幸せの象徴《かたち》

『幸せの象徴』

『カフェ◇Little』

 不定休の、ちょっと変わった喫茶店だ。10時頃から18時迄の昼の営業と、22時から翌朝までの夜の営業だそう。終わるのは明け方6時過ぎだという。

 住宅街の外れの端、崖にへばりつく様に店は建っている。


 愛らしい音色で扉鈴が鳴る。門扉から玄関まで、外見は普通の住宅だ。でも、扉の向こうは不思議な空間に満たされていた。

「いらっしゃい。」

「あの…」

 少し躊躇いがちに彼女は中を覗いている。店内に客は無く、穏やかな笑顔でマスターは彼女を迎えていた。

「足休めにでも、如何です。」

 昼下がり。夕暮れにはまだ早い、午後4時前。薄暗い店内だが、陰湿というより何故か心地よさが先に立つ印象だった。壁面ガラス張りの外の景色が、明るすぎるから? 景色の色は緑だけれど、そうか…水族館に似てるんだ。そんな事を考えながら、ふらふらと吸い寄せられるように彼女は入り口の階段を下りてきた。

 コポポポ、湯の沸く音が絶えず響いている。椅子の並ぶカウンターは、喫茶と言うよりバーのイメージがしっくり馴染んでいて、背後に並ぶ珈琲カップがむしろ奇妙な感じだ。

「あのぅ、初めてなんですけど。」

「この辺りにお住まいなんですか。」

「えぇと。そういう訳では無いんですけどね。」

 はにかみ笑顔を浮かべ、彼女は一枚名刺を差し出す。

「…フリーライター?」

「はい。小規模ですけどタウン誌の取材で、この辺りを回っていたもので…」

 取材させてもらってもいいですか? 真っ直ぐに彼女はマスターにお願いした。

 飛び込みの突撃取材。どこか良い場所があれば記事にする。そういうスタイルで彼女は書いているらしい。

「わかりました。良いですよ。」

 気さくにマスターはOKを出した。


 店の入り口は中でも一番高い位置にあるらしく、店内の造りはそこから下へと降りていく。左に確保されたカウンター内は、席より一段低くなっており、座席を挟んでその反対側、窓際の通路はスロープ状のなだらかな傾斜が付けられていた。窓は先程述べたように壁面ガラス張りの大きなもので、広く取られているからか、水族館を彷彿とさせる。きっと絶えず聞こえる湯沸かし音の所為もあるんだろう。

 彼女はカウンター席へ、席後ろの狭間を通って、入り口から3番目に腰を下ろした。背後に設けられた銀色のバーは、多分落下防止用。でもそれが、下っていく通路との境界を浮き上がらせ、次元の違う場所で飲んでいるみたいな、独特の感覚を引き起こす。

 窓はある種のシアターの様なもの。更に彼女の好奇心は刺激された。

「まだ奥にも続いているんですか。」

 左へと折れた通路の先を想像して、彼女は尋ねた。差し出された水を、有難く頂いて、飲み干す。程よく冷えた水に喉が癒された。

「良ければご案内しますよ。」

 奥はボックス席になっていて、落ち着いて読書が出来るように配慮されているらしい。時には受験生も利用しに来る、という話だ。

 屋外のテラス席もあるらしく。

「カウンターだけか、と思ってました。」

 素直に感想を彼女は述べる。カウンターが6席に、その他奥に幾程広がっているんだな。無意識にそう判断する眸で、無邪気に彼女は会話を続けた。

「意外に広いんですね。マスターだけでは切盛り大変なのでは。」

「いえ、10席ですから。」

「へえ…ええっ!?」

 想像上の席数の計算が合わない。まあ、考え様によってはその位が丁度良いのかもしれない。くるりと360℃見回して、彼女は元の正面…マスターの方へ向き直る。何も知らないから当然かもしれないが、全てがミステリアスに感じてしまう。やはり興味深い。個人的には占いなんかもあれば、女子には面白いだろうか。

 何と言っても、マスターはイケメンだから。

 元々企画をするのが仕事、に彼女はしたかった。今それは趣味としている。楽しく妄想を膨らませ、あれやこれやとこの場所の活用術を模索する。取材しながらとはいえ、マスターと二人きりの時間と空間とが、乙女心を魅了している。

 しかし。

「こんな時間に人が来なくても、やって行けるんでしょうか。」

「はい。大丈夫です。」

 来客は夜の方が多い、とマスターは言う。酒類も出さず、喫茶だけで夜も営業しているとの話だ。カラオケなんかもやっているなら、少しは分かる気がするけれど、本当に客なんて来るのだろうか。

 疑問を素直にマスターに告げる。返って来たのは一風変わった答えだった。

「仮眠室がございますから。」

「仮眠室?ですか。」

「はい。来店頂く方の中には、家に帰り損ねる方もいらっしゃいますから。」

 住宅街の中にある店に、客が利用する仮眠室。何だか妙な組み合わせだ。

「色々と…工夫されているんですね。」

「ええ。まあ。」

 マスターは静かに微笑んだ。


 その時、不意に奥から別の人が現れた。

「祐河、佐武さんに頼んできた…よ。」

「ああ、有難う。」

 背中越しの慣れた返事を返す。もう一人の男性は、彼女に気付くと軽く会釈をした。

「いらっしゃいませ。」

 笑顔とそれに合った声で接客する。男の人だけれども、華奢でたおやかな印象を受けた。

 マスターと揃いの白いシャツに黒のカフェエプロン。従業員なのは一目瞭然。

 お互い何も言わなくても、阿吽の呼吸で小さな仕事場を動きあう。信頼しきった間柄だろう。と、想像できる。

「素敵な方ですね。」

 彼女は感嘆を漏らした。何も言わずにマスターは微笑を返す。

「ずっと二人でやってきたので。俺が此処に居られるのも、彼の御蔭ですよ。」

 肩の力を抜いて向けられる微笑が、とても幸せに満ちていた。


 何だかとても胸元がくすぐったく、感じられる程に嬉しくなった。





 一方で。

 芳は驚いていた。彼女が記者だと知ったのは、つい数時間前である。フリーペーパーに掲載されていた連載記事の担当者と瓜二つだった。そして何より、マスターの話をメモに取る彼女を許している事。

 あんなに取材は嫌がっていたのに…。町内会の回覧板に載る事でさえ。

 祐河が接客をする姿を背に、その他の雑務をこなす芳は聞き耳を立てていた。

「ところで。マスターが喫茶店を始めようと思ったきっかけって、何だったのですか。」

 改めて彼女は質問をした。丁寧に向き合って、マスター…祐河は答えた。

「前に修業していた喫茶店のオーナーが、初めて会った時に珈琲を御馳走してくれたんですよ。丁度俺も全て無くしてしまった時でね。」

 何となく、祐河が話している記憶があの事件の頃の気がする。そう感じつつ芳は脇で仕事をしていく。

 相槌を打つ彼女を見つつ、祐河は手元で珈琲を淹れている。

「その珈琲を見て、子供の頃を思い出したんです。そう言えば、よく両親に珈琲を入れて渡してたな…てね。」

「えっ、マスターがですか。」

「俺の親は自宅で共働きだったのもので。淹れた珈琲を受け取ってくれる時の『有難う』の笑顔が好きだったんです。」

 今思えば、両親に構ってもらう為の手段だったかも知れませんね。そう話す顔は少し、無邪気な子供の笑顔を想像させた。

 どうぞ、と珈琲を祐河は彼女に差し出す。

「手の空いているものが、出来る事をする。それが家訓みたいなものでしたよ。」

 料理も母親がする、というものでもなく。父親でもよくキッチンに立ってましたから。俺も料理はその頃に覚えたかな。そんな話を祐河は笑って話していた。


 彼女を店内に残し、夜に向けての仕込みの準備をしに、祐河がバックヤードへ入ってきた。その背を追って芳は祐河に近づいた。

「どうした、芳。」

「ん、ちょっとね。」

 背中を抱き締めて、祐河が寂しくないように腕に力を込める。あの時、が『祐河が泣いていた』と言ったのは。

 埋まる額が祐河の背を押す。温かい息遣いが祐河の心を温める。祐河は背に芳の愛を感じ、そらを見上げた。

「有難う、芳。」

 落ち着いた祐河の声が、芳の胸に響く。何に対してだか、意味は分からない。けれどそれで、芳には確かな安心感が伝わった。

「うん。祐河も。」

 ほぼ二人の口癖。いつもの馴染んだ言葉。その笑顔の奥には数知れない想いが存在している。哀しみも、慈しみも、辛い出来事も、楽しい思い出も。

 今を“幸せ”だと言えるのは、そんな幾つもの想いの積み重ねが教えてくれるもの。




 店の奥へ見送った祐河を待つ間、彼女はカップの中を覗いた。淹れてくれた珈琲は、薫り高いカフェラテだった。

「あ。」

 カフェラテの中に浮かんでいたのは、愛らしい四葉のクローバー。繊細なラテアートの幸福を呼ぶおまじないは、くるくると彼女の心の中に円を描いて、身も心もほっこり温める。一口、口にした彼女の緩んだ頬からも、幸せが零れる。

「美味しい。」

 それはささやかな、幸せの象徴かたち。彼女はゆっくりと味わった。





   ─ 了 ─


《注釈:芳の言うマスター=前喫茶店オーナー》

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