第六章 わたしはここにいる

6-1 業火は紅蓮の色

「調べたよ、アンタ達のことは」

 訥々とつとつとした言葉だった。声は小さい。それでも、ホールの闇を揺らすには充分な響きだった。

「霧島美幸。あの人、漫画のヒロインみたいだな」

 喋りながら、亮治はほとんど身体を動かすことがない。口さえ開いていないように見える。もしかしたら、自分の肉体の使い方を忘れているのかもしれない。

「子供の頃に火事で両親と弟を亡くして、叔父に引き取られた。義理の両親が医者だから、進路は医学部。成績は優秀。素行も問題なし。最近の奇行を除けば。立派なもんだ」

 一体どこからそんな情報を引き出してきたのか。おそらくはその方法こそが、彼らの暴挙を阻止できない一つの理由なのだろうが。要人の動きさえ掴んで殺害出来るというのは、真っ当な手段ではない。

「充分勝ち組だ。孤児なんて、オレ達の中にはごまんといる」

 フロアに溢れる人形――『チーム』のメンバー達を見下ろして、リーダーが呟く。一人として応じる者はいない。息遣いさえ、聞こえてこない。亮治は続ける。それでも誰かに語りかけるかのように。

「問題はアンタだよ。神宮司御琴」

 御琴は黙ったまま、亮治を見ていた。抉り返された眼窩から流れる血が、頬に温い。痛みはあるが、怯えはない。

「はっきり言って、アンタも勝ち組だろ。オレ達の仲間にはなれない――家柄、家族、経済状況、成績。全部穴がない、本物の御曹司だ」

 持ち上げられているのか貶されているのか、難しいところではあった。問題を抱えていることが果たして美徳なのか。

「でも。アンタの記録は、完全過ぎて、嘘臭い」

 フードの下から覗いた視線が、御琴のそれと混じり合う。力の無い表情は、能面のようでもあった。気配だけが、御琴を捉えて離さない。怜悧に彼を観察しようとする。

「中学時代、小学時代、その前も。どこにも問題がない。二年前のあの日まで――東京が燃えた日までは」

 言葉は見えない手と同じだった。耳朶から滑りこんで、記憶の扉に触れてくる。

「アンタは、何者なんだ? どうしてあの夜、爆心地にいた?」

 ほんの刹那、亮治の影が揺らいだ気がした。立ち上る炎のように。

「神宮司御琴。アンタは何を見たんだ。その右眼で、一体何を」

 強ばっていた右の拳で、顔を染めた鮮血を拭う。鼻先に漂う錆びた鉄の匂いが、御琴をどうしようもないほど現実に引き戻した。

 引きずり出された過去の首根っこを掴む心地で、口を開く。

「お前の、その力。思い出した。『浄瑠璃』だ」

 突然の話題に、亮治が一瞬戸惑ったのが分かった。

「何だと……?」

 御琴は止めない。

「その手で触れた人間を人形のように操る力。どうやって身につけたのか知らないけど、すごいな」

 喋りながら、歩き始める。全ての木偶が身構えるのが、暗闇を通して伝わってきた。

「さっきまでそこら中で人形を爆破してたんだろ。百人以上の人間を、それだけ離れて操れる。並大抵じゃない」

 誰も襲いかかっては来ない。包囲の網を作り上げていく様も、やはり皆同じだった。

 何故かおかしくなって、少し笑う。

「どうして知ってるんだ、って顔だね」

 暗がりの底で、何かがうごめいた。手足を激しく痙攣けいれんさせながら、それはゆっくりと身を起こす。腹に長い鋼鉄を抱えたまま。

「これは――オレの力は、『神の力』だ」

 立ち上がった影はスタッフブースから転落した男のものだった。だが、口角から血を零し、へし折れた首をもたげる姿は、もはや人間のものとは呼びがたい。まるで手際に悪い糸繰り人形のような。

 血走った眼球がぐるりと回り、御琴を補足する。

「“彼”がオレに与えてくれたんだ。『力』には義務がある。オレは務めを果たす。クソみたいな勝ち組とは違う。この『力』で、世界を変える」

 力強い宣言を合図に、人形が跳んだ。

 五メートルはあった彼我ひがの距離が、一呼吸の間で消える。まともな人間の跳躍力ではない。胴体に突き刺さったままのマイクスタンドが、跳躍の勢いで御琴の頭を狙い撃つ。

 左足を引いて、身体の正面を脇へ向ける。鼻先を掠める鉄棒を無視して、御琴は左の肘を振り上げた。男の脇腹に、人体の最も固く鋭い部位が突き刺さる。

 衝撃に失速すると、その図体はまたしても墜落した。踏み出した足で転がる身体の勢いを殺し、容赦なくもう一歩を踏み出す。ブーツの固い底が、男の膝を抉り潰した。

「貰った力で、神様気取りの革命ごっこか」

 御琴は、強く床を蹴る。

(――気付いてみれば、簡単なことだ)

 人形達の包囲をかわすことは、実際難しくもない。全てが一つの意思によって統率され、完璧なチームワークを見せる彼らにも、やはり弱点はあるのだから。それは実に単純なことだった。彼らは統率者の限界の中でしか、動けない。

 同時に打ち込まれる無数の拳にも、数えきれない凶器にも、どこかに必ず隙がある。それは振りかぶった腕の影であり、高く上げられた足の下であり、あるいは誰の眼も届かない軌道の境目であり。

 そして、それを見極められるのならば、自ずと結果は見えてくる。

 振り回されるバットとバールを飛び越え、御琴は深く身を沈めた。群れる人形達の影を縫うように、疾走する。闇雲な攻撃は、人形達の視界でしか彼の姿が確認できないからだろう。数十の眼も一人の意識に制御されれば、注意力が散漫となる。

 手近な男の肩を足場に、御琴は跳躍した。ホールの壁を蹴りつけるようにして、さらに高度を稼ぐ。

 空中で身を捩ると、彼はガラスの抜けたスタッフブースの窓枠に飛び込んだ。狭い空間で四肢を張り、無理矢理着地する。顔を上げれば亮治がもうそこにいた。

 微かな白熱灯に浮かび上がった、亮治の顔を睨みつける。

「人形遊びは、もう終わりだ」

 その表情は冷たく沈んでいるようでいて、その実、熱に浮かされているようでもあった。大き過ぎる上着のポケットから、引き出した右手をこちらに差し向ける。

「アンタには――分からない!」

 鋭く禍々しいシルエット――自動拳銃が鈍く光った。

「――――!」

 反射的に顔をかばい、低く駆ける。銃声は心臓を揺さぶった。弾道に残る衝撃波が、腕に僅かな痛みをもたらす。

 二発目の銃声。毛先が爆ぜた。上体を大きく脇へ揺らす。三発目がどこに消えたのか、見えたはずもなく。

 上半身を引き戻す力を乗せて、掌を打ち放つ。狙うは顎。亮治はそれをかわしながら、銃口をこちらに向けてみせる。避ける余裕はなかった。既に重心は手を伸ばした方へと流れている。

 咄嗟に繰り出した逆の手で、御琴は銃身を跳ね上げた。暴発した九ミリ拳銃弾が、天井の石灰を降り注がせる。押し戻そうとする拳を、円の軌道で脇へと逸らす。さらに一発。床が炸裂する衝撃が靴底を伝う。

「離せ――っ」

 もがく亮治の顔に、彼は右の裏拳を叩き込んだ。亮治が仰け反る。しかし、銃を持った手を捕まえて、倒れることを許さない。力任せに引き寄せながら、御琴は続けて掌を打ち込む。苦し紛れに足を払おうとする亮治の蹴りを、膝でかわして足首を踏み固める。

(捕らえた)

 もう銃は使えない。人形達を操る暇もない。亮治は既に、『神』ではない。

 御琴は肘を耳に打ちつけ、返す拳でこめかみを殴りつけた。

 銃を握る手が緩む。手首をひねりあげつつ、彼はもう一度、渾身の掌底を打ち放った。

 しかしそれは、振り上げられた肘に弾き返される。痺れにも似た痛みが手首を走った。それでも腕を掴んで、無理矢理押し流そうとする。

 拮抗状態。

 いつの間にかフードは落ちて、亮治の素顔が間近にあった。

 気付けば、彼の――皆方亮治の顔をはっきりと見たのは、これが初めてかもしれない。左右非対称に整えられた茶色い髪と銀灰色のピアスはいかにも垢抜けて見えたが、眉の太さがそれを打ち消して野暮ったい。青白くくすんだ肌の所々が、今は殴打の痕で赤黒く染まり始めている。骨張って細い輪郭の形が変わるのも時間の問題だろう。細い肘に全体重をかけて、御琴を押し返そうとしている。

「誓え。もう二度と、こんな真似はしないと」

 その力をゆっくり横に逸らしつつ、言って聞かせる。

「もうすぐ警察の連中が来る。お前が誓うなら、逃がしてもいい」

 嘘を言っているつもりはなかった。竹内真由理ならば、御琴の足取りなどすぐに辿ってみせるだろう。康介という手がかりまで残してあるのだから。

 亮治はもう予想しているだろう。彼らがどうやって犯罪を重ねてきたのか、警察は知っている。そして警察は、一度捕まえたのなら、どんな手を使ってでも彼らの活動を止めようとする。今すぐに諦めるか、時間をかけて徹底的に押しつぶされるか、その二つの選択肢しか彼には残されていない。

 思想が死ぬか、自身が死ぬか。

 ――不意に、押し戻そうとする力が消えた。

「……そんなに大切なのか。霧島美幸が」

 戸惑ったのは、御琴だった。

「何を言ってる」

「アンタが言う、こんな真似ってのは……例えば、霧島美幸を殴ったこと、だろう」

 何もそれだけではない。それ以外だと言うつもりもなかったが。

「仮に、警察がオレを捕まえに来るとして。奴らと正面からぶつかり合う力は、オレや仲間には無い。それは分かってる」

 喋る声に含まれているのは、諦観のように思えた。あるいは諦観に似た何か――例えば希望のような。

 御琴は最後通告のつもりで、一言告げる。

「だったら、どうしたらいいか。分かるだろ」

「俺は、もう、あの二人に賭けた。結果がどうなるにせよ」

 亮治の言うことが理解出来たわけではない。言葉遊びに付き合うほど、余裕もない。

 口に出したのは、勘だった。

「……まさか、また霧島さんに何かしたのか」

 亮治が口角を上げる。

「逆だよ。俺は何もしていない。霧島美幸にも、薫にも」

「――どういうことだ」

 予想は出来る。だがそれでは、筋が通らない。亮治は千賀や康介を利用してまで、美幸を都築薫に会わせまいとしていたのではなかったか。

 慰霊式典の現場で、『チーム』が自爆テロを仕掛けるつもりだったのは間違いない。都築薫がそのテロに参加していたとしても、おかしくはない。そして、そこに美幸がやってきたとしたら。

 恐らくは、都築薫の自爆に美幸が巻き込まれる形で決着がつくだろう。それを阻止する為に、御琴はここにやってきた。

「アンタが心配することはないんだよ。あの人は爆弾を背負ってなんかいない。俺が、偽物を持たせた」

 亮治の言葉を信じるとするなら。この殴り合いは単なる徒労だったということか。

「どうして」

「彼女は死ぬべきじゃない」

 彼はあくまで静かに、言い放つ。

 だからこそ、それは際立っていた。神を自称する男の本音。

「……賭け、だと」

 二人の命を奪わないとすれば。考えられる結末は二つ。都築薫が美幸に従うのなら、『チーム』は間もなく終わる。美幸が都築薫に従うなら、『チーム』はまだ終わらない。今すぐには無理だとしても、やがて再び社会の脅威となる。

 恐らくはそれが、亮治の賭けなのだろう。

 あるいは単純に、彼には都築薫が止められなかっただけなのか。それでも、彼女を死なせたくないと、思ったのかもしれない。

 御琴にとっては、どちらでも良い話だったが。

「オレは逃げない」

 強い口調で、亮治は言った。

 御琴は掴んでいた肘を離し、最短距離で掌を叩き込む――

 しかし、淡く輝く亮治の手は、素早く伸びてくる。

(まずい)

 光る紋様を帯びたその手に触れれば、意識の底まで亮治に明け渡すことになる。それは危険なことだった。御琴ばかりではない――亮治にとっても、また。

 横薙ぎに腕を払って、『浄瑠璃』の光糸から逃れる。

 機材を満載したメタルラックと少年の身体がぶつかり合い、激しく音を立てた。

 再び亮治の顎を打ちに行く。今度は確実に、意識を奪う為に。

 襟首を離した左手で、即座に一撃を放つ。

 だが。

 動かなかった。指の一つに到るまで。まるで肩から先が、別人のものになってしまったかのように。

 いつの間にか、払った右腕が掴み取られている。光の糸は、絡み縺れ合いながら、彼の身体を這い上がってくる。

(――しまった)

 亮治の顔に走った影は、確信の笑みに違いない。

 御琴は叫んだ。果たして声になったのだろうか。一瞬にして、彼の肉体は人であることをやめて、ただ人の形へと成り下がっていく――

「よせっ!」

 業火は紅蓮の色で、彼の視界を埋め尽くした。

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