3-8 天使じみた宣告者

 数え切れないほどの多種多様な手が伸びてくる様は、それが人間による仕業とは全く思えないようなものだった。強いて言うなら千手観音の救世が近いのだろうか。そんなものを目にしたことは無かったが。

 あまりに数が多過ぎて、かわすという発想さえ浮かばない。出来ることといえば、がむしゃらに手足を振り回すことだけだった。

「――やめ、てっ」

 女の白い手を振り払えば、節くれだった入れ墨の手に掴まれる。肩をよじって逃げようとすれば、いくつもの手に押し戻される。段々と前後左右の見識さえつかなくなっていく。それでももがいて、なんとか駆け出そうとする。人の隙をかき分け、大きく一歩を踏み出す――

 気付けば身動きさえ取れない状況だった。

 手首を掴まれ、肩を押さえられ、両の足に組み付かれ、腰にも誰かが絡みついている。

「ああもう、このっ! 放してくださいっ!」

 びくともしない。いくら力んだところで、五人も六人もの膂力りょりょくで押さえ付けられてはどうにもならなかった。それどころか、あがけばあがくほどにより固く捕えられているような心地さえしてくる。

 実際、締め上げてくる力は尋常ではなかった。肩や腰が乾いた悲鳴をあげる。

「――っ」

 美幸は歯を食いしばって、その痛みに耐えた。

(逃げなきゃ)

 その一念だった――それしか抵抗の武器は無かったが。この後自分がどうなってしまうのか、美幸にもいくらか想像はついた。

 もう一度何かを叫ぼうとして、誰かに顎を掴まれる。

 無理やり顔をあげさせられて。

「神は。無慈悲。道を塞げば、退ける。徹底。的に」

 取り囲む人垣には、やはり女と美幸を結ぶように隙間が空いていた。女は少しぎこちない歩みで、近づいてくる。

「あなたは、邪魔、なんだ」

 彼女が足を止めた。人垣の中から、男が進み出てくる。女の後を継ぐように、美幸の前で立ち止まった。

 体格のいい男ではない。回転する光が照らしだしたのは、黒い細身のジャケットにパンツ、少しの顎髭。そして禍々しい右手のシルエット。

 骸骨や茨を模した刺々しい指輪に包まれた手が、静かに持ち上げられる。

 次の瞬間、瞼の裏側で火花が散った。口の中に、血の味が広がる。

「あなたは。必要。ない」

 衝撃と痛みは一度や二度では終わらない。目をつむっていても、風切る音で拳の気配が感じられる。頬に一撃。顎が打たれたと思えば、こめかみ辺りにきな臭い感触が走る。妙に手加減された、執拗な痛みだった。

「無駄だ。無意味、だ。無、価値だ。もう、彼女に、近づく、な」

 意識を断ち切るほどの衝撃は無く。

 ただ、刺すような、痺れるような苦痛が、延々と。

「世界が。変わる。まで、黙って、見ていろ」

 一撃。また一撃。終わりが見えない。

「何も。喋るな。何も。するな。何も。考えるな」

 いつの間にか世界は薄ぼんやりとした闇に変わっていた。眼鏡が、どこかへ飛んでしまったのだろう。眼を開いても、飛び込んでくる握り拳しか見えない。

「お前ら、の、ような! 屑、どもは!」

 何かを考えようとする。

 痛い。

 痛みが邪魔をする。思考の糸が紡げない。

 引き裂かれる意思を、それでもたぐり寄せる。弱々しく、震える心を。

「爆弾や――人殺しで。世界が、変わると?」

 問いかけに。

 答える声は、絶叫だった。張り裂けんばかりの激情。

「変わる! 最も、早く! 確実に!」

 男の拳が、強く握り締められる。美幸はそれを視界の端に捉えた。

「奴らを! この世界を、壊し続けてきた、連中を! 焼いて! 燃やして! 砕いて! 根こそぎ! 殺して! 未来を、勝ち取る、んだ!」

 眼を閉じて。歯を食いしばり、やがて来る渾身の一撃に備える。

 衝撃は――

 やってこなかった。

 代わりに、何かを浴びせかけられる。生暖かく、とろりとした。

 錆びた鉄の匂いがする。

「――え」

 瞼を開くと、そこに赤黒い肉があった。中心に白い骨。噴き出す血が眼に痛い。

 それは腕だった。

「――――!」

 二の腕から先を失って、男は静止していた。言葉も無く、苦悶さえ浮かべていない。

 風が吹く。こんな地下でそれはありえないと、美幸のどこかが呟いた。

 気付けば男は、首さえも失っていた。頭が落ちる音が、振動となって床を伝う。

 取り残された身体が、棒切れのように倒れた。

「あ――」

 悲鳴はあげられなかった。そんな余裕は無かった。

 風が、再び吹き抜ける。

 レーザービームの軌道を追うように、新たな首が宙を舞った。鮮紅せんこうが照らされて、きらきらと美幸の頭上に降り注ぐ。続いて、腕が飛んで来た。そして再び、首。脚。上半身。今度は長い髪がなびいて――恐らく女性の首なのだ――、優雅に空を撫でながら、容赦なく壁に叩きつけられる。

 不思議な光景だった。

 動いているものといえば、巨大なスピーカーと照明装置しかなかった。うごめいていた人間の群れは、一様に動きを止めて。何が起きているのか、探っているように見えた。あるいは、理解を超えた状況に怯えているようにも。美幸は、必死に思考を巡らせていた――一体何が起きているのか――何かがそうしろと、彼女をひたすらに急き立てた。

 それでも空気の流れを肌が感じる。咄嗟にそちらを振り向けば、鮮血が何かの触手のように闇に広がっていた。また疾風。生臭い空気が香る。暖かな血飛沫。

 風が止まない。誰も動けない。

 ただひたすら、命だけが刈り取られていく。路傍の草のように。

「ああ――」

 何かを言おうとした。恐怖に駆られたわけでなく。

 美幸は何かを叫ぼうとして――

 広がる苦い血の味に、口を閉ざした。叫んだ所で、何が変わるだろう。幼い頃、燃える家に向かって、彼女がどれだけ祈り、叫んだか――そして父や母や弟が、どうなったか。彼女は知ったはずだった。

 だから、東京が燃えたあの日、彼女は誰よりも冷静に行動できた。出来る限りのことをした。非難する人々と共に、必死で逃げて。生き残って。そしてこれから、前を向いて生きていかなければならないと胸に誓って――

 悲鳴の無い惨劇はどれほど続いたのだろうか。彼女には分からなかった。

「お前は、誰、だ――」

 女の声に、はたと我に帰る。

 気付けば、ホールを満たしていた人影は最早どこにもなく。

 たった一人の少女が、女と相対していた。

 黒ずくめの女と比べて、少女はまるで白雪だった。血の一滴も染みていないセーラー服が、そんな印象を与えるのかもしれない。だが何より、透き通る肌の白さが、その相貌を際立たせていた。浴びる光が、彼女の周りで渦巻いているのではないかと錯覚するほどに。あるいは煙る血飛沫よりも、彼女の方が現実離れ――人間離れして見えた。

 天使じみた宣告者のように。

「お前。は、誰――だ!」

 叫ぶ女の喉元に、いつの間にか白刃が煌いている。

 見る者の意識を奪って止まぬ、完全な曲線。怖気が走る程に美しい日本刀が、少女の右手に握られていた。

 そこだけが、唯一血を浴びたのではないかと思わせる――鮮やかな赤さを帯びた少女の唇が、微かに開かれる。

「名乗れ」

 発されたのは、返答ではなく命令だった。

「な」

「もう一度質問する。答えなければ、首の皮を削ぐ」

 剣よりも冷たい声で、少女は続ける。

「喋れるのだから、痛みぐらいは感じるだろう」

 美幸は確信した。

 この少女こそが、“風”の正体だ――

「――名乗れ」

 同じ質問が、正確に同じトーンで繰り返される。

 女が動いた。

 刃は閃く。

 斬り落とされたのは、背後から少女に襲いかかろうとしていた男達の首だった。

 くずおれる男二人には目もくれず、少女は握った刃と共に、もう一度女を振り向く。

「削ぐ」

 隙をついて背後から少女に組み付こうとした腕を掠めて、切っ先はやはり女の首元を狙っていた。

 鏡のような、刀身。

 そこに、乱れたパーカーのフードの下、女の素顔が映っている――

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