第2章 量子テレポーテーション
先に心情を
昨日のヒカルとのファースト・コンタクト、いや、セカンド・コンタクト? うーん、1・5次遭遇ということにしておこう──フラクタル次元だな──は、特に問題なく終わった……と思う。最後は双方タメ口だったしな。だが、それはヒカルにとって〝アウェイ〟だったからなのかも知れない。結局、最後まで共同研究の内容を言わなかったし、何か見せたい実験があるという。もしかすると、俺が断片的に覚えているあの地下施設の出来事は、その
いやいや、『お前が言うな』というツッコミが聞こえるな。
現実的なことに話を戻すと、素粒子研に仕事で行くのは始めてだ。お隣さんではあるが、俺にはついぞ関係ない場所だと思っていた。レストランを除いて……。そして、素粒子研は重力研と比べると、圧倒的に組織がでかい。そもそも重力研は宇宙工学研究所から枝分かれした、言わば
さらに、資金繰りからしても圧倒的な差がある。重力研の親玉は文科省だ。まあ、今のところ基礎研究中の基礎研究であり、直接的に世の中の為になるような研究ではない。科学ロマンとか言えば聞こえがいいが、要は生きていく為には何の役にも立たない、金食い虫の道楽だ。これに対し、素粒子研の親玉は経産省だ。それだけでも十分に金の匂いがするというものだが、実際、量子コンピュータ、量子情報通信の実用化など、
これが20年前なら立場が逆だったろう。当時、『アインシュタインの最後の宿題』と言われた重力波が検出され、国内外で重力波フィーバーが起こった。
一方、量子コンピュータは未だ基礎実験の域を出ていなかった。もちろん、量子エンタングルメント量子中継システムの実用化だの、それによって地球を一周する長距離通信が可能になっただの、
もっとも、地下研究施設のコンクリート壁の外側は、昔の鉱山発掘の
* * *
俺は素粒子研に行く前、所長に
「……失礼します。酒井です」
「おう。入れ」
所長は、手に持っていた何かの決裁文書を机の上に放り出し、ついでにメガネも外した。ロマンスグレーの髪、
「これから、素粒子研まで行ってきます」
「ああ。例の共同研究か……」
「ええ……」
ちょっとした作戦だった。もしも『何しに?』と言われたなら、この話は所長に伝わっていないことになるので、共同研究の話を持ち出せばいい。既に伝わっていたならば、素粒子研へ出向く理由を
「あちらの量情研部長には話をしといたよ。少しばかりお世話になりますってね」
「あ、そうなんですか?」
「出張が増えるだろうが……。まあ、チャッチャと見つけて帰ってくるんだな。
「は、はぁ。そういうものですか。……じゃ、じゃあ行ってきます」
「ご苦労さん」
……変な汗出てきた。
明らかに所長の方が、当の本人の俺より事情に通じている。出張だと? 何のことだ。素粒子研は目と鼻の先にあるから、外勤であって出張ではない。研究都市周遊バスで移動できる範囲なら全て外勤だ。バス券くれるしな。首都圏まで出るとどうか……外勤か日帰り出張か? 規定は100㎞圏内だったかな。詳しくは総務に聞かねば分からんが、イメージ的には飛行機とか最低でも特急リニアで旅行カバン持って泊まりがけで出かけるのが出張だ。
だからと言って、所長が言い間違えたとは思えん。出向とまで言ってたしな。短期間と言えども、アッチに腰を降ろして働けということか。苦手な量子云々がらみで? チャッチャと見つける……って、何を? 一体全体、
……などと愚痴を言っても始まらない。これこそ究極の一人ツッコミってやつだな。
* * *
というわけで、俺は今、素粒子研と重力研を
正面玄関から蝉がうるさい並木を通り抜け、素粒子研の本館前に立つ。敷地が広いので、これが本当に本館なのかどうかは知らないが、正面玄関の正面に建つ、見学者とかの受付がある施設だから本館で間違いないだろう。レストランもあるしな。これで三号館とかだったら、設計したヤツの感性を疑った方がいい。まあ、我々研究者は共通のIDカードで研究都市内の建物ならば大抵は入れるのだが……。
「えーっと……」
ゲートを通り抜け、5台並んでいるエレベータの脇で案内板を見上げ、俺は立ち止まった。確か、2階の事務室と言っていた筈だが、『量子コヒーレンス研究室』と書かれたプレートはどこにも無かった。うーん、困った。ならば
研究都市内にある他の研究所も似たり寄ったりなのだが、1ブロックの敷地全体は1㎞四方くらいあり、あたかも石庭に置かれた石のように各研究棟が散らばっている。その中のひとつ、量子情報処理研究棟の中に量子コヒーレンス研究室はあるらしい。そういえば、所長は『量情研部長と話をした』とか言ってたっけ。ああ、また暑苦しい外を散歩せにゃならんのかと
地下通路への入り口は、この本館のエントランスを横切った向こう側に集中している。歩き出した直後、はたと足が止まった。5台あるエレベータは、手前の1台が通常運転、中央の3台は〝待機中〟とランプが点灯しており、節電モードになっている。残る一番奥のエレベータは
半地下から脱出する短いエスカーレーターを上った先は、やっぱりエレベータホールだった。もっとも、エレベータは2台しかないし、冥土行きエレベータもない。エレベータ脇の案内板を見ると、確かに2階が『量子コヒーレンス研究室』となっている……が、3階もそう書いてある。とりあえず2階に行くしかない。エレベータを使うほどじゃないなと思い、横の階段を上る。何やら節電に気を使っているみたいだしな。
階段を上ってすぐ、エレベータホールの正面に事務室はあった。そこから左右に2本の長い通路が見え、研究室が整然と並んでいる。要するにエレベータホールは、このビルの長辺の端に付いていて、2つの通路で、東と西、そして中央の3つのブロックに分離されている。東西の2ブロックが研究室、中央の窓の無いブロックは倉庫部屋だ。それぞれのブロックは部屋が5つに分けられているから、2階と3階合わせて20もの研究室があることになる。各部屋の上部にはプレートがあるが、単にローマ数字が書かれているだけだ。
そう言えばと思い出し、ヒカルからもらった名刺を引っ張りだすと、『量子コヒーレンス研究室』の文字の横に『2EⅣ』と書かれている。ははぁ、2階東側の四番研究室ってことだな……って、味も素っ気も無い命名法だな。『2年E組4番のヒカル君』みたいなものだ。ちなみに、ここから見て一番奥は、ビルの南向き短辺を全て使った会議室で、3階のそこは室長室となっているらしい。案内板にそう書いてある。
これは後から聞いた話だが、各部屋は取り立てて何を研究する部署と決まっていないのだそうだ。そこの
ただ、少しだけホッとしたのは、ヒカルは20人はいるであろう〝主任研究員〟の中の一人だという事実だ。ヒカルの歳は聞いていないが、俺とそう変わらないと思われる彼女が、この大所帯の中の主任研究員かぁ……と、ちょっとイジケてウジウジしている俺がいたのだ。ホッとしたのと同時に、そういう感情が湧く自分に、少し嫌気が差したのも、これまた事実だ。……何か小さいな。俺って。
いきなり『2EⅣ』に行こうかとも考えたが、まずは事務室へとのことだったので、そちらに向かうことにした。目の前だったしな。
中からは、いかにも事務やってますぅ……という感じのお姉さんがヒョッコリ顔を出し、行き先やら用件を聞き、手際よくIDカードの読み取りを行い、おそらくヒカルの研究室であろうと思われるところに電話をし、最後に『量情2EⅣ外来』と書かれた、首からぶら下げるカードをくれた。これが無いと入れないらしい。警報でも鳴るのかな。
左に曲がって通路を歩く。通路の天面照明は消えたままだが、研究室のドアは上半分がほとんどガラスであり、通路まで漏れる日差しのおかげで結構明るい。ただし、調光
俺がここに来たのは初めて……と思いたいが、少なくとも一回は足を運んでいるに違いない。だが、俺が
ただ、研究者というのは一匹狼が多い。出勤時間もフレックスで
『2EⅣ』の前でプレートを見る。確かに『葵ヒカル』の手書きの文字が踊っている。本当にカタカナの名前なんだな。字は……丁寧だがキレイではない。さらにもうひとつ、その下に『橋本礼奈㋑』というプレートもあった。こっちは何と言うか、乙女チックな字だな。名前はともかく、㋑って何だ。
突っ立っていても仕方が無いので、ノックする。
「はーい」
と、幾分、語尾伸ばし気味の返事。ヒカルの声ではない。中から出てきたのは、大学を出たばかりに見える、ポニーテールに丸めがねをかけた、少しタレ目のかわいらしい女性だ。やはり白衣を着ている。ここの研究員は白衣が必須なのか? 袖口が若干黄色いような気もするが、化学屋でないので、それが何を意味するのかまでは分からない。
「お隣の重力研究所の酒井と申しますが、葵主任研究員は?」
そういって、俺は胸ポケットから名刺を取り出した。今回はちゃんとケースに入れて持ってきている。
「あ。私は橋本と言います。すみません。私、名刺は作ってなくて……。話は
「わかりました」
地下で実験のフレーズに、少しばかり頬の筋肉が引きつったが、出来るだけ平静を
「あ、座ってて下さい」
ボーッと突っ立っていると、
部屋はそれほど大きくはない。机2つと、応接用のソファとテーブル、電気ポットが収納された小さな食器棚、それと壁際に数台の端末があるだけだ。実験装置らしきものは無い。おそらくここは物書きをする程度の部屋なのだろう。広くとってある窓の外は、まばらな林になっていて、朝の光が
「へぇー。重力波計測ってどんなお仕事なんですか?」
俺の名刺を見ながら、礼奈が
「えーっと。例えばブラックホール同士がぶつかったときに生じる重力波とかを観測するって言うような……」
いやいや、我ながらベタな解説だな。相手のレベルが分からないと、どうもやり辛い。
「へぇー。面白そうですねぇ……」
しばし沈黙。
「……ところで、ブラックホールってなんですか?」
そ・こ・か・ら・か! それに、分からないんだったら、面白いか面白くないか分からんだろうがーっと言いたいのをグッと我慢する。まあ、こういう反応はよくあるからな。
「ものすごく重い星が、自分の重さに耐えきれなくなって、最後に一点にまでつぶれた星です」
「へぇー。つぶれるんだぁ……」
なんか、頭痛がしてきたと思ったら、礼奈は続けて……。
「……それって、消えてなくなっちゃうってコトですか?」
「いや、そういうわけでは……」
それで消えて無くなってたら、今頃宇宙はスッカラカンで、ビッグ・リップしとるわい! とかツッコミたかったが、そのツッコミも宇宙論関係者しか笑えないから、余計に話がアサッテの方向に行くだけだし。どうしたものか……?
「お紅茶……どうぞ」
「どうも」
俺が困った顔をしていると、礼奈はニコニコしながら、クッキーと共に紅茶をテーブルに置いた。ミルクと砂糖とスプーンの三点セットも一緒である。うーむ。天然なんだか、計算……ってことは無さそうだが、どう対応したものか。少なくとも、知識というか興味の対象は全然違うベクトル方向を持っていて、多分、外積を取ったら最大になるだろうなぁ……ということが分かる。
俺は、別な話題になるものはないかと、あたりをキョロキョロ見回し、それを発見した。食器棚の中段。おそらく、電子レンジでも入れるための場所ではないかと思うのだが、その空間に水槽が入っていて、その中を小さくて赤いものがフラフラと動いている。金魚か何かだろうか? ふらっとソファから立ち上がり、手を後ろで組みながら近づいて見ると、中心に梅アンコが入っている半透明な和菓子……なんて言ったかなぁ……。そうそう、
「あー。その子は、ツリトプシス=ヌツリクラって言うんですよ」
礼奈は、俺の視線の先に気づいて話しかけてきた。
「つりとと……なんだって?」
「ツリトプシス=ヌツリクラです。この子、あたしの卒論の題材だったんですけど、カワイイからもらってきたんです」
「へ、へぇー」
うわぁ。礼奈さん……俺が想像すらできない分野が専門だったのね。ネタ振っておいて言うのも何だが、この先どうしよう……。
「この子はねぇ。すっごい能力の持ち主なんです……」
* * *
礼奈のキラキラした眼力にたじろぎながら、俺はクラゲ同様、目玉をあちこちに泳がしていた矢先、ヒカルが入ってきた。ホッとすべきなのか? それとも、新たなボスキャラ登場と考えるべきなのか。
「遅れてごめんなさい。ちょっと装置の立ち上げに手間取っちゃって」
「いや、ちょっと早く来過ぎたので……」
今日のヒカルの髪は、目玉クリップのお化けのようなモノで止められている。クリップは髪じゃなくて紙を挟むものだろう。普通……。白衣はこのまえ見た通りだが、首から黄色いゴーグルがぶら下がっている。礼奈の黄色い袖口の意味は分からないが、ヒカルの黄色いゴーグルの意味は分かる。こいつはレーザー光
「あっと、そうだ。橋本サン。スクイーズ光がすぐバラけてるみたいなので、PPKTPをちょっと調整してみて」
「あ、はい」
「それから、クレア側のフィルタが劣化していると思うから替え……、スペアは
「確か、2枚だと。今、確認します」
「いや、いいわ。ズラせばまだ使えるはずよね」
「もう1回くらいは……」
「じゃあ、前回の照射部分を外して回転させてみて」
「わかりました」
「私はここでちょっと打ち合わせしてるから、光量が安定したら電話して。それから、開始の条件はフィデリティ0.98よ。ちゃんと追い込んでね」
「やってみます……」
ヒカルのテキパキとした指示に、食い入るような目で対応した礼奈は、さっきまでの、何というか、ふわふわした
「彼女はね……。東北大大学院理学研究科遺伝子工学専攻のインターンなの。珍しいでしょ、こんなトコに来るなんて」
俺がいつまでもドアの方を見つめていたからだろうか? ヒカルは礼奈の
「何の実験なんです?」
俺は、出してもらったクッキーを一口かじり、紅茶も一口飲んだ。なかなか美味しい。
「初歩的な、量子テレポーテーション実験。でも、扱っているのがネンキンだっていう点が、色々とユニークかな」
「年金? 年金情報をテレポーテーションさせる?」
「そう。ネンキンは低温だと5時間で分裂を始めるんだけど、一度学習させると、今度はもっと早く分裂する。その記憶を、別のネンキン株に転送できるかっていう実験。同じ細胞から分離した2つの株でも、分子レベルの構造は違うから、転送は無理って意見が多いけど、実は
「年金が分裂? お金が?」
「お金? あぁ……」
何か大きな意思疎通の
「
粘菌……聞いたことあるような、無いような。
「アメーバみたいな?」
「アメーバ状にもなるわよ」
「え?」
「なかなか、かわいいわよ」
「…………」
俺は、昔読んだ古典の中に『虫めづる姫君』といふのがあったことを思いだしていた。いとをかし。いとあわれの方がいいのか?
まあ、生物屋にはゾウリムシ萌えとか、ミドリムシ命とか居るから、分からんでも無い。いや、アメーバに萌える気持ちは、俺にはこれっぽっちも無いが、そういう、他人から見れば、『何それ?キモい』と思われる対象物でも、それに夢中になる人がいるという心情は理解できる……という意味で、分からんでも無い。『
ちなみに、
唐突だが、ここでヒカルのあだ名が決定したので聞いてほしい。『地下室の粘菌術師』だ。ということは、礼奈は『ふわふわのクラゲ使い』か。アメーバよりはクラゲの方が、まだマシかな? どちらにせよ五十歩百歩だな。そんなことより、2人とも揃いも揃ってカワイイだけで済ませるなよな。そんなことで女子力アップにはならんぞ。
……と、眉をひそめた俺のことなどおかまい無しで、ヒカルは食器棚から真っ赤なマグカップを取り出し、礼奈がポットに入れた紅茶を注いでいた。そういえば、礼奈自身は飲んでいないんじゃなかったっけ。茶飲む時間ぐらい与えてやれよ。
「……で、」
今日は、俺の方から切り出すことにした。
「共同研究の内容っていうのは?」
俺が言い出した事らしいのに、それを共同研究者から聞かなきゃならんというのは、気が引けるが、仕方が無い。ヒカルは紅茶にミルクをたっぷり入れて飲み始めたところだ。
「たしか、EPR源を重力レンズで曲げて、量子テレポーテーションを行うとか言う……」
「ふぅ……」
ヒカルはため息をつきながら俺の正面に座り、天井を見上げて少し考え込んでいる。視線はやはり左上だ。コイツ、髪の毛だけでなく、瞳の色も、長いまつ毛も栗色だな。
「あなたが追っているのは、〈ゴースト〉とかいう謎の重力波源なんでしょ。でもって、その前方に重力レンズ天体がある。この〈ゴースト〉をEPR源と考えて、左右に広がったエンタングル状態の粒子が、レンズで再び集められる。これを使って量子テレポーテーション実験を行う……というのが、あなたが提案した共同研究の内容……わかる?」
「さっぱり……」
胸を張って答えたいくらいだね。ヒカルはお得意の波動関数のポーズを取った。今回は、真似するとドヤされそうなので、俺は頭だけ
例えば、ヒカルの方から申し込んだとして、申し込みの段階で俺が断ってしまうというリスクがあるから、『あんたが申し込んだんでしょ』として、断られないように策を練る……ということは考えられる。だが、ウチの所長とコチラの量情研部長の間で、既に話が済んでいるような事項だ。もはや俺の一存でどうにかできる案件ではない。
まてよ? そんな重要な話が数日で決定するものだろうか?
もちろん、忘れたことさえ忘れている……ということもあり得る。だが、それならば記憶の空白が発生する筈だ。そのような空白は存在しない。一週間全ての夕食のメニューを言えと言われれば不可能だが、何をしていたか程度なら言える。ずっと地下に
結局、彼女の
EPR源というのは、量子的に絡み合った粒子対を発生させる装置のことらしい。例えば、レーザー光を、垂直と水平の2つの偏向光に分離する
古典的……つまり、俺のような頭の持ち主は、レーザー光が2つの光子に分離された瞬間に、どちらが垂直でどちらが水平かが決定されると考える。コインを投げて表か裏かということは、コインを受け止めた段階で決まっているのであって、それを目で見るのは単なる確認事項に過ぎない。
ところが、量子の世界ではそうではない。それらは観測されない限りどちらとも決まっておらず、どちらか一方が観測された瞬間に、他方も決定されるのだ。すなわち、コインの裏表は、
「瞬間的に?」
「そう、瞬間的に」
「……ということは」
俺はこう続けた。
「十分に離れた光子のどちらかを観測することで、もう一方の光子に情報を送ることができるということ?」
ヒカルは右手の人差し指を立てて左右に振った。おそらく心の中では『チッチッチッ……』とか言っているに違いない。
「よくそういう風に言われるけれど、ちょっと違うの」
と、
「確かに、一方を観測すると、他方も決まる。こっちが垂直ならば、あっちは水平。もしも、偏光向きを手元で自由に変えることができるのならば、数万光年離れた光の偏光も自由に変えられることになるけれど、それは不可能。完全にランダムなの」
「えーっと、手元の観測で、垂直なのか水平なのかは
「そう」
「だから、向こうの観測も
「そう」
「だけど、こっちが垂直ならあっちは水平。あっちが垂直ならばこっちは水平という関係は100%正しいと……」
「その通り!」
ほとんど、先生と生徒の会話である。
「でも、それは、光が左右に分かれた瞬間に水平・垂直が決まっていても同じじゃないのか?」
ヒカルは腕組みをした。ちょっとイラつきオーラが出ている。
「それはさっき、ベルの不等式の破れの話をしたでしょ。分かれた瞬間に垂直・水平が決まっていたなら、偏光フィルタの角度を45度に変えたときに、50%通過とならない。隠れた変数理論じゃ相関に√2だけ差があるの……」
「うーん……」
何か、さっきからこのあたりで堂々巡りをしている。古典的な俺の脳みそでは、到底納得できていないが、ここで行き詰まってもしょうがない。観測問題におけるコペンハーゲン解釈とかの講義を受けにきたわけじゃないんだから。俺は、少しばかり
「……しかし、そのコヒーレント光だか、エンタングル光だかが、何の役に立つんだ? 結局、全て
「エンタングル状態の粒子対は、情報を送るための
「載せる?」
ヒカルは腕組みをしたまま左上を見上げた。考えているときの彼女お決まりのポーズだ。どうせなら人差し指を唇に添えてもらいたいものだが……。
「例えてみれば、ラジオの電波みたいなものかな。音声信号の強弱をそのまま電波に変換しているのではなくて、高周波の電波を使って、AM変調やFM変調して低周波の音声信号を載せているでしょう?」
「
「そうねぇ。古典的にはその概念に近いかしら……」
古典的と言われて少しムッとした。自分で言ったり思ったりする分には気にならないが、面と向かって人に言われると、何か時代に取り残されたような気がして嫌なものである。ヒカルは気にもとめない
「エンタングル状態にある粒子の片割れに、送りたい情報を持った粒子をぶつけるの。そうすると、新たなエンタングル状態になる」
「なるほど。その状態が数万光年離れた向こうに伝わって、情報が届くと……」
「あせらないで。話はそう単純じゃないわ。確かにボブ……相手側のエンタングル状態は変化するけど、偏光状態が
彼女はまた少し悪戯っぽそうに笑った。多分、俺がしかめっ面で
「その状態は、こちらから送った情報と、
「封印した手紙と一緒に、開封する為の鍵も送る必要があるってわけか。なんだかややこしいな。で、その鍵ってのは?」
「アリス……いや、こちらから送った情報と
「ふぅーん。で、その運動量と位置情報とやらはどうやって向こうに送ればいい?」
「そうねぇ……」
ヒカルは、例の波動関数のポーズで
「電話……かしら」
『運動量の和』と『相対位置』の情報を電話で送る。最初は冗談だと思った。が、鍵となるこれらの情報を古典的な通信手段で送るというのは本当らしい。とうに冷めてしまった紅茶をすすりながら、俺は頭の中を整理した。ヒカルは、ミルクをレンジでチンし、ミルクティー……というか、ティーミルクにして窓の外を見て背伸びをしている。
送信者と受信者……歴史的な経緯から、前者をアリスと言い、後者をボブと言うらしいが、アリスとボブは、送りたい情報とは別に、エンタングルした粒子を共有している必要がある。これが
注意する点は2つ。送付したオリジナルの情報は、
注意点の2つ目は、ちょっと深刻……と言うか、モチベーションが下がる話。ボブへ転送された情報は、光速度以下の
俺の古典的な頭が、少しひっかかるモノというか、違和感を感じていた。
「ところで……」
俺は肝心な事を聞くのを忘れていることに、今更ながら気がついた。
「量子テレポーテーションの概略は何となく分かったが……」
「何となくぅ?」
ヒカルはこちらを向き直し、
「で、結局のところ、俺は何をすれば? 出番が全然なさそうなんだが……」
「あなたの論文では、『パルサーの前をブラックホールが横切った』という結論になっていて、そこから来た光をEPR源として利用したい……と、あなたが言ったわけ……」
いや、だから、
「ほら。重力研の上にも移動式の2台のパラボラアンテナがあるでしょ。……アレ、なんて言ったっけ?」
「恒星干渉計?」
「そうそう。それそれ」
「あれは、関山が専門で……。
「あぁ。あの人ね……」
彼女はアヒル口をして、ちょっと不機嫌な顔をした。関山は、ヒカルの到着を、
「あのアンテナも、空間的なコヒーレンスの大きさを見ている装置なんだけど……。あ、これ以上説明しても話が
確かに余計に混乱するだけかも知れないが、そこまで言っておいて『あんたにゃ無理ね』みたいな口調はどうかと思うぞ。
「……要は、EPR源となるパルサーとブラックホールの正確な位置が知りたいの」
「それだけ?」
「そう、それだけ。だって、
ちょっと拍子抜けした。それは、今、俺がやっている仕事そのものじゃないか。俺は俺の仕事をちゃんとやればそれでいいらしい。共同研究でなくてもやらなきゃならん仕事だ。まあ、論文になる前の生データが欲しい……ということなのだろう。研究者同士のデータ相互利用は、現場では『下さいな』『はいどうぞ』的なノリの場合が多いが、そのデータを使って
「しかし……」
俺は少し
「おそらく、正確な位置関係はアメリカかヨーロッパのグループの方が先に突き止める可能性が高い。何しろ、向こうの計算機は……」
「それじゃあ間に合わないの! うちの研究室の宇宙シミュレータ割り当て、32ノード分使っていいわ」
「えっ⁉」
「共同研究なんだから当然でしょ。それに〈那由他モジュール〉も使っていいわよ」
今まで4ノードでケチケチやっていたことを考えれば、これはかなりのことが出来る。もちろん、演算処理がそのまま8倍速になるわけではないが、これだけの計算機資源を使えば第二報の論文も他を出し抜くことが可能かも知れない。こちらには既に、
が、それ以上にオイシイのは〈那由他モジュール〉だ。こいつは最近ようやくできた、我が国が誇る、世界初、
最近、コイツの原理を利用して開発された、
「はい。これ……」
ヒカルは机の引き出しからカードを取り出し、俺に差し出した。萌え系の少女がニッコリ笑っているカードで、アニメか何かのトレーディングカードに見えるのだが……。何だコレ?
「〈那由他モジュール〉の使用許可カード。これが無いと使えないわよ。今のところ門外不出のシロモノだから、現地じゃないと使用不可ね」
カードの情報では、この萌えキャラの名前は『那由他
──ぼぉーっとした容姿に似合わず、聖徳太子並みに一度に人の話を沢山聞けるのが特技。でも、恥ずかしがり屋なので、あんまり見つめると小さくなっちゃいます。パパの名前は
……って、なんですかぁ、これは⁉
俺が、
「そういうキャラクター展開した方が、広く認められて予算も取りやすいんですって。年に一度の一般公開では着ぐるみも出てたみたいだし……。グッズも出てるわよ」
そういって、ヒカルは『那由他モジュール稼働記念』と金文字の踊ったボールペンを見せてくれた。ノック部分からプラプラと、キャラがぶら下がっている。いやはや、何とも。
「ここだけの話だけど……」
ヒカルは声を
「このキャラ、一応、一般公募で決めたんだけど、最後は部長が是非にと、コレに決まったらしいわ……」
「じゃあ、ここの部長はオタクでロリ……」
ヒカルは素早く、人差し指を俺の口に押し当てた。顔が近いぞ。
「あたしが言ったって言わないでよ」
「い、言いまひぇん……」
* * *
グッドタイミング……なのかどうか分からないが、ヒカルの机にある端末のアラームが鳴る。見ると、礼奈の顔のアイコンが端末上で飛び跳ねていた。おおっ。すっかり忘れていた。ヒカルは端末まで歩き、アイコンをクリックする。
「橋本です。準備できましたぁ」
「わかったわ。今行く」
ヒカルはそういうと、机に置いてあったレーザーゴーグルを持ち、こちらを振り向いた。
「準備ができたみたいなのでついて来て。予備実験だけど……」
「どこへ?」
「地下……」
『出たな、地下室の粘菌術師め! その手にはのらないぞっ!』……と言えるわけもなく、後に続く。エレベータホールまで行って、そのままB3が押される。地下といっても、例の斜行エレベータまで行くのではないようだ。少しホッとする。B3でドアが開くと、眼前のエレベータホールの光景は2階とあまり変わらない。ただし、通路は左壁側にひとつあるだけだった。もちろん窓は無い。通路の右側だけにドアがあり、部屋があるという構造。部屋は全部で3つしかないから、ひとつひとつはかなり大きい。
ヒカルは一番奥のドアで立ち止まった。ドアには中の様子を
中からは、パッ、パッ、パッという規則正しい音がかすかに聞こえている。
ヒカルはドアの右横にあるスリットにIDカードを通し、インターフォンらしきボタンを押した。
「あ。入れます」
インターホンから、
「はい、これ」
ヒカルは棚においてある、外来用と書かれたレーザーゴーグルを俺に手渡した。
「それと、ここ、土足禁止だから……」
と、これまた外来用と書かれた足元のスリッパを
内側のドアには小さな窓があり、何やら無数の光学系機器が並んでいるのが分かる。さらにその中を、レーザー光が縦横無尽に走っているのが見えた。まあ、可視光で見えるだけマシだ。その昔、学生実験でエックス線のステレオ画像を採取していたときは、見えない恐怖があったなぁと、古いことを思い出した。
外部ドアが閉まっていることを、ヒカルが指差し確認する。もっとも、閉まってなければ内部ドアは開かないから、チェックする必要も無さそうなものだが、そういう動作確認行動が刷り込まれているのだろう。動作に無駄が無い。無駄の無い無駄に洗練された無駄な動き。内部ドアを開けると、パッ、パッ、パッと周期的な音が一層大きくなった。どうやら、レーザーがパルス状に出ていて、その
「じゃあ、橋本サン。酒井さんに、この実験の概要を説明してあげて。学部レベルのゼミだと思って」
……最後の一言は余計だ……とは思ったが、分野が違えば素人同然。正しい指摘だろう。
「はい。えー、今から行うのは、量子エンタングルメントを用いて、2株の粘菌の変形体が記憶した低温情報を互いに交換できるか? という実験です。変形体は低温下で5時間置かれるとフラグメント化しますけどぉ、5時間という時間はトータル時間であって、途中で低温状態が中断してもいいです。ですから、4時間だけ低温下に置かれた粘菌は、次の機会に1時間だけ低温となればフラグメント化しちゃいます。そこでぇ、低温状態を全く経験していない粘菌株と4時間経験した株を用意し、情報を交換できれば、この実験は大成功です。量子エンタングルメントに使うスクイーズ光はPPKTP結晶を使い、共振器内ロスの排除および位相ゆらぎの制御を行って……」
「ちょ、ちょっと……いいですか?」
あまりによどみなく
「まず、粘菌ってどんなものですか?」
「あ、ここに入ってます」
礼奈はそういうと、実験装置の左右に置かれた、ドラム式乾燥機のような装置のフタを開けた。乾燥機とは違い、大きさの割に中の空間はかなり狭い。
「
「はい。
何故、ワザワザNMRをMRIと言い直す? 物理屋ならNMR……と思ったが、よくよく考えると、礼奈は遺伝子工学専攻のインターンとか言っていたから、医学屋に近いのかも知れない。礼奈はこちらを見て
「で、こちらがディクチオステリウム=ディスコイディウムという……」
「な。なんだって⁈」
またまた出てきた、舌を噛みそうな名前。クラゲの時もそうだったが、よくもまあ、スラスラと言えるものだ。
「えーっと、和名がキイロタマホコリカビという粘菌です」
見たまんまを和名にしたんだろうなと思いつつ、その狭い空間から静々と出てきたのは、プレパラートに載った、やはり名前の通りの黄色い
「……はぁ」
それしか言葉が出なかった。コイツのどこが可愛いのか? 断然、クラゲの方がまだマシだな。それなりに
礼奈は、それをまた元に戻し、装置の
「……で、フラグメント化というのは?」
「えーっと。この粘菌は、今は塊状ですけどぉ、5時間ほど15度以下にすると核数8の球状の変形体に分裂します。それがフラグメント化です」
ますます可愛くない。最近リメイクされた、遊星からの何とかっていう映画に出てくる微生物みたいなモンじゃないか。あんなのが大量にあって、ピクピク動いてたら
「ということは、既にこれは4時間程冷やしてあるから、あと1時間ほど追加で冷やせば分裂するということ?」
「はい。そういうことです」
「で、あっちの『ボブ』の方には、冷やしていないヤツが入っていると……」
「はい。そういうことです」
「……で、情報の交換というのは? 量子テレポーテーションなら、情報の移動というか転送で、交換では無いと思っていたので……」
「えーっとですねぇ……」
礼奈はちょっと困った顔をして手元の資料パッドを操作している。
「量子テレポーテーションは確かに情報の移動だけで、複製はできません。そこで、量子エンタングルメント状態そのものを量子テレポーテーションさせます」
既に、何言っているのかよく分からんが……。
「え? エンタングルした光を使って『アリス』から『ボブ』に情報を送るのでは……」
「はい。量子エンタングルメントした状態そのものを『アリス』として、これとは別の量子エンタングルメントした光で移動させるのですが、移動させた『アリス』そのものが量子エンタングルメントした光なので、さらにこれを使って、量子テレポーテーションができるわけです。この2つの量子テレポーテーションを対等に行うのが、いわゆるエンタングルメント・スワップという概念で、双方向の情報通信が可能となります。ただし、必ず複数の量子エンタングルメント光を使うので、それらを制御する受け皿が必要で、これを『クレア』と呼びます」
礼奈は、ここまで言い
「ここにも、粘菌が?」
「いいえ。『クレア』は情報の発信源ではなく中継地点なので、誤り訂正用も含めて複数の量子エンタングルメント光を発生させる
「な……、なるほど……」
よく分かった。俺には絶対理解できない
「……それともうひとつ、基本的な部分で気になる点があるんだけど?」
「なんでしょう?」
いやいや、
「小さな粘菌といえども、分子レベルからすればものすごく巨大で、その情報量と言ったらとんでもない量になるのではないかと……?」
「はい。分子ひとつひとつのデータを読み取ったならば、最低でも分子数と等量の量子エンタングルメントした光が必要ですし、仮にそれが可能だったとしても、情報交換させる分子が1対1対応していることはまずあり得ません。現在の、1対1対応による双方向の量子エンタングルメント光情報通信速度は毎秒……えーっと、10の18乗オーダーがやっとです。現実的なレベルになるには、あと百万倍程度の高速化が必要です……」
礼奈は顔と雰囲気に似合わず、とても
助け舟を
そんな俺のアップアップ感に、礼奈は全く気づくことなく、話を先へ先へと進める。
「……そこで、私たちは、
礼奈は、先ほどと同じように、『ご一緒にポテトはいかがですか?』と言わんばかりの笑顔でこちらを見ている。俺の頭からは湯気が出てる。絶対出てる。ロボットだったら爆発して部品が飛んでるし、自動車だったらラジエータが焼け焦げているだろう。そんな状態。
「ええっと……。もしも、2つの粘菌が全く同じ状態のものだったら?」
「その場合は、全てがコヒーレントな状態なので、情報は何も交換されません。別な言い方をすれば、全ての経路の総和がゼロだということです」
「では、逆に全然別のものだったら?」
「使用している機器の出力と、
「……どうやって?」
「今回の場合は、単一細胞核から培養して株分けした粘菌を使いました」
「赤の他人より、双子の方が共有する情報が多いってこと?」
「え? まあ、そんなところです……。他には何か?」
「いえ。大体のところは分かりました」
ヒカルの方を見ると、壁にもたれかかって下を向き、両手の指先を内側に丸めて爪をこすり合わせている。枝毛むしりの後は、爪磨きか? いい気なもんだ……ったく。俺の質問が終わったのを受けて、ヒカルは顔を上げ、こちらを見た。俺と目が合ったことに少し気恥ずかしいような表情を見せたが、それは一瞬のことだった。
「……じゃあ、そろそろ始めましょうか」
ヒカルはそう言うと、礼奈に目配せをした。この実験が何度目なのかは分からないが、礼奈はかなり慣れた手つきで、コンソールを叩き、計器に目をやり、レーザー光の最終出力調整を行っていく。
「この実験の難しいところはね、相手が生きている……という点なの」
ヒカルは、独り言のように
「……動植物の情報処理能力とか記憶とか、そういうものの物理的な動作原理は分かっているけど、実際、どのように蓄積されたり活用されたり、発想の
「分からないまま?」
「そう。分からないまま。そもそも、全く同じ動きをする生物がいたとしても、その動作の根源となっている部分の回路が全く同じということはあり得ないでしょ。粘菌には頭脳は無いけど、組織化された行動をする。個々が好き勝手に自由に生きている筈なのに、全体として最大多数に最適な環境を選択している。でも、その行動を
「それじゃあ、普通に考えると、違うネットワーク上の原子やら分子の励起状態の情報を交換をしても、その後の動きまでがちゃんと交換されるとは思えないんだが……」
「普通はね……。常識的にそんなことはあり得ない」
彼女は何か遠い景色でも見ているような口ぶりだった。確かに、動作が同じだとしても、そこに至る経路は数限りなくあるわけで、それら経路が違うモノ同士の情報交換などできるとは思えない。あるコンピュータに、アーキテクチャの違う別のコンピュータのバイナリコードを流し込むようなもので、それがちゃんと動くと考える方がおかしい。
「……でもね。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した部分を自発的に選択して入り込むらしいことが分かってきた。その状態が最もエネルギー的に有利だから。だから、一方を逆位相にすれば、最も似ていない部分だけが相互交換される。量子はどの経路が最適かを瞬時に判断できるの。これはまだ作業仮説に過ぎないんだけど……」
俺は、屈折の法則を最小作用の原理で解くような……あるいは、変分法で汎関数の停留値問題を解くようなイメージを頭に
不思議なのは、光は、どの段階でシャボン膜の厚さを知るのかという点だ。ある光がシャボン玉の表面にやってきて、シャボン膜の内側から反射してきた光と出会ったときに、情報を交換するのか? このとき逆位相だったら、後から来た光は直進すれば良いことになるが、逆位相だということを知るためには、先行して引き返して来た光が必要ということになる。すなわち、先行した光は、直進すべきところを引き返した……という矛盾を
現実には、膜の厚さを知るための、先行した反射光は必要ないことが分かっている。例えば、1秒毎に光子を1粒ずつ発射する装置を考えてみればいい。この場合、膜の周辺にはいつも1粒の光子しかいない。膜を透過すべきか、あるいは反射すべきかを知らせてくれる他の光子はどこにも存在しない。にも関わらず、光子は、膜の厚さを最初から知っていたかのように振る舞い、厚さに応じた行動──直進か反射かの選択──を難なくこなすのだ。
おそらく同様な……しかしそれ以上に恐ろしく複雑な過程が、エンタングル状態の光子同士の相互干渉では起きているに違いない。たった1つの光子でも、あたかも知性を持って行動しているかのように振る舞うことがあるのだから、それらが
「準備できました!」
礼奈の明るい声が
「酒井サン、押してみる?」
ヒカルが覗き込むような目でこちらを見ている。先ほどまでの、何か思い詰めたような表情と言葉は既に無くなっていた。
「え? 何をすれば……」
「このエンターキーを押すだけ。簡単でしょ。これで粘菌の記憶はあなたの手に
ヒカルは微笑んだ……というより、マッドサイエンティストが新しい
「じゃあ、
俺は、大げさに手を振り上げ、キーを押した。画面には様々な表示が、洪水のように流れていったが、装置自身には物理的な変化はない。パッ、パッ、パッというジェネレータの音も相変わらずだ。数秒もしないうちに再びプロンプトの点滅に戻る。ただ、画面には
「えっ? ……これで終わり?」
「そ。結果は、2つの粘菌をさらに1時間冷やせば判明するわ」
礼奈は、いそいそと『アリス』と『ボブ』の
そうこう考えているうちに、礼奈はさっさと装置の蓋を閉め、レーザーの発振を止め、端末のシャットダウン操作まで始めている。準備に1時間かかった割には、
俺は、ふと、ヒカルが言っていた言葉を思い出し、質問をしてみた。
「この実験は〝予備実験〟だと言っていたが……、本番は?」
ヒカルは何故か鼻で笑った。
「それはここでは出来ないわ。地下実験施設に大規模な装置があるから。……今から見に行く?」
「え? い、いや、それはまた今度……」
地下実験施設とは、おそらくあの部屋だ。話のスジとしては、俺が共同研究を申し込んだんだから、その実験装置を見に行ったとしても、何らおかしい事はない。今すぐにでも見てみたい気もする反面、止めといた方がいいと心の何処かで引き止める自分がいる。もう少し心の準備が必要みたいだ。
俺は、ヒカルと礼奈にお礼を言い、今日はそのまま帰ることにした。『一緒にランチでも』と、礼奈に誘われたが──なぜ共同研究者であるヒカルは誘わないんだ!──、俺の頭脳は既にオーバーフロー気味……気味じゃなくて完全にオーバーフローだ。もう、午後は半休を取って寝たい気分だ。
はてさて、そんなこんなで翌日のヒカルからのメールには、黄色いブロッコリーのかけらのような球体が沢山映った、明らかに食事時には見たくない顕微鏡写真が送られて来ており、実験が成功したという
一体全体、何を交換するつもりなのだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます