5-6 ありもしない神様

 静寂は、異様だった。異常だった。

 物音どころか、身じろぎの衣擦れさえ、聞こえない。

 光が漏れ落ちた暗闇には、こんなにも多くの人影が浮かんでいるというのに。

 踏み出す一歩が床を打つ。ワークブーツの足音は殷々と、ホールにこだました。

「やあ」

 御琴を押し包むように、スピーカーが声を放つ。

「神宮司君だっけ。よく来たなぁ」

 アンプに増幅された強烈な爽やかさは、既に暴力の域まで達していた。

 彼から見えているのか分からないが、とにかく会釈をする。

「この前は、どうも」

 そして御琴は、光を見た。闇を圧する光明の海――ステージに立つ男を見据えた。

「ライブ中ですか」

 聞くことは、愚かしい。楽器も舞台も照明も、観客さえ揃ったライブハウスで、やるべきことはただ一つだった。

 返答は、さもおかしそうな含み笑い。

「……そう。そうだよ、ライブ中さ。盛り上がってたんだぜ」

 御琴の視界の中で、強い輝きに包まれていた彼の姿が、ようやく像を結ぶ。

「君が来るまでは」

 青年は――沖芳彦は、抑えられない興奮を滲ませて、笑っていた。

 本当に直前まで歌っていたのだろう。赤らんだ頬には玉の汗が浮かんでいた。

「すいません」

「ホントは謝る気ないだろ、君」

 今度は御琴が笑う番だった。

「謝罪する暇があるなら、挽回の方法を考えた方がいいでしょう」

 それは彼が長い間、叩き込まれてきた教えの一つだった。生まれ落ちてからずっと、そんなことばかりを身につけてきたような気がする。誰かと言葉を交わすよりも、ひたすら一意に専心する、そんなことを。

「ま、謝る必要も無いんだけどさ」

 右手でスタンドを掴み、空いていた左手をマイクに添えて、芳彦が囁く。

「許すつもり無いし」

 まるで凍りついたように――大気が重く軋るのを、御琴は感じた。

 何も変わっていない。芳彦の笑みが消えた訳でもない。むしろそれはより一層大きく、音の無い嗤笑ししょうのようにも思えた。

 数え切れないほどの視線が突き刺さるのを、肌で感じる。空虚で力の無い眼差しばかりとはいえ、やはり一糸乱れない規律がそこにはあった。まるで、たった一つの意志に従っているかの如く。

「なぁ。何しに来たんだよ」

 スピーカーが吐き出す音に、荒い息が混じっている。いつの間にか、芳彦の興奮は怒りへとすり変わっていた。湧き出づるような憤懣ふんまんの響き。

 対して御琴は、自分でも驚くほどに冷静だった。冷酷といってもいいのかもしれない。

「神様を、探しに」

 零した言葉は、どうにも冴えない妄言のようにしか聞こえなかったけれど。

「教会に行きなよ。でなきゃ、あの世か、病院だ」

 案の定、芳彦は苛立ちで答える。

「あなたは歌ってた。神はどこだ、って」

「だから? だから、神の居場所を知ってるとでも?」

 すぐには返さない。

 迷いが無かったかと問われれば、返事に窮しただろう。いくら推測にしても、乱暴過ぎる。仮に確信があったところでやはり御琴は沈黙しただろうから、大した差はないのかもしれないが。

 眼を細めて、逆光に陰る男を射る。

「……渋谷に神がいることを、教えてくれたのはあなただった」

 青年の眼差しが、表情を失っていく。それは、断じて平静を意味するものではなかった。端正な造作が、のたうつ激情に張り詰めているのが分かる。静けさは、嵐の前のそれに似ていた。

「あなた達と出会ってすぐに、『チーム』は手下を差し向けてきた。芦谷まで取り込んで。あの聖堂カテドラルのホールでも、かかっていたのはあなたの曲だった」

 証明が出来るわけではない。芳彦と『チーム』の関係について。だが、疑うには充分な要素だと思えた。まして彼は警察官でもなければ、ストリートギャングでもない。元より相手を断罪するつもりなど、無い。

「そもそもあの夜、霧島さんを襲ってきた奴らも、ライブに来ていた人間だった」

 それは、はっきりと思い出せる。美幸の言葉。殴りつけてくる男達の顔。あのライブ会場が、全ての始まりだった。

 芳彦と彼の間に、立ち塞がる人々――自らの意思を失った人形達の群れ。あの時、美幸が見たのもこんな光景だったのだろうか。

 御琴はさらに、歩を進める。

「答えろ。沖芳彦」

 誰も喋らない。誰も動かない。

 全てが沈黙する闇の中で、彼は問いかけた。

「――神様はどこにいる?」

 薄皮を剥ぐように。

 芳彦の相貌が歪んだ。弧を描く唇の震えが、白い肌の上を這っていく。痙攣する頬。見開かれた瞳。長い睫毛が、小刻みに揺れる。

「天国だよ。クソ野郎」

 突き刺すようにスピーカーが震え。

 御琴は何かに突き動かされるように、背後を振り返った。回転の勢いに合わせて、左の足を高く差し上げながら。

「――――」

 鉄板が仕込まれたワークブーツの踵が、そこにいた男の頭部を薙ぎ払う。くずおれる男の手から、金属バットが落ちた。

 鋼鉄とアスファルトが火花を散らし、乾いた音が鳴り響く。

 それが合図だった。

 落雷めいたドラムと機関銃のようなギターが、一瞬にして空気を塗り替える。

 観客達は一斉に身を震わせた――踊り狂うほどに激しく、さながら津波の如く。御琴の元へと押し寄せる。

 体表に電流が走ったような。首筋から足元まで、熱い感触が全身を貫いた。それでいて冷え凍えるようなその心地は、まさに恐怖そのものだった。いつかの光景が脳裏に蘇る。闇に灯る街頭。歩み寄ってくる男達。突き込まれる拳。繰り出される蹴り。終わりの無い暴力。そして、少女が上げる虚しい悲鳴。

(もう出来ないって思ってたのに)

 夢を見ている暇は無かった。無数の拳と鉄パイプは、つま先と肘の全ては、今現実のものとなって、彼に襲いかかってくる。十では利かない凶器の雨。

 だが、雨滴ほどに速くはなく、また多くもない。

 御琴は一筋だけ、肺から呼気を吐き出す。

(でも、そういうものか)

 思ったよりも、身体は軽かった。

 顔を狙った一撃は、首を傾げてかわす。肩から崩れるように上体を捻り、腹を襲うニ発の蹴りをそれぞれやり過ごす。さらに体勢を落として、押さえこもうとする腕の下をくぐると、御琴は静かに加速した。風を切る必要はない。床を蹴る必要もない。無駄な力は全て捨て、ただ身体を流れに委ねて行く。

 振り下ろされる木刀は身を引いて避ける。薙ぎ払う鉄パイプの軌道に掌を添わせ、軽く受け流してやる。立ちはだかる二人の間をすり抜けて、ナイフを突き出す手は掴んで引き倒す。攻め寄せる全てはまるで突風だった。叩きつけるのが雨ならば、それは嵐に違いない。そして御琴は木の葉のように、颶風の狭間をすり抜けていく。

 人形達の連携は完璧だった。その呼吸の一致は、訓練された軍人にも真似できるものではない。一人を倒せばもう一人に組み付かれ、一人をかわせば誰かに背後を取られ、後ろに逃げれば押し止められ、行き着く先は容赦無い暴力の檻。人形達は、既に人間離れした一つの群体と化していた。

(つまりそれが、神の力)

 今や、その事実に疑う余地はなかった。

(神は実在する)

 気付けばそこに、ステージがあった。

 膝から腰のばねを使って、大きく跳ぶ。突進してくる男の背中を足蹴に、もう一度。

 溢れる光の中へ、御琴はしなやかに舞い降りた。

 ステージの上には、身を切るほどに音楽が溢れていた。マイクもアンプもスピーカーさえも通さない、原始の振動。吹き荒ぶ楽の音と歌声が、彼の身体を圧する。

 飛び掛ってくる女をかわし、殴りかかってくる男を避けて、御琴は進んだ。

 マイクを抱きしめ、絶唱する男。

 ――神はどこだ。

 御琴は、歌う男の間合いへと、踏み込んでいく。

(神は、ここにいる)

 マイクスタンドが、武器に変わった。

 寸前でかわした御琴の視界に、三方に伸びるスタンドの足が霞んで映る。

 芳彦は歌うことをやめない。振り上げた鉄の棍が翻ったかと思えば、一瞬で打ち下ろされる。

 飛び退る御琴の胸へ、更なる突貫。もう後ろへはかわせない。

(いや)

 かわす必要はない。

 スタンドを支える鉄製の足のうち一つを、片手で掴みとる。御琴は渾身の力で、芳彦ごとそれを引き寄せた。叩き付けるように背後へ放り捨てながら、強く床を踏みしめる。

 全体重を乗せた掌底が、マイクスタンドに引きずられる芳彦の鳩尾に吸い込まれた。

 胸骨が折れる、鈍い感触。

 軽くはない男の身体が、宙を舞う。

 ドラムセットを薙ぎ倒し、派手な音を立てながら床を跳ねる。ステージ奥の壁面に激突して、彼はようやくその勢いを失った。

 ――再びの、静寂。

 全てが息を潜めたように。あるいは、信徒が導き手を失ったように。空間に満ちていた挙動が、一瞬にして凍りついた。

 掌に、嫌な感覚がある。骨を砕き、内臓を抉った時に残る、痺れに似た手応え。

 かつて彼が、慣れ親しんでいたはずの何か。

 微動だにしない芳彦の姿を見やり、熱を持ち始めた右の眼帯に手を当てる――

「――あっはははははははは!」

 視界が揺れた。眼球の芯がぶれて、映る像がぼやける。

 前のめりに倒れそうになるが、絡み付いてくる太い腕がそれを許さない。強引に引き上げられたときには、頚椎が軋むほどしっかりと羽交い締めにされていた。

「はっずれー」

 言いながら、芳彦はゆらりと立ち上がる。

「言っただろ! 神様なんかいないんだよ。少なくとも、この世には!」

 気安い様子で彼が唾を吐いた。音がするほど、血が跳ねる。

 その様が、俄には信じられない。交差法で鳩尾に一撃を受けて、こんなにもすぐ動けるはずがない。少なくとも胸骨に加えて、肋骨が四本近くは折れているのだ。吐いた血の量を見れば、同時にいくつか内蔵も損傷していることは間違いない。

「つまり、テメェは馬鹿だ! クズだ! 最低だ! ありもしない神様を探し回って、何の関係もないライブハウスで暴れるサイコ野郎だ!」

 にやりと笑って、芳彦は大きくへこんだ自身の胸を触る。

「あーあー、ひでぇよこれ? ど真ん中ベッコリいってるもん、悲っ惨! どうやってやんのこれ? すげぇよ、バケモノかよ!」

 子供のようにはしゃいで見せる。気の狂った子供のように。

 こんな時でさえ、彼の造作は流麗だった。

「……どっちが」

 化け物だ、と言いかけて口をつぐむ。不意に冷水を浴びせられたような心地だった。今は無い眼球が、灼けるような痛みを訴える。

「あれヤバイな! さっきの、なんかすげぇ速いやつ。忍術? アレどうやってやんの?」

 御琴は答えなかった。芳彦も答えを求めてはいなかっただろう。

 首筋がひどく痛む。かなり強く殴られたらしい。正直なところ、羽交い締めにでもされていなければ、立っていられなかったかもしれない。

「んだよ、シカトかよ。ムカつくな。お前、ホントムカつくよ! マジでさあ」

 異様なほど朗々と言い放ち、彼は御琴の前に立った。

「言っとくけど、美幸ちゃんの時みたいな手加減は無しな? 全然無しな?」

 その顔に浮かんでいたはずの激情は、既に形を変えていた。はちきれんばかりに満ちた、得体の知れない気配――まるで殺意のような。

「楽には殺さないから。グッチャグチャだから。もうアッタマ来てんだよ、俺。超邪魔しやがってさあ」

 双眸には、爛々とした愉悦の色。

「奇遇だ」

 御琴はささやく。腹の底から、湧き上がる何かに代えて。

「僕も、同じことを考えてた」

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