アダルトコーナーで会った人だろ
高島津 諦
アダルトコーナーで会った人だろ
今年の春、私は高校を卒業した。なのに三ヶ月後、まさかこんなところで部活の後輩と再会するとは。
まさかまさか、レンタルビデオショップのアダルト暖簾の奥とは。
「先輩?」
棚に向かっていかがわしいDVDを物色していた私に、不意に背後から声がかけられた。信じたくなかったが、その硬質に澄んだ声には聞き覚えがありすぎた。
恐る恐る振り返る。
そこにはやはり、三ヶ月ぶりの後輩の姿があった。クールな印象を与えるショートヘアも、細いというより薄い体型も、卒業式の時の彼女と変わっていない。三ヶ月ならばそれほど変わらなくて当然と言えるかもしれないが、私たちの年頃にとっての三ヶ月は色々なスタイルを変えるのに十分な期間でもある。
「……あ、えっと、あー……ひ、久しぶり」
目が泳いでいるのが自分でもよくわかった。二十歳前の女二人が久闊を叙するには、とても適した場所とは言えない。
「お久しぶりです」
後輩は冷静なもので、無表情で小さく頭を下げた。その顔つきが部内の一部から仏頂面と批難されていたことを思い出す。回想は、苦みとも甘さともつかない味がした。
滑るような足つきで後輩は私の隣にやってきて、棚に眼を向ける。下の名前に妙にひらがな率の高い人名が並んでいる、単体女優コーナー。
「…………」
深夜二時、個人経営レンタルショップのアダルトコーナーには私たちしかいない。
率直に言って気まずかった。
そそくさと去ってしまおうか。しかし本気ではそうするつもりになれず、その場に残り続けた。
かと言ってもうDVDの品定めをする気もなくなっており、つまり私は後輩が何かアクションしてくれるのを待っていたのだ。
彼女は何を思っているのか、口元に手を当て印刷された女体たちを見つめるばかりで随分と私を待たせた。期待で待っている時はそうではないのに、恐々として待っている時に限っていつも彼女は待たせるのだ。
「……先輩、AVなんて借りる人だったんですね。ちょっと驚きました」
前触れもなく、目線は棚に向けたままぼそりと後輩が呟いた。
凍結されたように動きが鈍く現実感の薄かった脳が羞恥を感じだし、急激に熱を帯びる。
「え、い、いや、これはたまたまっていうか、好奇心っていうか、まだ二、三回しか来たことなくて」
責められているのでもないのに、私はまるで言い訳をするように言葉を繰る。本当は片手の数を越えていて、つまりこの二ヵ月はほぼ毎週通っていた。
「キョドんなくていいじゃないですか、とっくに十八歳なんですし、大学生だし」
淡々と言われたことはフォローかどうか曖昧だったが、後輩はそれ以上付け加えようとせず棚の下部を見るためしゃがみこむ。どんなビデオを見ているのか気になって仕方なかったのだが、露骨に覗きこむ厚かましさは持ち合わせていなかった。
完全に呑まれているのが悔しくて、揶揄してやろうと思った。
「あんたは、高校生の身分でよく堂々と来てるね」
「いや、学校辞めました」
「えっ!?」
「すいません、嘘です」
思わず後輩の顔を凝視した私を、彼女は薄く笑って下から見上げていた。やや弧を描く瞼から、はっきりした黒目が覗いている。一瞬、息苦しくなる。
「こいつ」
相手のしゃがんだ姿勢をいいことに、肉の少ないお尻を軽く蹴ってやった。
「何するんですか」
「先輩を敬わず、AVを借りる不良に愛の鞭だよ」
「AVはいいでしょう、もう私も十八歳になってます」
「敬ってない方も弁解しろよ」
「まあ去年の内からこっそり借りてるんですけどね」
「持ってた弁解まで捨てるなよ。ていうか十八歳でも高校生は駄目だよ」
「そうですね」
おざなりな返事をして後輩は立ち上がり、蹴られたお尻を払った。静かに、だけど深く息を吸ったのが分かった。
「レズ物チェックしたいんで、場所代わってもらっていいですか」
反射的に何か言おうとして口を半分開けたところで、私は止まる。
黙って一歩下がって場所を譲った。
そのジャンル前を占拠していたのは品定めのためではなく、隣に来た後輩と露骨に距離を取るのは不自然だと思ったからだ。
けれど、元々偶然そこにいたわけでもなかった。
「先輩、レズAV見るんですか」
後輩の後ろに立つ私からは、彼女の表情は見えない。口調は平静だし、扇情的なタイトルを取る手も落ち着いたものだけれど。
「……そうね」
私の顔も彼女には見えていないはずだ。
きっと私は今、ひどく硬い表情をしている。
「先輩、百合の人だったんですか」
幾つか返答は思い浮かんでいた。たとえば「どうかな」ととぼける。或いは「別にレズじゃなくてもレズ物を楽しんでいいでしょ」と否定する。答えず無視したってよかったろう、問いかけと独り言のあわいのような言い方を後輩はしてくれたから。
決断には思い切りが必要だった。それを勇気とはきっと呼べない。
いっそ無思慮に、私は正直に答える。
「……うん、そう」
私は自分が同性愛者であることを肯定した。
その言葉は、桃色と肌色が過多のディスプレイに囲まれてひどく生々しく、しかし馬鹿げて響いた気がした。
「そうなんですか」
後輩は、手に持っていたDVDを戻すと、再びしゃがむ。
だがそれは、棚の下部をチェックするためというより、へたりこむのをぎりぎりでこらえているように見えた。
「そうなんですか、知りませんでした」
多分後輩は、その小作りな頭の中で色々なことを考えているのだろう。反対に私の思考は空しく空転していた。
同じ学校に通っていた時から、私はそういう人間だった。後輩の方がずっと多くのことを考えていた。彼女の方が遥かに大人びていて、私は敬われなくて当然の先輩だったのだ。だのに、彼女は。
「先輩」
後輩の声に私は小さく震える。
彼女は膝の上に腕を組み、何もないそこを凝視しているのではないかと思われた。
「私が告白した時、先輩、私のこと振ったじゃないですか」
「……うん」
「先輩はレズじゃないから、って言いましたよね」
「……うん」
「好かれるのは嬉しいんだけど、とも言いましたよね」
「……うん」
「半分嘘だったのか、全部嘘だったのか、聞いていいですか」
その声は硬質さと透度を保ち、震えたりなどしていなかった。けれど、透明なグラスを見た者がそこに満ちる水を連想するように、後輩の声は時折存在しない液体を連想させた。今もそうだった。
聞かないでくれと言えば、後輩はそれも受け入れるだろう。彼女は無愛想にすぎるが、それ以上に優しすぎる。そのことが私を何度も救ってくれた。
愛想を振りまくくせに冷血な私とは正反対だ。
後輩の優しさに甘えて言葉を濁したい誘惑に駆られる。しかし、曖昧に済ませるならさっきそうしておけばよかったのだ。
喉の奥から言葉を押しだす。
「嘘だったのは、先の半分。もう片方は、本当」
そうなんですか、と後輩は言わなかった。じゃあどうして、とも言わなかった。彼女は何も言わなかった。
躊躇ったけれど私は口を開く。卒業までに話そうとして果たせなかったことだった。だが、私たちの年頃にとって三ヶ月は短くない。
「女の子と付き合うの、怖くて、不安だったんだ。私は……」
もっと何か付け加えるつもりだった。後輩を慰めになるようなことを。けれど、何を語ろうと言い訳にしかならない気がした。いや、言い訳や弁解にすらならない、エゴイスティックな懺悔でしかないようで、私の言葉は途切れた。
私は後輩のことが好きだった。恋をしていた。だから親しくなろうと、なりたいと振舞った。後輩はそれに応じてくれて、彼女からも距離を詰めてくれて、遂には莫大な勇気でもって告白してくれた。
そして私は拒絶したのだ。嘘までついて、裏切って。
低い天井で、白茶けた蛍光灯がジジ、と鳴る。
後輩はうずくまったまま微動だにしなかった。私も動かず、彼女の背中を見つめていた。しゃがみこんでいるのに背中が妙に真っ直ぐで、この子は膝を抱えるのが下手だなと思う。
そのまま二人ともしばらく黙っていた。
「中学くらいまで、学校でうんこできなかったりしませんでしたか。この姿勢が和式トイレっぽいので思い出したんですけど」
後輩が言った。タイミングもだがそれ以上に内容が唐突かつ下品で、私は肯定とも否定ともとれない曖昧な返事をした。
私のまごつきを気にした様子なく、後輩は続ける。
「個室に入るのがうんこ宣言になっちゃう男子よりかマシかもしれないですけど、でもやっぱ嫌なんですよね。先生たちが普通のことなんだよって言たって、なー、みたいな。堂々とする奴がうんこマンとか呼ばれたりして、私も、あいつ恥ずかしー、とか思ってました。なのに高校になったら、なんか急に普通にできるようになって。今思えばうんこマン、大人でしたね」
っしょ、と息を吐いて、後輩は立ち上がった。振り向く。
彼女はやはり無表情で、黒瑪瑙のような瞳で私を見つめてきた。私は気後れし、でも眼を逸らしてはいけないと感じた。
「十五歳までは学校でうんこ禁止、みたいな感じでしょうか。うんこR15。AVの十八禁とはちょっと違う意味ですけど、内側で自然にできた縛りだからかえって十八禁より守んなきゃいけない圧力あったりしますね」
だから、と後輩は続ける。硬いのに尖らない声で。
「だから、先輩が私を振ったの、分かります。私だってうんこできなかったし。ズーレーとかについては、人類みんな小学生ですもん。仕方ないですよね」
そして彼女は自分の言葉に頷くように、うん、と呟いた。
私は、切り分けられない感情が溢れてきて、何度か唾を飲み込んだ末に、
「ごめん」
とだけ言った。
「謝ることないです。ホモサピエンスがいつ高校生になるのか分からなかったから、待ちきれなくて私はうんこマンになろうとしたってだけです。っていうか、告白して振られたって、ただそれだけの普通のことですよね。うんこマンうんこマン言いふらされたら、そりゃ土下座くらいしてもらいますが」
肩をすくめて後輩は綺麗に笑った。あまり笑わないだけで、笑うのは決して下手ではないのだ。
だから私も笑顔を見せる。
「あんた、うんこうんこ言いすぎ」
「そっちの趣味はないですけどね、今んところ」
そう言って「そっちの趣味」のDVDが並ぶ列を親指で指す慣れた仕草からすると、なるほど後輩が十七歳の頃からここに足を踏み入れていたというのは本当なのだろう。この店の経営者は大分ゆるい。おかげで、AVコーナー通いでまで彼女にずっと先を行かれてしまった。
私はへへ、と声を漏らした。そうしたら筋肉の力が抜けてよろけてしまう。誤魔化すように足を踏み、後輩に背を向けた。
背中合わせにエロティックなDVDのタイトルを眺める。実際に借りるつもりなどとっくに失せていたが、店を出るタイミングを合わせたかった。許されてしまえば、もっと彼女と時間を共有したいという欲が出てきた。
そう言えば互いの近況報告もしていないと気付く。後輩がどう暮らしているのか、是非知りたかった。
最近どう、と尋ねようとした矢先だ。
「でもね、先輩」
話しかけるため吸い込んだ空気に混じって、彼女の言葉がひゅうと胸に吹き込んだ。
「恨む筋合いはないし、そんな気持ちが湧くこともなかったですけど。でも、さみしかったですよ」
ぽつぽつと言葉を切って、しかし零れる水滴のように後輩は重ねる。
「先輩が卒業しちゃってから、もっとさみしかったです」
彼女が自分の感情として寂しさを口にしたのは、きっと初めてだった。
「まださみしいです」
それでしずくは終わった。
私はいつの間にか止めていた呼吸を再開する。
ゆっくり後輩に体を向ける。水分をたっぷり含んだスポンジのように、慎重に動かなければいけなかった。
後輩は体の前で固く手を握り合わせている。彼女は私を見ていた。彼女はずっと私を見ていたのだ。
本当に相手を待たせていたのは、彼女ではなく私の方だ。
「まだ?」
ふと、私たちは本当は同い年なのだと思った。十八歳と十八歳は、同い年と思ったっていい。
「まだです」
そうだ、私もまだだ。彼女が許してくれるなら。まだ、であることを許してくれるなら。
後輩の名を呼んだ。
腕を伸ばし、彼女のぴったりと組み合ってしまったような両手を解きほぐして、右手を無理やり掴む。
「店、出よう」
後輩は目を丸くして、それから唇の端を吊り上げた。
「何も借りないんですか」
借りる前に延滞料金を払わなきゃって気付いたの。なんて軽口が浮かんだけれど、相応しくない気がしてやめた。
「本当はそんなにAV好きじゃないんだ」
「じゃあどうして借りにきたんです」
「寂しかったから」
「……寂しい女二人で深夜の公園にでも行きますか」
「そこでいい。話したいことがあるの」
言い切って、大人が子どもを導くときのように、後輩の手を強く握った。彼女は私以上の力で握り返してきた。
季節は、もうすぐ夏に変わりそうだった。
アダルトコーナーで会った人だろ 高島津 諦 @takatei
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