3-9 有事特別措置法
「――霧島さんっ!」
吐き気がするほどの血煙の向こう。
全身を朱に染めた美幸がいた。
「霧島、さん!」
血に滑る床を蹴って、動かない左足を前に投げ出す。
しかし御琴は、すぐに足を止めた。止めてしまった。
振り返った美幸の面相は、暗がりでもそうと分かるほどに酷く腫れて、血みどろになっていた。
だが。
美幸の向こう、ホールの中心に立つ二つの人影。
純白のセーラー服に身を包んだ少女と、漆黒のパーカーを羽織った女。
そのどちらにも、彼は見覚えがあった。
「相田――っ!?」
フードを被って長い髪を下ろし、生気の無い眼でこちらを見つめるその女は、どう見ても相田千賀だった。未だかつて、彼女のそんな虚しい表情は見たことが無かったが。
御琴の顔を認めた千賀は、ほんの刹那、驚愕し――そして脱力した。
そのまま、べちゃりと血の海に倒れこむ。
動かない左の脚を叱咤して。ほとんど四つん這いで、なお御琴は走ろうとした。
弱い力で、微かに引き上げられる。
顔を上げると、美幸が彼の腕を掴んでいた。
「き、りしま、さん……」
どう見ても、御琴よりよっぽど凄惨な姿だった。赤黒く染まった頬は腫れ、細かい切り傷が顔中を覆っている。銀縁眼鏡は既に無く、血を浴びた三つ編みがだらりと垂れ下がっていた。
「私は、大丈夫、ですから」
しかし、それでも彼女は御琴を放そうとはしない。
華奢なその肩を借りて、もう一度立ち上がる。もつれ合うようにしながら、二人は千賀の元へとたどり着いた。
暗闇を丸く切り取った光の中、千賀はぐったりと横たわっている。床に広がる血とは対照的に、横顔は蒼白だった。
首筋に指先を当てる。脈動は弱々しいが、確かに感じられた。
「生きてる」
少なくとも外見から分かる傷も無い。御琴が呟くと、美幸が表情を緩める。
肺から深く息を押し出した途端、視界が霞んだ。気が抜けたのか。
奥歯を強く噛み合わせて正気を保ち、御琴は面を上げた。
こちらを見下ろす少女の顔は、光を遮って暗く沈んでいた。しかし彼には、はっきりと分かった。薄く張り詰めた白い肌に、冷静すぎる目付き。みどりの黒髪はそっけない短さに切り揃えられているのが、意外と言えば意外だった。
少女の小さな手に握られた刀が、静かに御琴の喉を示している。
「動けば斬る」
「ああ」
視線だけで周囲を窺う。折り重なる死体達を見れば、彼女の言葉が単なる脅しでないことは明白だった。
「有事特別措置法第十八条七項に従って、あなた達を拘束する。同時に第二十条五項が適用される為、あなた達に拒否権は無い。同行を拒否する場合は、即座に然るべき措置が取られる可能性がある」
闇に満ちたホールの中、スピーカーと照明だけが、ひたすらに命じられた挙動を繰り返している。それ以外に動くものと言えば、彼らしかいない。
少なく見積もって五十人はいたのだろうか。暗いホールの底に撒き散らされた少年少女は、最早人間としての意味を失っていた。ある者は首を失い、ある者は胴を両断され、文字通りの血の海に沈んでいる。寂寞じみた命の虚無。
圧倒的な死の運び手を前にして、人の感じ得るもののうち、一体何が意味を成すのだろう。てらてらと光る腸の渦を前にして、御琴は何故かそんなことを考えた。
「こちらマコト。事件との関係が疑われる対象を確保。女性。爆弾による殺人に関与した旨の発言を確認。移送の為、応援を」
少女――マコトは虚空に向けて呟き、それから御琴を、続いて美幸を一瞥した。
「別件の関係者と思われる対象も確保。男性と女性。両名ともに負傷」
どうやら喉の辺りに骨伝導マイクが仕込んであるらしい。本当に小さな囁きだった。
「うち一名は右眼球を損傷している。――異常の兆候は見られない。以上」
それだけを言って捨て、彼女がしゃがみこむ。
倒れ伏した千賀を検分するつもりなのだろうか。剣を御琴に向けたまま、空いた左手だけで彼女の全身を確かめていく。
御琴も美幸も、ただその様を茫然と眺めていた。というより、そうすることしかできなかった。質問を投げかけたところで、返答は無いだろう。直感的に理解する。少女には、その必要が無い。
マコトの手が止まる。ちょうど千賀の腹の辺り。
微かに、金属の擦れる音がする。少女は素早く千賀のパーカーの襟に手を伸ばすと、一気にジッパーを引き下げた。
「――――!」
息を呑む。
黒い生地の下から、一糸纏わない
黒い長方形の箱。金属板を無理やり溶接して箱の形に成型したような、粗末なものだった。中心には横長の液晶が嵌めこまれ、赤いデジタル表示が着々と数値を減らし続けている。ペンキで全てを黒く仕立てようとしたのはいいが、詰めが甘いせいで所々地金の色が覗いてしまっていた。
箱の縁には、しっかりとした鎖が何本も溶接されている。伸びる太い鉄鎖は、千賀の胴を幾重にも取り巻いていた。擦れた跡で、千賀の腹が赤くなっている。簡単には外せそうにない。
「……これは」
嫌な予感がした。
『チーム』の根城に囚われていた千賀。彼女が殺人への関与を自白したと、マコトは言った。千賀が誰かを殺したというのか。何故。何の為に。
一体どうやって。
マコトは動かない。鋼鉄の箱を見つめたまま、独りごちる。
「爆発物らしきものを確認。確保対象の腹部に固定されている。処理班を要請」
その発言は、御琴の予測を超えるものではなかった。付け加えるなら、どうやら時限式の爆発物らしい、という所か。
時計らしき数字の羅列は、爆発までの猶予が僅かしかないことを告げていた。
「逃げて」
切っ先が翻り、少女の腰元に下がっていた漆黒の鞘へと収まる。
「この場から出来る限り離れて」
マコトは言い放った。あくまで冷静に――というより、無機質に。
「でも相田を」
「議論している時間は無いでしょう。それとも」
彼女の手は既に鉄箱を調べ始めていた。そうしている間にも、赤い表示は数字を減らし続けている。
「今この場で、あなたに何かが出来るとでも」
涼しげな眼が、微かにこちらを向いた。
まるで憐れむように。
――心臓を掴み取られたような、そんな気がした。
「早く行って。急いで」
迷う時間が無い事は、分かっていた。迷いが取り返しの付かない結果を生むことも。
千賀の顔を見る。いつも勝気な眼差しはゆるく閉ざされ、肌は血の気を失って青白い。マコトはそれに目をくれようともしなかった。そもそも彼女にだって、何が出来るというのだろう。爆弾処理班を呼んだのだろうが、一団が到着する前に爆弾が炸裂することは、疑いようがない。そうなれば千賀はもちろん、彼女自身の命も危うい。
振り返れば、美幸がいた。
迷いは許されない。間違いは、もっと許されない――
突然、闇が伸びたように見えたのは、錯覚だった。
「――――!?」
何かが彼女に組み付いている。
「――お前っ!」
黒いブレザーと短髪の少年――芦谷康介。不意の体当たりにバランスを崩した美幸が、血みどろの床へと倒れこむ。
動く方の脚で床を蹴りつけ、御琴は跳びかかった。
疾駆するマコトの白刃と、組み合う二人の間へ割り込むように。
「やめろぉっ!」
康介を庇ったつもりはなかった。しかし背中には燃えるような感触が走る。
御琴はとにかく必死になって、康介の腕に組み付いた。無理矢理美幸から引き剥がそうとする。びくともしない。信じられないほどの剛腕だった。日頃の康介と比べれば、別人に等しい。
揉み合う中、ほんの刹那康介の面相を垣間見る。
その瞳孔は開ききって、人形のように硬い表情だった。ともすれば呼吸さえしていないのかもしれない。
「芦谷――」
「放してくださいっ! 芦谷君!」
美幸の抵抗は意味をなさない。康介は時を止めたように、美幸を放そうとしなかった。
いくら御琴が力を込めても、それは変わらない。いや、彼にはもう振り絞る力もない。
ふっと、全身から力が抜けた。
慣れ親しんだ感触がする。肺腑の底から呼気が溢れ出して。
――康介の腕が折れた。
肘から先が完全に別の方向に曲がっている。すぐさま、御琴は康介を思い切り突き飛ばした。筋力を発揮するための骨格を失った身体が、あっさりと血の池を転がる。
「霧島さんっ!」
御琴は叫んだ。美幸を抱き上げようとする。
だが、動かなかった。脚だけではない。指の一つでさえ。
気付けば視界は一面の赤に染まっていた。それが床だと理解するのに、時間がかかる。
右眼が熱い。煮え立つような激痛。背中が痛い。焼け付くような感覚。
思った以上に、傷が深いのかもしれない。まだ残っていたのかと驚くほど、血液が溢れていくのを感じる。
「――ぐうじ――神宮司君!」
誰かが彼を呼んでいた。美幸以外に誰が彼を呼ぶだろう。
そんな事さえ、判断がつかない。
「ダメ――ダメ、起きて、神宮司君っ」
揺さぶる彼女の手は、安堵するほど温かい。
ぞっとするほど、御琴の身体は冷たい。
(やっぱり)
彼は呟いたつもりでいた。
(やめとけばよかった。関わらなければよかったんだ)
いつかと同じ文句が思い浮かぶ。
(やっぱり、僕には何も出来ない)
「――じくん! ――きてっ! 起きてよぉ!」
手を伸ばしても、叫ぶ彼女には届かないまま。
やがて炎が弾けると、全てが消えた。
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