第四章 例えどんなに遠くても
4-1 言わなければならないこと
長方形に切り取られた空に、満月が浮かんでいた。
夜は深かった。そして静かだった。窓から入り込んでくる街の喧騒は、真夜中には絵空事でしかない。揺れるカーテンも、差し込む月光も、香る消毒液も、彼女にはまるで追憶のようだった。ただ、部屋に凝る闇の重さだけが、肌に纏わりついてはなれない。不意に感じる血の臭いが、それが錯覚だったとしても、吐き気を覚えさせる。記憶よりも鮮明に、幻覚よりもはっきりと。
いつの間にか震えていた身体を、彼女は自ら抱き締めた。
闇夜が恐ろしいのは、それが行く末を遮るからではない。どうしようもないほど強く、過去を呼び起こすからだった。自分でも気付かないほど、当たり前のように忘れていた。その痛みや、温度や、悲しみさえ。
恐る恐る、ベッドの縁に手を伸ばす。夜気に当てられたパイプが冷たい。握り締めると、掌の汗が急速に熱を失っていった。
いくつかの打撲と擦り傷があるぐらいで、身体的には全く問題ない、というのが医師の所見だった。顔中にガーゼを当てられているせいで、瞬きをするのに多少の違和感がある。視界が全体的にぼやけているのは、元より近視だからだった。眼鏡を失ったのは、ある意味最も痛烈な被害なのかもしれない。
手すりを掴んで、白いシーツの上をゆっくり滑る。リノリウム張りの床には濃い緑のスリッパが揃えて置いてあった。足を滑り込ませると、ひんやりとした感触がする。
立ち上がってみて、節々に筋肉痛があることに気付く。少しげんなりしながら、彼女は入院着の裾を直した。
看護婦が密かに渡してくれたメモを、再度確認する。
神宮司御琴が入院しているという病室の番号。
彼に言わなければならないことがある。
美幸はなるべく足音を立てないように、こっそりと足を踏み出した。
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