5-3 嘘など全て見透かして

 大気が震えた。

 それはほんの少し、僅かな変化に過ぎなかった。だが御琴には、はっきりと感じ取ることが出来た。傷のせいで神経が過敏になっているのかもしれない。そう思いながらも、窓の外に目を向ける。

「どうしたの?」

 響子はベッドの傍らで、林檎を分解していた。包丁の入れ方から察するに、皮を剥こうとしているのだろうが。申し訳程度の皮と共に、大量の果肉が皿に投げ出されるその様は、どちらかと言えば鮪の解体に似ている。

「いえ」

 呟く。窓の外には、相変わらずの春が広がっていた。病院の敷地の端には、青々とした風除けの並木が敷かれている。その隙間に、道路を行き交う車両が影を覗かせた。

「晴れてよかったね。今日」

 手を休めないまま、響子が言う。

「そうですね」

 御琴は答えたが、眼は離さなかった。留まることのない車の流れに、白と黒の警察車両が混じっている。警告灯こそ点滅させていないものの、かなり数が多い。

「……そろそろ始まるね」

 彼女は包丁を置き、リモコンを取った。部屋の隅に置かれたテレビに電源が入る。

 小振りな液晶画面に映し出されたのは、廃墟に埋もれる荒野だった。焼け落ちたビルの間を縫って、影が一筋伸びている。望遠レンズによって拡大されていくにつれて、長い影と化していた人々の輪郭が明らかになっていく。

『こちら東京、増上寺跡には、参列者が、長い、長い長い列を作っています』

 老若男女の区別なく、誰もが黒に身を包んでいた。ひたすらに足元を注視しながら歩き続けるその様さえ、皆同じに見える。

『数え切れないほど多くの犠牲者を出したあの惨劇。二年がたった今、残された人々は、一体どんな思いで、その惨劇の痕を訪れるのでしょう』

 重々しさを装った女性レポーターの声が、なんとも耳に障った。列となった人々の気持ちなど、余人に分かろうはずもない。ただ悲しんでいるというには、彼らが形作る影絵はあまりに暗く、長過ぎた。まるで、終わりなどどこにもないかのように。

 ――それとも単に、自分が理解したくないだけなのだろうか。おおよそ全ての人間にとってみれば、居並ぶ人々の胸中を察することなど容易いのかもしれない。彼だけがひたすら逃げ続けているのか。それを受け止めることから。

 涙ぐむ響子を横目に、御琴は自分の表情が凍り付いていることに気付いていた。

「先生」

 彼女が振り向く。

「先生はどうして、林檎の皮を剥き続けるんですか」

 皿の上には、皮というよりむしろ果肉そのものが小山を成していた。山の下にある欠片は、既に変色を始めている。

「どうしてって」

「どうしてですか?」

 響子は手を止めた。目を閉じて、小さな唸り声を上げる。

「……神宮司君に食べて欲しいから。林檎」

 御琴はすぐさま切り返した。

「ちゃんと切れてないじゃないですか」

「じ、神宮司君だって、出来ないくせに」

 元はと言えば、見舞いに貰ったものの扱いに困っていた彼を見て、響子が申し出たことだった。結果は見ての通りで、御琴は未だにまともな形の林檎を見ていないのだが。

「一度しくじったら、元には戻らないんですよ」

 言ってみて、自分でも馬鹿馬鹿しい指摘をしていると思う。この世に再びやり直せるようなものが、どれだけあるというのか。

「それは、そうだけど」

 響子が言い淀む。言葉を探しているのか。

 行列を映していたテレビカメラは、いつの間にか東京タワーの残骸へと目線を変えていた。爆発的な熱量で溶断された鋼鉄の集合体は、やはり今もねじれたまま、大地に横たわっている。象徴的な赤い塗装は見窄らしく破片を残すのみで、その全容はもう錆びた鉄細工でしかなかった。

 その向こう――ビルの残骸をも越えた高層建築の隙間に、炎が揺れる。

 御琴はそれに気付いた。

 そして理解した。直感というより、憶測に近い。だが、見間違えるはずもない。

 『チーム』の活動はまだ終わっていないのだ。東京に広がった炎は、今もまだくすぶり続けている。

「――でも、やっぱり食べて欲しいし。た、食べられないこと、ないでしょ?」

 眼前に、黄色い果肉が差し出される。長すぎる皮が、ぶらぶらと張り付いていた。

「はい。召し上がれ」

 響子が微笑む。

 どうすればこんな笑顔が作れるのだろう――それが一番の自信作だからかもしれない。うさぎにしようとした努力の痕跡は、そこかしこに見受けることができたけれど。

 芳しい香りが鼻をくすぐる。果実のものなのか、それとも香水のそれなのか。

(でも、か)

 胸中で、彼は繰り返した。結局はその程度のことなのかもしれない。上手くは行かないかもしれない。それでも必要ならば、今出来ることを実行する。明確で簡単な動機。彼にはそれしかできないのだから。

 御琴は思い切って林檎の切れ端に食らいつくと、ほとんど噛まずに嚥下した。

「包丁、貸してください」

 響子の握っていた包丁を奪い、籠の中から手頃な実を掴んで刃を当てがう。

 何も難しいことはない。彼は軽く息を吐いて、肩の力を抜いた。

 ――無心に、果物を回転させる。

「……すごい」

 艶やかな真紅は連なりとなって、しとやかに渦を描いた。見る見るうちに、蜜色の正体がさらけ出されていく。

 適当なところで手を止めると、彼はそれを響子に差し出した。

「どうぞ」

「え、私はいいよ」

 頭を振って、反論を遮る。

「僕、果物って、苦手なんです」

 改めて彼女に林檎を押し付け、ついでに布団を除ける。ベッドから滑り降り、スリッパに足を突っ込むと、御琴は確かめるように左脚へ力を込めた。

 筋繊維の中に直接針を入れ込んだような、得も言われぬ感覚が炸裂する。だが、立ち上がれないほどではない。丹田の辺りに意識を集中させ、刺激を無視するように努める。

「ちょっと、飲み物買ってきます」

 それだけを告げて、御琴はベッドを後にした。

「えっ、歩けるの? 痛くない?」

 すぐに響子が寄り添ってくる。肩を貸そうとする彼女に、彼は頷いて返した。

「リハビリみたいなものですから」

 しかし、気遣わしげな表情は変わらなかった。

 その唇が、ほんの僅かに震える。音にならない吐息が漏れて。響子が呟いたのは、ただ一言だった。

「……早く、戻ってきてね」

 その時ふと、彼女は御琴の嘘など全て見透かしているのかもしれないと、そんな思いが頭を過ぎった。もしそうだとしたら、もっとまともなやり方があったのかもしれない。

「はい」

 だからといって、今更彼に何かが言えるわけでもなかったが。

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