3-7 殺意の火柱に全身を灼かれ

 猛烈な眩暈めまいを感じて、彼は思わず柄から手を離した。

 欠けて歪んだ切っ先が床石に跳ねる。

 寒気が酷い。全身が激しく震えているのが分かる。血を流し過ぎたせいだろうか――

 それでも何とか立ち上がろうとする。瞬間、太腿に迸る激痛に意識が飛びそうになった。倒れ込みそうになる身体を引きとめているのは、既に意志の力でしかない。肉体はとっくに限界を訴えていた。出血が落ち着き始めている――血圧が下がって来ているのかもしれない。

 右の眼窩だけが煮え立つように熱かった。痛みは無い。おそらくどこかで神経の回路が遮断されているのだろう。本能がそうさせているのかもしれない。

 額を伝ってきた冷や汗が、じゅう、と音を立てて霧散する。えぐられた右眼の代わりに、焼けた鉄をねじ込まれたとしても、こうはならないだろう。

 恐れていたことだった。

 死だ。殺意の火柱に全身を灼かれ、一握の灰へと変わる。

 ――死ぬ。

 御琴は、胸中で繰り返した。

(何やってんだ、僕は)

 血に塗れて横たわる少女を押し退けて、必死に身体を持ち上げる。

 何故、白昼の校舎の屋上で死を実感しなければならないのだろう。理不尽といえば余りに理不尽な状況に、笑いさえこみあげてくる。空はこんなにも晴れ渡っているというのに。その下にいる彼らは朱に染まり、むせかえるような血臭を放っている。痛みにのたうち回り、しかも手を差し伸べてくれる者もいない。

 胸の奥から湧き上がる何かが、彼の膝を支えた。

 怒っているのかもしれない。まるで他人事のように、御琴は考えた。身体の底が震えるような、この感覚に名前を付けるとすれば、それはやはり憤激なのだろう。

 少女の携帯電話を固く握りしめる。血にぬめる端末に、鍵があるはずだった。彼ら『チーム』の情報が――つまりは、美幸や千賀の所在に繋がるであろう情報が。

 既に感覚の無い脚を引きずりながら、屋上の出口を目指す――

「――神宮司君っ!?」

 悲鳴じみた叫びに顔をあげて、彼は自分がくず折れていたことを知った。

 校舎内へと続くドアの前、響子は卒倒しそうなほど青白い顔をしている。

「えっ、えっ!? な、なにこれ神宮司君――なんで血が、えっ、どういうこと!?」

 血達磨と化した御琴と、真っ赤な海に横たわる少女を何度も見比べながら、彼女が金切り声をあげる。

 惨状の理由を知りたいのは、彼も同じだった。どうしてこんな目に逢わなければならないのか。

「――先生。お願いが、あります」

 歯の根がかみ合わない。うまく喋れている自信がない。

「えっ、え、あ、うん、なに!?」

 何とか息を肺から絞り出す。

「救急車を、呼んでください――彼女は、死んではいませんから」

「う、うん、分かった!」

 響子は顔面を真紅に染め上げた少女と、その傍らに落ちているカッターナイフを伺って、そして頷いた。御琴を疑いもせずに。

「それと、もう一つ」

 とにかく続ける。そうでもしなければ、またすぐに気絶してしまいそうだった。

「先生の車で、僕を渋谷へ連れて行ってください」

「うん――へ、え!?」

 やはり事態が飲み込めない様子で、響子が驚愕の声を上げる。目を見開くと、ただでさえ大きな瞳が、飛び出さんばかりになった。

「霧島さんが、危ないんです。僕を、渋谷へ」

 『チーム』が美幸や姿を消した少女達に何かを仕掛けるとすれば、やはり事態は彼らの縄張りである渋谷で行うと考えるのが妥当だろう。その方が、事態を警察の眼から誤魔化すのに都合が良い。根拠のある推測だった。それ以上のものではなかったが。あるべき確証は、道すがら少女の携帯電話から探り当てるしかない。

「で、でも神宮司君、その血っていうか、眼、怪我! どうするの!?」

「いいからっ! 急いで!」

「う、あ、了解!」

 勢い良く頷いて、響子がスーツのポケットから携帯電話を取り出す。その様が、赤黒くぼやけて見えた。

 熱が滾る顔の右半分に手を押し当てる。あるいはそれは、本当に燃えあがろうとしているのかもしれない。手のひらが焼け、鋭い痛みを訴え始めていた。

 気泡を上げる鮮血ごと、その手を握りしめる。香る鉄の匂いが、記憶の底に渦を生み出した。しかし。

(時間が無い)

 追憶に耽っている暇は、なおさら無い。

 彼は胸中で独りごちた。

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