6-6 例え、この身が灰になったとしても
震えが止まった。どうしてなのか分からない。
誰かが呼んでいる。それだけがはっきりとしていた。もう呼ばれることなど、無いはずなのに。
いつの間にか、眼前に奇妙な顔があった。人間のものではない。背後の窓枠から伸びた、白金の蛇そっくりの、首とも頭ともつかないものがこちらを見据えている。
「――いっただきまぁす」
鰐口が笑みを浮かべる。赤い眼球までが細められる。とても蛇には真似できない、人間じみた笑い方。
考えるよりも先に、身体が反応していた。それは本能と言ってもいいだろう――生まれてから十余年、ひたすらに磨き続けた業であれば。
床を掴んで身体を倒す――掠めた牙に腕の肉が削がれる。転がっていた拳銃を拾いあげると、壁を噛み砕いた化け物に向けた。狙うは、眼球らしき滑りを帯びた球体。突き刺すように銃口を密着させて。
四発の接触射撃。弾倉に残されていた全ての弾を、容赦無く叩き込む。
悲鳴は上がらなかった。弾丸が直接脳をかき回したのか、それとも元より脳も痛みも無かったのか。人間と同じように紅の液体を垂れ流して、蛇頭が落ちる。
それを尻目に、御琴はブースの窓枠に足をかけた。
目に映ったのは、ホールに広がる惨状。自ずから火葬されていく人間の群。黒尽くめの男達はのたうつ白い大蛇に食い散らかされ。蛇の如き触手を吐き出し続ける、真っ白な化生に、少女が一本の剣で立ち向かっていた。
そして彼女が、そこにいる。
呼んでいる。彼の名を――神宮司の名を。
空間を泳ぐ無数の触手達が、静かにこちらを向いた。その様は、確かに獲物を見つけた蛇のそれによく似ている。
一瞬にして。
百を超える牙が、何もかもを砕き引き裂いた。
白い奔流に巻き込まれ、壁が弾けて粉微塵となる。
舞い散る塵の一つとなったような心地で、御琴は飛び降りた。死体で出来た山裾へと。
着地の衝撃を前転への勢いに変える。二度三度と身を翻せば、その軌道を追って床が砕けていく。食欲は速く、そして限りない。
起き上がったのが早いか、走り出したのが早いか。自分でもよく分からない。ただ、喰らいついてくる蛇の牙は、そのどちらよりも数段速かった。
「――神宮司君っ!」
美幸の声が聞こえた。
御琴は勘だけで、前方に身を投げ出す――巨大な気配が頭上を貫いていったのを、肌で感じる。
そして、鋭い何かが頬を撫でていったことも。
両断された触手が、雨のように体液を撒き散らす。
「霧島さん!」
構わずに、御琴は呼んだ。
彼女の名を。
「よかった――っ」
美幸が、駆けてくる。彼は立ち上がりつつ、押し倒すように美幸を抱き締めた。
交錯する刃と触手から、彼女を覆い隠す。切っ先と牙が巻き起こす旋風が、砂塵と共に背中を打った。
「えっ、ちょっと、あの、待って、苦しいです――」
暴風に煽られないようしっかりと抱えながら、御琴は腕の中の美幸に話しかける。
「どうして、こんな所に来たんですか」
尋ねられるとは思ってもいなかったのか、彼女の童顔に驚きが浮かんだ。彼自身、そんなことを言うつもりもなかったのだが。
「わ、私は、真琴さんが来いって言うから……神宮司君こそ、なんでこんなことに」
問いを返されたところで、もちろん答えを用意していたはずもない。どう説明すればいいだろう。身体の奥から湧き上がってくる、肺腑を磨り潰すような恐怖と、それに勝る衝動を。美幸の顔を思い出すだけで。
「必要だと、思ったから」
結局は、鸚鵡返しのように呟くしか無い。
「あなたは、僕を守ってくれた。だから僕も、あなたを守る」
「えっ――」
いつの間にか剣戟は止み。
傍らに、真琴が立っていた。
「触手の再生が止んだ。何か他の手を出してくるつもりだと思う」
満身創痍でも、彼女が呼吸を乱すことはない。美しい黒髪は人喰いの体液に汚れ、顔には紅い雫が幾筋も跡を残している。各所を引き裂かれた黒革のボディスーツ――幾重にも術式を縫い込んだ対魔装束が、攻撃の激しさを物語っていた。刻まれた傷は数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどだったが、一番目立つのは、やはり千切れかけた左肩だった。
傷口からの出血が無いことは見て取れる。どうやら何らかの“力”で止血を図っているらしい――いつまで保てるのかは分からないが。
ステージに君臨する異形を睨み、御琴は彼女に言った。
「それ《・・》を貸せ」
返事は無い。
音も無く、剣が床に突き立てられるだけで。
血と脂に濡れて、赤く光る刀身。刃長は二尺八寸。鍔も柄巻も、拵えは全てが闇夜と同じ漆黒に染められている。柄頭を飾る銀細工と、小さな珠を除いては。
それは“
そして、剣には、
柄に触れると、吸い付くように掌へ収まる。引き抜いたところで、重さも感じない。というよりむしろ、身体がようやくあるべき形になったような心地さえする。
振れば、血色の玉が散る。風切る音さえ懐かしい。
左手に受け取った黒塗りの鞘へ、刃を落とし込む。鍔は微かに鳴いた。
「……真琴」
剣を持つ手が熱い。ふつふつと血液の温度が上がっていくのが分かる。間もなくそれは、悶えるような苦しみへと変わるだろう。
それが呪いだった。彼がずっと、右眼に宿し、抑えこんできた呪い。
彼を蝕み、炎と変える。
「お前は、霧島さんを守れ」
やがて全てを灰へと還す、致死の呪い。
「僕は、お前達を守る」
もう決めていた。それしか、方法が無いのなら。
“
“
しかし同時に、極めて優秀な
「……三分。それが、限界」
様子を確かめるように右手で拳を作りながら、真琴が答える。
「私が彼女を守るのも、あなたの身体も」
御琴は黙って頷いた。充分過ぎる。
静かに、舞台へ近づいていく。敵が動き出す前に、先んじて攻撃するべきだろう――
「待ってください」
美幸の細い手が、上着の裾を掴んでいた。指が震えている。
「あの、ごめんなさい。私、聞きました。神宮司君が、すごい人だってこと。その刀で、人間を食べる化け物から沢山の人を守ってきたこと。あの事件を防ごうと、神宮司君が戦ったこと。そういうことが全て、世の中には伏せられていたこと」
全ては、隠されていたことだった。それは何よりも、人類そのものの為に。人間よりも遥かに強く、賢く、超越した存在がいるとして――そして、それ《・・》が人類を、家畜のように育み、増やし、喰い散らしているとしたら。
実在する神を――荒ぶる神々を前にして、人類はどんな希望を抱けるというか。
「それから、神宮司君がもう、戦える身体じゃないってこと」
まるで自分が死地に赴くかのように、青ざめた顔で美幸が言う。
御琴は口を開き。そして、何か言おうと思った。出来れば、泣き言以外のことを。
「あれ《・・》を放っておく訳にはいかない。それに、今戦えるのは、僕だけだから」
真琴では、勝てない。少なくとも、千切れかけた左腕では。それははっきりしている。ならば彼がやるしかない。
例え、この身が灰になったとしても。
「すぐに片付けるよ。大丈夫」
全身に活力と痛みが満ちていくのを感じる。抑えこまれていた焦熱と、抑えこんでいた彼の“力”と、全てが渾然となって解き放たれていく。
「……信じてますから」
美幸は、彼を見ていた。何かに脅えるように――それでも、何かに立ち向かうかのように。彼女の黒い瞳は、レンズの向こうで揺れている。
「ありがとう」
ただ一言だけ、言い残して。
御琴は床を蹴った。
その感覚は、ほとんど懐かしさに近い。失った肉体の一部を取り戻したかのような、圧倒的な開放感。永い眠りからようやく眼を覚ましたかのように、意識が冴え渡っていく。予想を超えて、身体は応えてくれた。
化け物の反応は速い。二メートルを超える胴体に断裂が走り、巨大な空洞が姿を見せた――湧き出る無数の触手がうねり、震え、さらに大きく蠕動する。動きはそのまま大気を伝わり、光景そのものを歪めていく。
生み出される衝撃は、破壊的だった。大気を歪ませ、コンクリートの床を薄皮の如く捲り上げる。
(そう来たか)
空気そのものを伝わる衝撃波は、刃では斬り裂きようがない。風の中に薄い鋼を差し込んだところで、何も変わらないのと同じく。どうやらそれが、“
だが、打ち砕かれたそこにはもう、御琴はいない。
衝撃波は誰もいない空間を蹂躙し、そのままホールの壁を粉砕する。
全ては一瞬で交錯した。もしも誰かが、その様を見ていたのだとしたら。
彼が飛び込んだのは化生の背後。間合いは必殺。違えようもない――一足の空隙。
砕けよとばかりに踏み込み。柄に手をかけ。あらゆる膂力を、爆発的に溢れる力を、全て速度へと変える。血の煮えるその痛みさえ、意識を研ぎ澄ませる糧として。
一閃では、まだ足りない。
鍔鳴りだけが置き去りだった。
振り返る。化け物の巨大な影は、溢れる照明に押し潰されるように、音も無く崩れていく。二つ、三つ――四つの欠片となって。
やけに静かな時間。眼窩から漏れた火炎で、顔面の皮膚が焦げる。
「――避けて」
決して大きくはないが、よく通る声。真琴に言われるまでもなく。
四分割されたシェイプシフターは、まさに自在の軌道を描いた。打ち放たれた羽根の如く変幻しながら大気を滑り、獰猛な牙を剥く。
まずは抜刀。水平に放った切っ先が、一匹の口腔を切り開いて、そのまま細く伸びた胴体を両断する。切り返した刀身で、すぐさま二匹目――切断された片腕の突進を受け流す。もう一本の腕は上空から飛び込んできた。足捌きだけでやり過ごしつつ、剣を逆手に握り替える。
思い切り振り下ろし、御琴は伸び上がってくる四匹目――下半身を床に縫い止めた。
(これだけじゃ、殺せない)
敵は既に学習している。斬り裂かれるなら、分裂すればいい。貫かれるなら、急所をずらせばいい。それぐらいのことはやってのける――それが、
御琴は意識する。淡い光。何処からともなくやってきて、彼の中に渦巻き、脈打つもの。全身を流れる、血液とは違う何か。魂、霊力、オーラ、プラーナ、果たしてそれを真に呼び表す言葉はなんだろうか。
強く満ち溢れるその“力”を、思考する。心臓から腕、腕から掌、掌から指先――握り締めた剣の柄。そして。
(――――ッ)
襲い来る火傷の痛みを無視して、彼は叫んだ。声には出さずに。
拳から溢れ出した燐光が、鳴滝の如く刃を降り、複雑な紋様を描いていく。その様は文字のようでもあった。梵字とも、神代のそれとも思える、奇妙な光の軌跡。
粛として、光は白い影に触れ。
影は灰となった。
音も無い。熱も無い。何かがあった痕跡さえ。
(やった)
息が上がる。痛みは強くなる。まるで全身の皮膚を無理矢理剥がされているような。
しかし、彼には力があった。もう使うことは無いと思っていた。人ならぬものを滅ぼす力。触れる全てを滅却する、降魔の光。
残光に煌めく刀を、しっかと構え。振り向きざまに放った斬撃が、まさに喰らいつかんとする化け物の顎を塵に還した。
残り二匹――否、一匹は切り開いたのだから、三匹。
剣はもう、輝きを失っている。刃を染めていた体液も分解されて、黒鉄は美しい姿を晒していたが。
(あと、何回やれる?)
血管を突き破るが如き痛みから推して測る。恐らくは、二回と続かない。それで決着をつけなければならない。明らかな無理難題である――そもそも数が足りていない。だが。それでも。
走りだす。あたかも跳ぶように。
真琴は右手一本で戦っていた。というより、翻弄されていた、と言った方が正しいのかもしれない。彼女と三匹の化け物が動く度、激しい血煙が辺りに散る。
接近に気付いた一匹――既に頭を三つ抱えた蛇の如く姿を変えている――が、狙いをこちらへと変える。どうやって変形したのか、その胴は既に人間のそれよりも太い。割れるほど激しくコンクリートで跳ね、風を裂いて宙を走る。
吐き出される衝撃の渦は、流石に小さくなっていた。それでも三つの首から視界が歪むほど多く放たれれば、いずれにせよかわしようがない。
疾走の勢いを膝で殺し、無理矢理跳躍する。振り返らずに、もう一度跳ぶ。すんでのところで、死角から飛来した一撃がかすめて行った。
化け物は高速で跳ね回りながらも、決して距離を詰めようとはしてこない。彼を囲むように円を描いて駆ける。
(早過ぎる)
その動作ではなく、学習の速度が。
彼の剣が二尺八寸の範囲にあるものを全て打ち砕くことを理解した上で、敵は一瞬で戦術を切り替えてきた。刃の届かない遠距離からの波状攻撃。
分かっていたはずのことだ。
衝撃は津波の如く彼を取り巻く。左手から、右手から、背後に前面、頭上からでさえ。御琴は床を蹴り、壁を蹴った。眼下から迫る一撃は、天井を蹴って回避する。
シェイプシフターとの距離は埋まらない。敵は徹底していた。ひたすらに逃げ回り、獲物を弱らせる腹積もりなのだろう。初撃のような不意打ちはもう通用しない。直線的な動きの速さで考えれば、さして差があるとは思えないが。四肢でしか動きを制御できない人間と、全身の筋肉で運動する蛇では、動きの柔軟性が明らかに違う。
何発目かの衝撃波が、走る御琴を迎え撃った。振動する空気の壁を横へやり過ごし――かわしきれなかった足に引きずられて、地面に叩きつけられる。激突の勢いもさる事ながら、脛から下を巻き込んだ衝撃の余波で、一瞬息が詰まった。全身を灼く苦しみとは異なる、殴り付けるような痛みに、吐き気を覚える。どうやら足が折れたらしい。
ほんの僅か、膠着した時間。推し量られているのが、気配で分かる。
予測する。敵の行動を。叩き込まれた知識と経験が、彼を急き立てる。このままでは確実に殺されると。あと数発も避けきることは出来ない。この破壊力を全身に受ければ、恐らく肉体は原型を留めないだろう。
御琴は鯉口を切った。勝機はある。無ければ創る。
敵は人喰い。何よりも生きている人間を
三頭蛇の軌道が変わった。円から線へ。彼我の距離が消える。
喰らいついてくる顎が、鼻先をかすめた。腕だけで身体を捌き、続く口腔もかわす。勢い余った怪物の顔が暴風を巻き起こす。
白い奔流はさらに軌跡を捩じ曲げた。急激な変化に、折れた足では対応しきれない。
あっという間に、それは彼を取り巻いて。
一気に締め上げられる。
「が――ッ」
骨格が悲鳴を上げた。身体を構成する全ての関節が、臓器が、あらゆる要素が猛烈に圧縮される。視界に散る火花。
怪力が、逃げ場のない中心に向けて放射されていく。それでも、彼の中にある冷静な部分は、考えることをやめない。途切れない意識は淡い光となって、握り締めたままの剣を彩る。
御琴は全霊をかけて“力”を打ち放った。
消失。続く解放。
そのまま意識を失わなかったのは、幸運だった。既に肉体は限界を訴えている。もう、内臓のいくつかが焼け始めていた。抉り出したくなるほどの痛みが、血液と共に腹の底からせり上がってくる。
突き立てた刃を支えに、彼は何とか立ち上がった。外れかけた左肩を、強引に戻す。
残り二匹。
一匹は巨人と化して、剛腕を――拳代わりに開いた口を振り回して、真琴を飲み込もうとしている。
そしてもう一匹。立ち回る真琴の背後。身構える美幸を、今まさに喰らわんと、腕を振り上げる。
躊躇いは無かった。
剣は光に包まれ、空を舞う。風切る音が、微かに聞こえた。
淡い光の矢は、丸々とした頭部を静かに貫く。同時、“
落ちた刀が再び床を刺す。その様を、美幸がどこか呆然とした表情で見届けていた。何が起きたのか、まだ理解出来ていない。突然消えた化け物の輪郭を探るように、視線が動く。眼鏡の銀縁に飾られた、あどけない瞳。彼女が
我ながら酷く甘ったるい妄想だと思う。どうしてこんな時に限って。
肉の焼ける臭いがした。胸が気持ち悪くなる。自分の身体が燃えていくというのに、考えるのはそんなことだった。もう痛みもない。残されているのは、怒りだけ。迂闊で無様な自分への憤怒。
意志だけが、まだ闘うことをやめようとしない。
うっすら煙る掌が、勝手に床へと投げ出されていた。自身と同様に。
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