5-5 彼女は祈っていた

 壇上に立つ壮年の男に、美幸は見覚えがあった。直接面識があるわけではない。記者会見か何かの映像で、見かけたことがあるというだけだった。

「――我々警察官は、お詫びをしなければなりません」

 いかにも峻厳しゅんげん、という顔付きの男性。余りにも長い間、絶え間ない問題を抱えてきたせいで、眉根に皺が刻み込まれてしまっているかのような。白髪の混じる髪は見事に撫でつけられ、きっちりと剃刀が当てられているのであろう顎の線にも隙はなかった。単なる警察官僚というには、どうにも雰囲気が鋭すぎる。実際に目の当たりにすると、そんな印象はますます強さを増した。

「二年前の今日。この場所で、余りにも多くの命が失われました」

 低く打ち付けるような声が、会場に響く。それが謝罪であったにも関わらず。空気が固く押し詰められていくのを、美幸は感じた。

「あの炎を。あの事件を未然に防げなかったこと。そして未だに、主犯であるテロリストを逮捕出来ずにいること」

 男――警視総監がその長身を折る。腰から上を、ぴたりと七十五度まで。

「まことに、申し訳ございません」

 ざわめきさえ起こならなかった。

 彼がその頭を持ち上げるまで、慰霊祭の会場は水を打ったように静かだった。

「……テロリスト達は、狡猾で、そして巧妙です」

 ようやく、美幸は気を取り直す。警視総監の演説を聞きに来たわけではない。

 見つけなければならない。この会場のどこかにいるはずの、都築薫を。

「彼らは、まるで隣人のような顔をして、皆様の影に潜んでいる」

 既に、催しが始まってから一時間近くが経過していた。席順さえ案内誘導係に管理された客席で、特定個人を探すのは至難の業だった。手洗いを済ませるという名目での離席も、何度か行ってしまっている。彼女に対する警備係の注目も集まっているだろう。

「我々では、手に負えないことがある。それを皆様に知っていただきたい――我々警察は、無辜むこの方々にあらぬ疑いをかけることは出来ない。冤罪など、決してあってはならないのですから」

 手詰まりが近いことを、美幸は感じていた。列席している市民の数は膨大だった。そもそも薫は本当にここに来ているのだろうか。

 考えても仕方がない。不審の目を集めない程度に、周囲の様子を伺う。

 もう誰かを巻き込んではならない。ここにいる人々も、たくさんの警官も、誰も彼も――神宮司御琴でさえも。だから彼女は、警察よりも早く、薫を見つけなければならない。例え、たった一人になったとしても。

「だからこそ。我々は、恥を偲んで、お願いをしたい」

 淀みの無い言葉は、磐石ばんじゃくの強さを持っていた。会場は元より、生中継を通してさえ、それは視聴者に伝わるだろう。

「皆様の力が必要なのです。街を燃やし、かけがえのない命を奪ったテロリスト達に、然るべき法の裁きを与える為に――どうか。皆様の“眼”を! “耳”を! 我々に貸していただきたい!」

 強い断定は、嫌でも衆目を集める。

 美幸ですら、ほんの僅か、男に注意を奪われた――

「くっだらない」

 その時だった。

「そんな話うんざりだよ、おっさん」

 聞き覚えのある、声がした。

 咄嗟に振り向く。

「アンタ達に、何が出来るんだよ」

 口の端が震えているように見えた。微かに聞こえるのは、強張った表情筋のせいで歯の根が噛みあっていない音だろう。頬が熱病に冒されているかのように赤い。いつもは光を帯びて明るいはずのアーモンドアイズが、濡れたように暗く潤んでいる。

 美幸がずっと探していた少女は、美幸の知らない表情でそこに立っていた。

「アンタ達が何してくれたんだよ、あたし達に――ッ!」

 紛れもない、心底からの怒気を孕ませて、彼女が叫ぶ。

 この広く、しかし人に溢れる荒野で、どこまで届いたかは分からないが。会場にあった全ての視線は、恐らく少女へ――都築薫へと集束していった。

 二週間程度で、何かが変わっているわけでもない。髪の長さも、背格好も。何もかもが、美幸の記憶と同じだった。

 表情だけが。言葉だけが。美幸の知らない、彼女だった。

 見覚えのあるオリーヴ色のモッズコートが、風を受けてはためく。

「アンタ達のせいだろ」

 搾り出すように。一瞬の沈黙は容易く破られる。

「アンタ達のせいで、全部燃えちゃった! 警官が、大人達が、何もしないで、馬鹿みたいに、あの火を眺めてたから!」

 激情は濁流に似ていた。まくくし立てる言葉は止め処ない。

「どうして! なんでよ! 返してよっ! みんな返してよっ! 父さんも、裕太も、全部――アタシ達の未来を返してよ!」

 誰も口を挟めない。挟むつもりはなかったのかもしれない。

「出来ないんでしょ! どうせ、アンタ達なんか、何も出来ないんだ」

 それはきっと、誰もがどこかで思っていたことだったから。

「だったらせめて――返してよ。みんなの分は」

 最後まで、声は続かなかった。

 それでも泣き崩れることなく、薫は立っている。

 吹き始めた春の突風に煽られても、なお。

 美しいと、美幸は思った。それが酷く場違いな感想であることに、気付いていたけれど。揺らぐことのないその姿を、半ば本気で神々しいと思った。

「……薫」

 呼び掛ける。

 彼女がこちらに気付くのと、集まってくる警官達の影を察したのは、ほとんど同じタイミングだった。

「――来ないでっ!」

 誰に向けて発したかも分からない叫びは、やはり誰にも届かない。

 警官の足は速かった。並び尽きない席の間を縫って、迅速に薫を取り囲んでいく。

 薫は椅子の下からダッフルバッグを引き出すと、胸元に強く抱き寄せた。

「近寄らないで! 近づいたら、爆発するよっ!」

 叫びは必死だったが、それは美幸にも信じられないことだった。あれだけ厳重なボディチェックをかいくぐって、祭場に爆発物など持ち込めるはずが無い。実際、薫が鞄を取り回す様にも、爆弾の重みなどとても見出せなかった。

「薫、やめて! 無理だよ!」

「うるさい! 黙っててっ!」

 幾重にも並んだ客席を挟んで、怒声を交わし合う。

 薫は一層強くバッグを抱きしめた。

「本当だよ! ホントに――本当に、爆発するから!」

 集まってきた七名余りの警察官達は、既に包囲を終えている。あとは、捕縛する隙を伺っているに過ぎない。彼女が捕まるのは、もう時間の問題だった。

 薫は彼ら全員――否、会場全てを睨みつけて、それから壇上に視線を投げる。警視総監は逃げ出すことなくそこに立っていた。何も言わず、目を逸らそうともしていない。

「アンタ達が……アタシ達の希望を奪ったんだ」

 業を煮やした警官の二人が、呼吸を合わせて彼女に襲いかかる。

 刹那。

 轟音が、大地を揺らした。

「――――っ!」

 叩きつけるような風圧に平衡感覚を奪われ、尻餅をつく。

 美幸は、咄嗟にパイプ椅子にしがみついた。軽く浮かびあがるそれを押さえつけ、閉じていた瞼を固くする。砂埃というにはいささか大きい何かが、頭上から降り注いだ。

 突風はすぐに止み、ざわめきが聞こえてくる。半分以上は悲鳴に近い声だった。

 顔をあげる。

「……そんな」

 そこに、クレーターが出来上がっていた。

 剥き出しの大地が深く抉れ、赤く染まっている。それは一つの命が爆ぜた証拠だった。衝撃波の跡をなぞるように、人も椅子も渾然となって薙ぎ倒されている。

 辺りを覆うのは、悲鳴と怒号、怨嗟と哀願だった。意識を失っている者はまだいい。爆風に焼かれた顔、衝撃に耐えきれなかった腕、飛来した椅子にへし折られた脚。痛苦に叫ぶ人々の、声。

 目元に触れた手が、ぬめりを感じる。指が、血の色を帯びていた。

 嫌な予感から逃げるように、視線を逸らす。

 薫はもう立ち上がっていた。顔を血に染めながら、爆炎の痕跡を見ている――

 そして気付く。爆発したのは、警察官だ。

 七人のうち、薫から距離を置いていた五人。全員が、という訳ではないのだろうが。クレーターの中に、制服に包まれた脚が転がっていた。

 混沌が広がるのは、爆発よりもさらに一瞬のことだった。

 右も左も、正も邪も見失い、全ての人々が右往左往する。美幸は狂乱する人々の中で、静かに立ち上がるいくつもの影を見つけた。

 全員が、同じようにゆっくりと壇上を仰ぐ。そこには、未だ警視総監をはじめとする賓客が居並んでいた。

「――ダメっ!」

 椅子を頼りに、何とか立ち上がる。

「やめて! もう、やめてぇっ!」

 叫んでも、泣いても、何が変わるわけでもない。

 走り出した薫の背中は遠ざかる。震える膝では追い縋るくこともままならない。そんなことは分かっている。彼らは人々の流れと逆行するように、一心に舞台を目指していく。一人の男を殺し、もっと多くの命を奪い、この崩壊しつつある社会を徹底的に粉砕しようとしている。

 彼女に何が出来る。どうしようもない。どうすればいい。分かっていたはずなのに。

(神様――)

 神はいない。分かっている。それでも人は祈るのだと、美幸は知っていた。

 眼前で、父が、母や弟が焼けていったあの時も、彼女は祈っていた。自分には何も出来ないと分かっていたから。

 だからこそ。

「――走れ」

 風が一陣、吹き抜けた。

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