6-8 そして、彼に託されている

 得体の知れない“力”が沸き上がってくるのを、御琴は感じた。

(僕のものじゃない)

 それは“力”と呼べるほど、明確なものではなかった。もっと根源的な、深い部分から湧き出づる何か――意志さえも深く内包する、漠とした大きな流れ。光でもなく、暗闇でもなく、より混沌とした気配。

 ほとんど暴力的な奔流は、背筋を電雷の如く走り抜け、知らぬ間に彼を立たせていた。その二本の足で。

 身体が燃える苦しみが治まった訳ではない。相も変わらず、右の眼窩がんかが焼ける不快な音は頭蓋の奥で響いている。だが、それに抗うだけの活力が、全身を満たしていた。

 右手には抜き身がある。そして、左腕に抱えた少女。

 白刃はかつてないほど強く明滅していた。同じリズムで、少女は荒く呼吸する。まるで二つは調和するように。

 御琴は、唐突に理解する。

(これは、彼女の)

 命そのもの。

 美幸の身体が、見る見るうちに鮮血で染まっていく。治癒したはずの傷口が、次々に開いている。打ち据えられた顔の傷は元より、彼の知らないたくさんの傷跡――大きく抉れた肩口、指先と掌を変色させる焼痕しょうこん。そして、彼が支えている二の腕も、上着が焼け落ち、火傷が広がっていく。

 御琴は静かに彼女を横たわらせて、代わりに黒い鞘を拾い上げた。収めても、“凶断まがたち”の輝きを鎮めることは出来ない。

 刻み続ける、彼女の鼓動も。

 駆ける。今ならば、一瞬にして千里でも。

「――そこをどけ」

 誰にともなく警告し。

 御琴は剣を抜き放った。

 咄嗟に屈んだ真琴の頭上を掠め、刃は巨体を撫で斬る。迸った輝きが、人喰いの肉体を塵芥へと変えていく。

 だが。

 湿り気を帯びたその白い肌に、うっすらと切れ目が走った。真っ赤な体液が弾け、雨のように彼らへ降り注ぐ。斬撃に跳ねたシェイプシフターは宙を舞い、そして、再びコンクリートに降り立った。

(切り離したのか)

 “力”に飲み込まれかけた肢体を自ら分離し、まだ無事な肉体を保護する。僅かな犠牲を払い、一撃必殺の刃でさえも防御せしめる。はさらに学習していた。これではどんな攻撃も意味を成さない。如何に斬り裂き、引き裂き、刻み尽くしたところで、微かな破片さえ残っていれば、連中は人間の喉を食い破る。そしてその血肉を喰らい、再び人を真似て生き延びるだろう。

「化け物め」

 改めて毒づく。

 寸暇を置かず、巨人は襲いかかってきた。半ば以上もげた胴体を振り回し、竜巻の様に両腕を叩きつけてくる。どちらかにでも喰い付かれれば、即座に上半身を持っていかれかねない。

 退く――と見せかけて、懐へと滑り込む。横へ跳んだ真琴と入れ替わるように。言葉は必要無い。御琴がそうと考えた瞬間には、既に彼女は分かっている。

 大振りの豪腕を掻い潜り、壁の如くそびえる腹へ肩口からぶつかって行く。鋭く刃を立てながら。

 だがそこに、敵はいない。

 想像以上の身軽さだった。振り抜いた腕と共に、巨影が彼の頭上を飛び越える。置き土産のように逆の手で突き立てられた牙が、背中を抉った。背骨を丸ごと持って行かれなかったのは、御琴が足を止めなかったせいだろう。

 空を泳いだ剣を、すかさず背後まで振り抜いて牽制する。ブーツの底でコンクリートをこすり、体を入れ替える。今度はこちらがかわす番だった。半端な反撃は出来ない――急所を外せば、それだけ美幸を消耗させることになる。

 襲いかかる口腔は、蛇状のものに比べれば決して速くなかった。だが、攻撃は絶え間ない。一度でもかすめればそれが致命傷だろう。僅かに動きが鈍った刹那、もう一つの牙が彼を喰い殺す。

 鼻先から数ミリを貫く死。太刀風に似た風圧さえ、足をすくい上げようとする。

 頭を狙う腕をかわし、胴に喰らいつく牙を左手で受け流す。御琴は踏み込みながら、左へ逃げた。避けたはずの腕が、円を描いて再び襲い来る。うつ伏せるようにして一撃をかい潜り、彼はさらに身を翻した。追撃が床を喰い破る。

 まるで舞踏だった。美しくもなければ、情緒もない。揺れる火影と、広がる血飛沫と、霞む白影の。死ぬまで終わらぬ、死の演舞。

 一瞬の好機。化け物の腕が、どちらも彼方を貫く。

 繰り出した白刃は、確かに巨大な身体を捉えた。

 大した手応えもない。貫く刹那から、化け物は分解され始める。切っ先が背中から飛び出す頃には、胴体に小さくない穴が空いていた。反射的に手首を捻り、さらに内臓を抉ろうとする。

 だからという訳ではないのだろうが。溢れる血が視界を塞いだ。

 咄嗟にまぶたを閉じて――誰かに、胸を押された。

 理解するより速く、剣をひるがえす。眼前に迫っていた、肘も手首も拳もない大雑把な腕が消滅していく。彼の懐に潜り込んでいた真琴の下段蹴りが、人喰いの未発達な足をよろめかせる。もう一発。今度は胸部を窪ませる。三発目は宙返りじみた蹴り上げ。人体であれば頭に相当する部分を蹴り飛ばされて、流石の巨体も轟音を上げて倒れた。

 その隙に、御琴は距離を取る。

 短くなった右腕と、長いままの左腕ではバランスが悪いのだろう。怪物は起き上がろうとして、また子供のように床を揺らす。

 切り離しづらい内臓を狙った刺突でも、どうやら効果は薄いらしい――そもそも連中に臓器があるかどうか、人類で確かめたものはいないのだが。原形を留めたまま人喰いを回収して、その後逆襲されなかった事例がいくつあるか。

 一呼吸遅れて、彼の傍らに真琴が降り立った。着地の音は無い。ただ、飛び散った血が頬を濡らしただけで。

「怪我は」

「牙を掴んだ時に掌を切った。それが最新」

 どうやら化け物と彼の間に割り込んで、喰い殺されるのを防いでくれたらしい。彼女は理想的な守り手だった。敵の策略も味方の油断も、全てが一瞬に把握できるのだから。

「どうやって仕留めるの」

 そんな彼女に問われるのは、奇妙な気分だった。御琴が打開しなければならないのは事実だ。彼女の“力”は殺すことに向いていない。同じ血を分けた兄妹のはずなのに、不思議なものだった。

「単純に。奴が傷口を切り離すより速く、全て消滅させる」

 今よりも強く“力”を籠めれば、それは可能である。最早闘いは速度の問題だった。逃げるのが速いか、殺すのが速いか。ならば逃げる暇もなく、全てを粉砕する。

 だが。

「……どうして、霧島さんを連れて来た」

 今、彼と剣に宿っているのは紛れもない美幸の生命である。それを“力”に変えればどうなるか。

 真琴が気付いていないはずはない。

 彼女がこの事態を予想していたのかといえば、それはありえないだろうが。人喰イーい《ター》との戦いを想定していたのなら、素質と経験を持たない人間を連れてくるはずがない――人の命をゴミ箱に捨てられるなら、そもそも人喰いと戦う必要が無い。

 つまり彼女は、安全を保証できる程度の危険を想定しながら、敢えて美幸を連れてきたということになる。それは何故か。

「あなたの為」

「どういう意味だ」

 問いを重ねる。

「これしか無いと思ったから。あなたが戦う理由を取り戻すためには。あなたが、私の兄である為には」

 ふと――

 横目に、真琴を見やる。彼によく似た、険の強い面差し。眉一つ動かさなくなったのは、いつからだったか。

「ふざけるな」

 御琴は吐き捨てた。どう応えればいいのか、分からなかったのかもしれない。

 化け物は、ようやく起き上がろうとしていた。おそらくはまたこちらの手の内を知り、そして新しい対策を講じてくるはずだ。いよいよ厄介になってくる。

 不意に、ひやりとした感触。

「私の“力”を使って」

 剣を握る御琴の手に、真琴の白い手が重ねられていた。掌を染めた血が、彼の指を伝い、柄頭の銀を濡らす。

「出来るなら、そうしてる」

 “凶断まがたち”は古く、そしてそれ以上に、奇妙な剣だった。武器であることには違いない――ならば、それは単なる道具であり、用途は誰かを殺すことの他にはない。はずなのに。

「やって。それが、神宮司の務めでしょう」

 神宮司と呼ばれる一族の記録に、度々それは登場した。曰く、かざせば風を呼び、雷雨を斬り、鬼の腕をも断ち落とす。使い手を必ず勝利へと導くが、しかし使い手は常に刀によって選ばれる。どこまでが本当なのかは分からない。それでも、神宮司は常に剣と共にあった。現世に満ちる穢れを祓う為には、共にあるしかなかった。

 何にせよ、他人の命を吸って力に変えるなどという性質は、記録では見たことがないし、聞いたこともなく、当然ながらどう使えばいいかなど分かろうはずもない。

 時間は無い。シェイプシフターはもう起き上がり始めている。彼が考え、ただ痛みに耐えているだけで、美幸の命は消耗されていく。

(神宮司の務め)

 言葉の意味を、反芻する。

 もう忘れたと思っていたもの。関わることもないと、思っていたこと。二年前のあの日まで、ひたすらに彼を生かし続けてきたその重責。

 人ならぬもの達から、無辜の人々を守る。唯一にして至上の命題。

 彼も真琴も、神宮司の名を負う全ての者は、その言葉の意味を知らずにはいられない。目を背けても、逃げ惑い、全てを失ったとしても。

 今、その為に何が出来るか。何を信じるべきなのか。

「……念じろ。委ねろ。僕を信じてみせろ」

 捨て鉢に呟いて、御琴は意識を沈ませた。“力”を引き出すプロセスと同じ。身体の内側にある流れを感じる。違うのは、それを解放するのではなく、伝えること。

 “凶断まがたち”には意思がある。それは確かな実感である。例え錯覚だとしても。

 しかし、疎通したことはない。凶器の意思など理解出来るはずもない――隣に立つ自分の妹の考えていることさえ、彼には分からないのだから。

 ほとんど破れかぶれに、彼は叫ぶ。声には出さないなら、それはあるいは祈りだったのかもしれない。誰にも伝わらないのであれば、尚更。

「――――」

 心臓を貫かれた。少なくとも、そう思った。

 膨大なものが流れ込んでくる。台風の眼に立ったように、世界が静まりかえる。圧倒的な光と風の渦が、どこか深い所で荒れ狂う。金槌で殴りつけられたような鋭い重さが、一度、二度。耳の後ろで爆発する脈動に、頭蓋が張り裂けそうだった。瞼の裏に火花が弾ける。肋骨の内側で、さらに強烈な鼓動が満ちていく。

 震える身体を制御しようと、御琴は歯を食い縛った。軋むほど強く。止まらない痙攣けいれんに、剣と鍔が鳴き喚く。

(重い――)

 弾け飛びそうな心臓から生まれる流れは、最早濁流だった。喧しく吠え猛り、暴れ狂い、全てを押し流そうとする。正気も狂気も、何もかもを混沌の中に突き落としていく。

 右肩に、かかる重さ。

 真琴だった。ただでさえ白い面を蒼くして、彼にもたれかかっている。

 息が荒い。それは美幸と同じように、生命を吸い上げられているせいかもしれないし、抑えてきた負傷のせいなのかもしれない。千切れかけた左腕が、御琴の右腕に絡みつく。

 気付けばもう、“変幻自在シェイプシフター”は眼前に迫っていた。

 でたらめに繰り出した剣撃が、白灰の鉄槌を弾く。軟体じみてしなる腕が、胴体の半分を巻き込みながら消え失せた。激しい血潮が溢れ出す。

 まだ遅い。全てを滅却めっきゃくするには、もっと速さがいる。

 化け物は両腕を失ってもなお、退くことを知らない。巨大な首は高く伸び上がり、彼の頭を食い千切ろうとする。

 剣を持つ手が、木の葉の如く震えていた。鍔鳴りが、止まらない。振り上げたところで、敵を討てる筈もなく。

 掠めた光が、長い首を消し飛ばした。

「駄目だ」

 御琴は呟いた。

 刀身は激しく輝き、しかし儚げに揺れる。光は幾度も紋様を描こうとして、淡く消え去り、また集束する。二人の人間の生命が、磨きあげられた刃の上で荒れ狂っていた。

 語りかけるように、思考する。

 言葉にしたところで、伝わるとも思えなかったが。

 流れは圧倒的だった。声は轟音にかき消され、光はより強烈な輝きに打ち消される。否、それは奔流ではなく。包みこむような闇も、音の外にある静寂も、あるいはその一部だったのかもしれない。

 二つの鼓動が響き合っている。手を伸ばせば容易く押し砕かれそうなほど、強烈に。

 意識する。全てが彼の中にある。そして、彼に託されている。

 光が二筋、流れていく。縺れ合い、穿ち合いながら、やがて絡み合い、螺旋を描き始める。そして御琴は、紡がれた一つの道を往く。自らも一筋の光芒となって。

 白い影が、跳躍した。それ《・・》が自ずから距離を取ったのは初めてだった――機敏にして獰猛な狩人である“変幻自在シェイプシフター”が。

 両の腕も、首も失って、影はいっそユーモラスだった。血が溢れて止まらない真っ白な噴水に、短く細い足が生えている。それは生物というより、むしろ前衛的な彫刻の類に見えた。数多の生贄いけにえを喰らって生きる、巨大な偶像。

 息を吐き、“凶断まがたち”を構える。正眼というには、やや右に傾いで。剣を包む紋様が、帯電したように小さく弾けた。

 沈黙。それが何を意味したのか、彼には分からない。化け物の呼吸は読めない。次の手は探れない――思考の基盤がまるで違う相手に、そんなことをして何の意味があるだろう。互いに観察し合い、予測を重ねて、それを裏切るしか無い。だから恐らくその静寂は、単に準備が整うまでの僅かな隙に過ぎなかったのだろう。

 影が、炸裂した。爆発したように思えた。爆音、衝撃、そしてホールに広がっていく、白く美しい翼。

 全てを飲み込もうとする。彼も、美幸も、真琴も、山となった死体も。そのうちの何者かに擬態して、再び緩慢な消化の過程へと戻る。“変幻自在シェイプシフター”が見せる、最後にして最強の手段。

 見渡す限りの光景が、純白だった。雪よりも艷やかに、それは煌めいて。

 羽根に似た幾億の牙が、空間を丸ごと蹂躙する。

 引き裂かれる肉が跳ね、溢れこぼれた鮮血が視界を穢す。白い背景に、飛び散る人間の欠片。あらゆるものが、緩慢に動いているかのような錯覚。死に至るまでの、永遠に近い地獄。

 今更、迷うこともなかった。恐れることさえ、無い。

 御琴は走り、跳んで、そして剣を振るう。

 白く巨大な影を、真正面から貫く。

 光が走った。

 音はしない。眼に捉えられたはずもない。彼の“力”は、一瞬にして生命を塵にかえす。例外はない。

 だが、制御し切れない“力”は雷電と化して大気を走り、白帆のような人喰イーい《ター》の肉体を滅却する。小さく空いた切っ先の痕が、燐光りんこうを放ちながら、瞬く間に広がっていった。

 つるりとした白い肌は、光の粒となって世界に溶けていく。

 降っては消える淡雪あわゆきに似て。

 なるほどその散り様は、神々のものだったのかもしれない。喰い散らかした命を糧に、一瞬の幻を見せる。

 最後の一片が、床に落ちると。

 御琴はそこに、降り立った。まだ、まともな足場が残されていたから。

 空間はもうホールの体を成していない――隙間なく丁寧にハンマーで割り砕いたかのように、天井も壁も床も、全てのコンクリートが粉塵となっていた。ひどく粉っぽい、それでいて生臭い空気。

 手の中を見る。剣は静かに、その抜き身を晒すだけだった。光といえば、刃が映す照明のそれしかない。蝋燭ろうそくの火が消えたかのように。

 彼は振り返った。

 黒革から所々に肢体を覗かせ、真琴は伏している。確かに、その姿を留めたまま。

 そして、その向こう。

 ほどけた三つ編みが、小さな背中を隠していた。広がる鮮血の中に、美幸がいる。青く冷めた、美しいまでの横顔。

 安堵する。深く、肺腑の底から息が溢れた。まだ、終わったわけではないと、分かっていたのに。

 そして喉が焼ける苦しさに気付く。そこまでが限界だった。

 世界は炎に包まれて。

 彼の中で、何かが終わった、

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