時空間エンタングル

悪紫苑

第1章 見知らぬ共同研究者

「先輩! お客さんっすよ」

端末のメッセンジャーから関山の声が響き渡る。俺はソファからカマドウマのように跳ね起きた。いや、決して寝ていたわけではない。ちょっと横になっていただけ……としておこう。半身を起こしたままディスプレイを見れば、関山のニヤけづらが、普段の三割増でポップアップしている。まあ、こちらはサウンド・オンリーだから、向こうにはこちらの状況は見えていない。

「お客さん? 誰だ」

「オンナのヒト……ですよ。駄目だなぁ、彼女連れてきちゃあ」

「はぁ?」

それっきり、ウインドウは閉じた。相変わらず、話を聞かないヤツだ。振り返って地上直通エレベータに目をやると、下降中を示すLEDがせわしなくまたたいている。3分しない間に、その〝お客さん〟はここにやってくるだろう。関山はいつもあの調子なので、グダグダな対応はあまり気にならないのだが、もう少し地上うえで引き止めていてもらいたかった。どうも昨日の奇妙な二日酔いの所為せいか、まだ頭が重い。エレベータを睨みつけながらTシャツの上に上着を羽織はおり、さらに白衣を着るべきか否か、しばらく沈思黙考ちんしもっこうする。


そもそも、こんな基礎物理学の研究所……それも、地下深くのコアな観測施設に女性がやってくること自体が珍しい。関山の口調から推測すると、おそらくたった一人でだ。仮に団体さんならば、それがオバチャンの団体だとしても『ファンのがいっぱい来ましたよ』……とかなんとか、下らないことを言うに決まってる。経験則で考えて思い浮かぶのは、お供を引き連れて視察にやってくるお偉いさんや、観測機器をチェックしに来た会計検査員とかだが、今回その可能性は限りなくゼロに近い。彼らが下見無し、アポも無しで突然やってくることは考えられないし、それならさすがに関山もあの口調ってことはない筈だ。

イレギュラーな訪問者としては、ここ数週間程度、例の異常重力波検出の話題で、科学担当の記者がカメラマンを連れて来たりすることもあった。あん時は迷惑この上ない状態だったが、それも過去の思い出になりつつある。天の邪鬼あまのじゃくなことに少々寂しい。もう少し笑顔で対応すればよかったかな……なんて、今更ながら思う。一度だけ某局の美人アナウンサーが来たことがあったな。せっかくのお近づきのチャンスだったのに、美味おいしいところは所長がみんな持っていってしまった。ただ、取材する側としても話題が難し過ぎるんだろう。専門家が見ればかなりトンチンカンな表現で、新聞の科学欄に小さく記事が載ったのを最後に、マスコミ関係者はパッタリと来なくなってしまった。

そうなると、この時期、ここまで下りて来る可能性があるのは同業者カリーグだ。何故か困ったことに変な外人の場合が多い。それはそれで、記者とは別な意味で、相手をするのは面倒なのだが、じゃの道はへび。前段をスッ飛ばし、核心部のみで話が通じるだけマシと言うものである。科学の話なら、最近の女子高生と話すよりも、他の惑星ほしの科学者とする方が、意思疎通が早い……と言ったのは誰だったか?


……ということで、白衣はめにする。

白衣を着るのは言わば素人向けの演出だ。ばけ学屋や遺伝子屋ならば、白衣を着ることにそれなりに意味がある。要するに色のついた液体を扱う分野だ。化学屋の熟達研究者ウィザードともなると、相手の白衣の汚れだけを見て研究分野を言い当てるという技を会得えとくしている。分光器や偏光板を使わずにだ。ところが、物理屋の場合、理論屋にしても実験屋にしても白衣の出番はない。逆にあのヒラヒラしたすそが機器に引っかかって危険なことすらある。まあ、実験屋の制服ユニホームとして採用して良いのは、いわゆる作業着ツナギが最適で、事実、お揃いの作業着を作っている研究室もあるのだが、対外的にはあまりイメージが良くない。……ていうか、何かの作業員と間違えられることが多い。作業着なんだから当然だし、実際、細かい実験器具とかは手作業で作ったりするから、『実験屋=そのスジの職人的作業員』と思った方が良いのである。


「あの……?」


エレベータの前で営業用のスマイルをして〝お客さん〟を待っていた俺は、到着した彼女の姿を見てちょっぴり後悔した。彼女が白衣を着ていたからである。そして、それがまたやけに似合っている。俺か着ていればペアルックだった……なんてな。まあ、そんなことは、この際どうでもいい。

彼女の胸ポケットからぶら下がっている、水素3d電子雲をかたどったホログラムIDカードは以前どこかで見たことがある。研究都市内で見かけたと記憶しているから、ご近所のはず。少なくとも〝変な外人〟で無くてホッとした。年の頃は三十歳前後に見えるが、ピンセットのお化けのようなヘアピンで栗色の髪をアップにしているがために、姉様っぽく見えるだけかも知れない。

『あの……?』と言ったきり、彼女は何も言葉を発せず、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。あまりにジッと見つめられるので、さっきまで寝ていた──いや、決して寝ていたわけではないのだが──ソファの縫い目あとが顔に残っているのではないかと心配し、つい頬をなでる。しばし沈黙。だが、急遽きゅうきょ取り繕った営業用のスマイルは長くは続かない。頬の筋肉がプルプルしてくる。それを考えると、受付嬢の張り付いたような笑顔ってのはホントにすごいなぁと、妙に感心しながら沈黙に耐えられなくなり、唐突に始まった〝にらめっこ〟に負けたのは俺の方だった。


「えーっと……。事前に何か約束とかありましたでしょうか?」

そういえば、ここんトコ忙しくて、ろくにスケジュールを確認していない日々が続いていた。異常重力波検出についてマスコミ関係者の訪問がなくなったとは言え、問題が解決した訳ではない。発生源がさっぱり分からないことに変わりはないのだ。むしろ、これからが我々の仕事である。所長が煩雑はんざつなマスコミの相手を一手に引き受けてくれたお陰で、俺は、解析する最低限の時間をかせげ、発生源の特徴や輪郭りんかく程度は分かってきた。一応、論文も書けた。だが、『発生源の天体はコイツだ!』……と断定できるまでには至っていない。困ったことに我々は、他機関に先んじて、コイツの位置を特定すべき理由がある。そうでなければ、国内的にも国際的にも存在意義が無いのだ。どこかに出し抜かれて、ガチな精密観測勝負となったら、我々にはもはや勝ち目がない。

そういうわけで宿舎に帰らず、ほぼ泊まり込みでここに籠って3ヶ月。まずは曜日の感覚が無くなり、続いて日付。最後に昼夜が分からなくなった。時計は見ているが感覚が湧かない。お昼の正午と思ってランチに行ったら、真夜中だったりとか……。

およそ体内時計ってモンは、太陽から離れると如実にょじつに狂うものらしい。


「いえ……、特に約束はしてないですが……」

彼女はそう言った後、戸惑うような、はたまた悲しいような顔をして、申し訳なさそうに言葉を付け足した。

「……あたしのことは覚えていませんか?」

「へぇっ?」

自分でも素っ頓狂すっとんきょうな声を上げたと思う。てっきり同業者カリーグか何かの見学者で、この施設を見に来たものだとばかり思っていたが、彼女は施設に用があるのではなくて、俺自身に用があるらしい。

『知らない』……というのは簡単だが、単にど忘れしているだけなのか? いやいや。自分で言うのもなんだが、親の名前を忘れても、ストライクゾーンの女性の顔と名前は忘れないという自信がある。焼きそばパンくらいなら賭けてもいい。もしかすると、おさないときに生き別れた姉妹とか、そんなのか……と、少し妙な方向にパニクっていると、彼女は続けてヒントをくれた。

「わたし、隣の素粒子研の者なんですが……、昨日のことは覚えていませんか?」


思い出した! いや、正確に言えば、思い出してはいないのだが、おそらくこういうことだろうという状況は分かった。これはマズい。非常にマズい。


        *  *  *


昨日は、おそらくかなり酒に酔っていたのだと思う。『思う』というのも自分のことなのに変な話なのだが、そうとしか言いようがないのだから仕方ない。ちょっと一杯のつもりが、調子に乗ってガンガン呑んで、途中からフッと記憶が無い……というのならよくある話だが、昨日の場合はその逆で、どこで呑み始めたのかが全く思い出せないのだ。今現在、頭が重いのも、体が少々ダルいのも二日酔いの所為せいだと思っているが、それすら確たる証拠は無い。全て状況証拠から類推るいすいした結果だ。要するに間接的な証明でしかなく、日付の入った飲み屋のレシートとか、クレジットの引き落としとか、直接的な確証は何も手元に残っていない。

だが、目が覚めた後のことはよく覚えている。目が覚めたら、何か薄暗い場所で、ソファともベットともつかないものに寝ていた。完全な仰向けではなく、リクライニングを目一杯倒したような浅い角度の座席シート……と言ったところか? 何やら白い光を見たような気がする。ハッと気付いて飛び起きようとすると、今度は目から青白い星が飛び出した。オデコを思い切り何かにぶつけたようだ。天井が低かったわけではない。肩から上、頭をおおうような装置がそこにあったのだ。視界はさえぎられているが、靴は履いていて、足は床に着いていることが感触として分かる。ズリ下がる様にして円筒形のおおいいの下まで首を引っ込める。


「大丈夫?」


確か、そういう声がした。それが彼女の声だったのだ。おそらく……だけど。見上げた先に彼女の顔がある。場所は分からない。何故そこに寝ていたのかも分からない。要するに、置かれた状況がさっぱり分からなかった。

正確に言うと、今日、ここに尋ねて来た彼女が、その時の彼女だったかどうか……俺は断定できない。周囲が薄暗かったし、彼女の長い髪は下ろされていて上から覗き込むような体勢だったから、顔がよく分からなかったというのが本当のところである。

その状況で、俺は何を思ったか……。例えて言うなら、酔っぱらって目が覚めたら、何故か駅のホームで、既に朝のラッシュアワーが始まっており、通勤客の痛い視線が突き刺さっていたような……。そういう経験はないのだが、そういう状況に近い。

その場で二度寝するほどの度胸もないし、肝も座っていない俺がとっさに取った行動は唯一つ。その場から逃げだすことだ。


「すみません!」

俺はそれだけ言うと、彼女に目も合わさず──と言うか、合わせられないだろう普通──ペコリと頭を下げ、急いであたりを見回し、目の前にあるドアに向かった。部屋はさほど広くなかったと記憶している。今思えば、病院の検査室のような部屋だった。ドアを後ろ手で閉める。正面は冷たいコンクリートの壁。やはり薄暗い。左右に続く通路はやたらと長かった。左手遠くに明かりが見え、エレベータらしきドアも確認できる。俺は一目散でそちらに走り出した。

走りながら全身を確認してみる。ひょっとすると、あそこは本当に病院の一室で、俺は車に跳ねられたとか何かで運び込まれ、精密検査を受けていた最中だったのかも知れない。頭を強く打って直前の記憶が無いとか、ドラマではよくある話じゃないか。大抵は、そこからロマンスが始まったりという展開なんだが……。おそるおそる後頭部を触ってみたが痛くも何ともない。手が血まみれということもない。オデコが痛かったが、これはさっきぶつけたのだから仕方が無い。体の方は走れているのだから大丈夫だろう。服装も普段の外出時と同様、ジーパンにTシャツ。多少汚れて、よじれていたりするが、破れてはいない。

エレベータまであと少しという所で、突然風景が変わった。両側に続いていた壁が突然無くなったのだ。長い通路はそこから吊り橋と化していた。下を見ればかなりの高さであることが分かる。ビル3階分の吹き抜けと言ったところか? 下には、何やら物々ものものしい機器類が並んでいる。

「加速器?」

こう見えても物理屋のはしくれ。上から見たそれが何であるかはすぐ分かった。エレベータの位置を起点として、通路の下に沿って真っすぐ伸びたそれは、おそらくドリフトチューブ型の加速器だろう。脇には超伝導トロイダル・コイルなども置いてある。ただ、加速器にしてはそれほど大きくはない。線形だしな。だが、この加速器が、実はより大きな加速器の前駆ぜんく装置という可能性だってある。巨大なものは数十キロの円周を持つから、全体を一望することは不可能だ。群盲ぐんもう、象をでるがごとし。


一体全体、何の施設だここは?


まあ、病院という仮説も消えた訳ではない。シンクロトロン放射光や陽子銃を使った医療施設を持つ病院も実在する。ただ、それにしては配管や接合部がむき出し過ぎる。それに、壁を取っ払って機器類を見せる必然性が全く無い。病院のそれは、患者に不用意に恐怖心を抱かせないように、この手のものは極力隠すものだ。医療用の核磁気共鳴NMR装置だって、〝核〟と名前に付くと妙な誤解を与えるってんで、磁気共鳴画像MRI装置って言い換えるほどだ。

……と、今はそんな下らない考察をしている場合じゃなかった。俺はエレベータに到着するとボタンを連続十回以上押し、ようやく開いたドアに体をねじ込むようにして入り、今度はクローズを連打。階上へと向かった。そうだ。この施設も地下にあったのだ。時間にして三分くらいは乗っていたように思う。つまり、ウチの施設と同じくらい深い地中だったということだ。さらに、このエレベータ。ウチの施設と同じ特徴もあった。他では滅多に見ることの……いや、感じることの出来ない特徴である。エレベータが動き始めた瞬間、真下に感じるはずの重力加速度の増加がナナメだった。微速度で電車が動き出したようなあの感じ。少しよろけそうになる。

「斜行エレベータ?」

このエレベータは真上に上っているのではない。山の斜面を登るようにナナメに上っている。もっとも、外の風景が見えているわけではないので確証はないが、まず間違いない。俺はいつもそれに乗っているから、体が覚えている。

エレベータを1Fで降りると広いエントランスに出る。真夜中なのか、人気ひとけがない。ガラス張りの出口に向かうと見慣れたゲートがある。研究都市内の公共機関出入り口に必ずある、共通ID認証ゲートだ。俺はポケットをまさぐり、IDカードが入った財布を確認して安堵あんどした。ゲート脇には守衛室がある。走りたかったが、普段通りに、普段通りに──もしかすると足と手が同時に出ていたかも知れないが──なるべく普段通りに、ゲートを通過した。キュラランといういつもの音が響く。まわりが静かなだけに、いつもの五割増で鳴ったような気がする。本当に小心者だな、俺は。幸いなことに、出口に到着するまで、守衛の姿を見ることも、後ろから突然声をかけられることも無かった。

自動ドアを二つ抜けると、ムッとする外の熱気が肌に伝わる。同時に蝉の大合唱がせきを切ったように耳に届いた。夜中なので幾分涼しい筈だが、普段は地下施設の快適な環境にいるだけに、夏の暑さはこたえる。もっとも、地下施設が寒いほど涼しいのは、人間のためじゃなくて機械のためだから、三日もこもっていれば喉はガラガラ、人間フリーズドライ状態になるのだが……。

エントランスから出た先は、構内道路が真っすぐ伸びていた。左右の並木を横目に見ながら正門まで足早に歩く。自動車用の門扉もんぴは閉まっていたが、横の通用門を出ると、目の前に運河のように黒くて広い道路が左右に走っている。そしてその道路の向こう側、見慣れた巨大な恒星干渉計のアンテナ群を見て、自分がどこにいるのかを始めて理解した。

そう。俺の勤める重力研究所の道を挟んだ正面。お隣の素粒子研究所だったのだ。


つまり、こういうことだろう。

俺はどこかで酒を飲み、重力研に戻ろうとした。が、道路を渡って向こう側に行くべきところを反対に曲がり、そのまま勘違いして、お隣の素粒子研の地下施設に下りて寝てしまったのだ。斜行エレベータ……それも、時間にして三分もかかる直通エレベータという、普通ではあり得ない共通項が、間違いに気づかなかった原因のひとつになっていたのかも知れない。お隣さんにもあんな地下施設があるとは思っていなかったが、元々ここの地下は、レアメタルか何かの鉱山の跡地らしいから、あちこちに掘り進んだ跡がある。これら空洞を有効活用して地下施設は作られているから、隣接していてもおかしくはない。

また、共用のIDカードさえあれば、この当たりの研究施設には、サーバールームなど特別な部屋を除き、入ること自体は難しくない。道路の向こう側に渡っていれば問題無かったのだが、何しろジャンボジェットだって降りれそうなだだっ広い道路である。研究都市として計画的に作られたこの道は、ほとんどが直線で構成されており、一般道路なのに自動車はいつもハイウェイさながらに走っている。走りやすいので免許取り立てのやからが練習がてらに走っていて事故が多いという笑えない噂もある。そういうヤツに限ってオート・ドライバーを切ってたりするから始末に負えない。また、道路でへだてられた土地区画自身も、これまた馬鹿でかい。正門から横断歩道のある交差点までは最短でも300mほど離れていて、徒歩で移動する人間は想定外と言わんばかりの都市計画である。

なので、道路を横切る場合、交差点まで迂回するような奇特きとくな聖人君子はほぼ皆無で、車の往来を見計らって、文字通り反対側へダイブするのだが、タイミングを間違えて平均台みたいに狭い中央分離帯に取り残されたりするともう悲惨ひさんだ。命の危険を感じながら、猛スピードの車が起こす風圧に引きずられそうになるのに耐え、信号の変わり目までしばし待つしか無い。おそらく、本能的にそういう状況を避ける意識が働き、俺はお隣に迷い込んでしまったのだろう。ある意味、それは正しい判断だったと言える。夜道で千鳥足ちどりあしという状態で──といっても覚えてないのだが──道路を渡るのは自殺行為に等しい。


いや、そんなことは今となってはどうでもいい。事故による怪我はどこにもないのだから……と、一瞬考えて、オデコに手をあてると少しばかり痛みがあった。素粒子研の地下施設で装置に頭をぶつけたのは確かなようだ。あれは夢だったのかも、いや夢であって欲しいという願いは、物証ぶっしょうを得て、もろくも崩れ去った。もしかすると、彼女がジッと見ているのはオデコの打ち身なのかも知れない。そういえば、昨日から一度も鏡を見てないが、実は赤くれているとか……?

這々ほうほうていで逃げ出した俺は、彼女には名乗っていないし、この研究所に勤めているとも何も言っていない。それなのに彼女は早々とここを突き止め、さらに、わざわざ足を運んだのだ。これを非常にマズイ状況と言わずしてなんと言うのだ。論理的に考えれば、ゲートを通ったときのIDカードの情報からここを割り出した……と考えることも出来る。だが、そのためにはセキュリティ部門に状況を説明して許可をもらい、ゲート通過ログやら防犯カメラの映像やらを検索して探し出す必要があるわけで、よほどのことが無い限り、わざわざそんな〝犯人探し〟をすることは無いだろう。

もしかして、俺は何かとても〝よからぬ事〟をしでかしたのだろうか。それならそれで、覚えていないのは勿体もったいない。いやいや、そういう問題では……。


        *  *  *


「すっ、すみません。昨日は相当酔っていたみたいで、あまりよく覚えていないんです。隣の研究所なので間違えて入ってしまったみたいで。何か……、何か機材を壊したとかあれば弁償べんしょうします」

さすがに『何かあやまちを犯したのでは』……とは言えなかった。彼女は相変わらず、戸惑うような表情をしている。少なくとも怒ってはいないようだが、それが余計に色々と怖い。

「ああ、いえ、そういう話ではないんです」

彼女は左上を見ながら首を傾け、言葉を探している様子だった。

「じゃあ、その前のことは覚えています?」

「その前……ですか?」

「ええ。一昨日おとといとか。一週間前とか。……3ヶ月前の出来事とか」

思わず、『一昨日の晩ご飯はなんだっけ』と自問自答してみたが、それはすぐに思い出した。その晩のコンビニ弁当の残骸ざんがいが、満載されたゴミ箱からチラリと頭を出していたからだ。

昨日の一件以外、取り立ててヤバそうなことは記憶に無い。なにしろ忙しかったのだ。肉体的にではなく精神的に。外出するのは飯の時くらいだった。出前が出来ればいいんだけど、場所が場所だけにそれは無理。ここ一週間の防犯カメラの映像を、日付別でシャッフルしたとしても、おそらく区別が出来ないんじゃないだろうかという缶詰状態が続いていた。

それはそうと根源的な疑問として、彼女に会ったのは昨日が始めてなんだし、その前のことを聞いて何を知りたいのか?

「えーっと、ここ数日は研究室にこもりっきりで資料を整理して……」

「重力波発生源の論文ペーパー

「あっ、はい。……って、ご存知でしたか」

「ええ。知ってます。やはり覚えてないのですね」

彼女はひとつ小さなため息をついて、また左上を見た。考え事をするとそこを見るのがくせらしい。今度は右手をあごに持っていくというオプション付きだ。これで赤いセルフレームメガネでも装備してアヒル口にすれば、そのスジには受けるに違いない。……スミマセン。非常事態だと言うのに、下らないことばかり考えて。

「今日はその関係でここに来たんです」

「はい?」

「その重力源の件で共同研究をしたいんです」


どうも展開が飲み込めない。疑問符がいっぱいだ。

彼女の話によると、俺は昨日、共同研究をするための打ち合わせで素粒子研まで出向き、、何故だか知らないがあちらの地下施設で眠り込んでしまったらしい。話せば簡単なことながら、そりゃ無茶苦茶な展開だ。問題はその〝途中色々〟の部分なのだが、彼女自身が伏し目がちに『途中色々……』と言ったのであって、こちらから『どんな?』とはさすがに怖くて聞けなかった。どう転んでも非はこっちにあるに決まっている。彼女が〝不問ふもんす〟と言う態度を取るのだから、その意をありがたく受け取るべきだろう。

それにしても、共同研究の申し入れなんて重要なことをきれいサッパリ忘れるものだろうか? それに、申請書は? 所長への報告は? 少なくとも、俺だけの〝ど忘れ〟で済む問題ではない。話はどこまで進んでいるんだ……。


「では、改めまして、私、素粒子研究所、量子情報処理研究部量子コヒーレンス研究室で主任研究員をしている、葵ヒカルと言います」

彼女はそういうと、白衣の胸ポケットから赤い名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出した。右上に天使が弓をかまえたマークがあり、矢が2本つがえてある。よく見ると、矢の向きは互い違いになっていた。さらに遠目には弓と矢でΨ記号になっているように見える。なるほど、量子っぽい。肩書きを見て、俺は改めて彼女の年齢が気になった。

「あぁ。えーっと」

俺は、ゴソゴソとポケットから、折りたたまれてペシャンコになった財布を取り出し、中でプレスされて表面がテカテカになった名刺を取り出した。

「重力研……重力波計測担当主任研究官の酒井信一です……」


このへんで話を整理すべきだろう。そうだな。すべての始まりである3ヶ月前から話そうか。あの異常重力波検出の時から──。


        *  *  *


そもそも俺の勤めている重力研究所というのは、その名の通り重力を研究する研究所なのだが、中の部署によってその研究内容は驚くほど違う。共通項はどこかで重力研究につながっているというだけだ。

地に足が着いた分野としては、万有引力定数の精密測定や、反物質に働く重力の測定などがある。地上での実験や観測で全てかたが付く……つまり、実験室内で研究がという意味で地に足が着いているし、数百年前のキャベンディシュの時代から、根本的な測定原理や手法が変わっていないという点でも地に足が着いている。測定機器は当時と比べられないほど巨大化、あるいはハイテク化しているのだけれども……。

一方、地べたではなく宇宙に目が向いている分野もある。重力レンズを引き起こす天体の同定、銀河衝突におけるダークマターの挙動きょどうシミュレーションとかだ。こちらは、実験室内に閉じこもっていては何も出来ない分野だ。そもそも、まず第一に、観測対象となる天体を探さなければならない。いくら高性能の機器を作ったって、観測するものが見つからなければ意味が無い。ラジオ局が無ければラジオがあっても役に立たないのと同じである。観測対象は超新星みたいに突然現れるものもあるし、砂浜に埋まっている宝石みたいに、地道に探す必要があるものもある。まずは見つけることだ。人よりも早く。

見つけるったって、皆が皆、望遠鏡を毎日覗き込んでいるわけではない。何年も昔に公開された観測データから、斬新ざんしんな解析手法で新たな天体を〝発見〟することだってある。この場合、名声を得るのは、データの提供者ではなく、解析者の方である。例えば、あのヨハネス・ケプラーも、師匠ティコ・ブラーエの観測データから、ケプラーの法則を作ったのであるが、ブラーエとケプラー……どちらが有名かを考えてみれば一目瞭然である。


まあ、一事が万事、そういうことだから、観測データは最終的には公開するのが原則としても、最初の数ヶ月から数年は、汗水らして観測した観測者・機関の手元に置かれ、論文としてまとめ上げられ、もうこれ以上新しい鉱脈が発掘できないだろう……という状態になってから公表されることが常だ。要するに、観測データは、世に出てくるのである。学会への論文発表と同時に、論拠ろんきょとなった観測データが公開されることが多いのは、こういう理由による。公開された観測データはしゃぶり尽くされた後のデータなんだから、そこから新しいネタは出てこないんじゃないか……と思われるかも知れないが、実は往々おうおうにして、無関係な研究者からポロっと新発見が出てきたりするから面白い。才能ある観測屋が必ずしもデータ解析能力にけているとは限らないのだから、仕方が無い事とは言え、当の観測者にしてみれば、このような事態は非常に悔しいだろう。

では、虎の子の観測データを表に出さず、しゃぶりにしゃぶって、しゃぶり倒せばいいじゃないか……というと、これもまたままならぬのだ。観測対象は天体であり、おおい隠せるものではない。そして、観測機器を持っているのは特定の機関だけではない。国内でも文科省直轄から大学法人系、民間まで色々とあるし、当然ながら国外の機関も多数ある。さらに、多国間の国際協力で立ち上がった観測施設もある。要はオリンピックと同様、競争だ。虎の子の観測データだからと言って、公開せずいつまでも抱え込んでいたら、他機関の観測データを用いた論文が次々と発表され、結局、発表の場が無くなってしまうことになりかねない。文字通り、宝の持ち腐れ状態だ。

この状態はある意味、魚のづくりに似ている。魚は生きているうちに、手早く調理しなければらない。盛り付けが芸術の域に達するまで時間をかけていると、魚は死んでしまって意味が無くなる。だからといって、ブツ切りをドサッと載せただけでは誰も評価しない。そのサジ加減が難しいのである。機関によっては、最初から調理を手放したところもある。観測データをリアルタイムで解放しているのだ。釣り人が必ずしも料理人である必要は無い。魚を釣り上げる漁師という商売が成り立つのであれば、その魚を買ってさばく料理人という商売もまた成り立つ。


で、俺の仕事である重力波計測というのは、非常に重い天体……例えば、中性子星やブラックホール同士の衝突などで発生する重力波を、共振型重力波望遠鏡を使ってとらえるのが仕事である……というと、何やらカッコイイ。一般の人にこの話をすると、『何かよく分からないけど、スゴい』と言う反応が返ってくる。よく分かんないなら、スゴいかスゴくないかも分からんだろうがっ……と、若い頃は心の中でよくツッコミを入れていたが、最近はもう慣れた。要するに、この言葉を分かりやすく翻訳すると、『いやぁ、その話題はこれ以上無し。聞いてすまんかった』ということだ。それが証拠に、スゴいと言った割には、その内容を分かろうとしてさらに突っ込んで聞いてくる人はほとんどいない。例えば、書画展とかに行ってミミズがのたくったような書を目の当たりにした時、『達筆過ぎて分かんないなぁ』というような反応のたぐいに似ている。

そりゃあ、『電磁気で出てくるベクトルポテンシャルのローレンツゲージ条件のアナロジーを、線形化したアインシュタイン方程式に当てはめて重力波を導出する』とか、『電磁波は双極子放射が存在するが、質量双極子の時間変化項は消えてしまうので、重力波は4重極放射が最低次モードである』とか、で話されても、一般の人はどう反応していいやら困ってしまうだろう。

もっとも、最初から〝中学生でも分かるように話せ〟と前置きされたなら、そんなに難しい話ではない。質量を持った物体が振動すると、重力波という波を周囲に放ち、その波を受けた物体は、つられて振動する……要はそれだけである。そして、俺の主たる仕事の一つが、この観測装置──共振型重力波望遠鏡──のなのである。あえて、共振型重力波望遠鏡によるが仕事……とは言わない。観測はほぼ自動だ。操作の仕方さえ覚えれば誰だってできる。こいつの〝世話〟の方がはるかに大変なのだ。


この装置の原理は単純極まりない。星の衝突で生じた重力波は時空を歪ませながらやってくる。その歪みに合わせて物体が振動する。だからその物体──調和振動子──の振動を計れば良い。ただ、その振動が恐ろしく微弱なのだ。地球くらいの大きさの物体でも、その振幅は原子一個分に到底及ばないレベルにある。重力研究所の地下最下層にあるこの装置は、現役で稼働している他の装置に比べると古い部類に入り、検出感度もあまり良くない。もちろん、改良はしている。熱雑音を減らすため50mKまで冷やす3He-4He希釈冷却器や、折り畳み振り子とマグネットダンピングによる防振装置の追加、そして、検出器ディテクタも最新のSQUIDに付け替えたりしているが、そもそも、共振型はレーザー干渉型に比べて大型化に限界がある。要は数トンもの巨大なオモリが、カーボン・ナノチューブの先にぶら下がっているのだ。

親父ギャグをあえて言えば──そして、そのギャグはお偉いさんの視察のときにウケが良いのだが──俺の仕事は『オモリのおもり』なのである。

重力波望遠鏡は共振型のほかにレーザー干渉型と呼ばれるものがある。レーザーを遠く離れた鏡に向かって照射し、反射して戻って来た光を測定する方式で、経路の途中の時空が歪めば光の往復距離が変わるので、それを干渉計で検出する方式である。大昔のマイケルソン・モーレー型干渉計と原理的には何ら変わらない。レーザー干渉型で必要なのは、レーザーが往復するための長い腕である。腕と言っても、必ずしもそういう〝筒〟が必要なわけではない。要は、光が往復する長距離の〝空間〟があればいい。反射させるべき鏡をなるべく遠くに置けばいいのである。空間には重さが無いため、いくらでも巨大化……というか、長大化できる。装置全体は軽いが大きな空間が必要となれば、目指すは宇宙空間である。光速度を変化させる大気が存在しないってのも、宇宙の魅力だ。元々真空だからポンプで真空引きする必要がない。

そんなわけで、レーザー干渉型重力波望遠鏡は、地上から巣立って宇宙に舞い上がり、レーザー光源と鏡は数千キロの間隔で羽根を伸ばしているというのに、重過ぎる共振型は飛び立つどころか地に潜り、小さく丸まって地べたに張り付いている。目的は同じだというのに、文字通り雲泥うんでいの差である。3年に一度の国際較正キャリブレーションシンポジウムとかに出席すると、研究者の性格も、レーザー干渉型のヤツらは大風呂敷を広げる傾向がある一方、共振型の方は真面目で重箱の隅をつついてつぶすような議論が好き……と、これまた相反するものとなっている。


そんなこんなで、運命の3ヶ月前。とある重力波が地球をつらぬいた。通常、精度に勝るレーザー干渉型重力波望遠鏡が先にそれを察知し、共振型がそいつの確認をするというのが常だったが、今回は、巨大化できないという共振型の特性が優位に働いた。装置が小さいということは共振周波数が高いということで、比較的小さな天体から発せられる高周波の重力波を捉えるのに適している。ゾウがゆっくりと歩く地響きは捉えられないが、ハエが手をる音は聞こえる……例えて言えばそんなところだ。

もっとも、宇宙空間にあるレーザー干渉型の利用目的は、宇宙背景重力波の観測に軸足じくあしを移していて、今回のように突発的で小規模な線香花火みたいな重力波に対しては、ハナっから相手にしていない。『オイラはそんな小せぇことは気にしないんだよ』……って言うオーラがにじみ出ているのがちょっとムカつく。

愚痴はともかく、その重力波の振る舞いは本当に奇妙なものだった。規模としてはそれほど大きくない。重力崩壊型超新星の爆発か、あるいは中性子星連星の合体程度の規模と思われ、年に数回か十数回程度は観測されるありきたりのものなのだが、何故かその周波数と発生位置が安定しないのである。

もっとも、周波数が変わっていくのはよくあることで、それは互いに回転している星同士が重力波を出して軌道を縮め、次第に早く回転することで説明できる。詳細は『重力波観測概論』などの本を見れば、一番最初に書いてある。チャープ波と呼ばれるこの波は、要はフィギュアスケートの回転と同じだ。軌道が縮めば回転がドンドン速くなっていずれ衝突。盛大にバースト波を出した後、一つに結合マージされリングダウン波を出して落ち着く。一連の重力波を始めて観測した物理学者──名前は忘れた。この前亡くなったんだっけ?──はノーベル賞をもらい、当時は重力波観測フィーバーにいた。重力波望遠鏡の科振費かしんひ予算が潤沢じゅんたくに付いたのもそのころで、重力研の共振型重力波望遠鏡も、この予算で完成を見ている。そのヘンの話は、当時、バリバリの現役研究者だった所長が詳しい。ただ、15年も経てば、今は昔。最近は改良費用はおろか、維持費を捻出するのにも四苦八苦で、5年毎の機器更新理由がなかなか……って、また愚痴になってるな。いかん、いかん。

要するに、この手の重力波の挙動は、今となっては既にパターン化されており、星の種類や規模によってⅠ型からⅣ型まで決められている。通常ならば、各国のデータを寄せ集めて数日以内に重力波源の天体を特定。光学的な望遠鏡で映像を捉えて定型の名前を付ければ、ハイおしまい。なんと言うか、ロマンもへったくれも無い、気楽ではあるけれど研究所毎の駆け引きも先陣せんじん争いも無い、一言で言えば……そう。つまんない仕事ってヤツだ。

ところが、今度のブツはひと味違った。通常の連星は重力波を放出しながら次第に速く互いの周囲を回転するようになり、最後に衝突して一つになって安定する。だから、重力波の観測を行うと、次第に周波数が増加した後、その頂点……すなわち衝突時に不規則な波形を出し、その後、徐々に周波数は下がっていくことになる。ところが、観測された重力波の波形は、常に不規則で歪なものだった。Ⅰ型からⅣ型のどれにも属さないのはもちろんのこと、一度下がった周波数が再び上がったりする。いや、そんな生易しいものではない。乱高下らんこうげと言ってよいほどだった。俺の頭ん中のイメージでは、遊園地か何かのコーヒーカップに乗ったが、ハチャメチャに左右にグリングリン回っているような、連星から『アハハハハッ!』って声が聞こえそうな狂乱ぶりに見えた。つき合ってられない。見なかったことにしてやるから勝手にハシャいどけ。でも、俺はこいつらの監視員だからほっとくわけにもいかないし、どうするよ……て感じ。分かるだろ?

さらにもっと奇妙なのは、そのトチ狂った天体の位置である。重力波望遠鏡は、名前こそ望遠鏡とついているが、普通の光学望遠鏡や電波望遠鏡と違って、観測すべき天体に装置を向けることができない。あまりに巨大であるか、あるいはあまりに重いかのどちらかだ。そこで、3台以上の装置でそれぞれXYZ軸を担当させ、その出力結果を合わせる事で方向を決定する。昔は共振型同士が集まった国際重力イベント共同研究IGECという連合体コンソーシアムでデータをやり取りしていたが、今はレーザー干渉型のグループと統合されて、世界中の観測データが重力波資料保管センターGW−DACから入手できる。もちろん、当日か翌日に見られるのは、リアルタイムで公開されているデータだけなのだが。

その日、世界中の多くの重力波研究者──といっても、特殊な仕事だけに人数は知れている。皆、知り合いといってもいい──がGW-DACにアクセスした筈だが、皆一様に驚いたに違いない。俺もその内の一人だ。ディスプレイを見て、リアルに、


「はぁ? どーゆーこと?」


と、頬杖ほおづえついて固まったくらいに驚いた。……というか、狐につままれた。

各国それぞれの重力波望遠鏡が指し示すその天体の位置が、てんでバラバラなのである。むろん、世界中に散らばっている重力波望遠鏡の精度には違いがあるし、得意とする周波数や振幅に差がある。装置を動かせないから、設置場所によって得意な方向も異なり、いくら高性能でも本領を発揮できない場合もある。だから、数台分の観測結果の寄せ合わせでは何となくしか分からないことが多いが、十数台の結果を合わせれば、ほぼ正確に発生源の方向を言い当てることができる。ところが、今度のヤツは、合わせれば合わせるほど発散してしまい、位置が全く特定できないのである。

俺が世話をしている重力研の重力波望遠鏡は、その天体の方向は髪の毛座に近い……と語っていた。早速、各国の電波望遠鏡や宇宙超長基線干渉計VSOP−4の観測データにアクセスして確認したが、その方向に超新星爆発やパルサー同士の衝突は確認できなかった。もしかしてと思いニュートリノ望遠鏡のデータも取り寄せたがやはり何も無かった。その逆に、これら光学望遠鏡で、昨日から今日にかけて何か変わったイベントが発生した形跡けいせきが捉えられていないか調べたが、宇宙は平穏無事な一日を過ごしたようだった。要するに、重力波の発生地点と思われる場所に……いや、それどころか宇宙全体を見回しても、該当するそれらしい天体が見つからないのである。反応したのは重力波だけ、光学的には何にも見えず。ほんにお前は屁のような、ああこりゃこりゃ。

いつしか、この奇妙な天体は、研究者仲間の間では〈ゴースト〉と呼ばれるようになった。多くの観測者が痕跡こんせきを捉えていながら、誰もその真の姿を見つけたものはいない。まさにゴーストそのものである。


その観測イベントから数日たった頃、重力波バーストの計算機シミュレーションが専門で、その昔、キルギスの片田舎のコンベンションでウォッカを一緒に呑んでヘベレケになった……じゃなかった、共同研究をしたことがあるロシアの研究者、マクシュートフから『の調子はどうだい?』で始まるメールが届いた。〈オルガン〉というのは、ここの重力波望遠鏡の愛称である。何故〈オルガン〉と呼ばれているのかは後で説明するとして、彼が言うには、〈ゴースト〉自身が奇妙なのではなく、重力波が通過してくる途中の空間の問題ではないかというのだ。なるほど、そういうこともあり得るか……と俺は思った。

遠方の星からの信号は、遥か遠くの山々がかすんで見えるのと同じで、多かれ少なかれ通過した空間内に含まれる物質、あるいは空間そのものの歪みの影響を受ける。それは暗黒ガス雲だったり、水素原子21㎝波の放射・吸収だったりするのだが、多くの場合は信号を弱めたりノイズを増やす働きをする。日食のように、ある天体の前に別な天体が覆いかぶさってしまうと、後ろからの信号は全く届かなくなる。いわゆる掩蔽えんぺいってやつだ。ただし、掩蔽えんぺいしているにも関わらず、やってくる信号を強める働きをするのが重力レンズである。つまり、〈ゴースト〉と地球との間に何らかの重い天体があった場合、広がっていた重力波が曲げられ、レンズで集められた光のように、地球付近で集結することも理論的にはあり得る。さらに重力レンズ天体が移動していれば、レンズの焦点も移動するので、あたかも〈ゴースト〉が高速に移動したかのように見えることもある。重力レンズ天体の移動速度はそれほど速くなくてもいい。移動して見えるのはあくまで焦点上の虚像なのだから、超光速に移動したように見えることだってあり得る。そんなことで相対論は破綻はたんしたりしない。


さて、今回の場合、重力レンズ天体はあまり大きいモノではない筈だ。もし銀河レベルの大きさだと、光の屈折が大規模過ぎて、〈ゴースト〉の虚像──〈ゴースト〉のゴーストか。ややこしいな──の移動に数万年かかってしまう。だから、質量はある程度大きいが、比較的コンパクトな天体が〈ゴースト〉と地球の間にあると考えた方がいい。さらに、その天体は普通の光学望遠鏡では中々見つからないという条件が付く。

考えられる天体は暗黒物質候補天体MACHOである。とは言っても、MACHOという名前の、何やらイカツイ天体があるわけではなく、惑星サイズのブラックホール、中性子星、冷えた褐色わい星などの総称のことで、無数にあるにも関わらず、小さく、かつ、暗過ぎて普通の光学望遠鏡では観測できない。だが、小型ではあるが質量大きいが故に、後方から来る光を攪乱かくらんし、時には重力レンズ効果──マイクロレンズ効果と呼ぶ方が正確だが──で後方の星の光を増光させるのである。原理的には、夜空の星がまたたくのとよく似た現象だ。星がまたたくのは大気のわずかな揺らぎが微小なレンズとして働くからで、星がせわしなく光量を変えているわけではない。重力マイクロレンズ効果による観測は光……要するに電磁波では盛んに観測され、論文もそれこそ星の数ほどあるのだが、なるほど、重力波でも同様の効果が生じる筈だ。この理屈なら、、ふざけ過ぎている重力波についても説明できるかも知れない。全ては虚像なのだと……。


俺とマクシュートフは、〈ゴースト〉と、その間にあると考えられる重力レンズ天体の位置関係を徹底的に調べた。要は、この2つの天体を配置し、地上でどう観測されるかを調べるのだが、初期値が適当だから観測結果とは一致しない。そこから少しずつ摂動せつどう論的に星の位置や質量・性質を変えていき、観測結果にフィードバックさせて、結果に近い方を採用するという逆解析を繰り返し行った。ただし、可能となる組み合わせが膨大だからその計算量も膨大で、昨年まで世界最速だった『宇宙シミュレータ』を使ってもほぼ1ヶ月かかった。もっとも、俺の部署での計算機資源割り当ては4ノード分だけで、最新鋭の量子演算モジュールも使えなかったので、限られた中でのやりくりではあったのだか……。


はてさて、その結果、〈ゴースト〉は回転駆動型の平凡なパルサーで、やはり髪の毛座方向にあり、その前を太陽の100倍程度の質量を持つ中程度のカー・ブラックホールが横切ったと考えれば、ある程度は観測結果を再現できることが分かった。ただし、二つの天体の位置関係には不確定性が多く、完全には特定できていない。さらに悪いことに、光学望遠鏡でその場所をいくら探しても、やっぱり該当しそうな星が全然見つからないのである。

もっとも、MACHOが中々観測できないのは周知の事実であるし、もしかすると電磁波では全く観測できない冷たい暗黒物質WIMPで出来たボソン星なのかも知れない。ただ、そのヘンをいくら主張しても何やらいい訳がましく聞こえてしまうのは致し方ない。そもそもアクシオンみたいな得体の知れないWIMPが星を作っていると考えただけで、気持ちが悪い。……ていうか、それ以前に、〈ゴースト〉みたいな奇妙な天体の説明に、さらに奇妙な天体を使うっていう手法が既に眉唾物まゆつばものだ。何しろ、論文を書いた本人が言っているのだから間違いない。どうだ、まいったか、えっヘン! こうなりゃ開き直るしか無いじゃないか。

本来ならば、もう少し解析したかったのだが、この手の研究はある程度いい加減でも先鞭せんべんを付けた方が勝ちである。いや、いい加減な解析で早く出す必要がある。二番手になった場合は、より定量的な結果をまとめなければならない。そうなると、アメリカや欧州連合EUあたりの、豊富な予算と計算機資源を持った研究所が有利だ。我々が自由に使える研究施設だけではもはや太刀打ちできない。このヘンの話は、重力波望遠鏡での観測の先陣争いと全く同じ理屈だ。我々は出足の早さやアイデアで勝負するしかなく、力技がモノを言う戦いには挑みようがないのである。ギブミー・マネーと叫んでも予算は採れない……って、やっぱり最後は愚痴か。


そういうわけで、ほとんど見切り発車のような状態で、俺とマクシュートフの共著論文はフィジカル・ソサエティーの広報誌ブリティンに提出された。こんな状態だから、査読者レフェリーには、計算の初期設定が悪いだの、後付けの仮定アド・ホックが多いだのと色々と難癖なんくせを付けられ、急いで出したつもりが、なんだかんだで論文が受理されるまでに、更に1ヶ月半近くを要した。それでも、その間に発表された論文は観測事実の精査ばかりで、重力波源の特定にせまる論文は我々が最初であり、なんとか徒労にならずに済んだ。やれやれ……というのが、この3ヶ月の流れである。

昨日は、それらの後始末も一段落して気がゆるんでいたのかも知れない。それにしても、隣の研究所に行って酔ったまま──実際は共同研究の話をするために行ったらしいが?──そこで寝てしまい、その記憶が全然無いということがあるもんだろうか?


        *  *  *


彼女……葵ヒカルからもらった名刺をツラツラと眺めながら、俺はある基本的な疑念に気づいた。『共同研究』と、彼女は言った。だが、一体全体、何を共同で研究するのか?

自慢じゃないが、俺は量子論は苦手だ。あの、猫だか友人だかが半死半生になるヤツだろ。理屈は分かる。ブラケット記法なんて単なる演算子だ。ここの〈オルガン〉だって、量子論的な理屈抜きでは制御できない。熱的雑音というか雑振動を排除する為に、この巨大なはキンキンに冷やされているのだが、オモリの振動を極限まで正確に測定することに対する最後の障害は、物体の位置と運動量を、正確に〝同時に〟測ることができないという、ハイゼンベルグの不確定性原理なのだ。レーザー干渉型重力波望遠鏡ならなおのこと、装置全体を量子的な物体として取り扱わないと、観測結果そのものの説明がつかない。そんな理屈は知っている。だが、苦手なのだ。どうも騙されている気がする。これは理屈ではなく感情だ。感情はどうしようもない。

そんな俺が素粒子研に足を運び、量子コヒーレンス研究室とやらに出入りし、共同研究を申し込む……あれ? 彼女から申し込まれたのか? いやまあ、そこは後で聞くとして、ともかく、ホイホイと二つ返事で了承するだろうか? 記憶が無いと言っても、俺は俺の筈だ。申し込まれたとしても反射的に心の防御壁が閉まり『持ち帰って検討してから』……とかなんとか言う筈だ。反対に、こちらから申し込む理由はちょっと想像できない。

まあ、俺がここで考え込んでも答えが出るわけじゃない。だから彼女に聞くことにした。いまさら取りつくろっても、既に醜態しゅうたいをさらしてしまっているのだ。


「えーっと、重力波と量子コヒーレンス……の共同研究ですか……。この二つがどう結びつくのか、今ひとつ理解できないのですが?」

彼女は一瞬、『えっ?』という顔をした後、見上げるような顔でこちらを一瞥いちべつしたかと思うと、突然微笑ほほえんだ。微笑みというより、笑いをえているというか、吹き出す一歩手前というか……なんだ、このリアクション?

「あなたからの申し出に、私が乗ったんですけどね……」

ええーっ。そうかー。そうなのかー。あり得ねー。

「……まあいいです」

そう言うと、彼女は両手のてのひらを上にして肩まで挙げた。よくアメリカ映画で、『WHY?』とか言うときに取るポーズだ。しかし、このポーズを量子屋がやると意味が違ってきて……、

「波動関数じゃないですよ。言っときますけど……」

「ええっ! どうしてそれを」

こいつはエスパーか!……って、表現古いな。何故、俺の考えていることが分かる? 少し……いや、かなりたじろいだが、その理由はすぐに分かった。

「これもあなたに教えてもらったんですけどね……」

やはり、記憶が無くても俺は俺だったようだ。そんなところで確認できてどうする。しかし、いきなりそんなネタをするなよ俺……と自分にツッコミながら、しかし一方で、本当にそんなことをしたのかという疑念もく。いくら何でも初対面でそれはないだろう。頭のすみにちょっとしたモヤモヤ感が残る。何だ、この感覚は?


「で、共同研究の中身なんですが……」

彼女はこちらのたじろぎには興味が無いような顔をして、言葉を続ける。

「量子的な〝もつれ〟エンタングルメントというのはご存知ですか?」

彼女は、ちょっとこちらを見透かすような目で尋ねてきた。悪意は無いが意地悪な感じ。相手が関山ならば、『痴情のもつれなら知ってる』とか答えるところだが、ここでは思いっきりセクハラになるしな。まともに回答しとくか……。

「確か、1つの素粒子が2つに分かれた後でも、元々1つだった記憶が残っていて、一方の状態を調べると、遠く離れた他方の状態も分かるとか、変化するとかなんとか……。そうそう。最近の暗号通信に使われていて、どこかで盗聴すると、盗聴という行為そのものがデータを破壊するから絶対に盗聴できないとか……。どうも、私の頭はなので、量子力学はよく分かりません」

と言って、彼女と同じ波動関数のポーズをとった。少し左上を見て。

「以前も同じことを言ってましたね」

彼女はそういうと、少し微笑んだ。ちなみに、相手と同じ仕草しぐさ真似まねるのは心理用語でミラーリングと言って、お近づきになる一つの手法だ。


「あなた方の論文を読みました。遠方の星からの重力波が、重力レンズで曲げられて、増幅されて届くという説。レンズなんですから、一旦左右に分かれた光が曲げられて、再び地球上で出会うことになりますよね?」

「ええ、まあ、そういうことです。光でなくて、重力波ですけどね」

「ああ。ごめんなさい。つまり、元々1つだった重力子が、数光年も引き裂かれた後、レンズによって再び出会うということですね?」

「そういうことになりますねぇ……」

何となく、彼女の言いたいことが分かってきた。分離された重力波……というか、彼女にとっては重力子という扱いなんだが、こいつが二手に分かれた後、重力レンズによって再び集まってくる。それを使って干渉縞を作ろうとかいう話だろう。量子論の研究なんて、実験室内で閉じた研究ばかりかと思えば、こういう宇宙に目が向いている分野もあるのかと、妙に感心した。


「つまり……」

と彼女は続ける。

「つまり、この重力波源をEPR源として、そこからレンズで再び集められて別方向からやってくるエンタングル状態の粒子を使って、量子テレポーテーションを行えないかというのが、今回の共同研究のテーマなんです」

「量子……テレポーテーション?」

聞いたことはある。いや、大学では習った。が、やっぱり苦手だ。それなのに、俺から共同研究の申し入れ? 何かの間違いだろ。

腕組みをした俺に対して、彼女はひとつため息をついた。

「細かい話は、ウチの研究室でお話しした方がいいでしょう。お見せしたい関連実験もありますし。また後で連絡します。今日は、その確認で来ただけですから。では、おじゃましました」

ペコリと頭を下げて彼女は帰ろうとした。ははぁ、巨大ピンセットで束ねられた後頭部はこうなっていたのかぁ……ではなく、

「あの……」

俺は反射的に彼女を呼び止めていた。

「……せっかくこんな地下深くまで来たんですから、ここの施設の見学でもしませんか? コーヒーくらい入れますよ」

「えっ? あ、おかまいなく」

彼女は振り返りながらそう言ったが、なにか少し嬉しそうだった。

もともと俺は、ここに見学者が来るものだと思っていたにもかかわらず、彼女とはずっと立ち話で、ろくにおもてなしをしていないことに、今更ながら気づいたのだ。共同研究をすると言うのなら、これからしばらくの間付き合う必要がある──別に変な意味じゃなく──のだし、そうならば、第一印象は良いに越したことはない。いや、第一印象は既に盛大せいだいにズッコケてるから、ここで少しは汚名返上おめいへんじょう名誉挽回めいよばんかいをすべきだろう。


とりあえず俺は、ソファ横の、おしゃれとはとても言えない脇机わきづくえの片隅に置いてあるコーヒーサーバーに手を伸ばした。ソファ周辺は、昔使っていた実験器具洗浄用の給水設備がある。いや、正確には今でも実験器具用で、バルブの一方はイオン交換樹脂の詰まった筒がつながっているが、他方は飲料水としても利用できるようになっている。ちなみに、水源は水道ではなく地下水で、なかなか美味うまい。その代わり、イオン交換樹脂の色変わりが早いのだが……。

で、この給水施設を起点として、コーヒーサーバーを始め、冷蔵庫、電子レンジなど、一通りの〝ジャンクフードなら食える環境〟が構築こうちくされていて、冷蔵庫には冷凍ハンバーガーが満載されている。主電源は観測機器類と別で、影響を与えることは無い。ソファまで含めれば、ここで十分に寝泊まり可能だ。……風呂が無いのが玉にきずだが。

「はい」

「あ。いただきます」

俺はサーバーからコーヒーを紙コップに注いで彼女に差し出した。今朝れてずっと保温機の上に置きっぱなしだった所為せいもあり、少し煮詰まった匂いがしている。保温機の上はコーヒーのしずくが蒸発して出来た黒い縁取ふちどりが出来ていた。彼女は、ペコリと頭を下げたあと、しばらくコーヒーの波面に写る目玉とにらめっこしてから一口飲んだ。露骨ろこつに苦そうな顔をする。そう言えば目覚まし用で濃い目に入れたんだっけ? これって、汚名返上ならぬ汚名挽回? あわてて冷蔵庫からミルクを取り出す。よほど苦かったのか、苦いのが苦手なのか、彼女は紙コップからあふれる手前までミルクを注ぎ、少しずつ飲み始めた。温度は下がったから、ガバッと飲める筈だが、やはり苦いのが苦手なのだろう。

「さて……。じゃあ、このデカイやつから説明しましょうか。こいつのこと、知ってます?」

「いいえ。説明を受けたことは……ないです」

「ちゃんと?」

「ああ。いえ、パンフレットか何かで見たかな……と」

彼女は妙にソワソワしていた。


ここの施設は、鉱山の発掘場あとに作られている。天井が無駄に高く、ビル3階分くらいはある。まあ、施設用に設計されて掘られたわけではないのだから、『無駄に』という形容動詞は当てはまらないかも知れない。広さは学校の校庭くらいありそうだが、施設の境界線であるコンクリート壁の向こうにも空間は広がっているので、鉱山跡地としての全体像は俺もよく知らない。こんな空間が地上から掘り進めること、およそ千メートルの場所に存在するということ自体が驚異だ。人間の欲望は、それだけ深く、かつ、大きいということの証拠だろう。そういえば、昨夜チラリと見た素粒子研の地下施設もその程度の深度だったろうか。規模はもっと大きかったように思う。施設内部はいつもヒンヤリしていて快適だが、これは地熱差発電による熱交換ユニットが正常に働いているお陰であって、地下空間の自然環境としての実際はかなり暑い。施設外へ通じるドアを開け、冒険してみればそれはすぐに分かる。

俺はここにある複数の重力波望遠鏡のうち、一番デカイやつを指差した。全長15m、直径は4mにもなる巨大な筒……である。そういえば、以前視察に来たお偉いさんは、『何だ? このタンクローリーは?』って聞いてきたんだっけか? まぁ、確かにそう見えなくはない。『危』のプレートを貼って、『液体窒素』とか壁面に書いておけば、そのスジ──どのスジ?──にはウケるかも知れない。外装はピカピカのステンレス製だしな。

でもって、この筒が、東西方向と南北方向に、くの字型に置かれている。さらに、くの字に折れ曲がった中心部分から灯台のようにもう一本、ニョキニョキと上に生えていて、地面から天井まで貫通している鉄筋と一体化した構造になっている。要するに、さながらフレミングの左手の法則のような配置で、巨大な円筒が三本、鎮座ちんざしているのである。

ちなみに、上下の鉄筋にはメンテナンス用のハシゴが無造作に取り付けられているのだが、俺はまだ一度も上まで登ったことがない。3階建てのビルの壁面に、非常用ハシゴがあるようなものだ。ガキの頃、安易あんいに登った火の見やぐらから降りられなくなり、ベソをかいたことがトラウマになっている俺にとって、高いところに登るのは極力避けたいことなのである。筒のテッペンには、これを作った研究者のサインを始め、コイツの担当になった歴代の研究官の寄せ書きというか、ぶっちゃけ、落書きが書いてあるらしいが、そういう事情で、俺は見たことが無い。

さらに、筒はこの三本だけではない。同じく、フレミングの左手の法則状態の形状で、ひと回り小さい三本セットが内側に。さらにその内側にもう1セットあって、合計9本の筒が仲良く並んでいる。こいつが、この研究施設のぬし、多段三軸共振型重力波望遠鏡、通称〈オルガン〉だ。


「この巨大な筒が重力波を捕まえるアンテナで、重力波が来るとわずかに振動するので、それを測定します」

「…………」

彼女は、〈オルガン〉の上部を見上げたまま、固まっている。

「あのぅ。この中をレーザー光が往復しているの?」

コケそうになった。確かに重力波望遠鏡と言えば、レーザー干渉型が主流だが、ここまで来ておいてその認識は無いだろう。大体、レーザー干渉型なら、こんな太さは必要ないし、逆に腕の長さの方は全然足りないし、それほど重くないからこんな頑丈がんじょうな鉄骨は無意味だろう……とか色々と突っ込むべきトコなのかここは? 天然なのか、ツッコミ待ちのボケなのか? 相手が完全な素人でないだけに悩むところだが、ここは無難ぶなん対処たいしょしよう。

「いやいや。中にはアルミで出来た巨大な共振器となるオモリが吊るされていて、重力波が来ると僅かに振動するので、その揺れを拾って測定しているという……」

「ふーん。そう」

興味があるのか無いのか、素っ気ない返事である。

「振動ってどれくらい? 振幅の感度は?」

「200㎐で10のマイナス25乗のオーダー」

「200㎐……」

後ろ向きだったので表情までは分からないが、彼女は少し考え込んでいるようだった。首が少し傾いでいることから、それが分かる。しばらくして振り返った彼女は、なかなか鋭い質問をした。

「共振器……ということは、共振する固有振動数があるってことよね。その振動数が200㎐だと……。ということは、それ以外の重力波は計測できないか、出来ても感度が落ちるってことじゃない……ですか? なら、振動数が時間で変動する重力波は正確に捉えられないんじゃないかと思うんだけど……」

「御名算!」

俺はちょっとニコッと……正確にはニヤッとして彼女を見た。専門畑は違えども、同じ物理屋。一般の女子高生よりは話が早い。いや、比較しちゃ可哀想か。俺は言葉を続ける。

「……だけど、ほら。同じ形状で大きさの違う筐体きょうたいが三台ずつあるでしょ。それぞれの固有振動数が違っているから、それらを合成して解析すればいい。ついでに言うと、それぞれが三軸分全て揃っているから、計9本。ブラジルの研究所Divisão de Astrofísicaみたいな球形共鳴タイプなら三軸分は必要ないけど、振動の制御が難しいし、まあ、ここは無闇むやみに広いから、分配して個別に沢山作っちゃえと……。いや、これはこっちの話」

「なるほど、分かったわ。ところで、こんな地下深くに作ったのは、やっぱり宇宙線の影響を排除するため?」

「まぁ、それもあるけど、どちらかと言うと振動の影響を排除するためで……。この深さでも地上で道路工事のような振動ディスターバンスがあると、フィルタかけても信号がまともに拾えなくて」

「ああ。あるある。先々週の月曜日から夜中に洞山どうざん公園通りで舗装工事やってたでしょ。あれの所為せいで、実験対象のデコヒーレンス時間が極端に短くなっちゃって、追試実験が伸び伸びになってるの。どうにかして欲しいわ!」

『洞山公園』というのは、研究都市のほぼ中央にあるただっ広い公園のことで、元々は鉱物採取後のボタ山があったらしい。ここの地下施設はその跡地の真下にある。要するに、ここの真上に重力研の建物は存在せず、公園とは水平距離で500mくらいは離れている。だから、この二つを直結するためには、ナナメに動く斜行エレベータが必要なのだ。彼女もその振動に悩まされていたとなると、やはりあの斜行エレベータも、洞山公園地下に続いているのだろう。

「そういえば、先々週は確かにノイズが多かった」

「でしょ!」

彼女は一瞬怒った顔をしたかと思うと、次の瞬間にはニッコリ笑っていた。俺もつられて笑った。


研究者というのは、大なり小なり、自分の研究にほこりを持っている。ただ、専門的なので、なかなかその内容を話す相手がいない。論文発表が一つの〝はけ口〟になるのだが、論文は製品であるから、そこに至った苦労話とかアイデアの生まれた瞬間の話とかは書かない。白鳥が水面下の足を見せないのと同じである。だが、実はそこが面白い部分なのだ。学会での論文発表の席では寝ててもいいから、後の懇親会レセプションには出ろ……というのは、そういう理由である。夜の部の方が遥かに示唆しさに富み、かつ面白い。

研究者はそういう、〝専門的なバカ話〟にいつも飢えている。だから、相手が理解してくれそうだと認識すると、せきを切ったように色々と話が出てくる。今の俺が、ちょうどそういうタイミングだ。おそらく彼女もだろう。

「えーっと、三軸揃っているって言うことは、重力波が来る方向も分かるってことよね」

「そ。こいつだけで、10億光年までのコンパクト星が発生する重力波なら、入射方向、規模、Ⅰ型からⅣ型のどれかまで全て分かる。必要なデータが、スタンドアローンで全て取れる装置ってのは、今じゃ世界中探してもここだけしかないんだ」

えっヘン!……と胸を張りたいところだが、俺が作った機械じゃないしな。それに、単独で全てをこなす観測は、ある意味、既に時代遅れだってことの証明だ。正確には『ここだけしかない』んじゃない。『ここだけしか』んだ。この装置には、俺には特別な思い入れがあるけど、今、それは飲み込んでおこう。

「上からなら全体を見渡せるんだ。どぉ? 上ってみない?」

俺はあごで壁際の階段を示した。施設全体を俯瞰ふかんで見渡すには2通りの方法がある。ひとつは中心を貫く鉄骨脇のメンテナンス用ハシゴを登ることだが、これは最初から却下きゃっか。もうひとつは、施設内の壁面を一周して設置されている通路だ。こちらもメンテナンス用だが、普通の階段で上り下りできる。通路は1m程度の幅しかないが、落下防止用の手すりがあるから安心だ。キャットウォークとか呼ぶらしい。天井が高い分、キャットウォークは二段になっている。一段目はここから5m上、二段目が10m部分を周回している。もう少し高ければ上下方向共振器のテッペンが見られるのだが、残念だ。

俺は、壁に張り付いている階段を上り、一段目の通路に差し掛かったところで振り向いた。彼女は、未だ半分くらい残っているコーヒーを脇机にそっと置き、後ろから付いてくる。ちょっとおっかなびっくりだ。まあ、俺も高いところは苦手だから最初はビビっていたが、さすがにここは慣れた。幅が狭いことを除けば、ショッピングモールの吹き抜け沿いの通路と大して違わないしな。

「まあ。全部ピカピカなのね」

最上階に達したときに放った、彼女の第一声がこれである。

9本の筒は全てステンレスで覆われており、鏡のように光っている。下からでも当然ながらそれは分かるが、色々と機材があって見通しが悪い。それに、下から見ると、反射して映り込むのは、変化に乏しい上部のコンクリート壁面であるのに対し、上から見ると、制御卓や処理コンピュータ類、無造作に置かれた予備部品などがゴチャゴチャと反射して、さらにそれぞれの筒同士の反射もあって、さながら万華鏡のように見える。

「ここの重力波望遠鏡は同業者カリーグには〈オルガン〉って呼ばれているんだ」

「ええっ? 何故?」

「ほら。長さの違うピカピカの筒が沢山ある……」

「パイプオルガン!」

「そうそう」

「……うーん。何かちょっと無理があるんじゃない?」

まさかの駄目だめ出し。躊躇ちゅうちょ無し。

まあ、そう言われればそうなんだが、別に俺が言い出したわけじゃない。誰からともなくそう言うようになったのだから、仕方が無い。世界中──少なくとも、重力波研究仲間の狭い世界では──〈オルガン〉で通用するのだ。

俺がちょっとムッとしているのを感じ取ったのか、

「ああ。でも、重力波がやってきて、その周波数と向きに合わせて個別にパイプが振動する仕組みなんだから、パイプオルガンのアナロジーもあながち間違いじゃ……ない……かも」

これでも精一杯フォローしているつもりなのだろう。俺は腕組みをしながら、不覚ふかくにもつい、フフッと鼻で笑ってしまった。

「なんで笑うんですか」

今度は彼女の方が腰に手を当てて威嚇いかくのポーズ。

「いやいや」

と言って、俺は波動関数のポーズ。ついでにサイン波のポーズ。サイン波の場合、左右のひじを上向きと下向きに別々にして交互にウネウネすればいいだけだ。至って簡単である。彼女はあきれたような顔をしていたが、怒っている様子はなかった。鼻で笑われた。


「あ……。じゃあ、あたしは実験の準備があるのでこれで帰ります。今日はありがとう」

彼女は左腕の時計をチラリと見ながらそう言った。時間はまだそれほど経ってはいない。こここに降りてきてから精々30分くらいだろうか?

「あー。でも、共同研究の内容については……」

「明日の午前中にでもウチの研究室に来て頂ければ。その方が話が早いと思います。紅茶でも入れますから」

「分かりました。今度は、こちらもきたて豆とサイホン用意して待ってます」

「え? いやそういう意味では?」

「それはともかく、葵さんの研究室は、もしかしてここと同じ、最下層の地下ですか?」

「とりあえず、5階の事務室に来て下さい。それから……」

彼女はまた左上を見て考えていたが、

「……私のことはヒカルと呼んで頂いて結構です。そうでないと逆に調子が狂います。では」

「え?」

そう言い残して、彼女はきびすを返して階段を下り始めた。『調子が狂う』の真意を確かめたかったが、まあそれは追々おいおいでもいいだろう。研究者仲間ではファーストネームで呼び合うこともよくあるが、日本人同士だとちょっと……。ヒカルと呼べと言われてもねぇ。ま、折角せっかくだから心の中ではそう呼ぶことにしよう。

で、俺は、彼女……ヒカルに続いて階段を下り、途中追い越してエレベータのドアを開けた。上まで見送ろうかとも思ったが、『ここでいいです』と言われたので、エレベータの前で別れた。もしかすると、地上うえで関山がニヤニヤして待っているかも知れないし、そこにして出て行ったら、何を言われるか分からないしな。


こうして俺は、ヒカルと出会った。いや、俺の記憶が抜け落ちていることを考えれば、再会したということになる。もっとも、後になって考えると、その両方だったということになるのだが、それに気づいたのはかなり後になってからのことだった。

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