第2章 量子テレポーテーション

先に心情を吐露とろしておこう。その日、少々気が重かったのは確かだ。もちろん、素粒子研には何度が足を運んだことはあるし、1階エントランスから続くレストラン〈ニュートラリーノ〉のメニューは粗方あらかた知っている。〝豚肉のカピタ〟とかいうヤツがうまい。が、あんなことがあって、這々ほうほうていで逃げ出してきた場所だ。何か見えない結界が張ってあるような感じすらする。ドラキュラが意を決して教会に侵入する時とかこんな気持ちだろうな。きっと。

昨日のヒカルとのファースト・コンタクト、いや、セカンド・コンタクト? うーん、1・5次遭遇ということにしておこう──フラクタル次元だな──は、特に問題なく終わった……と思う。最後は双方タメ口だったしな。だが、それはヒカルにとって〝アウェイ〟だったからなのかも知れない。結局、最後まで共同研究の内容を言わなかったし、何か見せたい実験があるという。もしかすると、俺が断片的に覚えているあの地下施設の出来事は、そのまわしい実験の一部で、ヒカルは実はMADサイエンティストとしての裏の顔がぁ……とか。

いやいや、『お前が言うな』というツッコミが聞こえるな。


現実的なことに話を戻すと、素粒子研に行くのは始めてだ。お隣さんではあるが、俺にはついぞ関係ない場所だと思っていた。レストランを除いて……。そして、素粒子研は重力研と比べると、圧倒的に組織がでかい。そもそも重力研は宇宙工学研究所から枝分かれした、言わば外郭がいかく団体のようなものだ。だから、素粒子研と対等な組織規模なのは宇宙工学研であり、重力研ではない。

さらに、資金繰りからしても圧倒的な差がある。重力研の親玉は文科省だ。まあ、今のところ基礎研究中の基礎研究であり、直接的に世の中の為になるような研究ではない。科学ロマンとか言えば聞こえがいいが、要は生きていく為には何の役にも立たない、金食い虫の道楽だ。これに対し、素粒子研の親玉は経産省だ。それだけでも十分に金の匂いがするというものだが、実際、量子コンピュータ、量子情報通信の実用化など、実利じつりに結びつく目覚ましい成果を上げている。何しろ、古典的な原理のスパコンで100年以上はかかる暗号を数秒で解いてしまうのだから、ムーアもビックリのパラダイムシフトだ。そして、その根幹こんかんにある物理的な概念が量子コヒーレンスや量子エンングルメントであり、ヒカルは『量子コヒーレンス研究室』の主任研究……いや、主任研究だと名乗った。研究の中身は知らないが、どう考えても花形街道まっしぐら……って感じがする。


これが20年前なら立場が逆だったろう。当時、『アインシュタインの最後の宿題』と言われた重力波が検出され、国内外で重力波フィーバーが起こった。いくつかの機関が立ち上がり、雨後のタケノコのように重力波望遠鏡が増え、あちこちで誘致合戦が行われた。

一方、量子コンピュータは未だ基礎実験の域を出ていなかった。もちろん、量子エンタングルメント量子中継システムの実用化だの、それによって地球を一周する長距離通信が可能になっただの、忠実度フィデリティが0.9を越えただの、デコヒーレンス時間が1秒に達しただの、様々なマイルストーン的な成果はあったのだが、如何いかんせん、専門的過ぎる。そういう俺だってよく分かっていない。まあ少なくとも、一般ウケしないことは確かだ。速さが百万倍のコンピュータが出来たわけでもないし、半死半生の猫が作り出されたわけでもない。公開されている当時の事業仕分け議事録映像を見ると、『これがいったい何の役に立つのか?』という税務監察官からの質問があったりする。今なら言える。『20年も経てば、あなたがたは量子エンタングルメントされた物質に税をかけるようになるでしょう』……と。

諸行無常しょぎょうむじょう盛者必衰じょうしゃひっすいというか、人間万事塞翁さいおうが馬というか、いや、ちょっと違うな。まあ、そういうことで、今、風前の灯火なのは重力波研究の方で、飛ぶ鳥を落とす勢いなのが量子コヒーレンス研究の方だということだ。

親方おやかた省庁が同じだったらここまで差は付かなかっただろうなぁ。ただしその場合、ウチの方は奇麗さっぱり無くなって、民間に委託いたくされていたりして……。っていうか、少なくとも、道をへだてて精々数百メートルの距離で、地下千メートルまでのエレベータを別々に作ることは無かっただろう。千メートル上って地上を少し歩き、また千メートル下るのは効率が悪すぎる。地下通路作るだろ、普通。

もっとも、地下研究施設のコンクリート壁の外側は、昔の鉱山発掘の名残なごりで、縦横無尽にトンネルが走り、採掘場が点在していて迷路のようになっている。地下研究施設を直進で結ぶトンネルを新たに掘るには、これら既存きぞんのトンネルを把握し、落盤とかの危険を排除しなければならない。法律的にも許可が出ない気がする。噂では、あらゆる地下施設は、既存のトンネルを辿たどっていけば、どこかでつながっているという噂だ。あくまで噂だけどな。


        *  *  *


俺は素粒子研に行く前、所長に経緯けいいを報告することにした。一応、組織の一員なんだし、勝手に動くわけにはいかんだろう。ただ、問題なのが、俺自身、その共同研究の中身をということだ。そして、所長に何処どこまで話しているのかということも全く覚えていないのだ。とは言っても、報告しないとなおさらこじれる。えーい、ままよ。

「……失礼します。酒井です」

「おう。入れ」

所長は、手に持っていた何かの決裁文書を机の上に放り出し、ついでにメガネも外した。ロマンスグレーの髪、柔和にゅうわな顔がこちらをのぞく。俺はこの人のけわしい顔を見たことが無い。昔のTV映像以外は。

「これから、素粒子研まで行ってきます」

「ああ。例の共同研究か……」

「ええ……」

ちょっとした作戦だった。もしも『何しに?』と言われたなら、この話は所長に伝わっていないことになるので、共同研究の話を持ち出せばいい。既に伝わっていたならば、素粒子研へ出向く理由を詮索せんさくされることは無いだろう。どうやら後者だったようだ。

「あちらの量情研部長には話をしといたよ。少しばかりお世話になりますってね」

「あ、そうなんですか?」

「出張が増えるだろうが……。まあ、チャッチャと見つけて帰ってくるんだな。出向しゅっこうも考えたんだが、期間が分からんと中々難しくてな」

「は、はぁ。そういうものですか。……じゃ、じゃあ行ってきます」

「ご苦労さん」

……変な汗出てきた。

明らかに所長の方が、当の本人の俺より事情に通じている。出張だと? 何のことだ。素粒子研は目と鼻の先にあるから、であって出張ではない。研究都市周遊バスで移動できる範囲なら全て外勤だ。バス券くれるしな。首都圏まで出るとどうか……外勤か日帰り出張か? 規定は100㎞圏内だったかな。詳しくは総務に聞かねば分からんが、イメージ的には飛行機とか最低でも特急リニアで旅行カバン持って泊まりがけで出かけるのが出張だ。

だからと言って、所長が言い間違えたとは思えん。とまで言ってたしな。短期間と言えども、アッチに腰を降ろして働けということか。苦手な量子云々がらみで? チャッチャと見つける……って、何を? 一体全体、一昨日おとといの俺は何を約束して来たんだ。ちょっと説教してやるから、俺の目の前に出て来やがれってんだ!

……などと愚痴を言っても始まらない。これこそ究極の一人ツッコミってやつだな。


        *  *  *


というわけで、俺は今、素粒子研と重力研をへだてる、運河のように広い道路の前に立っている。まだ9時前だと言うのに、太陽は今日も元気に陽炎かげろうを作り、せみはワシワシ鳴いていた。朝のラッシュアワーは抜けたとはいえ、車は切れ目無く走っており、向こうにするタイミングがなかなか見つからない。道路の左右を見ると、メラメラと逃げ水がうごめいていて、本当に運河みたいになっている。結局、向こうに渡れたのは2分ほど経ってからだった。その間、俺はミーアキャットのように突っ立ち、扇風機のように左右を見、缶コーヒー1本分の汗をかいた。既に、戦力30%ダウンだ。先が思いやられる。

正面玄関から蝉がうるさい並木を通り抜け、素粒子研の本館前に立つ。敷地が広いので、これが本当に本館なのかどうかは知らないが、正面玄関の正面に建つ、見学者とかの受付がある施設だから本館で間違いないだろう。レストランもあるしな。これで三号館とかだったら、設計したヤツの感性を疑った方がいい。まあ、我々研究者は共通のIDカードで研究都市内の建物ならば大抵は入れるのだが……。

「えーっと……」

ゲートを通り抜け、5台並んでいるエレベータの脇で案内板を見上げ、俺は立ち止まった。確か、2階の事務室と言っていた筈だが、『量子コヒーレンス研究室』と書かれたプレートはどこにも無かった。うーん、困った。ならば守衛しゅえいさんに聞こう……と思ったが、少しばかり躊躇ちゅうちょする。一昨日の深夜のドタバタを見ていたんじゃないかと……。『ああ、あんときの』とか思われるとちょっと恥ずかしい。で、結局、もう一度案内板を見上げることになった。少し視線を横にずらすと、素粒子研の敷地内の他の建物の地図が載っていることに気づく。

研究都市内にある他の研究所も似たり寄ったりなのだが、1ブロックの敷地全体は1㎞四方くらいあり、あたかも石庭に置かれた石のように各研究棟が散らばっている。その中のひとつ、量子情報処理研究棟の中に量子コヒーレンス研究室はあるらしい。そういえば、所長は『量情研部長と話をした』とか言ってたっけ。ああ、また暑苦しい外を散歩せにゃならんのかと辟易へきえきしていると、全ての棟は地下通路で繋がっていることを発見した。さすが経産省。いや、それは関係ないか。しかし、今までここの研究所内の構造をちゃんと理解していなかったことに、我ながら驚く。俺にとって、ここの施設は単なるレストランだったというわけだ。どうもスミマセン。


地下通路への入り口は、この本館のエントランスを横切った向こう側に集中している。歩き出した直後、はたと足が止まった。5台あるエレベータは、手前の1台が通常運転、中央の3台は〝待機中〟とランプが点灯しており、節電モードになっている。残る一番奥のエレベータは異彩いさいを放っていた。コイツだけ色が違い、ひと回り大きいのだ。そして、押しボタンがあるべき場所には、特別に静脈認証プレートがはめ込まれていた。そうだ。コイツが例の地下千メートル直通エレベータだ。今見ると、いかにも『冥土行き特別列車入り口』という風貌ふうぼうに見えてくるから不思議だ。今まで何度も横を通っていた筈なのに、全然気づかなかった。恐いもの見たさで、もう一度下りてみたい気もするが、今は止めておこう。そのうち行くこともあるかも知れないしな。

いわく付きのエレベータの横を通り過ぎ、隣接するレストランの日替わりメニューを確認しつつ、その先の地下通路へ向かう。申し訳程度のエスカレータを下ると、その先は動く歩道となっていたが、やはり節電対策で、単なる歩く歩道と化していた。歩道は何本ものレーンがあり、途中で枝分かれしている。地下通路といっても天井がガラス張りの半地下で、日差しがまぶしい。量子情報処理研究棟の矢印を、目で追うこと約10分。素粒子研の敷地を縦断するような形で、俺はようやくそこにたどり着いた。

半地下から脱出する短いエスカーレーターを上った先は、やっぱりエレベータホールだった。もっとも、エレベータは2台しかないし、冥土行きエレベータもない。エレベータ脇の案内板を見ると、確かに2階が『量子コヒーレンス研究室』となっている……が、3階もそう書いてある。とりあえず2階に行くしかない。エレベータを使うほどじゃないなと思い、横の階段を上る。何やら節電に気を使っているみたいだしな。

階段を上ってすぐ、エレベータホールの正面に事務室はあった。そこから左右に2本の長い通路が見え、研究室が整然と並んでいる。要するにエレベータホールは、このビルの長辺の端に付いていて、2つの通路で、東と西、そして中央の3つのブロックに分離されている。東西の2ブロックが研究室、中央の窓の無いブロックは倉庫部屋だ。それぞれのブロックは部屋が5つに分けられているから、2階と3階合わせて20もの研究室があることになる。各部屋の上部にはプレートがあるが、単にローマ数字が書かれているだけだ。

そう言えばと思い出し、ヒカルからもらった名刺を引っ張りだすと、『量子コヒーレンス研究室』の文字の横に『2EⅣ』と書かれている。ははぁ、2階東側の四番研究室ってことだな……って、味も素っ気も無い命名法だな。『2年E組4番のヒカル君』みたいなものだ。ちなみに、ここから見て一番奥は、ビルの南向き短辺を全て使った会議室で、3階のそこは室長室となっているらしい。案内板にそう書いてある。


これは後から聞いた話だが、各部屋は取り立てて何を研究する部署と決まっていないのだそうだ。そこのぬしとなった主任研究員が研究計画を立てて室長にプレゼンをし、さらに上層部まで話が通って計画が認証されれば、最低1年間はその研究をする。モノによっては3ヶ年計画、5ヶ年計画ってのもあるようだが……。要するに、仕事は、部屋に割り当てられているのではなく、人に割り当てられている。だから、部屋の区別は数字だけの方がいいってことらしい。中には、切り口だけを変え、ほぼ同じテーマを継続して研究する人がいるかと思えば、毎年まっさらな、前年度と全然関係ないだろこれ……っていうテーマを出してくる人もいるらしい。どっちにしても、限りなくアクティブな人でないと勤まらんな。これは。

ただ、少しだけホッとしたのは、ヒカルは20人はいるであろう〝主任研究員〟の中の一人だという事実だ。ヒカルの歳は聞いていないが、俺とそう変わらないと思われる彼女が、この大所帯の中の主任研究員かぁ……と、ちょっとイジケてウジウジしている俺がいたのだ。ホッとしたのと同時に、そういう感情が湧く自分に、少し嫌気が差したのも、これまた事実だ。……何か小さいな。俺って。


いきなり『2EⅣ』に行こうかとも考えたが、まずは事務室へとのことだったので、そちらに向かうことにした。目の前だったしな。

中からは、いかにも事務やってますぅ……という感じのお姉さんがヒョッコリ顔を出し、行き先やら用件を聞き、手際よくIDカードの読み取りを行い、おそらくヒカルの研究室であろうと思われるところに電話をし、最後に『量情2EⅣ外来』と書かれた、首からぶら下げるカードをくれた。これが無いと入れないらしい。警報でも鳴るのかな。

左に曲がって通路を歩く。通路の天面照明は消えたままだが、研究室のドアは上半分がほとんどガラスであり、通路まで漏れる日差しのおかげで結構明るい。ただし、調光りガラスなので、中の様子はよく分からない。各々おのおののドアの横には、研究者の名前と思われるプレートがはめ込まれている。大体は2、3人のグループのようだ。中には、どこの国の文字か分からないようなプレートもある。それらをツラツラと眺めても、見知った名前は無かった。

俺がここに来たのは初めて……と思いたいが、少なくとも一回は足を運んでいるに違いない。だが、俺がかろうじて覚えているのは、地下施設だけなのだ。さらに、ヒカル以外の研究員の顔や名前は一切分からないときている。

ただ、研究者というのは一匹狼が多い。出勤時間もフレックスで融通ゆうずうが利く。研究者に求められているのは、勤勉さや勤務態度ではなく、その能力である。結果が全ての世界だ。そうすると、壁をへだてた隣の部屋の研究内容はもちろんのこと、下手をすると顔もよく知らないという場合もある。面白い論文が手に入ったからと談話会コロキウムで紹介したら、実は隣の研究室の人の書いたものだったなんて笑い話もあるくらいだ。ここの研究室も似たり寄ったりだとすれば、俺を覚えている人はそんなにいない……のかも知れない。そう期待したい。

『2EⅣ』の前でプレートを見る。確かに『葵ヒカル』の手書きの文字が踊っている。本当にカタカナの名前なんだな。字は……丁寧だがキレイではない。さらにもうひとつ、その下に『橋本礼奈㋑』というプレートもあった。こっちは何と言うか、乙女チックな字だな。名前はともかく、㋑って何だ。

突っ立っていても仕方が無いので、ノックする。

「はーい」

と、幾分、語尾伸ばし気味の返事。ヒカルの声ではない。中から出てきたのは、大学を出たばかりに見える、ポニーテールに丸めがねをかけた、少しタレ目のかわいらしい女性だ。やはり白衣を着ている。ここの研究員は白衣が必須なのか? 袖口が若干黄色いような気もするが、化学屋でないので、それが何を意味するのかまでは分からない。

「お隣の重力研究所の酒井と申しますが、葵主任研究員は?」

そういって、俺は胸ポケットから名刺を取り出した。今回はちゃんとケースに入れて持ってきている。

「あ。私は橋本と言います。すみません。私、名刺は作ってなくて……。話はうかがってます。主任は今、地下で実験準備中ですけど、先ほど連絡しましたから、もうじき上がってきます」

「わかりました」

のフレーズに、少しばかり頬の筋肉が引きつったが、出来るだけ平静をよそおう。壁掛け時計を見ると時刻は9時15分。ちょっと早かったかもしれない。

「あ、座ってて下さい」

ボーッと突っ立っていると、あわてたように、ソファに座ることを勧められる。その対応を見ていると橋本礼奈──礼奈でいいか──は、俺のことを知らないようだ。……多分。2度目なら名刺を受け取ったりしない筈だしな。

部屋はそれほど大きくはない。机2つと、応接用のソファとテーブル、電気ポットが収納された小さな食器棚、それと壁際に数台の端末があるだけだ。実験装置らしきものは無い。おそらくここは物書きをする程度の部屋なのだろう。広くとってある窓の外は、まばらな林になっていて、朝の光が木漏こもれ日となって入ってきている。外は暑いが、この中は快適だ。礼奈はいそいそとティーカップを取り出している。

「へぇー。重力波計測ってどんなお仕事なんですか?」

俺の名刺を見ながら、礼奈がたずねる。

「えーっと。例えばブラックホール同士がぶつかったときに生じる重力波とかを観測するって言うような……」

いやいや、我ながらベタな解説だな。相手のレベルが分からないと、どうもやり辛い。

「へぇー。面白そうですねぇ……」

しばし沈黙。

「……ところで、ブラックホールってなんですか?」

そ・こ・か・ら・か! それに、分からないんだったら、面白いか面白くないか分からんだろうがーっと言いたいのをグッと我慢する。まあ、こういう反応はよくあるからな。

「ものすごく重い星が、自分の重さに耐えきれなくなって、最後に一点にまでつぶれた星です」

「へぇー。つぶれるんだぁ……」

なんか、頭痛がしてきたと思ったら、礼奈は続けて……。

「……それって、消えてなくなっちゃうってコトですか?」

「いや、そういうわけでは……」

それで消えて無くなってたら、今頃宇宙はスッカラカンで、ビッグ・リップしとるわい! とかツッコミたかったが、そのツッコミも宇宙論関係者しか笑えないから、余計に話がアサッテの方向に行くだけだし。どうしたものか……?

「お紅茶……どうぞ」

「どうも」

俺が困った顔をしていると、礼奈はニコニコしながら、クッキーと共に紅茶をテーブルに置いた。ミルクと砂糖とスプーンの三点セットも一緒である。うーむ。天然なんだか、計算……ってことは無さそうだが、どう対応したものか。少なくとも、知識というか興味の対象は全然違うベクトル方向を持っていて、多分、外積を取ったら最大になるだろうなぁ……ということが分かる。

俺は、別な話題になるものはないかと、あたりをキョロキョロ見回し、それを発見した。食器棚の中段。おそらく、電子レンジでも入れるための場所ではないかと思うのだが、その空間に水槽が入っていて、その中を小さくて赤いものがフラフラと動いている。金魚か何かだろうか? ふらっとソファから立ち上がり、手を後ろで組みながら近づいて見ると、中心に梅アンコが入っている半透明な和菓子……なんて言ったかなぁ……。そうそう、葛餅くずもちがふわふわと。いや、これは……クラゲだ。1㎝にも満たないクラゲである。

「あー。その子は、ツリトプシス=ヌツリクラって言うんですよ」

礼奈は、俺の視線の先に気づいて話しかけてきた。

「つりとと……なんだって?」

「ツリトプシス=ヌツリクラです。この子、あたしの卒論の題材だったんですけど、カワイイからもらってきたんです」

「へ、へぇー」

うわぁ。礼奈さん……俺が想像すらできない分野が専門だったのね。ネタ振っておいて言うのも何だが、この先どうしよう……。

「この子はねぇ。すっごい能力の持ち主なんです……」


        *  *  *


礼奈のキラキラした眼力にたじろぎながら、俺はクラゲ同様、目玉をあちこちに泳がしていた矢先、ヒカルが入ってきた。ホッとすべきなのか? それとも、新たなボスキャラ登場と考えるべきなのか。

「遅れてごめんなさい。ちょっと装置の立ち上げに手間取っちゃって」

「いや、ちょっと早く来過ぎたので……」

今日のヒカルの髪は、目玉クリップのお化けのようなモノで止められている。クリップは髪じゃなくて紙を挟むものだろう。普通……。白衣はこのまえ見た通りだが、首から黄色いゴーグルがぶら下がっている。礼奈の黄色い袖口の意味は分からないが、ヒカルの黄色いゴーグルの意味は分かる。こいつはレーザー光遮蔽しゃへい用のゴーグルだ。今行っている実験には、出力の大きなレーザーが使われているみたいだな。

「あっと、そうだ。橋本サン。スクイーズ光がすぐバラけてるみたいなので、PPKTPをちょっと調整してみて」

「あ、はい」

「それから、クレア側のフィルタが劣化していると思うから替え……、スペアはあと何枚あったかしら?」

「確か、2枚だと。今、確認します」

「いや、いいわ。ズラせばまだ使えるはずよね」

「もう1回くらいは……」

「じゃあ、前回の照射部分を外して回転させてみて」

「わかりました」

「私はここでちょっと打ち合わせしてるから、光量が安定したら電話して。それから、開始の条件はフィデリティ0.98よ。ちゃんと追い込んでね」

「やってみます……」

ヒカルのテキパキとした指示に、食い入るような目で対応した礼奈は、さっきまでの、何というか、ふわふわした面持おももちは消し飛んでいた。ヒカルが礼奈のタンポポの綿帽子を吹き飛ばしたのだ。……って、俺って、詩人?

一端いっぱしの研究者の顔になった礼奈は、ヒカルと入れ替えに部屋を出て行った。


「彼女はね……。東北大大学院理学研究科遺伝子工学専攻のインターンなの。珍しいでしょ、こんなトコに来るなんて」

俺がいつまでもドアの方を見つめていたからだろうか? ヒカルは礼奈の素性すじょうを語った。なるほど、それでインターンの〝㋑〟なんだな。クラゲとどう結びつくのかは分からんが。

「何の実験なんです?」

俺は、出してもらったクッキーを一口かじり、紅茶も一口飲んだ。なかなか美味しい。

「初歩的な、量子テレポーテーション実験。でも、扱っているのがだっていう点が、色々とユニークかな」

「年金? 年金情報をテレポーテーションさせる?」

「そう。は低温だと5時間で分裂を始めるんだけど、一度学習させると、今度はもっと早く分裂する。その記憶を、別の株に転送できるかっていう実験。同じ細胞から分離した2つの株でも、分子レベルの構造は違うから、転送は無理って意見が多いけど、実は上手うまくいく……上手くいくことがあるってことが分かってきたの」

「年金が分裂? お金が?」

「お金? あぁ……」

何か大きな意思疎通の齟齬そごがあったことにヒカルは気づいたらしい。彼女は笑った。肩を小刻みに振るわせながら笑った。俺は、何の事やら分からなかったが、多分、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのだろう。こっちを見てさらに笑った。

可笑おかしい……。いや、ごめんなさいね。年金じゃなくて、細菌の一種の粘菌。本当は細菌でもないんだけど、微生物の一種」

粘菌……聞いたことあるような、無いような。

「アメーバみたいな?」

「アメーバ状なるわよ」

「え?」

「なかなか、かわいいわよ」

「…………」

俺は、昔読んだ古典の中に『虫めづる姫君』といふのがあったことを思いだしていた。いとをかし。いとあわれの方がいいのか?

まあ、生物屋にはゾウリムシ萌えとか、ミドリムシ命とか居るから、分からんでも無い。いや、アメーバに萌える気持ちは、俺にはこれっぽっちも無いが、そういう、他人から見れば、『何それ?キモい』と思われる対象物でも、それに夢中になる人がいるという心情は理解できる……という意味で、分からんでも無い。『たで食う虫も好き好き』と言うだろう、昔から。

ちなみに、たではすっごく苦いらしい。かじったことないけど。


唐突だが、ここでヒカルのあだ名が決定したので聞いてほしい。『地下室の粘菌術師』だ。ということは、礼奈は『ふわふわのクラゲ使い』か。アメーバよりはクラゲの方が、まだマシかな? どちらにせよ五十歩百歩だな。そんなことより、2人とも揃いも揃ってカワイイだけで済ませるなよな。そんなことで女子力アップにはならんぞ。

……と、眉をひそめた俺のことなどおかまい無しで、ヒカルは食器棚から真っ赤なマグカップを取り出し、礼奈がポットに入れた紅茶を注いでいた。そういえば、礼奈自身は飲んでいないんじゃなかったっけ。茶飲む時間ぐらい与えてやれよ。


「……で、」

今日は、俺の方から切り出すことにした。

「共同研究の内容っていうのは?」

俺が言い出した事らしいのに、それを共同研究者から聞かなきゃならんというのは、気が引けるが、仕方が無い。ヒカルは紅茶にミルクをたっぷり入れて飲み始めたところだ。

「たしか、EPR源を重力レンズで曲げて、量子テレポーテーションを行うとか言う……」

「ふぅ……」

ヒカルはため息をつきながら俺の正面に座り、天井を見上げて少し考え込んでいる。視線はやはり左上だ。コイツ、髪の毛だけでなく、瞳の色も、長いまつ毛も栗色だな。

「あなたが追っているのは、〈ゴースト〉とかいう謎の重力波源なんでしょ。でもって、その前方に重力レンズ天体がある。この〈ゴースト〉をEPR源と考えて、左右に広がったエンタングル状態の粒子が、レンズで再び集められる。これを使って量子テレポーテーション実験を行う……というのが、共同研究の内容……わかる?」

「さっぱり……」

胸を張って答えたいくらいだね。ヒカルはお得意の波動関数のポーズを取った。今回は、真似するとドヤされそうなので、俺は頭だけいた。改めて思う。これは本当に俺から申し出た共同研究なのか? もしかすると、俺の記憶がアヤフヤなのをいいことに、本当はヒカルからの申し出なのではないかと……。ただ、そうだとしても、あえて嘘をつく動機もメリットも見つからない。

例えば、ヒカルの方から申し込んだとして、申し込みの段階で俺が断ってしまうというリスクがあるから、『あんたが申し込んだんでしょ』として、断られないように策を練る……ということは考えられる。だが、ウチの所長とコチラの量情研部長の間で、既に話が済んでいるような事項だ。もはや俺の一存でどうにかできる案件ではない。

まてよ? そんな重要な話が数日で決定するものだろうか? 昨日きのう、ヒカルと重力研の地下で会った時、『一週間前のことは覚えているか?』と聞かれた。一週間もの記憶を俺が忘れているとでも言うのか? しかし、どう考えても、ヒカルに最初に会ったのは一昨日おとといだ。その日以前の記憶に、欠落は無い。一昨日おととい、夕飯を食べたあたりまでの記憶ははっきりしていて、──そういえば素粒子研のレストランでカルボナーラかそういうのを食べたような──その後、真夜中に、例の不思議な地下施設で目覚めるまでの記憶が定かでないだけだ。数時間だけの記憶欠如けつじょ。後にも先にも、それだけだ。

もちろん、忘れたことさえ忘れている……ということもあり得る。だが、それならば記憶の空白が発生する筈だ。そのような空白は存在しない。一週間全ての夕食のメニューを言えと言われれば不可能だが、何をしていたか程度なら言える。ずっと地下にこもりっきりで、見かけ上は全然変化がない日々ではあったが……。


結局、彼女の講義レクチャーは、俺の物わかりの悪さも手伝って、小一時間にも及んだ。

EPR源というのは、量子的に絡み合った粒子対を発生させる装置のことらしい。例えば、レーザー光を、垂直と水平の2つの偏向光に分離する非線形光学結晶BBOなどを使う。分離された光の一方が垂直向きならば、他方は必ず水平だ。

古典的……つまり、俺のような頭の持ち主は、レーザー光が2つの光子にに、どちらが垂直でどちらが水平かが決定されると考える。コインを投げて表か裏かということは、コインを受け止めた段階で決まっているのであって、それを目で見るのは単なる確認事項に過ぎない。

ところが、量子の世界ではそうではない。それらは観測されない限りどちらとも決まっておらず、どちらか一方がに、他方も決定されるのだ。すなわち、コインの裏表は、てのひらに収まった段階ではまだ決まっておらず、それを見た段階で決まるのである。例えば、ほとんど何も無い宇宙の深淵しんえんで光子対が発生し、その光が誰かに観測されるまでに数万年を要したとしても、この関係は変わらない。宇宙からやってきた光が垂直偏光フィルタを通過した瞬間に、数万光年離れた片割れの光が、水平偏向光に確定するのである。

「瞬間的に?」

「そう、瞬間的に」

「……ということは」

俺はこう続けた。

「十分に離れた光子のどちらかを観測することで、もう一方の光子に情報を送ることができるということ?」

ヒカルは右手の人差し指を立てて左右に振った。おそらく心の中では『チッチッチッ……』とか言っているに違いない。

「よくそういう風に言われるけれど、ちょっと違うの」

と、悪戯いたずらっぽそうに話した。

「確かに、一方を観測すると、他方も決まる。こっちが垂直ならば、あっちは水平。もしも、偏光向きを手元で自由に変えることができるのならば、数万光年離れた光の偏光も自由に変えられることになるけれど、それは不可能。完全にランダムなの」

「えーっと、手元の観測で、垂直なのか水平なのかは50対50フィフティ・フィフティ

「そう」

「だから、向こうの観測も50対50フィフティ・フィフティ

「そう」

「だけど、こっちが垂直ならあっちは水平。あっちが垂直ならばこっちは水平という関係は100%正しいと……」

「その通り!」

ほとんど、先生と生徒の会話である。

「でも、それは、光が左右に水平・垂直が決まっていても同じじゃないのか?」

ヒカルは腕組みをした。ちょっとイラつきオーラが出ている。

「それはさっき、ベルの不等式の破れの話をしたでしょ。分かれた瞬間に垂直・水平が決まっていたなら、偏光フィルタの角度を45度に変えたときに、50%通過とならない。じゃ相関に√2だけ差があるの……」

「うーん……」

何か、さっきからこのあたりで堂々巡りをしている。俺の脳みそでは、到底納得できていないが、ここで行き詰まってもしょうがない。観測問題におけるコペンハーゲン解釈とかの講義を受けにきたわけじゃないんだから。俺は、少しばかり矛先ほこさきを変えてみることにした。

「……しかし、そのコヒーレント光だか、エンタングル光だかが、何の役に立つんだ? 結局、全て50対50フィフティ・フィフティだし、その上、相手に何の情報も送れないのなら、意味がない」

「エンタングル状態の粒子対は、情報を送るための資源リソースなの。沢山集めて、それに情報を載せる……」

「載せる?」

ヒカルは腕組みをしたまま左上を見上げた。考えているときの彼女お決まりのポーズだ。どうせなら人差し指を唇に添えてもらいたいものだが……。

「例えてみれば、ラジオの電波みたいなものかな。音声信号の強弱をそのまま電波に変換しているのではなくて、高周波の電波を使って、AM変調やFM変調して低周波の音声信号を載せているでしょう?」

搬送波キャリア……っていうヤツ?」

「そうねぇ。その概念に近いかしら……」

古典的と言われて少しムッとした。自分で言ったり思ったりする分には気にならないが、面と向かって人に言われると、何か時代に取り残されたような気がして嫌なものである。ヒカルは気にもとめない素振そぶりで、そのまま話し続けた。

「エンタングル状態にある粒子の片割れに、送りたい情報を持った粒子をぶつけるの。そうすると、新たなエンタングル状態になる」

「なるほど。その状態が数万光年離れた向こうに伝わって、情報が届くと……」

「あせらないで。話はそう単純じゃないわ。確かにボブ……相手側のエンタングル状態は変化するけど、偏光状態が50対50フィフティ・フィフティなのは変わってない。そこから単独で有用な情報を取り出すのは不可能」

彼女はまた少し悪戯っぽそうに笑った。多分、俺がしかめっ面で片眉かたまゆが上がっているのを見てのことだろう。何かムカつく。

「その状態は、こちらから送った情報と、搬送波キャリアというべきEPR源からの光とが新たにエンタングルしたものだから、受け取った側では分離できない。変調して戻すためにはベル測定……。えーっと、キーとなる情報を別に送る必要があるの」

「封印した手紙と一緒に、開封する為の鍵も送る必要があるってわけか。なんだかややこしいな。で、その鍵ってのは?」

「アリス……いや、こちらから送った情報と搬送波キャリアの『運動量の和』と『相対位置』情報が鍵。個別に観測しちゃ駄目よ。送った先の情報まで壊れちゃうから」

「ふぅーん。で、その運動量と位置情報とやらはどうやって向こうに送ればいい?」

「そうねぇ……」

ヒカルは、例の波動関数のポーズで微笑ほほえんだ。

「電話……かしら」


『運動量の和』と『相対位置』の情報を電話で送る。最初は冗談だと思った。が、鍵となるこれらの情報をで送るというのは本当らしい。とうに冷めてしまった紅茶をすすりながら、俺は頭の中を整理した。ヒカルは、ミルクをレンジでチンし、ミルクティー……というか、ティーミルクにして窓の外を見て背伸びをしている。

送信者と受信者……歴史的な経緯から、前者をアリスと言い、後者をボブと言うらしいが、アリスとボブは、送りたい情報とは別に、エンタングルした粒子を共有している必要がある。これが搬送波キャリアになる。アリスはこれに送りたい情報を変調波モジュレーションのように重ね合わせる。重ね合わされた瞬間に、アリスのエンタングル状態は別な状態に変わり、ボブの手元のエンタングルされた粒子の状態も、これに呼応してする。アリスとボブの距離が数万光年離れていたとしてもである。まさにテレポーテーションだ。だが、このままでは、ボブは送られた情報のを知らないので、情報を復元することが出来ない。そのを電話のようなで受け取ることで、ようやくボブは情報を解読し、読むことができる。

注意する点は2つ。送付したオリジナルの情報は、重ね合わせエンタングルの段階で、別な状態に変化……要するに壊れてまうことになるから、アリスの手元には残らない。だから、情報のコピーは不可能ということ。FAXならば、情報が相手に届いても手元に原本が残るが、量子テレポーテーションは、相手に情報を送ると原本が消えてしまう。コピー&ペーストではなくて、カット&ペースト。まあ、そうでなきゃ、瞬間とは言わないよな。

注意点の2つ目は、ちょっと深刻……と言うか、モチベーションが下がる話。ボブへ転送された情報は、光速度以下の古典通信LOCCで送られるキー情報がなければ解読できないので、超光速度の情報伝達はできない……という事実である。『数万光年向こうに瞬間的に情報を送れるのかと思ったのに、キー情報の送付は光速以下か……』と少しばかりガッカリしたが、そもそも、ヒカルの提案……いや、俺が言い出したらしいが、ともかくその実験は、一度天文学的に離れたエンタングル粒子が、重力レンズにより地球上で再び集められたものを対象にしているのだから、空間的にはそんなに離れていないのだ。長い旅の果てに再び出会った双子のように、一度は数万光年離れていたとしても、出会った後は空間的には離れていない。空間的には……。


俺の頭が、少しひっかかるモノというか、違和感を感じていた。


「ところで……」

俺は肝心な事を聞くのを忘れていることに、今更ながら気がついた。

「量子テレポーテーションの概略は何となく分かったが……」

「何となくぅ?」

ヒカルはこちらを向き直し、怪訝けげんそうな顔をした。おそらく、素人にも分かるように最大限に噛み砕いて話したつもりなのだろう。スミマセン、頭が固くて……。

「で、結局のところ、俺は何をすれば? 出番が全然なさそうなんだが……」

「あなたの論文では、『パルサーの前をブラックホールが横切った』という結論になっていて、そこから来た光をEPR源として利用したい……と、あなたが言ったわけ……」

いや、だから、電磁波ひかりじゃなく重力波だ……とケチを付けたかったが、少しばかりイライラしている風に見えたので、とりあえずヒカルの話をそのまま聞くことにした。嘘か本当か知らないが、俺がそう言った事になってるしな。

「ほら。重力研の上にも移動式の2台のパラボラアンテナがあるでしょ。……アレ、なんて言ったっけ?」

「恒星干渉計?」

「そうそう。それそれ」

「あれは、関山が専門で……。一昨日おとといウチの研究所に来たときに、地上うえで会ったのでは?」

「あぁ。あの人ね……」

彼女はアヒル口をして、ちょっと不機嫌な顔をした。関山は、ヒカルの到着を、地上うえから俺に連絡してきたヤツである。調子のいいヤツだから、ヒカルに対してどんな対応をしたのかが少し気になった。

「あのアンテナも、空間的なコヒーレンスの大きさを見ている装置なんだけど……。あ、これ以上説明しても話が余計混乱するサチるだけね……」

確かに余計に混乱するだけかも知れないが、そこまで言っておいて『あんたにゃ無理ね』みたいな口調はどうかと思うぞ。

「……要は、EPR源となるパルサーとブラックホールの正確な位置が知りたいの」

「それだけ?」

「そう、それだけ。だって、搬送波キャリアの照射位置がきちんと分からないと、何をするにも先に進めないでしょ。あたしとしては、ブラックホールの正確な軌道さえ分かれば、次回の実験には支障無いんだけど……」

ちょっと拍子抜けした。それは、今、俺がやっている仕事そのものじゃないか。俺は俺の仕事をちゃんとやればそれでいいらしい。共同研究でなくてもやらなきゃならん仕事だ。まあ、論文になる前の生データが欲しい……ということなのだろう。研究者同士のデータ相互利用は、現場では『下さいな』『はいどうぞ』的なノリの場合が多いが、そのデータを使っておおやけに発表する段になると、色々と制限がつく。第一、観測者でもない第三者が、観測者を差し置いて、オリジナルのデータを公表するわけにはいかんだろう。だから、第三者が論文でデータを利用する際には、解析結果だけを出して生データは出さないとか、論文には、『○△機関のデータを用いた』とキャプションを入れるとか、そういう取り決めが色々と必要になってくる。共同研究にしとけば、そのヘンの面倒な手続きが緩和かんわされるので、研究者も事務屋サンも仕事が減って、一挙両得ウィン・ウィンという世界だ。


「しかし……」

俺は少し躊躇ちゅうちょしたが、正直に言ってみることにした。

「おそらく、正確な位置関係はアメリカかヨーロッパのグループの方が先に突き止める可能性が高い。何しろ、向こうの計算機は……」

「それじゃあ間に合わないの! うちの研究室の宇宙シミュレータ割り当て、32ノード分使っていいわ」

「えっ⁉」

「共同研究なんだから当然でしょ。それに〈那由他モジュール〉も使っていいわよ」

今まで4ノードでケチケチやっていたことを考えれば、これはかなりのことが出来る。もちろん、演算処理がそのまま8倍速になるわけではないが、これだけの計算機資源を使えば第二報の論文も他を出し抜くことが可能かも知れない。こちらには既に、先陣せんじんを切って開発したプログラムソースがあるのだ。

が、それ以上にオイシイのは〈那由他モジュール〉だ。こいつは最近ようやくできた、我が国が誇る、世界初、汎用はんよう型量子コンピュータ・モジュールで、超が20個ほどつく超並列計算機である。正確には〝超並列〟って言う仕組みと違うらしいが、原理は俺に聞くな。ヒカルに聞いてくれ……というか、おそらく、量子情報処理研究部の中の誰かが、コレを開発したんじゃないかな。確か上の階に『量子コンピュータ開発研究室』ってのがあったような気がする。

最近、コイツの原理を利用して開発された、重力多体専用計算モジュールUSーGRAPEというのが、重力研究仲間では話題で、恐ろしく速いらしい。ただ、プログラムのアルゴリズムを大幅に改造しなければ、宝の持ち腐れになるらしく、扱いが難しいそうだが……。

「はい。これ……」

ヒカルは机の引き出しからカードを取り出し、俺に差し出した。萌え系の少女がニッコリ笑っているカードで、アニメか何かのトレーディングカードに見えるのだが……。何だコレ?

「〈那由他モジュール〉の使用許可カード。これが無いと使えないわよ。今のところ門外不出のシロモノだから、現地じゃないと使用不可ね」

カードの情報では、この萌えキャラの名前は『那由他量子りょうこ』と言うらしい。なになに?


──ぼぉーっとした容姿に似合わず、聖徳太子並みに一度に人の話を沢山聞けるのが特技。でも、恥ずかしがり屋なので、あんまり見つめると小さくなっちゃいます。パパの名前はゆずる、ママの名前はけいです。よろしくねっ!──


……って、なんですかぁ、これは⁉

俺が、眉毛まゆげをハの字にしているのを見て取ったのだろう。

「そういうキャラクター展開した方が、広く認められて予算も取りやすいんですって。年に一度の一般公開では着ぐるみも出てたみたいだし……。グッズも出てるわよ」

そういって、ヒカルは『那由他モジュール稼働記念』と金文字の踊ったボールペンを見せてくれた。ノック部分からプラプラと、キャラがぶら下がっている。いやはや、何とも。

「ここだけの話だけど……」

ヒカルは声をひそめて、

「このキャラ、一応、一般公募で決めたんだけど、最後は部長が是非にと、コレに決まったらしいわ……」

「じゃあ、ここの部長はオタクでロリ……」

ヒカルは素早く、人差し指を俺の口に押し当てた。顔が近いぞ。

「あたしが言ったって言わないでよ」

「い、言いまひぇん……」


        *  *  *


グッドタイミング……なのかどうか分からないが、ヒカルの机にある端末のアラームが鳴る。見ると、礼奈の顔のアイコンが端末上で飛び跳ねていた。おおっ。すっかり忘れていた。ヒカルは端末まで歩き、アイコンをクリックする。

「橋本です。準備できましたぁ」

「わかったわ。今行く」

ヒカルはそういうと、机に置いてあったレーザーゴーグルを持ち、こちらを振り向いた。

「準備ができたみたいなのでついて来て。予備実験だけど……」

「どこへ?」

「地下……」

『出たな、め! その手にはのらないぞっ!』……と言えるわけもなく、後に続く。エレベータホールまで行って、そのままB3が押される。地下といっても、例の斜行エレベータまで行くのではないようだ。少しホッとする。B3でドアが開くと、眼前のエレベータホールの光景は2階とあまり変わらない。ただし、通路は左壁側にひとつあるだけだった。もちろん窓は無い。通路の右側だけにドアがあり、部屋があるという構造。部屋は全部で3つしかないから、ひとつひとつはかなり大きい。

ヒカルは一番奥のドアで立ち止まった。ドアには中の様子をうかがい知るような窓が無く、上部で赤色灯が点灯している。ドアに描かれたマークを見れば、クラス3Bのレーザー光を使う施設らしい。

中からは、パッ、パッ、パッという規則正しい音がかすかに聞こえている。

ヒカルはドアの右横にあるスリットにIDカードを通し、インターフォンらしきボタンを押した。

「あ。入れます」

インターホンから、間髪かんはつれず礼奈の声がした。ロックボタンを押すと、スライドしてドアが開く。ドアの先には2mほどの空間を挟んで、またドアがある。要するに、二重ドアになっていて、外側を閉めないと内側は開かない作りになっているようだ。防塵ぼうじんのためか、万一のレーザー光漏れを防ぐためか、あるいは両方だろう。いわゆる、誤操作防止フール・プルーフ機構というやつだ。両側の壁には小さな棚があり、レーザーゴーグルを始め、様々な工具、部品、紙製ウエスキムワイプなどの消耗品からヘルメットまで置いてあった。

「はい、これ」

ヒカルは棚においてある、外来用と書かれたレーザーゴーグルを俺に手渡した。

「それと、ここ、土足禁止だから……」

と、これまた外来用と書かれた足元のスリッパをくように勧められる。ちらっと見ると、ヒカルのマイ・スリッパはかわいいウサギのキャラクターが描いてあった。そんな趣味があったのか?

内側のドアには小さな窓があり、何やら無数の光学系機器が並んでいるのが分かる。さらにその中を、レーザー光が縦横無尽に走っているのが見えた。まあ、可視光で見えるだけマシだ。その昔、学生実験でエックス線のステレオ画像を採取していたときは、見えない恐怖があったなぁと、古いことを思い出した。

外部ドアが閉まっていることを、ヒカルが指差し確認する。もっとも、閉まってなければ内部ドアは開かないから、チェックする必要も無さそうなものだが、そういう動作確認行動が刷り込まれているのだろう。動作に無駄が無い。無駄の無い無駄に洗練された無駄な動き。内部ドアを開けると、パッ、パッ、パッと周期的な音が一層大きくなった。どうやら、レーザーがパルス状に出ていて、その励起れいきのタイミングでジェネレータから音が出ているようだ。


「じゃあ、橋本サン。酒井さんに、この実験の概要を説明してあげて。学部レベルのゼミだと思って」

……最後の一言は余計だ……とは思ったが、分野が違えば素人同然。正しい指摘だろう。

「はい。えー、今から行うのは、量子エンタングルメントを用いて、2株の粘菌の変形体が記憶した低温情報を互いに交換できるか? という実験です。変形体は低温下で5時間置かれるとフラグメント化しますけどぉ、5時間という時間はトータル時間であって、途中で低温状態が中断してもいいです。ですから、4時間だけ低温下に置かれた粘菌は、次の機会に1時間だけ低温となればフラグメント化しちゃいます。そこでぇ、低温状態を全く経験していない粘菌株と4時間経験した株を用意し、情報を交換できれば、この実験は大成功です。量子エンタングルメントに使うスクイーズ光はPPKTP結晶を使い、共振器内ロスの排除および位相ゆらぎの制御を行って……」

「ちょ、ちょっと……いいですか?」

あまりによどみなく滔々とうとうと話す礼奈に、俺はたまらず口を挟んだ。何が何だかさっぱり分からん。このまま最後まで話されても、後でもう一度最初から聞くことになって、時間の無駄となるだろう。

「まず、粘菌ってどんなものですか?」

「あ、ここに入ってます」

礼奈はそういうと、実験装置の左右に置かれた、ドラム式乾燥機のような装置のフタを開けた。乾燥機とは違い、大きさの割に中の空間はかなり狭い。こぶしひとつ入るか入らないかという程度だ。

核磁気共鳴装置NMR?」

「はい。機能的磁気共鳴イメージング装置fMRI生体磁場計測器MEGの複合機です。これで、粘菌の状態を測定、操作します」

何故、ワザワザNMRをMRIと言い直す? 物理屋ならNMR……と思ったが、よくよく考えると、礼奈は遺伝子工学専攻のインターンとか言っていたから、医学屋に近いのかも知れない。礼奈はこちらを見て微笑ほほえんでいる。最初に会った時のふわふわ感が少し戻ったか。

「で、こちらがディクチオステリウム=ディスコイディウムという……」

「な。なんだって⁈」

またまた出てきた、舌を噛みそうな名前。クラゲの時もそうだったが、よくもまあ、スラスラと言えるものだ。

「えーっと、和名がキイロタマホコリカビという粘菌です」

見たまんまを和名にしたんだろうなと思いつつ、その狭い空間から静々と出てきたのは、プレパラートに載った、やはり名前の通りの黄色いかたまりだった。大きさは直径1㎜にも満たない。今、耳掻みみかきから取り出しました……といっても信用してしまうかもしれないようなブツだ。おそらく、礼奈の袖口が少し黄色かったのは、コイツの所為せいだろう。

「……はぁ」

それしか言葉が出なかった。コイツのどこが可愛いのか? 断然、クラゲの方がまだマシだな。それなりに優雅ゆうがだし……。

礼奈は、それをまた元に戻し、装置のふたを閉める。装置の天面をよく見ると、蓋の上に『アリス』と書かれた札が張ってある。反対側の装置は『ボブ』だ。おそらく、こっちにも同じものが入っているのだろう。

「……で、フラグメント化というのは?」

「えーっと。この粘菌は、今は塊状ですけどぉ、5時間ほど15度以下にすると核数8の球状の変形体に分裂します。それがフラグメント化です」

ますます可愛くない。最近リメイクされた、遊星からの何とかっていう映画に出てくる微生物みたいなモンじゃないか。あんなのが大量にあって、ピクピク動いてたら卒倒そっとうもんだ。ホラー映画にはうってつけの素材かもな。

「ということは、既にこれは4時間程冷やしてあるから、あと1時間ほど追加で冷やせば分裂するということ?」

「はい。そういうことです」

「で、あっちの『ボブ』の方には、冷やしていないヤツが入っていると……」

「はい。そういうことです」

「……で、情報のというのは? 量子テレポーテーションなら、情報の移動というか転送で、交換では無いと思っていたので……」

「えーっとですねぇ……」

礼奈はちょっと困った顔をして手元の資料パッドを操作している。

「量子テレポーテーションは確かに情報の移動だけで、複製はできません。そこで、量子エンタングルメント状態を量子テレポーテーションさせます」

既に、何言っているのかよく分からんが……。

「え? エンタングルした光を使って『アリス』から『ボブ』に情報を送るのでは……」

「はい。量子エンタングルメントした状態そのものを『アリス』として、これとは別の量子エンタングルメントした光で移動させるのですが、移動させた『アリス』そのものが量子エンタングルメントした光なので、さらにこれを使って、量子テレポーテーションができるわけです。この2つの量子テレポーテーションを対等に行うのが、いわゆるエンタングルメント・スワップという概念で、双方向の情報通信が可能となります。ただし、必ず複数の量子エンタングルメント光を使うので、それらを制御する受け皿が必要で、これを『クレア』と呼びます」


礼奈は、ここまで言いよどむことなく一気に言い切ると、『アリス』と『ボブ』の装置の間に鎮座ちんざした物体……半球形に2つの球がくっ付いた、まるで水分子のような形をした物体を指差した。なるほど、確かに『クレア』と書いてある。予期せぬタイミングで現れた第三の男──いや、女か?──だ。こうなりゃ、ダディでもエヴァでも何でもこい。

「ここにも、粘菌が?」

「いいえ。『クレア』は情報の発信源ではなく中継地点なので、誤り訂正用も含めて複数の量子エンタングルメント光を発生させる縮退光パラメトリック発振器OPOが入っていて、さっきまでスクイーズ状態の調整をしていたところです。これが結構大変なんですよぉ!」

「な……、なるほど……」


よく分かった。俺には絶対理解できない代物いろものだってことが、よーく分かった。少なくとも、数時間程度の解説レクチャーで分かるようなモンじゃない。知恵熱が出そうだ。だから、今は分かった振りをすることにした。

「……それともうひとつ、基本的な部分で気になる点があるんだけど?」

「なんでしょう?」

いやいや、何処どこかのファースト・フード店の店員みたいな、にこやかな顔で受けこたえされても困るのだが……。

「小さな粘菌といえども、分子レベルからすればものすごく巨大で、その情報量と言ったらとんでもない量になるのではないかと……?」

「はい。分子ひとつひとつのデータを読み取ったならば、最低でも分子数と等量の量子エンタングルメントした光が必要ですし、仮にそれが可能だったとしても、情報交換させる分子が1対1対応していることはまずあり得ません。現在の、1対1対応による双方向の量子エンタングルメント光情報通信速度は毎秒……えーっと、10の18乗オーダーがやっとです。現実的なレベルになるには、あと百万倍程度の高速化が必要です……」

礼奈は顔と雰囲気に似合わず、とても生真面目きまじめな性格のようだ。正確にキチンと答えてくれるのはありがたいが、何と言うか……遊び心がない。もっと言葉を省略して簡便に言えないものだろうか。そろそろ俺の脳ミソは限界に近い。頭から湯気が出そうだ。

助け舟をおうと、ヒカルの方をちらりと見ると、前髪を指先でつまみながら枝毛のチェックをしていた。おい、なんとかしろよ、この状況。任せきっているのか退屈なのか分からないが、なんでお前だけリラックスして、一人称グルーミングしてるんだよ。


そんな俺のアップアップ感に、礼奈は全く気づくことなく、話を先へ先へと進める。

「……そこで、私たちは、機能的磁気共鳴イメージング装置fMRIによる対象物……今回の場合は粘菌ですけど、この磁気核からの放射光情報のコヒーレント性に着目し、交換が必要な情報のみを取捨選択しゅしゃせんたくする方法を模索もさくしました。交換すべき磁気核からの放射光を量子エンタングルメント光で掛け合わせた後、一方のみを、反射板リフレクタを使って位相を逆向きにして干渉させれば、そもそもコヒーレントな状態であった光は、相殺そうさいされて消えるので、量子力学的な確率振幅は原理的にゼロとなり、最初から放射光を出しません。別な言い方をすれば、放射光は出ているのですが、それらの確率全振幅は、それぞれの経路の和で表されるため、ファインマンの経路積分により淘汰とうたされるのです。この手法により、交換すべき情報を劇的に減らすことが可能となりました。ここまでで、何か、ご質問は?」

礼奈は、先ほどと同じように、『ご一緒にポテトはいかがですか?』と言わんばかりの笑顔でこちらを見ている。俺の頭からは湯気が出てる。絶対出てる。ロボットだったら爆発して部品が飛んでるし、自動車だったらラジエータが焼け焦げているだろう。そんな状態。

「ええっと……。もしも、2つの粘菌が全く同じ状態のものだったら?」

「その場合は、全てがコヒーレントな状態なので、情報は何も交換されません。別な言い方をすれば、全ての経路の総和がゼロだということです」

「では、逆に全然別のものだったら?」

「使用している機器の出力と、交換スワップする対象物の大きさによりますけど、作成される量子エンタングルメント光に載せられる以上のオリジナルな情報が存在した場合、オーバーフローを起こして、中途半端な情報交換となります。オーバーフローを生じさせないためには、なるべく情報が揃った『アリス』と『ボブ』を選ぶ必要があります」

「……どうやって?」

「今回の場合は、単一細胞核から培養して株分けした粘菌を使いました」

「赤の他人より、双子の方が共有する情報が多いってこと?」

「え? まあ、そんなところです……。他には何か?」

「いえ。大体のところは分かりました」

ヒカルの方を見ると、壁にもたれかかって下を向き、両手の指先を内側に丸めて爪をこすり合わせている。枝毛むしりの後は、爪磨きか? いい気なもんだ……ったく。俺の質問が終わったのを受けて、ヒカルは顔を上げ、こちらを見た。俺と目が合ったことに少し気恥ずかしいような表情を見せたが、それは一瞬のことだった。


「……じゃあ、そろそろ始めましょうか」

ヒカルはそう言うと、礼奈に目配せをした。この実験が何度目なのかは分からないが、礼奈はかなり慣れた手つきで、コンソールを叩き、計器に目をやり、レーザー光の最終出力調整を行っていく。

「この実験の難しいところはね、相手が……という点なの」

ヒカルは、独り言のようにつぶやいた。

「……動植物の情報処理能力とか記憶とか、そういうものの物理的な動作原理は分かっているけど、実際、どのように蓄積されたり活用されたり、発想の跳躍ちょうやくつながったりするのかは分かっていない。それを分からないまま転送しようっていうのが、この実験の本当の意義ね」

「分からないまま?」

「そう。分からないまま。そもそも、全く同じ動きをする生物がいたとしても、その動作の根源となっている部分の回路が全く同じということはあり得ないでしょ。粘菌には頭脳は無いけど、組織化された行動をする。個々が好き勝手に自由に生きている筈なのに、全体として最大多数に最適な環境を選択している。でも、その行動をつかさどるネットワークみたいなものは、2つとして同じものはない」

「それじゃあ、普通に考えると、違うネットワーク上の原子やら分子の励起状態の情報を交換をしても、その後の動きまでがちゃんと交換されるとは思えないんだが……」

「普通はね……。常識的にそんなことはあり得ない」

彼女は何か遠い景色でも見ているような口ぶりだった。確かに、動作が同じだとしても、そこに至る経路は数限りなくあるわけで、それら経路が違うモノ同士の情報交換などできるとは思えない。あるコンピュータに、アーキテクチャの違う別のコンピュータのコードを流し込むようなもので、それがちゃんと動くと考える方がおかしい。

「……でもね。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した部分を自発的に選択して入り込むらしいことが分かってきた。その状態が最もエネルギー的に有利だから。だから、一方を逆位相にすれば、最も似ていない部分だけが相互交換される。量子はどの経路が最適かを瞬時に判断できるの。これはまだ作業仮説に過ぎないんだけど……」


俺は、屈折の法則を最小作用の原理で解くような……あるいは、変分法で汎関数の停留値問題を解くようなイメージを頭にいだいた。例えば、シャボン玉の表面で反射された光とシャボンまくの内側から反射した光の位相が合えば、光は強め合って外に出てくる。反対に、逆位相の場合は、外へ出る光は相殺されて消えてしまうので、光は反射されずシャボン膜を通過してしまう。こうやって、反射して外に出て行く光の波長が選別され、シャボン膜の微妙な厚さの違いによりシャボン玉は虹色にかがやく。この原理は、カメラレンズの反射防止膜コーティングなどにも使われる。

不思議なのは、光は、シャボン膜の厚さを知るのかという点だ。ある光がシャボン玉の表面にやってきて、シャボン膜の内側から反射してきた光と出会ったときに、情報を交換するのか? このとき逆位相だったら、後から来た光はことになるが、逆位相だということを知るためには、先行してということになる。すなわち、先行した光は、直進すべきところを引き返した……という矛盾をはらむ。

現実には、膜の厚さを知るための、先行した反射光は必要ないことが分かっている。例えば、1秒毎に光子を1粒ずつ発射する装置を考えてみればいい。この場合、膜の周辺にはいつも1粒の光子しかいない。膜を透過すべきか、あるいは反射すべきかを知らせてくれる他の光子はどこにも存在しない。にも関わらず、光子は、膜の厚さを最初から知っていたかのように振る舞い、厚さに応じた行動──直進か反射かの選択──を難なくこなすのだ。

おそらく同様な……しかしそれ以上に恐ろしく複雑な過程が、エンタングル状態の光子同士の相互干渉では起きているに違いない。たった1つの光子でも、あたかも知性を持って行動しているかのように振る舞うことがあるのだから、それらがたばになってエンタングルしたまま行動すればどうなるのか?


「準備できました!」

礼奈の明るい声がひびいた。装置を見ると、最終調整を始めた状態と何も変わっていないように見える。ただ、制御端末の画面には入力をうながすプロンプトだけが点滅していた。

「酒井サン、押してみる?」

ヒカルが覗き込むような目でこちらを見ている。先ほどまでの、何か思い詰めたような表情と言葉は既に無くなっていた。

「え? 何をすれば……」

「このエンターキーを押すだけ。簡単でしょ。これではあなたの手にゆだねられているってわけ」

ヒカルは微笑んだ……というより、マッドサイエンティストが新しい玩具オモチャを手に入れ、世界征服をたくらんでいる時のよう。俺はその手先というわけだ。さすが『地下室の粘菌術師』。

「じゃあ、折角せっかくなので……」

俺は、大げさに手を振り上げ、キーを押した。画面には様々な表示が、洪水のように流れていったが、装置自身には物理的な変化はない。パッ、パッ、パッというジェネレータの音も相変わらずだ。数秒もしないうちに再びプロンプトの点滅に戻る。ただ、画面には全処理完了オール・コンプリートの文字が踊っていた。

「えっ? ……これで終わり?」

「そ。結果は、2つの粘菌をさらに1時間冷やせば判明するわ」

礼奈は、いそいそと『アリス』と『ボブ』のふたを開け、粘菌の載ったプレパラートを大事そうに両手で取り出していた。当たり前だが、色が変わっているとか、焼けげているとか、そんな変化は一切無い。何か、地味な実験だな。もっと盛大にレーザー光が宙を舞うとかないのか。ま、ウチの〈オルガン〉も、重力波を捉えたからって、グォングォンと振動するわけではないしな。こんなものなのかもしれない。

そうこう考えているうちに、礼奈はさっさと装置の蓋を閉め、レーザーの発振を止め、端末のシャットダウン操作まで始めている。準備に1時間かかった割には、撤収てっしゅうは素早い。この手の機器は暖気運転に時間がかかるから仕方が無いことだが、その手際の良さから、やはりこの実験は何度も行われているであろうことは間違いない。


俺は、ふと、ヒカルが言っていた言葉を思い出し、質問をしてみた。

「この実験は〝予備実験〟だと言っていたが……、本番は?」

ヒカルは何故か鼻で笑った。

「それはここでは出来ないわ。地下実験施設に大規模な装置があるから。……今から見に行く?」

「え? い、いや、それはまた今度……」

地下実験施設とは、おそらくあの部屋だ。話のスジとしては、俺が共同研究を申し込んだんだから、その実験装置を見に行ったとしても、何らおかしい事はない。今すぐにでも見てみたい気もする反面、止めといた方がいいと心の何処かで引き止める自分がいる。もう少しが必要みたいだ。


俺は、ヒカルと礼奈にお礼を言い、今日はそのまま帰ることにした。『一緒にランチでも』と、礼奈に誘われたが──なぜ共同研究者であるヒカルは誘わないんだ!──、俺の頭脳は既にオーバーフロー気味……気味じゃなくて完全にオーバーフローだ。もう、午後は半休を取って寝たい気分だ。


はてさて、そんなこんなで翌日のヒカルからのメールには、黄色いブロッコリーのかけらのような球体が沢山映った、明らかに食事時には見たくない顕微鏡写真が送られて来ており、実験が成功したという趣旨しゅしの文が短くつづられていた。このツブツブに分解されることを〝フラグメント化〟というらしい。これが予備実験だとして、最終的にはブラックホールを経由した重力波……電磁波かも知れないか、とにかくソレで本実験を行うのだ。


一体全体、何を交換するつもりなのだろうか?

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