6-2 畏れ敬うべき神
夢には続きがあることを、彼は知っていた。当然のことだった。彼は憶えていたのだから。ずっと忘れたいと願いながら、けれどその記憶に苛まれてきたのだから。変えようもない過去は、煮え滾るような眼窩の痛みと、零れ落ちては蒸発していく涙だった。それは深く焼き付けられた、忘れることのできない
世界が炎に包まれたのだと思った。目に映る全てが、赤く燃えていた。どうやらそれが違うと気付いたのは、右眼に深い鈍痛があるからだった。
揺れる炎の向こうに、男が立っていた。人の形をした超越の輩。果たしてそれが畏れ敬うべき神なのか、不幸にして生まれ落ちた怪物なのか、彼には判断がつかなかった。
はっきりしていることは二つだけ。それは人を喰う。そして、彼はそれを殺さなければならない。
意識を集中する――全身の細胞に、一つの方向性を与えるように。男の体に深々と喰い込んだ刃へ、全ての“力”を注ぎ込む。
炎とも血液とも違う、淡く静かな光が、剣の上を踊り。男の影を飲み込んでいく。夢か幻の如く、その姿は煌きの欠片へと変わっていく。血の一滴も零さずに、肉の一片も残さずに。音さえ響かない。
完全なる存在の消失。
そして終わる。
それは戦いだったのだろうか。あるいは一方的な虐殺だったのかもしれない。
両者の間には余りにも差がありすぎた。単なる膂力の格差などではない。根本的な、生命としての威力の違い。奴という一つの個体に対して、人類がどれだけの策を弄したか。どれほどの銃弾を尽くし、何十本の刃を突き立て、何百リットルの毒を注ぎ、幾千の呪を施したか。何人が焼き尽くされ、何十人が炭へと還り、何百人が蒸発したのか。数えるのは難しくない。充分な根気を以って、見渡す限りの屍と破片を数えていけば、いつかは答えが分かるだろう。
例えば。
初撃をかわしたが、爆風で崩れたビルの下敷きになった
立てていた膝が、身体を支えられなくなる。彼は力無く倒れ伏した。
奴は滅んだ。人は生き残った。彼らを除いた、全ての人々が。
何かしら感慨がない訳ではなかった。だが結局の所、さほど特別なことでもない。いつからともなく連綿と続いてきた人ならぬもの達との闘争の歴史においては、そんなことはありふれた奇跡であり、彼にしてみれば、延々と繰り返される勤めでしかない。
胸に湧いた感情に強いて名前をつけるとするなら、安堵というのが一番相応しかったのだろう。どうしようもない血の連鎖からの解放。固く重い
眼球が沸騰する前に、瞼を降ろす。残された最後の力で。
「――滅びとは」
声がした。
「滅びとは何ぞや」
眼が見えなくても分かる。耳が聞こえなくても感じられる。砕けたコンクリートにこびりついた微かな影が、声を上げる。
「形を無くすことか。意味を無くすことか。それで我が消え去ると思うたか。凶祓いよ」
奴はそう宣い、そして、引き裂かれた彼の眼窩が、燃えるような熱で呼応する。
ただ意識だけで、彼は叫んだ。
(やられた)
右眼を失った
彼の持つ力の全てを、ただ熱として――ひたすらに純粋な熱と変える、小さな罠。
(止まれ)
発する炎熱は彼の網膜を一瞬にして炭化させる。引きずりだそうと
(止まれ――っ)
紅蓮の炎さえ、色を失う。全てが光に飲み込まれていく。
美しかった。
無いはずの視界に広がる光景。まるで衝撃と灼熱の全てが彼と溶け合ったかのように。
滅んでいく街を感じる。ビルというビルが一瞬にして溶け落ち、気化していく。振り向いた瞬間に、蒸発する女性。子供を抱えたまま、男は灰になる。少女は無慈悲に焼却され、光の一部となった。道行く車も、走る電車も、空を渡るヘリコプターでさえ、火花と消える。めくれ上がったアスファルトが天を曇らせ、雨となって地上に降り注ぐ。
全てが集束していく。膨れ上がる破滅の中に。
――気付けば、彼はまだそこにいた。
自分がどんな姿をしているのか分からない。生きているのか、死んでいるのか。少なくとも、呼吸はしている。意識はある。自我もある。そして、痛みもある。続いているのは、燃えるような激痛だけだった。
身体が内側から焼けていく、その感触。内蔵が燃え上がり、血液が煮え立ち、筋肉は焼け焦げ、皮膚が瞬く間に蒸発していく。悶絶することさえ叶わない――全ての神経線維が痛みだけを残して焼け落ちていく。体内の水分が沸騰する音が聞こえた。光が弾ける。目が眩む。残された左眼さえも熱い。真っ赤な炎の舌が、眼球を炙る。
「兄さん」
肉の焼ける臭いがする。燃え滓が放つ乾いた気配とは違う。滴る血が爆ぜる、染み入るような音が聞こえる。
夜が見えた。満月は煌々と、浮かんでいる。広がる光で、空は暗く浮かび上がり、星々の影さえ見えない。酷く静かだった。舞い落ちる月光の粒さえ見えそうな程に。
「終わったのか」
呟く。
頷いたのは、少女――真琴だった。彼の頭を膝に抱えて、頬に手を当てながら。
「終わりました。もう、
いつもと変わらない、感情表現に乏しい妹の言葉。月よりも静かに、彼を見つめる瞳。
「あとは、兄さんだけです」
――少女は、焼けていた。
彼の頬を這う指が、見る間に焼け
真琴の表情は変わらない。彼のそれとよく似た、棘のある目付き。抱き上げようとした腕が、焼けて貼りつく。それでも彼女は、悲鳴をあげない。
彼は理解した。今や敵はどこにもいない。ただ、彼だけが。
その右眼に焼き付けられた
「……殺してくれ」
真琴は何も言わずに、彼の首に手を添えた。
指先は迷いなく、的確に動脈を押さえてくれるはずだった――
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