6-5 祈るように、彼の名を

 プラスティック爆弾が炸裂する音は、予想よりも随分と地味なものだった。それでも重く分厚い防音扉は、ゆっくりと傾いていく。

 まったく同じヘルメットと鎧のようなベストを身につけた黒尽くめの人々が、素早くホールへ駆け込んでいった。いつでも撃てるよう、胸の高さに機関銃を構えたまま。何十人が飛び込んでいったのか、美幸には数えようもない。

「離れないで」

 一言捨て置いて、真琴が走り出す。美幸がその後に続けたのは、おそらく彼女なりの配慮のおかげだったのだろう。

 踊り場から階段を一つ降りれば、すぐにホールの入口がある。レザースーツの背中を追って、美幸は三度ローズ・ガーデンへと足を踏み入れた。

 高い天井、光る照明、以前訪れた時と何ら変わらない無愛想な内装。

 だが、そこは地獄に変わっていた。

 酷い臭いが立ち込めている。生理的に受け入れがたい程の悪臭――すぐに感覚は麻痺したが、吐き気だけが止まらない。心なしか眼までが痛みを訴えている。

 涙で滲む視界に、映ったのは炎の揺らめきだった。おそらくは臭いの原因もそれだろう。何か大きなものが燃えている――ちょうど人間ぐらいの大きさの。

 散開していく特殊部隊員の向こうには、やはり無数の人影があった。年齢も性別も違う、沢山の人々。誰もがもがき苦しむように、全身をひっかき、天を仰ぎ、身を捩る。融け合うように蠢きながら、一つに集まっていく。

 轟々と燃える、影の元へと。

 それは果たして信仰だったのだろうか。

 人々は炎の上に折り重なり、自らの身をも焦がしていく。火が燃え移り、一人の服が燃え出したとしても、そこに新たな人が縺れ込む。十数人が山となれば、火種・・は最早潰れて消えてしまっているだろうに。彼らはその動きを止めようとしない。終わりのない痛みに呪われたが如く、悶える仕草で同じ動きを繰り返していく。

 美幸は身を折って口元を隠し、辛うじて嘔吐を避けた。

 何が起きたのかは分からない。だが、漠然と理解する。

(あれが、神様だったんだ)

 炎に包まれて、異臭を放つ――恐らくは、人間だったもの。

 人形達に押し潰されて、姿は見えない。原形さえ、失ったのだろう。

 薫が信じた神は、もういない。信じた薫だけが、まだ生き残されている。

 美幸は辺りを見回して――どこにもいない、彼のことを思った。

「どこ――どこですか、神宮司君」

 真琴がこちらを振り向く。

 それには構わず、美幸は叫んだ。

「私はここです。神宮司君。私は、ここにいます――っ」

 声は、煙るホールの大気を響き渡っていく。

 応えは無い。

 美幸は走りだそうとして――苗木のような腕に、遮られる。

「私から、離れないで」

 真琴は美幸を見てはいない。真っ直ぐに前を見つめたまま。

「まだ、終わってない」

 黒革に包まれた肩を掴み、押し退けようと訴える。

「でも、神宮司君が」

「あの人は生きている」

 真琴は断じた。抗いようのない強さで。

 何も言い返せず、とりあえず彼女の視線を追う。楽器と灯体が鎮座する舞台の上。そこにはもう、誰もいなかった。神に操られた全ての人々は、まだ人の山を作り続けている。消えることのない炎を消すために。

「あぁ……死んじゃったのか。亮治。良い奴だったのに」

 沖芳彦の声。間違えるはずがない。ひたすらに話を聞かされた夜のことを、美幸は忘れていない。

「みんなも。たくさん。こんなにたくさん、死んじゃったのか」

 光の中に影が生まれる。繊細で、それでいて靭やかな暗がり。舞台を輝かせるいくつもの照明に、抗うように立ち上がる。

 それが芳彦の姿だった。

 そのはずだった。

「もったいない」

 二本の足で、彼は立つ。当然のことだ。美幸の知る限り、彼に足は二本しかなかった。

 だとすれば、彼の胴体から、地に付くまで大きく広がった、ではないもの《・・・・・・》は一体なんだろうか。

「あんなにみんな、うまそうだったのに。ほんとうに、おいしそうだったのに」

 あの膨れ上がった頭のようなものは、果たして何の器官だろうか。頭にしては大きすぎる。肩と首の境目も無く、鎌首をもたげた蛇のように、ゆっくりと伸びていく。種子から伸びる芽の如く、天を仰ぎ。

 まるで瞳のような、意思を宿した一対の光が美幸を捉えた。

「はらへった」

 瞬間。

 響く声は、翼に似ていた。

 その巨大な頭に、白く大きな花が咲く。花弁は銀に輝く羽根。舞い散るように空間へと広がり。

 眼前に、大きな口腔が広がっていた。

 何か言う間もなく――何かを感じる暇さえなく。

 牙ごと二つに裂けて、それはあらぬ方向へと疾駆していく。

「……無事?」

 問いに答えることも出来ない。果たして、今自分に危害が加えられたのか。そして、それは真琴によって退けられたのか。何一つ理解が出来ていない。

 呆然と美幸が頷くのを、真琴は見ようともしなかった。今しがた巨大な口を両断した日本刀を構え直し、芳彦・・だった《・・・》か《・》を睨みつけている。

 白い蛇、とでも形容すればいいのか。二本の足で大地を踏みしめ、長く伸びた両腕を垂らした蛇がこの世にいるとすれば、正にそれだったのだが。鱗は無い。妙につるりとした肌は、何かしら産まれたての生命の持つ、独特の質感を漂わせている。美しいとは思えない。むしろ、直視しがたいほどに醜悪で――だからこそ、眼を奪われる。

(あれは)

 一体何なのか。問いかけることさえ馬鹿馬鹿しい。あんな生き物は、見たことも聞いたことも無い。

 天に向かって大きく開いた口腔。そこから、外皮と同じく真っ白い触手のようなものが無数に伸びていた。どうやらそのうちの一つが、美幸に襲いかかり、そして今も絶え間なく飛び掛ってきているものの正体らしい。

 常軌を逸している。

 蛇の化物だけではない。彼女の前に陣取る、一人の少女も。

 何かが絶え間なく飛び掛ってきていることは、美幸にも分かる。音がする。影がある。それが化物が吐き出す触手の類だということも推測が出来る。

 だが、それがどこからどうやって喰らいついてくるのか、ましてやどうやって斬り裂けばいいのかなど、分かるはずもない。

 真琴に迷いはなかった。予め決まっていたかのような正確さで、構えた刀を繰り出す。突き出せば血が弾け、薙ぎ払っては肉が飛んだ。微かな体重移動だけで身をこなし、美幸と怪物を結ぶ直線からその身が逸れることがない。真琴が彼女を庇っていることは明らかだった――得体の知れない化物の魔手から。

「あれ《・・》が何かという疑問であれば、私達にもはっきりしたことは分かっていない」

 口に出してもいない疑問に、彼女は淀みなく答えてくれる。

「ただ、人喰い――“人喰イーい《ター》”、と私達は呼んでいる」

 その言葉が、かえって美幸に事実を教えた。即ち、舞台の上に立っている沖芳彦は、人間ではない、何か他の生物で、それは人間を食べる性質を持っている。そして、彼女はまさに捕食されかけたのだと。

 あの日、御琴が命を懸けて打ち破った、人の皮を被った怪物。

「その考えは厳密に言えば正しくない。彼が戦ったものとは、別種――あれはおそらく、“変幻自在シェイプシフター”と呼ばれる種類の人喰い。人間に寄生し、その肉体や内臓器官を利用してさらに人間を捕食する。つまり沖芳彦は、ある時点では人間だった」

 またしても、真琴は答えた――彼女の思考に応じるように。

 そして喋りながら、止まること無く剣を振るう。縦横無尽に飛び掛ってくる、触手のような鰐口を捌き、弾き、斬り落としていく。

(……シェイプシフターという人喰いは、人間を、変える?)

「そのように見える。寄生した人間を、本人の持つ願望を元に変質させながら、徐々に消化吸収していく。宿主は自分の願望が実現されていくから、抗おうとも思わない。同時に人間性や理性も消化されていくことで、人格が崩壊していく。最終的に被寄生者に残されるのは、『食欲』だけ」

 ――そして彼は、“変幻自在シェイプシフター”そのものになる。

 気付けば、あれだけいた特殊部隊員は、誰一人呼吸をしていなかった。数多の触手がその肉体に喰らいつき、味わうように咀嚼を繰り返している。ホールに満ちていた悪臭に、新たに血臭が加わっていた。思い出した吐き気に、胸が苦しくなる。

 夢にしては、妙に明白だった。狂気にしては、やけに筋が通っていた。嘘にしては、唾棄したくなるほど悪趣味だった。

 どれだけ疑ったとしても、それはやはり現実でしか有り得なかった。

 ならば、と考える。

「なんで、こんな……化け物みたいなのが、いるの」

「予想していなかった。一連の事件は異能者の仕業と見て、“人喰イーい《ター》”の関与は疑っていなかった」

 それは答えではない。

 彼は――これ《・・》は?――何故この地上に存在しているのか。

(これは、神様?)

 人ならざるもの。美幸には出来るはずも、したいとさえ思わないこともやってのける。怖気が走るほどに醜いもの。けれど、強く大きく、圧倒的な存在。

(彼女は――神様?)

 化け物と戦う美しい少女。人の心を読み、魔法じみた不思議な力を持つ者。残酷なまでに強く、そして無慈悲な程に――

 柔らかいものが弾けた。そして、血が降りかかる。

 真琴の左肩が無くなった。残された筋肉にぶら下がって、腕が揺れている。

「――真琴さんっ」

「呼んで。彼を、もう一度」

 その横顔は、揺らがない。顔色さえ変わっていないように見える。変わったのは、剣を振るう速度だけだった。右手だけで操る刀は、襲い来る口腔に対処しきれていないように見える。

「あなたが呼んで」

「どうして――」

 美幸が彼を呼ばなければならないのか。

 真琴は――そして御琴は、そうまでして戦わなければならないのか。

「兄さんは、あなたを――無辜の人々を守る為に産まれてきた」

 真琴は教えてはくれなかった。一番大切なことは、何一つとして。

「その為に生きてきた。だから、その為に死ぬの」

 血で汚れた刃を、彼女は必死に振るう。無心に、無表情に。

 頬に降りかかってくる血液は、恐らく真琴のものだったが、警官の血も、山と積まれた人形達の血も、ここにいる人間の血が全て混じっているように思えた。ステージに君臨する怪物に殺された、全ての人々の血が。

「――助けて」

 溢れる息を震わせて、美幸はそれを声に変えた。

「助けて。神宮司君。みんなを――私達を」

 祈るように、彼の名を。

 美幸は呼んだ。

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