4-2 まだ、死にたくない

 目の前に、ぽっかりと穴が空いていた。

 限りない虚空だった――少なくとも彼にはそう思えた。地上のいかなる闇よりも重く淀んだ暗がり。もしかするとそれは、彼岸へと続く道筋なのかもしれない。生と死がたもとを分かった比良坂には、きっと灯りなど無いのだろうと彼は思っていた。もし光までもがそこにあったのなら、現世に生きていることにどんな意味があるのだろう。ひたすらにしがみつく必要など、どこにあるのだろう。

「動くな」

 聞き覚えのある台詞だった。その高飛車な声音にも。

 黄泉路から引き戻されたばかりのように、御琴は漠然と眼前の空洞――黒光りする銃口から焦点を外した。

 どうやらそこは病院の一室のようだった。既に灯りは無く、闇が部屋を満たしている。それでも、カーテン越しに差し込む月明かりだけで、彼にはほとんど全てが見て取れた。天井も壁も当然のように白く、染み付いた消毒液の不快な匂いが鼻を突く。個室なのだろう。殺風景な空間には、彼の他にただ一人、拳銃を手にした女の姿しかなかった。

「指一本でも動かしたら、ケツの穴を五六個増やすわよ」

 額に尻の穴を開けたところで、漏れてくるのは別のものに違いない。考えようによっては、大差無いのかもしれないが。

「喋るのは?」

 念の為に、訊いてみる。

 銃を片手で構えたまま、彼女は口を開いた――銃口はまったく揺れない。

「くだらない再会の挨拶以外なら、許してあげてもいいわ」

 それこそ気の利いた冗談のつもりなのだろうか。

 女の容貌は、最後にあったその時から、ほとんど変わっていなかった。少し化粧が濃くなったかもしれない。それでも二年という月日は、彼女にさして影響を与えなかったのだろう。明るい栗色の髪をぞんざいに纏めあげ、大振りの瞳で彼を睨みつけている。

 黙っていても眼を離すことの出来ない美女だということは、御琴にさえ分かっていたし、何より本人が最もそのことを理解していた。その上で、それは自身にとってあまり意味が無いことだと判断しているようだったが。

「他に話すことなんて無いよ」

 言った瞬間に、銃口が額を直撃した。

「黙秘は許さない」

 打撃そのものよりも、伝わった振動が全身の傷口をさいなんだ。一瞬呼吸が止まる。

 無理やり息を吐き、御琴はなんとか酸素を取り戻した。

 形式ばった仕草で、女が漆黒のジャケットの内側から警察手帳を取り出す。そこには警官の制服を身につけた女の写真と、その本名――竹内真由理という名前が記されていた。警視庁警備部特殊事案課課長、なる肩書きを添えて。

「話を聞かせてもらうわ。有事特別措置法第十二条――面倒臭いし省略するけど、この会話は記録に残らないし、何かあったら死んでも文句は言わせないから、そのつもりで」

 事情聴取における警察官の義務――というか特殊事案課員の義務を、余りにも適当に流して、真由理は続けた。

「何故あの場所にいたの」

 あの場所に――まだどこか靄の掛かったままの意識を、無理矢理回転させる。

「あの場所って」

「渋谷区にある飲食店、聖堂カテドラルよ。正確にはその地下ホール」

「悪いけど、少し記憶が曖昧なんだ」

 再び、鉄の一撃が顔面を打った。眼帯に覆われた右眼から、自然に涙が溢れる。

「思い出した?」

 これは事情聴取などではない。

 御琴は知っていた。有事特別措置法の宣言が行われた時点で、既に質問は命令と同義であり、聴取は限りなく尋問――否、拷問に近い意味になる。

 二年前、『港区大規模爆破テロ事件』――あるいは“炎の日”、“燃え盛る金曜日”――以来、次々と成立したテロ対策法の中でも、後に稀代の悪法と呼ばれるであろう法律が、有事特別措置法だった。それは、テロ行為に関連し得る事案の捜査に携わる者に対して、無限に近い権限を与える。明らかに違憲の疑いがあるその法案の成立に、異を唱える者はこの国には僅かもいなかった。当時も今も、変わらずに。

「……僕達は、僕と霧島美幸さんは、人を探していた」

 ようようと話を始める。

 それ以外に、この拷問をくぐり抜ける方法が見つからなかった。

「同じ学校のクラスメイトだ。僕は相田千賀、霧島さんは都築薫。二人は、別のタイミングだったけど、同じ渋谷で行方を眩ませていた」

「それで」

「二人を探す僕達に、ある組織が接触を図ってきた。それは渋谷で『チーム』と呼ばれている連中のようだった。霧島さんは彼らから誘いを受けて、あの店に行ったらしい」

 御琴は手探りに近い感覚で、過去を手繰っていく。足りないピースを推測しながら。

「僕は、一員の女に襲われた。女が持っていた携帯電話から、あの店の場所を見つけ出して、向かった。そこには、霧島さんと相田千賀……それから、あいつ《・・・》がいた」

 真由理は静かだった。ほとんどは既に知っていたのかもしれない。特殊事案課は、疑いさえあればいくらでも調査を行うことが出来る。人権などものともせずに。

「それから――あとは、知ってるだろ」

 一瞬、千賀の安否について訊ねようとして、自分にはそんな権利が無いことに気付く。否。聞くのが怖かったのかもしれない。記憶が途切れる直前に弾けた光を思い出すと、視界が揺らいだ。

「『チーム』について、何か知っていることは?」

 その質問は、むしろ彼女の意図を明確にした。

 警察も『チーム』に目を付けている。

「奴らは神を信仰している。ほとんど宗教団体なんだろう。何の神かは知らないけど、よくいる類だ。意にそぐわないものは実力行使で処理する」

 言いながら、御琴も考えていた。

 警視庁――しかも特殊事案課が『チーム』をマークしているのは何故か。気にいらない人間に暴力を振るう少年の徒党なら、東京の繁華街にはいくらでもいる。それはもっぱら近隣の警察署の少年課が担当する問題だった。

「実力行使、というのは?」

 少年達がただ喧嘩をする、という程度のことならば。

「暴力。私刑。集団暴行。カッターナイフ」

 御琴は単語を並べていく。

「――爆発物」

 その時。

 真由理の目付きが鋭くなったことを、彼は見過ごさなかった。

「知っているのはそれぐらいだ。言っておくけど、見ての通り被害者だよ、僕は」

 蔑むように鼻を鳴らし、真由理は吐き捨てる。

「自業自得だわ。役立たず野郎」

 今更言われるまでもない。

 御琴は溜息にも似た、細い息を吐いた。単に背中の傷が痛むという理由だけではなく。

「もう一つ質問」

 いい加減拳銃を下ろしてもいいだろうに、真由理は律儀に腕を上げたままだった。

「先週の金曜、渋谷にいたわね」

「……うん」

「誰か殺した?」

 余りにも軽々とした問い掛けだった。まるで昨夜の夕食を訪ねるかのように。

 御琴は言葉を無くした。質問の意味も、返すべき答えもはっきりと分かっていたのに。

「……質問の意味が分からない」

 手にしたグロックを更に彼に押し当てながら、真由理が繰り返す。

「先週の金曜日、渋谷で、あんたは誰かを殺した?」

 強化プラスティック製の銃身は、予想ほどには冷たさを感じさせなかった。

「殺してない。僕は、誰も殺してない」

「本当に?」

「殺せるはずがない。そんなことをしても、死ぬのは僕だ。僕はまだ、死にたくない」

 口走っていた。自分でも分からないまま。

 荒くなった自分の鼓動に、逆に目を醒まされる様な心地さえする。

「……どうして、そんな事を訊くんだ」

 質問してから、また殴りつけられる事を覚悟するが。

 意外にも、真由理は静かに喋り始めた。

「渋谷で、あんた達みたいな学生二人組が、殺人現場から逃げるのを見かけたっていう話があるのよ」

「現場は、どこ」

「センター街から、道玄坂に出る道の一つ。ほぼ七人がミートソースになってたわ」

 場所と人数は合致していた。御琴と美幸が共に逃げ出した、あの夜の出来事と。

「もちろん報道規制は敷いてるけど。例のテロと比べても、刺激が強すぎるから」

 無言で後を追ってきた青年達の面影が、彼の脳裏を過ぎる。

 人形めいた無為の表情。しかしそれでも、彼らは人間だったはずだ――

「まるで人間・・がやったことじゃない《・・・・・・・・・・》みたいでしょ」

 いつの間にか、真由理の顔が目の前に迫っていた。こちらの眼を覗き込もうとするかの如く。

 即座に彼女を突き飛ばしたい衝動に駆られる――そんなことをすれば、間違いなく射殺されてしまうだろうが。

「僕には、関係のない話だ」

「……逃げてんじゃないわよ。ウジ虫野郎」

 半ば座り込んでいたベッドから身を引くと、拳銃を脇のホルスターに滑り込ませる。警察手帳を内ポケットにしまって、真由理はきびすを返した。

「ま、いいわ。あと何回かうちの人間が来ると思うけど、ちゃんと訊かれたことには正直に答えなさいよ」

 まるで子供に言い聞かせるかのような口振り。

 ――その背中に、御琴は声を投げる。

真由姉まゆねえ

 悲しくなるほど懐かしい、その呼び方。

 彼女の足取りが止まった。

「あいつ《・・・》は、元気?」

 けれど、振り返る素振りは無い。

「黙って」

 言葉だけを置き去りにして。

「あんたに、あの子の心配されたくないから」

 真由理は去っていった。

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