#8 最果てに咲く花

ガタンゴトン……。

ガタンゴトン……。


無機質な音に揺すられ、俺は最果てへと向かっている。平日の真昼間に小さなオンボロ列車に乗るスーツ姿の俺は、周りの客から見ても浮いていると一目で分かる。


でも、それでいいんだ。なにも浮いているのはこの列車内だけの話ではない。このただっぴろい世界から、俺は浮いてしまっていた。世界は突然、色を消した。


ポケットの携帯はけたたましく鳴いている。

もう何度目の振動だろうか。

出なくていい。出る必要もない。


俺は投げ捨てるように、この前明美に貰ったばかりの鞄に携帯を放り込む。その時、今朝書き上げたばかりの遺書が俺の目に入った。


ああ、俺、死ぬんだ。

他人事のように感じていた死を、俺は遺書を見ることで実感できる。

不思議な程、未練がなかった。


それほど俺の脳も体も心も、死をすんなりと受け入れていた。

鞄のファスナーをゆっくり締めていると、屈んだ姿勢の胸ポケットから紅色の花が滑り落ちた。

明美が一番好きだと言っていた"アマリリス"。


そっと拾い上げる間もなく、小さな手が俺の目の前からアマリリスをかっさらった。


「お兄ちゃん! お花、落ちたよ!」


目線を下げると、小学生の低学年とみられる子供があどけなく笑っている。


「こら! 玲奈! 人の物を勝手に触っちゃダメでしょ! すみません……この子が勝手に……」


「いえ、いいんです。玲奈ちゃん、ありがとう」


俺がアマリリスを受け取ると、しゅんとしていた顏が一気に明るくなる。少し萎れているアマリリスよりもよっぽど綺麗に咲いている。

母親はまた一つ頭を下げ、一番端の席に玲奈ちゃんを連れて座った。


アマリリスを鼻に近付け、香りをかぐ。


『また今年も香らなかったなぁ』


一瞬、明美のむくれた横顔が脳裏をよぎった。


だからどうした。

もう痛む心もない、零れる涙もない。

明美を思い出した所で、もう、何も思わない。

俺は親指と人差し指でアマリリスをくるくる回す。


紅色に輝くアマリリス。

生前の明美にどこが好きか聞いてみたことがある。


『なんだかこの花、私に似てる気がしてるんだ』


なんとも抽象的な答えが返ってきて困惑した思い出がある。具体的に理由を聞いてみても、明美は曖昧に言葉を濁した。そんな行動があまりにも明美らしくなかったので、俺は帰ってからアマリリスについて検索する。


すると、アマリリスの花言葉は"すばらしく美しい","誇り"というものだということにたどり着いた。


明美は自分のことを素晴らしく美しく誇りのある人間だと思っていたのだろうか。それならば、確かに、自分でこの花と似ているというのは恥ずかしがるのにも頷ける。でも、明美がそんなことを思っていたなんて少々意外だった。


普段、自分の容姿や技術のことを自慢げに話すことなど明美はなかったからだ。自慢したい気持ちをこらえつつ、内面でひっそり思っていたということなのか?


それなら恋人である俺には思う存分自慢してくれればいいのに。明るく美しく聡明な明美を俺は素晴らしく美しく思うし、それこそアマリリスの花言葉通り、明美は俺の誇りでもあった。


この女性となら一生を添い遂げられる。

幸せを咲かせられる。本気でそう信じていた。


だけど、現実は儚くその幸せは一瞬で散った。俺が一報を受け駆け付けた時には既に明美はベッドの上で白く目をつむっていた。


飲酒運転の車に衝突されたと聞いた時は、泣くよりも先に怒る感情が腹の底から憎しみと共にこみ上げてきた。俺はひたすら運転手に届くはずのない罵声を浴びせた。誰もいない部屋で、ひたすら叫び続けた。


来る日も来る日も壁を殴り、声を枯らし、泣きながら叫んだ。そんな俺を心配してか、毎日のように友人が訪ねてきた。


『やめろ、遼! 明美ちゃんだってそんなこと望んでない!』


俺の友人達は決まってその言葉をぶつけてくる。そんなの、どうしてお前らが知っている。お前らは明美じゃない。


明美の気持ちを知らずに、明美の名前を使って、俺を諌めるな。


『じゃあ会わせてくれよ、今すぐに!

明美に……佐伯 明美に俺を今すぐ会わせてくれよ! なぁ!?』


友人の肩をゆすっても、友人は何も言葉を発さない。所詮そういうものだ。当事者にならないと、気持ちは分からない。きっと今俺を諌めている人も、大切な人を亡くせば俺のようになる。


いつしか声も潰れた。

表情が消えた。

友人が消えた。


一つ一つ、俺の前から物が消えていき最後に残ったのが俺だった。

もう、消してしまおうか。

そうすれば、誰にも迷惑をかけないし、明美にだって会いに行ける。


俺が"死"を意識すると、心の底にほんの少しだけ光が湧いた。

死ぬことを目標に、体は希望に湧き、心に明かりが灯ったのだ。


だから俺は今、こうして電車に一人揺られている。

いくつもの電車を乗り継いで、死へ、最果てへ、明美の元へ、俺は向かっている。死に方ももう決めてある。

海から見える夕日が絶景と名高い最果て峠からの、転落死。


海へ落ちる衝撃を味わえば、明美の気持ちが分かると思ったから選んだ死に方だ。


だから、明美を匂わせる物もつれてきた。それが、アマリリス。

明美自身が言っていた、明美に似ている花。その花言葉通り、素晴らしく美しい場所で、明美が好きだという誇りを持って俺は死ぬのだ。


文字通り、死に花を咲かせることが出来る。

俺は胸ポケットにアマリリスをそっと戻した。


「……間もなく、斑鳩海岸、斑鳩海岸。最果て峠にお越しの方はこちらでお降り下さい」


ふっと小さく息を吐き、席を立つ。近頃何も口にしていないから息を吐いた反動で体が浮いたみたいだ。斑鳩海岸で降りたのは俺だけだった。


季節外れの春の日の真昼間。用がある人間の方が珍しいのかもしれない。最果て峠まで歩いて一時間かかる。俺の人生を振り返るにはちょうどいい距離だ。


季節外れの春風は心地よく俺の体を通り抜けていく。

まるで俺の背中を押してくれているようだ。有難い。

足取りもなぜか軽い。やはり体も死を受け入れている。

俺の選択は間違っていないことを証明している。


じゃあ心はどうか。俺は自分自身に問いかける。

ぽつ、ぽつと空っぽだった心の中に小さく思い出が浮かんできた。


『別に私、彼氏とかいらないし。あなたと付き合うなら、その時間で知識を一つでも増やした方がマシよ。それに私、あなたが想っているような女じゃないと思うよ』


大学の研究室内で明美に告白した際のセリフだ。懐かしい。それから根気よく俺が口説き、明美が折れる形で付き合うことが出来たっけ。


『うるさいなー。

そんなに私のこと気に入らないんだったら出てってよ』


同棲を開始してからお互い小さなことで小競り合いを繰り返した。

大体、俺の方が謝って、明美が許してくれた形だったっけ。

心底、惚れ込んでいたんだな、俺、明美に。

だからといって足が鈍ることもない。

涙が出ることもない。大丈夫、心もしっかり死へと決意を固めている。


紛れもなく俺は冷静に、死への整理を始めているのだ。

これなら大丈夫。もう何も、恐れる物などない。

一歩一歩、死へと向かう。


春の風の助けもあってか45分ほどで最果て峠に到着した。


「綺麗だ」


……久しぶりに言葉を発した。


自然と言葉を漏らしてしまう程の景色が眼下に広がっていた。触れるもの皆傷つけてしまいそうな荒々しい崖の隆起。崖に向かい、激しくぶつかっては消えていく白波。


そしてそんな抗争をちっぽけなものと思ってしまう程雄大に広がる海。


俺は嬉々として最果て峠の端に立つ。

時間帯も良かったのか、周りには誰もいない。

最高だ。こんな美しい場所で死ねるなんて、俺の人生最大の誇りだ。


俺は最後に息を一回大きく吸い込んだ。潮のにおいが鼻をつく。

空を見上げる。あざ笑うかのようにどこまでも澄みきった青色が広がる。目を閉じる。明美が笑っている。


このまま身をゆだねよう。

暗闇の中に明美を見ながら、明美の速度に追いつこう。

ありがとう、明美。今会いに行くよ。


最果ての地から、最果ての彼方へ、君に会いに行くよ。

ふっと体の力を抜く。おかしい。いつまでも経っても君に追いつかない。これが俗にいう走馬灯というやつなのか。

それはもう済ませた。もう俺には振り返る思い出などない。


空っぽの心をこれ以上揺り動かしても、思い出は出て来ない。


痺れを切らして目を開けると、俺はまだ崖の上にいた。

何をしてるんだ、俺は?

もうすべて整理をつけた。後は落ちるだけだ。

右足を踏み込む。それだけで俺は明美に追いつける。


しかし、右足は踏み込まれない。それどころか小刻みに震えている。

動かない。不思議な力に抑え込まれたように動かない。

あの友人達が言っていた戯言通りだというのか。


明美が俺の死を望んでいないというのか。


ふざけるな。俺の行動を決めるのは……仮初の明美ではない。

俺だ……俺自身だ!


「ああああああああああああああ!」


大きく叫び、邪念を振り切る。

俺はここに死にに来たんだ。

死ぬことだけが、今日までの俺の生きがいだったんだ。


美しく死んで、明美に会うことが、俺の"誇り"だったんだ。

だから死ぬ。

明美の為じゃない。俺の誇りの為に……。


『なんだかこの花、私に似てる気がしてさ』


列車の中でも聞いた明美の声が甦った。


いつしか全身から汗をかいていた。

足どころか手までも震えだした。

ガチガチと小刻みに音が鳴るのは歯の音だろうか。


気が付けば、俺は一歩一歩最果てから後退していた。

そのまま俺は本来倒れる方向とは逆の方へと体を倒した。


目からは枯れたはずの涙が零れ始める。

何が誇りだ……。何が、明美の為じゃなく自分の為に死ぬだ。

上っ面ばかりの言葉を並べて……。


「一番死を怖がっているのは……俺じゃないか……」


気付いてしまった。

こんな直前になるまで目を背けていたのか。


「……怖い……死ぬのが……怖い……」


倒れ込んだ衝撃で俺の胸ポケットから紅色のアマリリスが零れる。


「明美……俺、死ねなかった……。お前の元に行けなかった……」


雫がアマリリスの花弁の中に注がれる。

生前の明美を想い、香りをかぐ。


「……本当に匂わないんだな、お前」


荒れていた呼吸が戻ってくる。

さっきまで聞こえなかった波の音が耳の中に小さく響く。

これから、俺はどうすればいいんだろう。


死ぬことを目的に生きていた俺は、どうすればいいんだろう。

明美ならどうするだろう。

整理した思い出を一つ一つ紐解いていく。


『どうするか悩むくらいなら、その時間で知識を一つでも増やした方がマシよ』


明美なら、きっとそう言う。明美の家族の次に明美と長い時間を過ごしてきたからこそ分かる。だから、まずは明美に似ている君についてもう少し調べよう。


なんで君は匂わないんだろう。


俺は携帯の電源を付け、検索を始める。"アマリリス"と検索するとサジェストに"花言葉"と出てくる。以前に俺が調べた履歴が残っているんだろう。


こんなところに明美との繋がりを見つけてしまうとは。

そんな懐かしさもあったのか、俺は以前見たページをもう一度開いてしまった。

アマリリスの花言葉のページだ。


アマリリスの花言葉は"素晴らしく美しい" "誇り"。

昔見たままと変わらない。

いや、待て。このページにはまだ続きがある。


携帯の右端のスクロールバーはまだこのページに下があることを示している。もしかしてまだアマリリスには別の意味があるのか?

俺は震える指でページを下に送る。


"虚栄心"


その言葉を見た瞬間、ぶわっと涙が出てきた。涙だけではない。声も漏れた。表情が崩れる。心が強く揺さぶられた。こんな感情は久しぶりだ。


『なんだかこの花、私に似てる気がしてさ』


「明美、お前、もしかしてこっちの意味だったのか?なぁ……。

私に似てるって……」


だとしたら明美、お前は何で私に似てるなんて言ったんだ?

むしろこの花言葉は……。


「今の俺に似てる」


死への恐怖を、必死にごまかしていた。心も体も死への整理がついていると淡々となぞり、死ぬことこそが俺の誇りだなんて息巻いていた。空っぽの心のどこが誇りか。それこそ虚栄だ。


その時携帯が振動する。手に持っていた為かつい通話ボタンを押してしまった。


「遼ー!! アンタ今どこにいるのよー!!!」


この絶景を台無しにする騒音が携帯から流れてきた。

声の主は明美の一番の親友だった優花だった。


「最果て峠」


「さ、最果て峠!? あ、アンタまさか死ぬ気じゃ……」

「今失敗したところ」

「……こ、この糞大馬鹿野郎!」


鼓膜が破れてしまいそうな程の声に空気が震える。


「そんなことしたら明美が向こうで泣くに決まってる! あんなにアンタのこと一途に思ってたんだ。向こうでしくしく泣く明美は見たくないんでね。アンタは私が死なせない、絶対に」


後半は涙と嗚咽交じりの声になっていることに俺の胸が少し痛んだ。

それと同時に奇妙な違和感を覚えた。


「明美が、俺のことを一途に? しくしく泣く?」


俺の知っている明美は芯が強く人前でも涙を見せない女性だった。

いつも、俺の方が好き好き言って……。


『なんだかこの花、私に似てる気がしてさ』

『あなたが想っているような女じゃないと思うよ』


……もし、俺の考えが正しかったら。それは何と嬉しい虚栄だろう。


「そりゃそうでしょ。明美がどれだけアンタのこと……」

「ストップ!」


もういい。俺は携帯の電源を切った。成程確かに明美はアマリリスによく似ている。


素晴らしく美しくあり、誇りがあり、それでいて自分を自分以上に見せようとする。だとしたらアマリリスに香りがないのも頷ける。

いや、正確には俺と明美には分からなかっただけなんだ。


アマリリスは、明美の香りだ。


人は自分のにおいには気づきにくい。そういうことでいい。俺と明美が納得するのにはそれでいい。家族の次に明美と長い時間を過ごしたせいか、明美のにおいが俺に染みついてしまった。

参った。死に花を咲かせる場所で死ねない理由が出来てしまった。


いつか明美に会いに行くときは自慢してやろう。アマリリスが薫らない理由が分かったと。今行くよりも、果てしなく長い時間が経ってからの方が俺にとっての誇りになる。長い間明美の香りを我が身に保ったまま、明美に届けに行く。


それこそが明美をずっと想っていた証明になる。そうしたら明美は喜んでくれるだろうか。等身大の明美を見せてくれるだろうか。


俺は来た道をゆっくりと辿る。

柔らかい春の風はアマリリスの花弁をやさしく揺らす。

なにも香らないのは、俺の最大の誇りといっていいだろう。

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言ノ葉ミルフィーユ みんちあ @minchia

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