5-7 あなたが、必要だから

 彼女が舞い降りるその様は、天使のそれだった。足りないものがあるとすれば、白く大きな翼ぐらいだろう。

 大地を蹴るというより、大気を滑るように、少女は疾駆する。信じ難いほどの速度で、人波を超えていく。

 美幸は、呆気に取られ、そしてすぐに思い直す。

(走れ)

 少女の声は風のように、美幸の背を押した。

 無心に、くすんだ緑のコートを追う。覚束ない膝に鞭を打って、彼女は必死に駈けた。逃げ惑う人々の流れに逆らい、警告を発する警察官達を無視して。

 地獄の釜をひっくり返したような喧騒が、広く会場を支配していた。悲鳴や罵声に加えて、ここぞとばかりに地上への接近を試みるヘリコプターの爆音が、混沌を更に深めていく。恐らくは、隣に誰かがいたとしても、その言葉は聞き取れないだろう。

 だから、その微かな音は、ほとんど錯覚に近かった。

 演壇を目指して走っていた男の一人が、突然転倒する。勢い余ってというよりは、突如失神したかのようにだらしない様で。

 走る視界の隅で、それを見つける。男には、首から上が無かった。放射状に広がるその破片と内容物。

 音は銃声だったのだと、理解する。頬に流れる汗が、冷たさを増した。

(殺す気だ)

 警察は、今やそういう組織だった。容赦も躊躇いもない。国家国民の安全を脅かす者は、徹底的に排除する。行為は法的に保証され、対象は制限を受けない。

 例えそれが、国民そのものであったとしても。

 薫との距離は縮まりつつあった。逃げる人々をかき分けながら進む彼女と、その後ろを走る美幸では、当然走る速度に違いが出る。そうでもなければ、到底追いつけなかっただろう。

「――薫っ!」

 美幸は叫んだ。

 僅かに、薫の足が鈍る。それこそ錯覚だったのかもしれないが。

 一際強く、地面を蹴る。伸ばした手がオリーヴグリーンのフードを捉えた。

 咄嗟に振り払おうと、薫が身を捩る。美幸は素早くシャツの襟を掴んだ。コートだけ脱がれては話にならない。

「何なのよ、アンタはっ!」

 薫が怒鳴った。

「もうやめてよ、薫!」

「うるさい――」

 振り回される腕を受け止め、放さない。捕まえた襟首を引き寄せ、美幸は叫んだ。

「こんなことして、何になるの! 何にも変わらないよっ!」

「アンタには分からない! 神は正しいんだ! アタシ達を導いてくれる……アンタなんかに、分かるもんかっ!」

 薫が負けじと美幸を突き返す。ほとんど引きずられるようにしながら、美幸はそれでも服の端を強く握る。

「そんなの分かんないよ! 神だとか未来だとか! あなたには、あなたみたいな人が、どうして――っ」

 どうしてそうなったのかは分からない。彼女にも、多分薫にも分からなかっただろう。

 一瞬の浮遊感。二人は絡み合うようにして倒れた。土の上を転げながら、必死に薫にしがみつこうとする。

 激痛が走った。肩の辺りから――それなのに全身を打ちのめして余りある痛み。視界が明滅する。

 薫の顔がすぐそばにあった。青ざめた肌に、飛び散った血の色が鮮やかに映る。

(撃たれた)

 存外冷静に、美幸はそれを悟った。叫ぶ気力さえ奪われる、底無しの痛苦。激しく組み合っていたせいで、頭部への直撃はまぬがれたのか。いっそのこと、一瞬で意識を奪われていた方がましだったかもしれない。そんなことさえ考える。

「薫」

 喋るだけで、失神しそうだった。

「美幸――」

 覆い被さる彼女の下から、薫が抜けだそうとする。その身動ぎさえ、美幸にとっては殴りつけるような苦痛だった。

「……薫、怪我してない?」

 気付けば、そんなことを口にしていた。本当に言いたいことは、そうではないと気付いていたが。

「う……うん」

「よかった」

 薫が動きを止める。その顔に浮かんでいるのは、戸惑いだった。

 ともあれ周囲の状況を確かめようとするが、首が全く動かない。あれほどやかましかった人々の悲鳴が、壁を挟んだように遠く聞こえた。

(私達は、殺されるんだろうか)

 ぼんやりと、美幸は考えた。ホールに敷き詰められた死体の海が、自然と想起される。あの中に自分や薫が加わったところで、何の違和感もない。

 いや、そもそも薫は爆弾を抱えているのではなかったか。早く何とかしなければ、二人とも爆死することになる。身体を起こそうとするが、腕に力が入らない。胃の底から猛烈な吐き気が立ち昇ってくる。瞼だけがやたらに重い。

 砂を蹴る音がする。

「近寄らないでっ」

 薫の叫びに、美幸は直感した。少女――マコトがすぐそこにいる。

「質問をする」

 声は冷たい。肩から流れ出る血でさえ、温かく感じるほどに。

「身構える必要はない。あなたは殺さない。爆弾を持っていないから。『浄瑠璃』の影響を受けていないことも、分かっている」

「なっ――何言ってんのよ、アンタ!」

 薫の反発も、彼女は意に介さない。

「質問は一つ。神はどこにいる?」

 どこかで聞いたことのある問いかけだった。あの時とは、問う者も問われる者も、全てが異なっていたが。

「馬鹿じゃないの。そんなの、答える訳ないじゃない」

「このまま放っておけば、霧島美幸は死ぬ」

 言われるまでもなく、美幸は気付いていた。呼吸もままならない肉体の重みが、酷くわずらわしく感じられる。この苦悶から解き放たれれば、彼女も人智を超えた神仙へと変わることが出来るのだろうか。

「あなたが質問に答えるのであれば、私は彼女の命を助ける」

 それはもっともらしい言葉のように、彼女には聞こえた。そんなことが少女に出来るのかは、さておいて。

「アンタ達は、最低だ」

「それが、人命に対する態度という意味ならば、私達のそれはあなた達よりは正当だと思う」

 薫が喉の奥で発した唸りを、肌で感じる。

 美幸にしてみれば、どちらも変わらないように思えた――『チーム』も警察も。人間に爆弾を背負わせる者も、爆弾を背負った人間の頭を撃ち砕く者も。もちろん、死にかけている人間を取引の材料にする者も。いずれにせよ、誰かの命が奪われることに、変わりはない。

「質問を繰り返す。神はどこにいる?」

 またどこか、遠くで銃声が聞こえた。間もなく事態は沈静に向かうのだろうか。イベントは中断されたものの、市民に被害は無し。実行犯は全員射殺された。そんな結果に終わるに違いない。

「答えろ」

 すると、どうやら自分はテロ実行犯の一味ということになるらしい。真っ先に思い浮かんだのは、養父母の顔だった。二人はどんな顔をするだろうか。恐らくは彼女の死を悲しみ、その罪業を恥じるだろう。そして心のどこかで、ようやく厄介な荷物を処分することが出来たと胸を撫で下ろすのだろう――

「――……デン」

 食い縛った歯の隙間から搾り出すように、薫が呟く。

「ローズ・ガーデン。渋谷の」

 瞬間、世界が開けた。

 何のことはない。マコトが美幸の腕を掴み、強引に起き上がらせただけのことだった。自分の体重さえもが、引き裂かれた肩口に鈍痛をもたらす。

「構成員が自白した。首謀者は渋谷のライブハウスに潜伏中。店の名前はローズ・ガーデン。恐らく彼もそこにいる」

 少女はあたかも誰かに話しかけるように独りごちた。きっと誰かの耳に届いたのだろう。でなければ、彼女が声を発することなどありえない。そんな気がする。

 マコトの細い足が、いつの間にか薫の膝を踏みつけていた。

「逃げようと思うな。素振りを見せれば、骨を砕く」

 薫の顔が歪んだのは、見た目以上に強く膝頭を踏まれているせいなのか、それとも忸怩じくじたる思いのためか。

「なんなのよ」

 美幸には判別しかねた。その言葉の意味も、同様に。

「なんなのよ――なんで、どうしていつも、邪魔するのよ。奪っていくのよ。アンタ達は、何でも持ってるくせに」

 投げかけられているのは、自分だと思った。だが、すぐにそれは間違いだと気付く。薫が見ているのは、美幸ではなく、少女でさえない。逸らされた視線の先には、埃っぽい地面しかなかった。

 薫は腕を持ち上げて、横顔を隠す。美幸は気付いた。彼女は今、あの時と同じ表情をしている。美幸の前から姿を消した、あの時と。

 自分が何を訊きたかったのか。不意に、理解する。

「……薫は、信じてるの? 神様のことを」

 沈黙は少しだけ。喧騒にも負けない、その重さ。

「アンタは、信じてるの。このままでいいって。このまま、昨日と同じ明日が来ればいいって思ってるの」

 返答のような質問に、美幸は頭を振った。

「思ってないよ。このままで明日が来るなんて、思ってない」

「だったら、なんで分からないの? アタシ達がやっていることが」

「死んだら、来ないよ。明日は」

 それが分からない薫では、ないだろう。どう言葉にすればいいのか分からないまま、美幸は口を開く。

「私だって不安だよ。受験のこととか……ううん、そういうことじゃなくて、もっと、大きなこと。これからのこと」

 酷くたどたどしい喋り方だと、自分でも思いながら。

「でも、私、死にたくない」

 人形のように踊らされた少年達も、車ごと焼き殺された官僚達も、粉々になった警察官達も。

 薫がどんな表情をしているのか、やはり美幸には分からない。それでも、話すことしかできなかった。

「私ね。あなたのこと、尊敬してた。羨ましかった。いつも迷わない。いつも正しい。何でも出来て、私に無いもの、何でも持ってるって」

 それが必要だったのだと、美幸は思った。彼女にとっても、薫にとっても。

「違ったね。ごめん」

 いつの間にか、銃声は止んでいた。狂乱は遥か遠く、駆け回る警官達の号令だけが聞こえる。

 少しだけ下がった腕の向こうに、薫の瞳があった。真っ直ぐにこちらを見ている。肩から滴った美幸の血が、彼女の目元を赤く濡らした。

「……なんで、謝ってんの」

「分かんない」

 美幸は微かに笑って――笑う余力のある自分に、気付いた。

 肩口に目を向ける。首を動かすことができた。腕を上げる。痛みが無い。先程までの激痛が、嘘のようだった。上着もワイシャツも下着も破れ、明らかな血の色に染まっているというのに、布地に大きく開いた穴からは、無傷の肌が覗いている。肩を砕いた銃撃など、何かの間違いだったと思うほどに。

「あまり動かないで。失った血液が戻ったわけじゃない」

 マコトは冷静そのものだった。理解が追いつかず、じっと自分の肩を見つめる。薫でさえ驚愕しているのが、気配で分かった。

 まるで魔法のようだ――冗談や比喩の類ではなく。少女が、美幸の傷を消してしまったのだとしたら。

「霧島美幸」

 マコトは待たない。美幸の驚きも、薫の怒りも、意に介さない。

「あなたに来て欲しい」

 ただ一言だけ、それで全てが伝わるかの如く。

「渋谷に?」

「そう」

「私が、どうして」

 『チーム』を探すのならば、必要なのは美幸ではなく薫のはずだった。美幸の知っていることなど、いつかの事情聴取で全て話してしまっている。薫との取引も成立している以上、警察にとって美幸は最早単なる証人でしかない。敢えて危険な場所に、彼女を連れ出そうとする理由がどこにあるのか。

「……あなたが必要だから」

 端的過ぎて、答えようが無い。

 美幸の困惑を知ってか知らずか、少女が繰り返す。

「あなたが必要だから。彼にとって。神宮司御琴にとって」

 ――ろくに残されていない血の気が、さらに引いていくのを感じる。

「神宮司君が、いるんですか。渋谷に」

 少女が首肯した。

「彼は同じ警察病院にいる芦谷康介の元を訪れた後に、監視を振り切って姿を消した。芦谷康介は、彼が『チーム』の首謀者を探して渋谷に向かったと証言している」

 信じられない。何故――彼の目的は、もう果たされたはずなのに。どうしてまだ連中を追っているのか。満身創痍の身で、一体何をしようとしているのか。

「彼は、気付いている。彼にしか、出来ないことがある。そして、私達はそれを必要としている」

 聞かされたところで、やはり理解はできなかった。彼にしか出来ないこと。それは一体何だろうか。そして、少女は彼の何を知っているのだろう――

 不意に、鋭いブレーキ音が耳をつんざいた。飛び込んできた黒いスポーツカーが、横っ腹を見せながら少女の背後で静止する。窓ガラスの降りた運転席には、完成された美女――竹内真由理が顔を覗かせていた。

「SAT《特殊急襲部隊》の準備は出来た。あとは、あんただけよ」

 少女の短い髪が揺れる。ほんの微かな頷き。

 そして、彼女はもう一度繰り返した。それで全てが変わるかの如く。

「来て。霧島美幸」

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