悠久の中の一瞬
Sayaki
悠久の中の一瞬
就職が決まったよ、俺は変われるんだ。新しい夢と新しい未来が、俺を待っているんだ。
馬場小室山遺跡。「縄文文化の正倉院」と称されるこの場所は、氷川女体神社の神官を代々務めてきた武笠家の里山であった。その為、縄文人がこの地を去ってから現在に至るまで、遺跡は損壊を免れ奇跡的に手付かずの状態で残されていた。
昭和四十四年から、三十二次にもわたる発掘調査がここで行われた。
ほら、いいものは見つかった?
「あら久しぶりじゃない。私のこと忘れていないよね、もちろん覚えているよね?」
区役所の片隅で快活そうな女性が、端正だが少し影を感じる表情を浮かべる男へ驚いたように声をかけた。
「ああ覚えているよ。久しぶりだね、大学以来かな」
彼も無感動だった表情に、多少の驚きと笑みを浮かべながら応じた。
「良かった覚えていたんだ。忘れられていたら、一人ではしゃいでる私がバカみたいだもの。でもどうしたのいったい? 確かあなた、東京に就職したはずだよね」
その彼女の言葉に彼は沈んだ顔を隠し切れないまま、低い声で答えた。
「住民票の転入登録だよ。これで俺もさいたま市民。親の家がある秩父には居辛いから、市立病院のすぐ近く、祖母の実家がある浦和へ移る事にしたんだ。東京での仕事は、結局駄目だったからね。都落ちってやつかな」
彼は書いていた書類を彼女へ見せ、そう言って再び力無く笑った。
「へぇ……そうだったんだ。三室だったら私の家から近いなぁ」
「最近決まったばかりだけど、仕事もこっちなんだ。つまらない仕事だけどね」
彼女はそんな彼の様子を、少し意味ありげな瞳で見つめながら言った。
「今は秩父? それとも浦和? 区役所には車で来たの?」
「いや。東京じゃ車持ちなんて維持だけで大変だし、使う機会も無いからね。大学の時に乗っていたあの車は、もう処分したよ。今はもう浦和。ここへはバスで来たんだ」
「だと思った。あなた卒業前に、確か処分するって言っていたから」
彼女がそんな些細な話を覚えていた事に彼は再び驚き、苦笑いを見せながら言葉を返した。
「そっちはどう? あれから変わりない?」
彼女は大げさに溜息をついて見せながら、その問いに答える。
「あいも変わらず、人生を無駄に食い潰す灰色の毎日を送っているよ。きっと人生を無駄に食い潰していた、大学時代の悪友の影響だね」
それを聞いた彼は、笑顔にさらなる苦味を含ませながら不満げに応じた。
「そりゃ悪かったね。辛辣なご指摘痛み入るよ。大きなお世話だけど」
「あはは。まぁ立ち話も何だし。私は車だから、送っていくよ」
得意げな笑顔の彼女がポケットから出した車の鍵は、ちゃりん、と涼しげな音をたてた。
馬場小室山遺跡では、一九六九年から三十二回にわたって学術調査が行われた。が、近年の不況により旧浦和市の区画整理事業による該当地買い上げは頓挫した。長きにわたって守られてきた土地は競売にかけられ、小室山西側半分は宅地開発で失われた。
皮肉にもここは変わりゆくもの(住宅地)と変わらないもの(住宅跡地)が戦った場所でもあった。
二人を乗せた軽自動車は、区役所の駐車場を出て、中央分離帯のある広い県道を北へ向かった。
助手席に座った彼は少し緊張しながらも、明るい声で彼女に話しかけた。
「何年ぶりだろう。この道を通るのも久しぶりだよ。あんなところに、新しく建設中の店があったんだ。完成が楽しみだね。俺が東京にいた間に、この辺りも少しずつ変わっているんだな」
彼女は少し不機嫌な顔で、彼に聞こえるかどうかわからないほど小さな声でつぶやいた。
「変わらないものだって……あるわよ」
彼は彼女の顔に耳を近づけた。
「何だって? 良く聞こえなかった」
彼女は不機嫌な顔のまま、ぶっきらぼうに答える。
「さあね、何だったかしら」
「何だよ、気になるなぁ」
「うるさいっ、運転の邪魔だからこっちへ寄ってこないでよ。そんなことより、あなた東京の仕事は駄目になったって言っていたわよね。いったい向こうで何があったの? 東京の大きな会社に決まったって、あんなに喜んでいたのに」
そんな彼女の問いに、彼はすぐには答えなかった。
やがて車は交差点を右へ折れ、さいたま市立病院方面へ向かった。車線が減り、幅が狭くなった道をオレンジ色のバスが窮屈そうにすれ違っていく。車外に見える民家、商店、田畑の混在する景色が風と一緒に窓の外、後方へと流れていく。それを呆然と眺めながら彼は言った。
「実はさ……正直に言うと俺、東京で失恋したんだ。たったそれだけのこと。だけど何だか疲れてしまって……たったそれだけのことなのに、何もかもに疲れてしまった。バカみたいだ、俺」
彼はそう言って無理に微笑んで見せた。彼女は何も言わず、黙ってそれを聞いていた。
だが彼女は突然右に曲がり県道から外れ、非常に狭い道へ入っていった。対向車が来れば離合も出来ないほどの狭い道だった。しかも運転が荒い。
彼は驚きに顔を引きつらせながらも「ここは彼女の地元だ。きっと通り慣れた近道なのだろう」と自分に言い聞かせていた。
民家と民家の間を通り過ぎると、車は再び広い道へと出た。が、そこから少し走った後、彼女は中学校手前の交差点で左に曲がり、またしても狭い道へと入っていった。
このあたりの地理に疎い彼は、もう自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
「さあ、着いたわよ」
彼女はそう言い残して車内から外へ出た。慌てて彼もそれに続く。道路の右側にはネットフェンス、左側はコンクリートの壁。その壁に助手席側を寄せて駐車した為、彼は運転席側から外に出なければならなかった。
その後の宅地造成や区画整理によって、国史跡候補遺跡とさえ言われていたこの重要な遺跡は、現在市の買い上げた四千平方メートルをかろうじて残すのみとなった。
しかし、期限を区切られた平成十六年九月三十日まで第三十二次発掘調査は行われ、それが終了した現在もさいたま市、有志の人々が遺跡の研究や広報、保存活動を行っている。
フェンスの向こうは中学校、コンクリート擁壁の上には民家。そこはどこにでもあるような、傾斜地を造成した単なる住宅街だった。
「ちょっと待って。目的地があったなんて知らなかったよ」
彼女は少しだけ意地悪な笑みを浮かべて、彼にこう言ったのだった。
「当然よ。だって、ついさっき決めたんだから」
「こんな場所に車、停めてしまって大丈夫かなぁ」
「平気よ、すぐに戻るから」
そう応じると彼女はもう振り返りもせず、フェンス沿いの道を歩き始めた。慌てて彼は、その後姿を追いかける。三叉路を右に曲がったその先で、彼は驚いて歩みを止めた。
目の前には小さな森があった。住宅街のど真ん中で、突然その小さな森は姿を現した。
道沿いに並ぶ木の杭。その向こうで風に揺れる木々からの木漏れ日が、あたりの空気を煌びやかに彩っている。彼女はその周辺の眺めを見渡しながら、ゆっくりと話し始めた。
「あなたはずっと秩父だったから、たぶん知らないと思うけど……ここは私の好きな場所。何かで行き詰ったりすると、よくここに来るの」
「……まるでこの場所だけ、時を切り取られてしまったみたいだ」
「馬場小室山遺跡よ。キリストが生まれて二千年。ガリレオが回っているのは地球だ、と気付いたのは四百年前。人間が飛行機で飛んだのも、たったの百年と少し前。だけどこの場所では数千年も前に土器が焼かれ、数千年もの気が遠くなるほど長い間ここは人に使われていたわ」
「数千年も前から、か……」
「人の一生なんて悠久の時の中のほんの一瞬に過ぎない。そんな使い古された陳腐な表現も……この場所、この景色の中では真実だなあって、感じることが出来るんだ」
彼女はフェンスを背にし、道路脇へ座り込んでその小さな森を眺めている。彼もその隣へ並んで座り、彼女が見ている景色へ視線を向けた。彼女は少しだけ微笑んで、さらに言葉を続ける。
「およそ五千年前から三千五百年前、縄文時代の集落跡。なんだかスケールが大きすぎて、全く実感出来ないよね。だけどこの景色を眺めていると、自分が抱えてるものなんて本当にちっぽけなんだなあって事くらいは……わかっちゃうんだよね」
近年、学会等で話題になっている「環状盛土遺構」。通常の竪穴式住居であれば地下を掘り低くなるが、馬場小室山遺跡は逆に土を盛り、世代を重ねるごとに高くなっている。
そうした過程で形成された中心窪地と取り囲む五箇所の塚は、長期にわたる文化の変遷という貴重で興味深い姿を、悠久の過去から現代に生きる我々へと雄弁に物語っている。
彼はあらためて周りをゆっくりと見渡した。そよ風が運んでくる木々のざわめき。土の香り。
不思議な感覚を彼は感じた。他の場所で聞けばこんな話、笑い話で終わるかもしれない。だけどこの場所なら、その言葉を信じられる気がする。住宅街の真ん中に鎮座した神々が宿る小さな森を前に、彼はまどろむような意識の奥底でそう思っていた。
「俺にもわかるよ。本当にちっぽけだって、わかるような気がする」
吐息のような彼のその言葉に、彼女は再び笑って声をかける。
「そうだよ。五千年に比べれば数ヵ月後には忘れているような悩みなんて、瞬き(まばたき)みたいなものだよ」
「……不思議だね。君がそう言うと、本当にそうだって思えてきそうだ」
「でしょう? どうせまばたきくらいのちっぽけなものなんだって、そう考えたらもう一回まばたきするくらいは……頑張ってみようかなって、頑張れるかもしれないなって、そう思わない?」
小鳥のさえずりにまじって、その神秘的な空間に彼女の澄み切った声が響いた。
「もう一回まばたき、か……」
「そうだよ。再び目を開いたその先に何かが見つかるかもしれない。何かに気付けるかもしれない。そう思わないかな?」
彼女は自分を元気付けようとしてくれているのだ。そう気付いた彼はうなずくかわりに、吹っ切れた笑顔を彼女に見せた。
彼女はそんな彼へ、さらにゆっくりと言葉を続ける。
「あなたが目を閉じて……次に目を開けた時には、何か素敵なことが見つかるかもね。ほら、ちょっと目を閉じてみて」
彼は言われるままに目を閉じた。
肌に感じる柔らかな日差し、木々が擦れるさわやかな音。遠くから子供の笑う声が聞こえる。時が移ろう中、それでも変わらない大切なもの。悠久の時を遡った先で生きていた縄文の人々も、今と同じようにこうして笑っていたのだろうか。
「はい、もう目を開けてもいいわよ」
彼は再び言われるままに、今度はゆっくりと目を開いた。そして驚いた。目の前すぐのところに彼女の顔があった。
そして屈託無く笑いながら、悪戯をする子供のような瞳で彼女はこう言ったのだった。大学にいたあの頃から、今も変わらないその想いを込めて。
「ほら、いいものは見つかった?」
悠久の中の一瞬(了) 7.31.2015 Sayaki
悠久の中の一瞬 Sayaki @Sayaki
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