5-8 アンタを殺してから

 哄笑は割れんばかりに響き渡った。耳を塞ぎたくなるほどに――塞いだところで逃がれようもないほどに。

 芳彦は顔を真っ赤にして、涙さえ滲ませている。身を折って腹を抱えながら。

「殺す気かよ! 俺を!? オイ、勘弁してくれ――これ以上ムカつかせるなよ! マジでブッ殺すよ! 指ねじ切って口ん中詰め込んでやろうか? あ? 一本ずつさあ」

 笑う口角は歪だった。押さえ込まれた御琴の顔を、見上げるように覗き込んでくる。

「意外と美味いんだよ。人の指って。コリコリしててさ」

 覗き返したその先は、闇だった。あらゆる色が混じり合った結果の、混沌とした黒。

(この男は、違う)

 静けささえ伴う、深くて暗い色。そこにあるはずの果てが見えない。ただ御琴を覗き込み、そして食い荒らそうとする。めちゃくちゃに塗り潰されたような、暴虐の光。

(この男は、神じゃない。人間ですらない)

 疼痛とうつうが止まない。頭蓋の奥を灼熱が駆け巡る。

「痛そうだよねえ。その眼」

 芳彦の指が、無造作に眼帯を千切り取った。外気に晒されて、ほんの少し熱さが和らぐ。つるりとした爪が、瞼をなぞる感触――

 粘りのある音がした。

「どうよ? どんな感じ?」

 不快感が顔面を刺し貫く。細い指先が直接神経を刺激する。

 体内に異物を差し込まれる感触は、吐き気を伴った。微かな指の動きも、はっきりした触感として知覚できる。

(じゃあ誰だ?)

 御琴は持てる精神力の全てを、思考へと傾けた。奥深くへと割り込んでくる芳彦の指先を無視して、ただ身体の外へと感覚を広げていく。

「ぐーじゅぐじゅー。脳味噌出ちゃうかもー」

 芳彦が嬉々として囁いた。その眼は御琴だけを捉えている――他のことに集中している素振りなど微塵もない。果たして彼に百にも届く人形達を操ることが出来るだろうか。

(この男は神じゃない。だとしたら、神は誰なんだ?)

 隠れるのならば、人形の群こそ最適だろう。暗いホールの中で、動き回る人々の顔を判じることなど不可能に近い。だが、群衆の中に紛れた者に、それを率いることは出来ない。神は君臨しなければならない。全てを見下ろし、全てを知り尽くすことで、ついに全てを能う者となるのだから。

(この場の全てを見渡す者)

 光に満ちたステージと、影に沈んだホールと、何もかもを明視するのならば――

「なんだよ、なんとか言えよ……つまんねえ奴だなあオイ!」

 眼窩の奥に入り込んだ爪がうごめく度、脳髄を直接殴りつけられているように、視界が瞬く。全身は震え、膝までが笑い出した。意志に反して溢れ出す涙が、芳彦の笑いを誘う。

「おお、いいじゃん、カワイソウ。泣くなら泣けよ、いい声聞かせてくれよな」

 ――その頃には、もう、気付いていた。

 誰かがそうと気付く前に、御琴はブーツの底で、彼を抑えこんでいる男の足首を踏み抜いた。鍛えようのない関節への衝撃に、拘束する力が一瞬緩む。

 同時に叩き込んだ肘で重い身体を押しやりながら、御琴は飛び退った。芳彦の指が眼の無い虚からずるりと抜ける。再度後ろから伸びてくる腕を、今度はこちらが捕らえた。

 押さえこもうとしてきた体重を、自分の背中に載せるような感覚で、そのまま前方へと泳がせる。御琴より二回りは大きい体格が、芳彦へ飛び込んでいった。

 そして、真っ直ぐ天井へと吹き飛んだ。

(――――)

 一瞬にして消えたかのような錯覚。風さえ巻き起こすほどの、とてつもない衝撃だった。唖然とする間もない。芳彦は既に眼前にいた。

 突き上げてくる拳を、交差した腕で受け止める。それでも身体が浮いた。こらえようとはせずに、流されるまま後ろへ飛ぶ。追いすがってきた芳彦が打ち出す正拳は、右手で逸らした。そして腰だめに握った左の拳で、正確に突進の勢いを突き返す。肋骨の無い脇腹は、怖気がする程柔らかかった。

 低い呻き声が、芳彦の口から零れる。

「――っざっけんなッ」

 それでも彼はすぐに反撃してきた。顔を狙う右の拳をいなし、続けざまの左回し蹴りには肘をぶつける。重い蹴りだったが、来ると分かっていれば力を逃がすことも出来た。

(倒れないか)

 信じられない耐久力と、常識外れの膂力りょりょくは脅威だった。しかし、芳彦に打ち勝ったところで、事態は何も変わらない。この馬鹿げたテロ騒ぎも、諦めを知らない少女の暴走も、何も止めることは出来ない。

 今、為すべきは。

 御琴が無造作に放った二発の掌底を、芳彦は見事なフットワークでかわしてみせた。お返しとばかりに拳骨を幾つか繰り出してくる。頬を掠める風を感じながら御琴は一歩を踏み込み、肋骨の隙間を狙って貫手ぬきてを放った。肺を打ち抜く一撃。芳彦の足が止まる。その隙を逃さない。すかさず顎先を狙い打つ。芳彦はかろうじて、上体を逸らしてそれを避けた。だが、そのせいで、同時に放った膝への攻撃に気付かない。

 伸び切った膝の皿を、思い切り踏みつける。

 骨と腱が、断末魔じみた生々しい音を立てた。

「う――お、おっ」

 全ての運動の基盤となる関節を砕かれては、不死身の男も立っていることは出来ない。もんどり打って倒れる彼を尻目に、御琴は身を翻した。そこにはもう、ステージをよじ登り終えた人形達が走り込んできている。

(焦ってる)

 なんとなく、それを感じ取る。思えば、芳彦が一度倒れた時も、彼らの動きは止まったのではなかったか。

 腹めがけて飛び掛ってくる少年をいなしながら、同時に飛び付いてくる少女の腕の下を通り抜ける。ついでに彼女を片手で突き飛ばし、反動で御琴はさらに身体を沈めた。どこかからやってきた蹴りが、寸前まで彼の胸があった空間を貫く。床を這うように走りながら、彼は残されている左眼で標的を探した。

 爪先に引っ掛かった何かを掬い上げ、中空に跳ね上げる。素早く捕まえ、頭上で一つ回転。行く手を塞ごうとしていた連中が、慌てて退く。

 呼応するように、御琴も速度を落とす――というより、溜めると言ったほうが正しいのかもしれない。ステージを削るように踏みしめて、右手に構えたそれ――マイクスタンドを大きく振りかぶる。

 疾走の勢い、全身の筋力、胸を灼く怒り、そんなものをありったけ籠めて、彼は長い鉄棒を投げ放った。

 鋼鉄は闇を穿ち、大気を貫く。三本の足が、安定翼のように螺旋の軌道を描いた。

 どこから差したのか、小さな光を軌跡に残して。

 それは槍の如く、スタッフブースに突き刺さった。

 ホールとブースを隔てるガラスが一瞬にして白く染まる。ひびは蜘蛛の巣状に広がっていた。濡れた布を弾いたような音の余韻が、貫通の衝撃を御琴の元まで伝えてくれる。

 そして静けさ。長くは続かない。

 真白いガラスが僅かに揺れる。沈黙は、小さな欠片と共に剥がれ落ちていく。

 間もなく、全てが大量の破片へと変わった。光の粒は、渦巻きながら降り散っていく。透き通ったざわめきが辺りに谺した。

 雨にも似た白い光の中に影が混じっている。重苦しい音がした。腹の奥を揺らす響き。

 人が転がっていた。

 受身も取らずに落ちたまま、微動だにしない。

 よく見れば、それも当たり前のことだった。男は腹を貫くマイクスタンドに絡みつき、捩れるようにして横たわっている。その胸が上下していないことに、御琴は気付いた。

「……助けないと、この男、本当に死ぬよ」

 虚空の中へ投げつけるように、声を発する。

 答えがあった。

「――もちろん、助けるさ」

 スタッフブースの高みから降ってくる。少年の声だった。

 小柄な少年。今にも見失ってしまいそうなほど、薄弱な気配。大きすぎる漆黒のナイロンパーカーは背景に溶けこんで、彼と世界の境を曖昧にしている。あたかも、少年が世界であるかの如く。

「アンタを殺してから」

 皆方亮治は呟くと、頬に浴びた血を指先で拭った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る