#7 運命の洗濯

「ねぇねぇ、お父さんとお母さんってどうやって知り合ったの」


久しぶりに残業もなく、家族三人でいつもより活気あふれる食卓を囲んでいた時だった。17歳になった高校2年生の愛娘、彩花(さやか)の言葉に俺達の箸はぴたりと止まる。


「今日友達とね、お父さんとお母さんの馴れ初めの話になったの。

皆はね、職場結婚とか大学時代の付き合い、って感じだったんだけどウチはどうなんだろうって思ってさ」


俺は妻のあかりにどうやってはぐらかすか目で訴える。あかりは片目をつぶり、任せてと言わんばかりに小さく頷く。


「お父さんとの出会いはナンパなのよ」

「おい!」

「何よ、ナンパに変わりはないでしょ?」


はぐらかすどころかありのままを伝えてどうするんだよ。しかもナンパとは人聞きの悪い。


「あのなぁ、あれはナンパじゃ……」

「え、え? ナンパなの? どっちが声かけたの?」


いい餌を見つけたと言わんばかりに彩花は瞳をきらきらさせながら俺達の顔を交互に見る。


「お父さんよ」

「えー! お父さん見かけによらずやり手なんだねー」

「ねー、今じゃ見る影もないんだけどね」


あかりの言葉が俺の胸に棘を刺していく。昔はってなんだ、昔はって。今でもバレンタインは結構職場の女性陣からチョコもらうんだからな。そう思いつつも母と娘の世代を超えた女子トークの前では口に出せず、心の中で文句を言った。


「ねぇねぇ、その話詳しく聞かせて!」

「私もお父さんの口から聞いてみたいな」


我が長江家では女性の権力の方が強い。当然逆らえるはずもなく、俺はあの日あかりと出会った日のことを語ることとなってしまった。



12月に入り、布団から出るのが億劫になってきた。もうスーツだけでは寒さを防げない。そう思った俺は、クリーニングに出したばっかりのコートに袖を通し、家を出る。それでも朝方の空気は冷たく、コートの前をしっかり留めてしまう。


大学生の頃はとにかく着込んで寒さを和らげていたのだが、社会人になってはそうもいかない。社会人一年目の俺は、先輩に寒さ対策のことを聞いてみようと心に誓った。朝の通勤ラッシュに押し出されるように電車を出て、乗り換えのために通路を歩く。


地下鉄内は外とは違い、冷たい風は入って来ない。せいぜい生暖かい風が駅構内を通り抜け、女子高生のスカートをたなびかす程度だ。

なので、着てきたコートを逆に煩わしく思ってしまうことになってしまう。


上手くいかない温度調節にやきもきしながらも歩を進めようと前を見る。俺の前にはベージュのコートに身を包み、黒髪黒ストッキングの細身の女性が歩いていた。後ろ姿がとても俺好みである。


ばれないように観察していると、俺はとある異変に気付く。ベージュのコートのデザインにちょこんと緑色の細長い棒のイラストが入っていたのだ。畑違いな色の組み合わせに俺は首をひねる。興味を惹かれたので、じっくり見るとそのデザインの意味が分かり俺は危うく吹き出しそうになる。


その緑色はデザインなどではなく、クリーニングに出した時に付けられる紙だったのだ。俺も今朝、コートの後ろに付けられていた紙を取ったので良くわかる。



さて、どうしようか。

もし相手が友達だったら笑いながら指摘することが出来るのだが、

顔も名前も知らない相手ではそうもいかない。


下手に声をかけようものなら不審者、あるいは痴漢に間違えられて通報されてしまうかもしれない。そうしたら折角入社することになった会社ともオサラバすることになるかもしれない。いや、会社どころか社会から存在を抹消されてしまうかもしれない。負の妄想が連鎖し、次第に相手に指摘するという考えは萎みつつあった。


わざわざ俺が声をかけなくても、職場に行ったら同僚から指摘をもらえるかもしれないし。だが、一度気付いてしまったらもうその緑色のひらひらしている紙にしか目がいかなくなる。どうして俺は気付いてしまったんだろう。それもこれも後姿に心惹かれた自分が悪い。気になって仕方がないじゃないか。


悩んでいると、気が付けば乗り換えの為の連絡通路も抜けており、もうすぐホームに着いてしまう。声をかけるなら今しかない。ええい、一期一会だ。


俺はありったけの勇気を振り絞り、その女性に近づき、声をかける。


「あのぅ……」


しかし、女性は俺の声に反応することなく歩みを前に進める。良く見たら耳にはイヤホンが入っている。今のようなか細い声では相手に届かない。といって、肩に手を触れようものなら現行犯逮捕だ。


ここまで来て引き下がっては、他の人の目には「ナンパしようと思ったが相手にされず退いた情けない男」と映ってしまう。乗りかかった船という言葉もある。もう後には引けないんだ。


「あの!」


さっきよりも大きな声を出すと、その女性は肩を震わせイヤホンを外し慌てて振り返る。



あ、可愛い。面と向かった顔は後ろ姿そのまま、俺のストライクゾーンだった。ドキッとした気持ちに急いで首を振り、早口でまくしたてる。


「後ろ、クリーニングの付いてます」

「うそ? やだ!」


女性はあわあわと背中に手を伸ばしたが、届かない。その仕草はあまりに間が抜けてて思わず吹き出してしまった。


「見てないで取ってくださいよ~」


不満げに語尾を伸ばされ、俺の鼓動はまた早くなる。俺は恐る恐る手を伸ばし、女性のコートに付いている緑色の紙を取る。


「取れましたよ」

俺が女性の目の前に紙を出す。


「ありがとうございます。私今まで30分もこの格好でいたんですね……。恥ずかしいの一言しかありません……」


相当落ち込んでいるのか、絞り出したような声にも元気がない。それに恥ずかしいのか顔はどことなく赤く見える。そこもまた可愛い。このまま別れてしまうのが惜しく思ってしまう。


「あの、良く声かけてくれましたね」

「はい?」

「だって私このままコンビニ行ったり、改札くぐったり、電車乗ってたんですよ? それなのにその間、誰も指摘してくれなかったんですよ? なんであなたは声かけてくれたのかなーなんて思っちゃったり」


女性はイヤホンを指で巻き取りながら尋ねてくる。その純真無垢な瞳がつらい。まさか後姿が好みだったので凝視してたら見つけましたとは言えないだろう。


「というかお仕事に向かう最中でしたよね? 足を止めさせちゃってすいませんでした」


答えに詰まり、俺がしばらく無言でいると、まだ頬の赤い女性は頭をかいた。ぺこりと頭を下げ女性は踵を返し、ホームの最前を目指し歩き始める。


これで終われば、もう俺とあの女性は赤の他人同士。再び会うこともおそらくないだろう。


これで終わっていいのか? 再び自分の胸に問いかける。答えはもう決まっている。そして、その答えを得る為に俺は勇気を振り絞る。


「あの!」


俺の再びの大きな声にその女性は前につんのめる。俺の方に居直った女性の顔の頬は膨らんでいた。


「大きな声出さないでも止まります! 恥ずかしいんでやめてください。そこのベンチに座ってもいいですか?」


確かにホームの中央でこんなとぼけたやり取りをしていいたら通行の妨げになってしまう。俺と女性はベンチに並んで腰かける。


「で、今度は何ですか?」

「あなたの後ろ姿に見惚れたからです」

「はぁ?」

「ですから、クリーニングの紙に気付いた理由です。ずーっと見てたら紙に気付いて、気になり過ぎちゃったので、声をかけた次第です」


言ってしまった。もう後には引き返せない。女性は目をせわしなく瞬(まばた)かせている。その反応は何を意味しているんだろう。俺は生唾を飲み込み、女性の言葉を待つ。


「……よくもまぁそんな気持ち悪いこと言えますね? 不審者と言われても言い訳はできませんよ?」


覚悟はしていたけど、面を向かって言われるのは流石に辛い。


「本当に男の人っていやらしいことしか頭にないんですね。女性専用車両が出来る理由が分かりますよ。大体ですね、今から働きに行くんでしょう? そんなやましいことばっか考えて、仕事できるんですか?」


泉のように湧き出てくる罵詈雑言に俺は何も言い返せず小さくなっていくばかりだ。俺の体は背中を丸めるように小さくなっていく。

やっぱり正直に言わない方が良かったのかもしれない。ただのいい人で終わっていた方が……。


「お詫びとして、コーヒー一杯奢ってくれたら許してあげます」

「え?」


今の言葉は聞き逃せない。俺が顔を上げると、女性はコホンと小さく咳ばらいをした。そしてそのままクリーニングの紙になにやら書き込むとそのまま立ち上がる。


「私、もう行かないと遅刻になっちゃうんで!

コーヒーの場所決まったらここに連絡してください!

踏み倒すことなんて許さないですからね?」


俺の手に強引に緑色の紙を握らせるとその女性はタイミングよく滑り込んできた電車に飛び乗った。窮屈に書き込まれたアドレスを食い入るように見つめてしまう。余りの幸せに夢かと疑い、俺は思わず頬をつねる。


痛みを確かに感じる。右足が痛いのはさりげなく隣の席のサラリーマンが俺の足を踏んでいるからだ。偶然なのか嫉妬なのか。普段の俺なら舌打ちでもするところだが、今はそんなことどうでもいい。この痛みとさっきの女性と触れた時に感じたぬくもりが今の出来事が現実であることを証明してくれる。


心も自然とおおらかになる。ちょっとの勇気が最高の結果を導いてくれた。彼女にはオシャレなカフェで香り高いコーヒーをご馳走しよう。


しばらく紙をニヤニヤとみていたが、俺も会社に行かなければならない。誇らしげに電車に乗り、空席を見つけ腰を下ろす。いつもは座れないのに、座ることが出来るなんて自分はなんて運がいいんだろう。

鼻歌交じりで腕時計に目を落とし、俺は思わず固まる。


……遅刻確定。速攻でメールを書いて、会社に着くなり頭を下げたが部長の雷は容赦なかった。それでも自然に頬は緩んできてしまう。そんな俺の顔が部長の逆鱗に触れたのか、高校生でも今時珍しい反省文の提出を命じられてしまった。



「それで、その後にオシャレなカフェを見つけて連絡。話している内に意気投合。自然と付き合うようになって、そのままゴールインってわけ」


「へぇ~! ナンパって聞いてなんかショックだったけど初々しくてなんか可愛いじゃん」


彩花は話の余韻に浸っているのかうんうん頷いている。17歳の娘に馴れ初めを可愛いと言われるのはなんとも複雑な気持ちだ。ただ、俺も初めての待ち合わせでのあかりの姿は今でも思い出せる。


『ごめんなさい、待たせちゃいましたか?』


ベージュのコートをダッフルコートに替えて駆け足で近付いてきてくれたあかりにぐいっと心奪われてしまった。


「ま、あそこで俺がクリーニングの紙がついていることを教えるか教えないかの選択を迫られた。結局あかりに声をかけることを選択したんだけど、それが運命の選択だったという訳だな。クリーニングだけに運命の洗濯、なんちゃって」


しみじみしたこともあり、精いっぱいおどけてみたが、我が家の女性陣からの反応は冷ややかだった。


「彩花。早くお風呂入っちゃいなさい。明日朝練でしょ?」

「うん、そうする。ご馳走様でした」


あかりはそそくさと食器類を片付け始め、彩花は俺が大事に残しておいたピーマンの肉詰めを行儀悪く手でつまみ口にいれてから部屋に戻っていく。


45歳になった俺には酷過ぎる仕打ちだった。一人さみしくご馳走様でしたと呟き、席を立ち、年甲斐もなく、めそめそしながら部屋に戻った。


「お父さん、おはよ」

「お、彩花も今出るのか?」

「昨日言ったでしょ? 朝練って」


玄関で靴を履き、立ち上がる彩花。スカートの短さに眉を潜めるも、指摘しようものならエロ親父と認定されてしまう。視線を逸らそうと目を上に向けると、俺はとあるものに気が付いた。


……彩花の制服のコートに緑色の紙が付いているじゃないか。昨日の今日の出来事に俺は思わず吹き出してしまう。


「彩花、背中に……」

「お父さんとお母さんの真似!

これを指摘してくれるようないい人に私も出会いたいもん!

じゃあ行ってくるね!」


おいおい、それは違うんじゃないか? 俺は苦笑いを噛み殺す。バタバタと家を出る彩花の後ろ姿は出会った頃のあかりによく似ていた。


「良一、お弁当」


あかりに珍しく名前で呼ばれて、お弁当を受け取る。どこかこそばゆくて、照れ臭くて、視線をそらしてしまう。どうやらそれはあかりの方も同じだったようだ。


「覚えてる?

久しぶりに昨日あかりって呼ばれてどきどきしちゃった」

「え?」

「何か懐かしい気持ちになっちゃってさ。今日は一緒に寝てもいい?」


そういえば、彩花が生まれてからいつの間にかお互いのことを下の名前で呼ぶことなんてなくなっていた。昔話をている時に、自分でも気が付かないうちにあかりの名前を呼んだのかもしれない。


頬を赤くしながら頭をかくその仕草は、俺があかりに完璧に惚れてしまった22年前のあかりの前姿そのものだった。

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