行けば1時間ちょいで行ける。そこから先は
これまで、重力波源を特定するために開発した、『
今回、計算に利用できるノード数が桁違いに増えたため、最低限の改造はした。だが、それが原因で落ちたとは思えない。シングルからマルチに切り替えた時のプログラム変更は結構大変だが、最初から複数のノードで最適化されたものは、4が32になろうが128になろうがあまり変化が無い。……というか、ノード数の増減によるパイプラインの分散化効率作業のほとんどは、宇宙シミュレータのメインシステムが勝手にやってくれるから、こちらであまり考慮する部分が無い。
となると、やはり問題なのは〈那由他モジュール〉だ。コイツに任せるのが最適だと思う計算は、メインルーチンから全て追い出すことにした。だから、落ちる原因はココしか考えられない。コイツの扱いはかなり難しい……というか、今までのコンピュータと動作原理が全く違う。通常のコンピュータは0か1のビットで情報を表し、0〝または〟1の情報しか載せられないが、量子コンピュータは0〝かつ〟1が載せられる。今までのビット情報とは違うということで、これを『キュービット』と呼ぶらしい。ヒカルの胸にあった量子コヒーレンス研究室のマーク──天使が2本の矢をつがえていたヤツ──が何故天使だったかというと、キュービットとキューピットをかけたシャレ……らしい。なにか脱力。
〈那由他モジュール〉が得意なのは、全体を全体として一度に処理する作業だ。これまでみたいに、条件毎に場合分けしなくても済む。理屈は分かっているのだが、どうも体が覚えてくれない。そもそも、量子コンピュータは、〝逐次〟に計算する必要が無く、〝マルチ〟に〝アンサンブル〟する必要も無いのだが、
じゃあ、逆に開き直って、『今までのスタイルを変える気は無い!』と、プログラムを変更しなかったらどうなるかというと、〈那由他モジュール〉は、そこいらに転がっているゲーム機より処理速度が遅いシロモノに成り果ててしまうのである。ある意味、非常に贅沢な使い方というか、フェラーリで100m先のコンビニに買い物に行くような。そんなんなら、ママチャリで十分だろと言うか……。
こちらが手を抜くと、全然相手にしてくれない。とことん尽くせばトンデモない能力を発揮する。那由他量子……かなりのツンデレである。
横浜駅は思ったより
外の暑さは相変わらずで、熱気にやられて倒れる前に、さっさと
守衛さんに挨拶してIDカードを渡し、スキャンしてもらって再び受け取り、入退帳簿に記帳する。その気になれば、静脈認証やアイリス認証システム、IDカードには個人のDNA記録までもが入っているご時世だというのに、ここのゲート通過儀礼は、
ゲートを通って、その先の研究者用エスカレータに乗る。右側には、2階までぶち抜きの巨大な一面ガラス張りの壁があり、その向こうで林立するスパコンの群れが見える。向こうが
研究者用のエスカレータは3階までの直通だ。ここまで上がると、スパコンの実物は見えなくなり、普通の研究所のように無味乾燥な空間となる。狭い廊下の先は、全面ガラス張りで端末がびっしりと並んだコンソール・ルームが広がる。誰が言い始めたのかは定かではないが、我々はココを〈金魚鉢〉と呼んでいる。その中でアップアップと泳いでいるのは、様々な研究者だ。ちなみに、内部でのエサやり・エサの持ち込みは禁止である。そりゃそうか。2階には一般客用も兼ねたスパコン展望デッキと、売店、喫茶店が入っている。1階〈リストランテ・スパティオ〉の真上だ。小腹が空いたり喉が
俺は、お気に入りの場所にある端末に座り、IDカードをスキャナにくぐらす。今まではこれで終わりだったが、3日前からはさらに〈那由他モジュール〉専用カードもスキャンさせる。本来ならば、特別なゴールドカードを手に入れたようなものだから、これ見よがしに見せびらかしたい……筈なのだが、なにせ萌え萌えカードなので、人目を気にしてコソコソ。それだけならまだいい。コイツをくぐらすとコンソールの画面が切り替わって……
「お帰りなさいませ。ご主人様!」
……って出てくるんだぜ。しかも、音声付き。広報で一般客相手なら分かるが、何故に研究者しか出入りしないこんなところで、これなんだ。何故こんな仕打ちを受けねばならんのだ。もっと金をかけるべきところがあるだろう。ほんと、
ため息をひとつついてからキーボードを叩き、ログインしてディレクトリを
ファイルには、仮想重力波源から、これまた仮想の重力レンズ源で経路を曲げられた重力波の、大量の
その
で、ある程度
那由他量子にムチ入れか……ふむふむ。いかん! なんか毒されてきた。
分布図は8枚分出来ていたので、9世代目で
『なぜ落ちたか?』……だ。
原因は〈那由他モジュール〉だと言うことは分かっている。コイツが次々と計算をこなしたために、自動作成された格子が次々と
それに、コイツが恐ろしい速さでちゃんと動いたということは、俺もコイツを使いこなしているという証拠だ。やるじゃん、俺。
もっとも、出力結果を受け取るサブルーチンの作り込みが甘かったのは失敗だったが、ここの処理をイジるのは面倒だが難しくはない。何とかなる。
は? 地球と火星の間くらい?
その場所は点ではなく僅かに線状で、円弧状にグルッと回り込んでいるように渦巻いていた。その渦に沿って
「ふぅ……」
俺は、ひとつため息をついた。どちらにしても、この解はおかしい。おそらく、初期条件が
こんな変なものが発生した原因は、まあ、大体分かる。量子は苦手だが古典的な話なら任せてくれ。元々の初期設定は、遠くで発せられた重力波が、途中のブラックホールで曲げられて地球にやってくるというものだ。そして、ちょうど地球周辺が〝焦点〟となる。いや、地球周辺が〝焦点〟となるような条件にワザワザ設定した……というのが正しい。で、重力波は面白いことに、それ自身が重力源になる。だから、重力波が一カ所に集中するようなことがあると、集まった重力波同士がさらに極端に集中して
とりあえず、このままでは何度やっても落ちてしまう。かといって、重力波の観測結果を反映させるためには、地球周辺を〝焦点〟から外すわけには行かない。もっとも簡単な解決法としては、地球周辺のみに限り最小格子間隔を設定して、それ以上は計算させないという条件を付け加えることだ。ある意味、妥協の産物なのだが、それ以外の
どういうアルゴリズムにしようか考えながら、俺は一旦、〈金魚鉢〉を抜け出し、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉でホットコーヒーを飲むことにした。ここは生クリームがのったシフォンケーキが美味い。おやつ時はとっくに過ぎているが、夕食にはまだ早いというタイミングで、店内は割と空いている。海が見える窓際でホッと一息。ここからは見えないが、西日はかなり傾いているだろうことは分かる。本日の営業は、横浜で終わり。プログラムを改良してジョブを
コーヒーを飲みながら、携帯でネットを
俺はしばし考え込んだ。LISA−NETが観測結果を出した後で論文を出してもインパクトが薄いのは当然だ。結果を見てから、それを最もらしく説明するなんてのは誰でもできる。観測前にこういう結果が出るだろうとプレプリントでもいいから出しておいて、それに沿って発見に至った方が断然、カッコいい。多少、外れていてもかまわない。ウチの〈オルガン〉の役目はキッチリ果たせたことになるしな。1ヶ月の間に俺もそれなりの結論を出して、
〈金魚鉢〉に戻って、
今回、8世代までは大丈夫だったのだから、メインルーチンをイジる必要は無い。次世代への計算を始める時に、格子が小さくなり過ぎていたら、
ソースコードはすぐ書けた。
そもそも、空間の格子切り分けは、計算機上に宇宙空間を再現するにあたって、人間の都合で勝手に作ったものなのだから、人間の都合の部分でシミュレーション結果が変化したならば、何をやっているのか分からなくなる。変換によって
もっとも、単に座標変換しただけとか、オイラー的なプログラムをラグランジュ的に変えただけで
たまに物理学会で、単に座標変換しただけなのに、『こんな事実が発見されましたぁ!』と有頂天で話すいろもの発表もあり、その手の発表は、主催者側の
妄想に
既に日も暮れかかってきていたし、そろそろ撤収
その別ウィンドウには、
俺は、とりあえずそのウインドウを閉じ、標準的な質量のブラックホールを配置しただけの、他には何も無い仮想宇宙空間のウインドウを用意した。物事を考えるには、まずはもっともシンプルな設定の方がいい。これは物理屋の鉄則だ。無限遠からやってくる重力波の
こいつを確認するには、
だが、ほぼ一直線だった等時間面は、ブラックホールに到達すると劇的に変化する。その中心部は因果地平に吸い込まれて二度と出てこないため、ぽっかりと穴が開く。穴の大きさは理論上、シュバルツシルト半径の約2.6倍だが、あまりに近づき過ぎたものは極端に曲げられてしまうので、地球にまで到達する
等時間面は、ブラックホール通過後、中心にポッカリ開いた穴を埋め合わせるように縮んでくる。
もっとも、これまで見つかっている数百を越えるブラックホールは、どれもこれも降着円盤を
最終的に地球にまで届いた等時間曲線の形はかなり歪んだ形となった。問題は、左右に分かれた
……と、ここまでは、俺の古典的な頭脳で分かるテリトリーの話。これにヒカルと関山から頂戴した、付け焼き刃的知識のエッセンスをトッピングしてやるとどうなるか?
まず、等時間曲線を構成する
要するにこれは、俺でもよく知っている『2重スリットの問題』そのものではないか。波動関数の広がり分だけ何処を通過したかは分からないのだから、ブラックホールに落ちるヤツは別として、焦点である地球上で、重力波の干渉縞が生じる……というのが量子的な頭脳の結論。
このエンタングル状態をヒカルが研究に使おうとしているわけだが、話はそう単純ではない。カー・ブラックホール……すなわち、回転しているブラックホールの場合、右回りと左回り、どちらを通るかによって重力波の到着時刻が異なるのだ!
ということは、何か? 若い兄と年老いた弟が
心の片隅に引っかかっていたモヤモヤを取ろうとすると、ますますモヤモヤが広がっていく。全くの五里霧中状態である。このまま突っ走っても、おそらく遭難するだけだ。
俺は、これ以上深入りするのを止め、話の原点に戻ることにした。そもそも、ヒカルが語った話では、重力波源から出たエンタングル粒子──光子なのか重力子なのかは曖昧だったが──は、一度引き裂かれた後に重力レンズで地球上で再び集められている筈で、その粒子を使って量子テレポーテーションの実験がしたい……と、そういう提案だった。ということは、右回りと左回りの粒子が地上で出会うというのは最低条件である。『兄は到着したが弟はまだ着いてないんです。どうしましょう?』……的な状況があり得るということは、俺がここでウンウン考えるよりも、共同研究者であるヒカルに話して相談すべきだし、ヒカルに聞いた方が早く答えが出るだろう。
ヒカルには、話をどう切り出せばいいだろうか? 右回りと左回りで出会った2つのエンタングルした光やら重力波やらは、空間的には隣同士にまで戻ってきているが、時間的には『双子のパラドックス』と同じ原理で、数時間とか、下手をすると数十年くらいズレて届いて……くる……から……。
「そうか! そういうことか!」
モヤモヤの中から怪物のシッポが見えた。全体像はまだ見えないが、いずれ全てを引っ張り出すことができるはずた。
エンタングルした右回りと左回りの光があって、右回りの光の方が1日遅く届くとしよう。ヒカルの話では、エンタングルした一方の光を偏光フィルタを通すことによって、水平偏光か垂直偏光かを観測した〝瞬間〟に、他方の偏光状態も確定するという。だが、今回の設定の場合、右回りの光を偏光フィルタで観測しても、その〝瞬間〟に左回りの光の偏光向きが確定するわけではない。今この〝瞬間〟に届いた右回りの光とエンタングルしている左回りの光は、1日前に既に通過しているのだ。
さらにもうひとつ。偏光フィルタで観測されれば、エンタングル状態はその〝瞬間〟に解除される。解除の有無を調べるには恒星干渉計を使う。恒星干渉計で
まず、右回りの光が届く位置に偏光フィルタを置く。そして、左回りの光が来る部分に恒星干渉計を置く。右回りの光を偏光フィルタで観測したかどうかで、恒星干渉計で測定した左回りの光の
つまり、当日の恒星干渉計の
もしも、偏光フィルタが自動制御されていて、『株価が上がった時に設置される』作りだったとしたらどうだ。前日の段階で、恒星干渉計の
こいつはタイムマシンだ。
物理的に過去に行くことは出来ないが、過去に情報を送ることはできる。いや、未来にもだ。左右の関係を逆にするだけでいい。時間のズレ具合は、ブラックホールの規模と回転速度が分かれば計算できるから、干渉させるエンタングル光の経路を選べば、任意の時間に設定できる。任意と言っても、エンタングル光が発射された時刻以前には
携帯のアラームが鳴った。ハッと気付くと既に外は真っ暗だ。アラームの主は
* * *
翌々日、これまでの成果をヒカルに報告するために、お隣へと向かう。運河のような道路は相変わらず。今日は日が照っていないだけ、幾分は涼しい。この前よりは時刻が早いしな。
自動ドアを2つ通って、今日は守衛さんが横に立っているゲートを抜け、その先の各棟に続く通路へ。出勤時間に合わせたから、人もそれなりに多く、動く歩道も動いていた……って、それが普通だと思うが。だが、多くの人はその上をさらに早足で歩いているから、多少は到着時刻が早くなる程度しか、動く歩道の
その間に、携帯から何世代まで計算が進んだかをチェックする。既に23世代まで進んでいるようだ。ついでに、寝ている間に解除していたアラーム音を復活させる。世代計算を終えるたびにアラームが鳴るように設定したのは、
量子情報処理研究棟の2階受付で、にこやかな笑顔と交換で、外来IDカードをもらう。これって、本当に何の役に立つのかな。チップも付いてないようだし……。左通路を進み、ヒカルの研究室『2EⅣ』をノックする。
「はい。開いてます」
返事はヒカルからだった。
中に入ると、紅茶の甘い香りが
「あ。今、紅茶入れますね」
礼奈が
「……おかまいなく」
と言いながら、ちょっとだけ期待。ああ、そうだ。その前に……
「それと、お
「わぁ。『横浜煉瓦』。これ美味しいんですよねぇ! さっそく頂きます!」
「え? 朝から?」
「甘いものは別腹です。ほら、善は急げって言うでしょう」
いや。それは慣用句の使い方違うと思うが……。
ヒカルはソファで、微笑とあきれ顔の中間のような顔をしている。今日のヒカルは礼奈と同じくポニテで、巨大な輪ゴムのような……えーっと、この髪留めの名前は知っているぞ。確か、シュシュとか言うヤツではないか?
礼奈は、もう見るからにテンション上がっていて、いそいそと紅茶を注いでいる。この程度の土産で喜んでもらえるなら、買ってきた甲斐があったというものだ。俺は横浜に
「端末借りますよ」
と、俺。
「どうぞ。テーブルに持ってきた方がいいわよね」
と、ヒカル。
礼奈が紅茶を入れている間に、俺は、ジーパンのポケットからプレゼン用メモリを取り出し、操作グローブを
「あたしも見てていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
……と、礼奈には言ったものの、専門畑が違うから、分からないと思うぞ。遺伝子工学と重力波観測じゃあ、接点は皆無だからな。もっとも、単なる奇麗な3D画像として考えれば、小型プラネタリウムとして楽しめるかもしれない。
ヒカルはどうなんだろう? よく考えると、量子コヒーレンス何とかと言うのも重力波と接点はほとんどない筈だ。だが、俺の論文に目を
そういや、ヒカルと礼奈の関係……量子コヒーレンス研究と遺伝子工学との接点もよく分からない。二人は同じ研究室に居るわけだから、結びつきはもっと強い筈なのだが、はてさて……。
考えていても仕方が無いので、俺は、宇宙シミュレータから持ってきたハードコピーを、いちから説明することにした。学部レベルのゼミだと思って……。
まずは、
「ここは?」
ヒカルは、きらめく星々の中、不自然に一直線になっている光点群を指差した。
「それは
「わぁ!」
蜘蛛の子を散らしたというのはこういうのを言うのだろう。無数にある線が真っすぐに、時には絡まり、時には吸い込まれて消え去ったりして、全体像が次第に現れる。いや、現れなくなってくると言う方が正しい。散らばった蜘蛛の子は、どこかに収束する気配さえ見せず、段々と霧が濃くなるかのように、広がる一方なのだ。
「これが逆解析で得られた第一世代の画像。地球での観測結果を元に、その重力波源をたぐり寄せるとこんな感じ」
「単に広がっているだけで、どこにも中心がない。これ全部が重力波源なの?」
ヒカルが口を尖らせて腕組みをしている。ちょっとイライラしているみたいだ。
「いやいや。これは重力波源候補の集合で、これ全部が重力波源じゃない。この中のどこかに本物が埋まっているとでもいうか……」
「ああ。収縮前の確率分布みたいなものね」
なるほど。そういう表現をするとヒカルは分かりやすいのか。
「……で、どうやって、本物を探し出すの?」
「第一世代は仮定だらけの初期値だから、全然収束しないのは当たり前で、これが次の初期値の元になる。あとは
「ちょっと、ごめん」
「……?」
ヒカルが、例の波動関数のポーズをしている。
「さっぱり分からない。結局、どこに重力波源があるの……?」
気の短いヤツだな……とは思ったが、口には出さず、心の中にしまっておく。
まあ、計算の手法・原理から様々なパラメータまで説明してたら、それだけで夏休みが終わってしまうくらいの時間が必要だとは思う。相手が
それに、このプログラムの横断的な説明はできても、個々の詳細については、俺だってあやふやな部分がある。カルマンフィルタのサブルーチンは関山のお手製だし、アンサンブル手法はオープンソース。ブラックホールのカー・ニューマン解を状態方程式……とすると計算が厄介なので、擬ニュートンポテンシャルを組み込み、
結局のところ、既存の観測結果をちゃんと再現できて、
「うーん。では、世代順に……。このボヤッとしているのが収束すれば、そこが求める星ということだから」
途中の解説を飛ばして、俺は画像を順繰りに映した。細かいこと言えば、収束したとしても、エンジェルエコーと呼ばれる
「……と、これが昨日の終わり、最終の20世代目」
ヒカルは、腕組みをしたまま左上を見上げる。お決まりのポーズだ。左上にはお前の守護霊でもいるのか?
「なーんか、5世代目位までは順調に収束してたみたいな気がするけど……後は変化がよく分からない。あたし、何か見落としてる?」
「いや、見たまま。まぁ、ぶっちゃけそんなもん……だ」
俺は肩をすくめて見せた。ヒカルも同じポーズで
「うーん。礼奈ちゃんどう思う?」
「えっ、えっ!」
それまで、ほわーと見ていた礼奈は、目をパチクリさせて、思いっきり動揺していた。どちらかというと、横浜煉瓦──礼奈に後で聞いたが、フォンダン・ショコラというものに属するケーキだそうだ──を食べて幸せ♡という感じだったので、正直、あまり見ていなかったに違いない。
「えっと、えっと。私にはよく分かりませんでした……」
「ちょっとグローブ貸して」
おいおい。礼奈に話を振っておきながら、フォロー無しかよ。
ヒカルは、俺が差し出した操作用のグローブを奪い取り、20世代分の画像を、拡大したり縮小したり、行きつ戻りつしながら、グルグルと振り回していた。その間、俺は少し冷えた紅茶をすすりながら、ケーキに手をつけた。思いっきり甘い。
礼奈はひとつため息をついてから立ち上がり、例の水槽に近づき、ピペットで何やらゴソゴソしている。これも後で聞いたのだが、アルテミアとか言うエサをあげているのだという。
5、6分した頃だろうか。
「9世代目って何故こんなに時間がかかっているの?」
神のごとき視点で、銀河をブンブン振り回すのに飽きたヒカルが、ログファイルを覗いていた。そこに気付きましたか……。
「地球周辺で、重力波集中による疑似重力場が発生して悪さをしたので、それを切った」
「悪さ? その画像は?」
「えーっと、“9gene.cdf.bak”と……、そう、それ」
ヒカルは早速、画像を開き、地球周辺を拡大して見ていた。
「……何故、これを切ったの?」
「何故って?」
「これが本物って可能性は?」
「全くゼロではないがほとんどあり得ない。でもって、そいつのお陰でプログラムが……」
「もっと調べるべきよ!」
ヒカルは、この奇妙なツイスターを
「髪の毛座方向の探索は? 可能性はそっちの方が……」
「そっちはこれ以上やっても進展が無いんでしょ。こっちが本物よ!」
おそらく、俺は渋い顔をしていたに違いない。だが、それ以上に、こちらを向いたヒカルの目は真剣だった。ほとんど
もし、ブラックホールが地球付近をかすめて飛んで行ったとすれば、それはかなりセンセーショナルなことで、俺としてもワクワクする事態だが、確率的にほとんどあり得ないことだ。地球に偶然、宇宙人がやってくる確率くらい低い。もっとも、だからと言ってそれを無視するのは研究者としてどうかと思う。第一、『世紀の大発見』とか言われるものは、あり得ないくらいの偶然を、
俺が、そのツイスターを切ったのは、確率云々以外に、ちゃんとした根拠がある。もしもコイツが本物だとしたなら、重力波の異常検出程度では終わらない、もっと華々しい観測結果が得られている筈なのだ。ブラックホールは一般に思われているほどブラックではない。地球の近くを通過しようものなら、周辺に様々な
それともうひとつ。こちらは少々個人的な理由で、全く科学的ではない問題なのだが……。
……要は、このツイスターを本物として解析しようとすれば、かなり大幅なプログラム改修が必要だってことだ。適当にパッチを当てるだけではどうにもならない。個別にライブラリ化できればいいが、そうでなければ、メインのソースを大幅に改造しなければならない。もちろん、コイツが本物であるならば、螺旋の渦の先がどうなっているのかは、俺だって興味がある。
で、プログラムの改造には、ブラックホールに対する深ぁーい知識と頭脳が必要になってくる。重力研の中で、その部門を担当しているのが、その名もズバリ、『ブラックホール解析室』……通称〈
確かにあそこなら、それなりのツールが揃っているかも知れないが、およそそのツールは全て作りかけで、研究者個人の思いつきで臨機応変に変えられている筈だ。使い方を書いたマニュアルなんて皆無に等しい。後任が来たときに引き継げなくて困るじゃないか……というのは、我々
かく言う俺も、実は2年間だけ居たことがあるのだが、まともなことは何も出来ずに追い出されてしまった。要するに、当たって砕けたクチだ。そういうわけで、かなり敷居が高い。
「それはそうと、宇宙シミュレータで計算してるときに気付いたんだが……」
俺は、話の流れを変えるため、例の仮想実験を
ヒカルが投げ出したグローブをはめ、表示しているデータを切り替える。打って変わって殺風景な映像。10本程度の平行な
「……ブラックホールが仮にここにあるとして、これが回転しているとすると、周囲の時空が引きずられて……おっと!」
中心に浮かばせたブラックホールを手で回し過ぎて、事象の地平面の外側にリング特異点が飛び出し、警告画面が浮かび上がった。
「ここに、遠地点から平行に光がやって来ると、ブラックホール回転の順方向では光がすばやく移動して外に出る。でも反対方向は中々出てこない」
「ここは? 光が止まってるみたいだけど」
腕組みしていたヒカルが口を挟む。ブラックホール近傍。光が中々出てこないどころか、よどんで停滞している領域がある。
「ああ。そこはエルゴ面っていう……引きずり速度が光速になる面があって、それより内側には光は進めない」
……そういえば、タイムマシンと言えば、コイツを使うのが定番だよなぁ……ということを思い出す。後は宇宙
これら事象の地平線を用いたタイムマシンは、全てその場所で光
ところが、今考えているタイムマシンは、超光速を必要としない。たまたまブラックホールが絡んでいるが、要はエンタングルした粒子が時間差を持って出会えばいいのだから、エンタングルした光の一方を、月まで往復させれば、2.6秒ほどのタイムトラベルが可能だってことだ。原理的には、跳躍時間を延ばすことはいくらでも可能だ。
「ふーん。それで……」
ヒカルはミルクをたっぷり入れた紅茶をすすりながら
「ブラックホールを通過して来た光は、元々は同時に出た光だが、左右の時空の引きずりの為に、地球に集結するときには
ヒカルがため息をついて、こう続けた。
「今日の光を垂直偏光フィルタで観測すると、昨日の光は水平偏光だと確定する。だから、エンタングルしている片割れの光が、二重スリットを通るようにしておけば、未来の出来事が干渉縞の有無として分かる……という話じゃないの?」
「えっ?」
「つまり、先に届く光を二重スリットに通して、スリットの一方を水平偏光、もう一方を垂直偏光になるようにしておいて、後に届く光をノーチェックで通せば、先にやって来た光は水平・垂直どちらとも確定していないから、二重スリットの両方を通れる。だから干渉縞ができる。でも、後で届く光が水平・垂直どちらであるかを観測したら、先にやってきた光も水平・垂直どちらかが確定しているから、どちらか一方しか通れない。だから干渉縞はできない。時間的に後で行う観測によって、先に通過した光の干渉縞の有無が決定されるってことでしょ。その事実は、これまで何度も実験で確かめられているわ」
ヒカルに美味しいところを持っていかれて、言葉が出なかった。
「これって、そのスジの人には有名な話?」
「デジャブだわ……」
「デジャブ?」
何度も聞いて聞き飽きた。ハイハイ、分かった分かった……という意味で『デジャブ』と言ったのだと思った。だが、ヒカルの顔はうつむき加減で、何故か寂しそうだった。こういう時こそ波動関数のポーズをすべきじゃないのか?
「何でも無い……。基本的な事後変位操作のコンセプト実験は今世紀初めに盛んだったから、かなり前。最近は、量子暗号通信で、データを盗聴する前にエンタングル状態が崩れる筈だから、盗聴を未然に防げるんじゃないか……なんて言う論文がいくつか」
この分野の研究は俺の知らない所でとんでもないことになっているらしい。盗聴前に、盗聴されることが事前に分かるのか? 昔そういう映画があったような……。
「でも、そうすると、盗聴前に犯人を捕まるから、盗聴は成立しない。そうすると……」
「タイムパラドックスが起きる……」
「うっ!」
またもやヒカルに美味しいところをさらわれた。ヒカルは、本当にしょうがないなぁ……というような顔で少し微笑んだ。だが、相変わらず寂しそうな目をしている。
「……でもね。実験室中での検証だけど、そういう場合は振動するらしいわ」
「振動?」
「盗聴する行為から盗聴を防ぐ行為までの間に、観測時間というタイムラグが必ずあるでしょ。その周期によって、干渉縞そのものの有無が周期的に変わるという結論よ。結局、その振動も確率的に決まるから、盗聴できるか、あるいは先に捕まって盗聴できないかという、二者択一の古典的と思える問題も、波動関数で記述されることになるみたい。私は専門じゃないけど、そういう発表をどこかのポスターセッションで見たことがあるわ」
ここまでくるとほとんどついていけない。ともかく、この分野で俺の出番は全くなさそうだ。その表情を察してか、彼女は少しばかりフォローをした。
「まあ、そんなにしょげないで。少なくとも、この現象は実験室の中か、せいぜい数キロの範囲、時間差にして数μ秒のタイムマシンとして働くことしか確認されていない。それもかなり不完全な形でね。あなたのように、宇宙スケールで検証を考えたのは、私の知る限り……」
彼女はまた、ため息をついた。
「……2人目ね」
「もう1人というのはヒカ……、葵さん?」
彼女は両手を上に広げて見せた。ここで波動関数のポーズか……。
「残念。あたしじゃないわ。確かに今はその仕事を引き継いでいるけど、このアイデアはあたしじゃなくて〈彼〉のものなの」
「〈彼〉? ここの研究者とか?」
「違うけど、まあそんなとこ……。そのうち、会ってもらいたいけど、今の調子じゃまだ無理ね」
「えっ?」
〈彼〉というのは彼女の恋人のことだろうか?。しかし、それなら、わざわざ俺に会わせる必要はない筈だ。となれば、この共同研究に一枚噛んでいるヤツ……ということになるだろう。じゃあなんで姿を見せない。『まだ無理』ということは、そのレベルに俺は達していないということか? 何となく落ち着かない話。
ヒカルを少しばかり問い詰めようかと思ったが、そこはかとなく、〝ソコはお察し下さいビーム〟が出ていて、聞けなかった。こう見えても、俺はちゃんと空気を読めるぞ!
「あのう……」
見上げると空気を読んでなさそうなのが一人。
「もう一杯、お紅茶飲みますか?」
「……あ。下さい」
「はい!」
礼奈は満面の笑みでカップに紅茶を注いだ。お茶くみ当番じゃあるまいし、この人がココに居る理由も目的も結局分からず
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