4-3 命は何にも変えられない
余りにも美しい――ただ綺麗というには険しすぎる雰囲気の女性が、そこにいた。
まさかこのタイミングで誰かと鉢合わせるとは。もうすぐ御琴の病室だというのに。
その眼差しが、じっくりと美幸を観察しているのが分かる。ガーゼまみれの顔、入院着に包まれた貧相な身体、合皮製のスリッパ。どこから見ても、病室を抜け出した入院患者そのものだった。
看護婦を呼ばれてしまうかもしれない。美幸は弁明しようと口を開く。
「霧島美幸さん、でしょ」
女が断定するのは、それよりも早かった。むしろ早過ぎた。名乗ってもいないのに。
「なんで、私のこと」
「あたしは竹内真由理。警視庁の人間よ」
言いながら、彼女が警察手帳をかざす。その凛とした仕草は、ドラマの女刑事そのものだった。
真由理は、出てきたばかりの病室――御琴がいるであろう病室を振り返って、再びこちらに視線を置く。今回の惨事について調べているのか。何十という若者が斬殺され、生き残ったのは数人の高校生だけ、という事態は、控え目に言って大事件だろう。
美幸にしてみれば、理由も原因も、何から何まで訳の分からない殺人ではあったが、人々は当然の如く因果を結び、結論を付けたがるだろう。それが、社会という概念を支える一つの手法なのだ。悲劇には必ず根源があり、排せば万事がうまく転がっていく。日々の平穏は保証され、誰もがほっと胸を撫で下ろして眠りにつく。そんな秩序の帳尻合わせのために、真由理のような人間が夜を徹して走り回る。
どんな質問を受けるのだろうと、考える。それ以上に、どう答えるべきかを考える――例えば、風が吹く度、誰かの首が空を飛んでいったと話した所で、それで美幸の錯乱ぶり以外の何を信用してくれるだろう。
「……あなた、御琴と付き合ってるの?」
予想外にも程があった。
酸素を求める金魚のように口を何度か開けて――なんと間抜けな表情だろう――、なんというべきか分からないまま、とにかく美幸は首を振った。
その様をどう見て取ったのだろう。真由理は何故か笑みを浮かべている。
「一つ忠告しておくけど」
さっきまでの刺すような空気が嘘のように、悪戯めいた笑い方だった。
「馬鹿に振り回されるのは、程々にね」
「そっ、そんなこと、無いですけど」
自分でも何を否定しているのか分からない。何を言おうとしていたのか、すっかり忘れてしまった。
美幸が慌てる内に、彼女はいつの間にか笑みを消している。残ったのは、警察官にふさわしい落ち着いた表情だった。
「もう一つ忠告するわ。危険なことに首を突っ込むのはやめなさい」
はっとする。
「命は何にも代えられない。分かるでしょう」
知っている。彼女はそれを学んでいた。燃え落ちる世界の中で、心に刻んでいた。
だからこそ。
真由理は厳しささえ漂わせて、美幸を見つめている。
「また明日、話を聞かせて。都築薫さんのことも含めて」
美幸は黙って、頭を下げることしか出来なかった。
彼女をかわして、御琴の病室へ――まるで逃げているようだと、自分でも思った。
あやふやな視界を頼りに、なんとなく見当をつけて銀色のハンドルに手をかける。予想よりもかなり軽い手応えがして、ドアは開いた。
部屋の印象は、美幸がいた病室とほとんど変わらなかった。恐らく普段は六名ほどが入る病室だが、ベッドが一つしか無いせいでかなり広く感じる。壁は白く、床はリノリウムのクリーム色。カーテンが月明かりを受けて、ぼんやりと闇に浮かび上がっている。
向かって右手。山のような機器と、蜘蛛の巣状になった管の中心に、御琴がいた。
元より白い顔は、月の光を浴びて尚更青ざめている。頬のガーゼこそ無くなったものの、真新しい眼帯がより一層痛々しかった。無事な左眼だけで、美幸を見ている。
「霧島さん」
その声がどこか弱々しく聞こえたのは、彼女の気のせいだったのだろうか。だとすれば、その瞳が少し湿っているように見えたことも、また。
「起きてたんですね」
「夜は、眠れないから」
彼がかつて同じことを呟いたのが、随分と昔のことのように思えた。
「霧島さんは、平気なんですか」
美幸は頭を振る。
「なんだか目が冴えちゃって。普段と違う枕だからかもしれないです」
一度目が覚めてしまうと、かえって眠れなくなるのは――やはり闇夜が怖いからなのだろう。
彼女は、ベッドの傍らにあるパイプ椅子に腰掛けた。スチールの軋みが妙にうるさい。
「三つ編み、してないんですね」
御琴に指摘されて、頬にかかる自分の髪を意識する。病院で目を覚ましたときには、既にこの有様だった。常に編みあげているせいか、パーマをかけたように毛がうねり、無造作に散らかっている。
「へ、変ですか?」
「いや。なんか、見慣れない感じだなって」
否定とも肯定ともつかない答えだった。
いつの間に、彼は美幸に見慣れていたのか。そんな些細なことが、少し照れくさい。
「……多分、病院の方が、頭を洗ってくださったんだと思います」
言いながら、それが核心に触れることには気付いていた。だが、そのまま談笑できるほど、美幸は無頓着ではいられなかった。
「私、すごいことになってましたよね」
また血液の臭いが蘇ってきたような気がして、胃の辺りにむかつきを覚える。鮮血は雨のように降り注ぎ、彼女の全身を真っ赤に染め上げた。簡単には生臭さがとれないのも、当然といえば当然かも知れない。
御琴が不意に目を細めた。そうすると、元より険しい眼差しが、射るように鋭さを帯びる。痛みをこらえているのか。
「あっ、傷、痛みますか?」
「……いえ。大丈夫です」
問題がない訳はなかった。
「麻酔とかは、もう」
御琴が頷く。俄には信じ難いことだったが。
「体質なんです。麻酔とかは、ほとんど効かないから」
その顔の青白さは、
「……廊下で、刑事とすれ違いました?」
彼の左眼が、ちらりと部屋の外を示す。
「はい」
「何を訊かれました?」
問いに、美幸は少し考えて――頬が熱くなるのを感じた。
「えっ、べ、別に……特には、何も! また明日、訊きに来るって、それだけで」
怪訝そうな御琴の視線を避けるようにしながら、言葉を切り返す。
「それより、あの人、竹内さん、神宮司君の知り合いなんですか?」
「……まあ、一応」
苦虫を噛み潰したような返答。彼がそんな感情を露にしたのを、美幸は見たことがなかった。嫌悪とも、親愛ともつかないような。
「……二年前まで、僕、バイトをしてたんです。警視庁で」
それは聞き逃してはいけない呟きのように、彼女には思えた。少し、自分の鼓動が高鳴ったことに気付く。
「アルバイト、ですか」
「はい。その時に」
彼は言って、窓に顔を逸らせた。白いカーテンは変わらずに、夜の明かりを受けてふわふわ宙を泳いでいる。布が窓枠を撫でるささやかな音が、美幸の耳にも届いた。
全てが語られたわけではないと、気付いている。
それは下手な嘘だった。だが、それ以上問いかけることも、彼女には出来なかった。
黙したまま月光の軌跡を見つめる御琴の横顔は、やはり冷たい。何故かふと、今すぐ彼が泣き出すのではないかと、予感する。それは単なる空想にすぎなかった――仮にそうなったとして、美幸に何が出来るだろう。
結局のところ、彼女が口に出せるのは、自身の気持ちでしかない。
「……ごめんなさい」
御琴がふと我に返ったように、美幸に眼を戻す。
「本当に、ごめんなさい」
一度頭を垂れてしまえば、あとはもう、続けるしかなかった。
「その怪我も、右目も、芦谷君も相田さんも、みんな私のせいで、私が巻き込んだからこんなことになって」
言葉にすればするほど、どこかから感情の波が押し寄せてくる。
「ごめんなさい。私が何も考えないで、ただ自分勝手に、薫が薫がって、自分が気になるからって――こんな、危ないことになるって、あの時相田さんに言われて、自分でも分かってたはずなのに、意地になって薫のこと追いかけて、それで神宮司君まで巻き込んだのに」
息が続かなかった。脈の鼓動が、耳の後ろから伝わってくる。
「結局、薫には会えなくて――」
そればかりか。
多くの人が、死んでしまった。
瞼の裏にこびりついて離れない。闇を切り裂く閃光と、降り
震えが止まらなかった。吐き出す空気と吸い込む空気が身体の中でぶつかり合って、呼吸が上手くいかない。
「……ごめんなさい。神宮司君」
訪れた沈黙は重い。
美幸は顔を上げられないまま、彼の言葉を待つしかなかった。
「元々、義眼なんです」
何の話なのか、即座には
「僕の右目」
はっと首を持ち上げる。御琴は指先で、自身の眼帯を無造作に叩いていた。
「二年前、怪我をして」
信じ難い話だった。白い頬には、傷跡などまるで見受けられない。日に焼けたことさえないのではないかと思う。おそらくはそれも、美幸の思い込みなのだろうが。
何と言うべきか、迷って――美幸はやはり、訊ねてしまった。
「神宮司君は。あの日……“炎の日”、どこにいたんですか?」
港区大規模爆破テロ。史上最悪の人災。真夜中、突如として発生した爆発は断続的に市街を焼き払い、東京タワーを中心に、半径約二キロメートルが一瞬にして火の海と化した。伴う火災によって、犠牲者は十数万人にも達したらしい。対処不能となった事態を収束させたのは、皮肉にもさらに巨大な爆発だった。熱と衝撃波を伴う奇妙な発光現象――果たしてそれが炎と呼べたのかは分からない――によって、さらに万単位で人々に被害がでたものの、街並みを覆っていた炎は鎮火。更なる延焼は防がれ、東京はかろうじて首都機能を失わずに済んだ。
御琴が巻き込まれていないと考える方が不自然だった。大なり小なり、この街に――この国に生きる人間のほとんどが、何かしらの形で被害を受けていたのだから。
「……僕は、増上寺にいました」
爆心地だった。
東京タワーと増上寺では、百メートルも離れていない。当時の公式発表では、爆発は二つの建物を軽く巻き込む規模だったはずである。
「それは、もしかして、そのアルバイトの最中に?」
御琴が首肯する。でなければ、当時中学生の少年が、深夜にそんな場所にはいなかっただろう。
生き残ったことでさえ、奇跡だった。例え片目を失ったとしても。考えようによっては、それすら幸運の一種かもしれない。巨塔が姿を変えてしまう焦熱の中で、眼球しか失わなかったのだから。
「沢山の人が死んでいて。でも僕は、生きていたから」
彼が見せたのは、奇妙な表情だった。口の端を微かに釣り上げ、ゆっくりと目を細め。
「慣れてるんです。だから、気にしないで。霧島さんが悪いわけじゃないから」
それは笑顔としか、呼べなかった。初めて目の当たりにした美幸には、そうとしか思えなかった。
思わず目を逸らす。
耐えられない。もしもこれが、彼の優しさなのだとしたら。
「私、もう、止めます」
「え?」
美幸は彼を無視して続けた。言い聞かせているのかもしれない――一体誰に。
「嫌だったんです。周りの誰かが、いなくなるのが。でも、これじゃ、意味が無いから」
御琴の腕から、細い管が伸びていた。ケーブルの先の機械は、彼女には分からない無数の表示を点滅させている。それはどうやら、健康状態の不安を示しているようだった。
「私には、どうしようもなかったんですよね」
呟いて、椅子から腰を上げる。
滑稽なほどに呆然としている御琴に、彼女は一礼した。
「ありがとう、ございました」
そうして身を翻す。
彼が何か、口にするより早く。
(ああ――)
――まさに逃げているのではないかと、美幸は内心で自嘲した。
白々しい嘘。本心でないとは言わない。けれど。
幼かった弟の面影が、御琴の惚けたような表情に重なった気がして。彼女は眼鏡の無い
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