3-6 私達は変えなくてはならない
――ここには一度、来たことがある。
次の瞬間にはそれが単なる勘違いであることに、美幸は気付いていた。何故そんなことを思ったのかは、判然としなかったが。
広い店だった。アルミ製らしき不愛想な丸テーブルがいくつも並び、ネオンサインの光がそこに踊る。床も壁も、天井さえもが打ちっ放しのコンクリートで作り上げられた空間で、無秩序にぶら下がるネオン管だけが彩りだった。それ以外に灯りらしい灯りは無く、窓すらも無いために、店内には極彩色の暗がりが広がっていた。どこかで聴いたようなロックバンドの演奏が、散在するスピーカーから延々と流れている。
「……ここに、いるんですか」
「来てるはずなんだわ。カテドラル、なんて名前の店はここだけだと思うし」
予想よりも、平凡としている――というのが、美幸の率直な感想だった。壁に張り付けられている数々のポスターも宗教めいた絵画ではなく、マイクスタンドを構えるロックスターの雄姿を描いたものである。バーとしては小ざっぱりとしていて、
「入っちゃって、本当に良かったんですか?」
店内にひと気は無く――準備中の札が表にかけられていたのだから、当然か――、色とりどりの瞬きと遠く聞こえる音楽はなんとなく薄気味の悪さを漂わせていた。
「しょうがないじゃん、向こうの――都築さんの指定なんだし。ドンマイドンマイ」
軽口を叩きながら、康介が歩き出す。アルミテーブルの間を縫う姿は、ふてぶてしいまでに無遠慮だった。
(大丈夫なのかな……)
不安が無い訳ではなかった。それはただ、店舗へ無断で足を踏み入れてしまったことだけではなく。なんとはなしに気後れしながら、美幸は彼の後を追う。
いくつかテーブルをかわしたその先、部屋の隅に当たる位置に扉があった。手洗いの入口かと思いきや、銀色が波打つドアには関係者以外立ち入り禁止と記されたプレートが貼り付けられている。
「これ――」
美幸が問うよりも先に、康介は扉を開け放っていた。
「いやまあ、問題ないっしょ。いやマジマジ」
そこにあるのは地下へと降りる階段だった。やはり剥き出しのコンクリートの壁に、ぞんざいに電球が填め込まれている。照明のつもりなのかもしれないが、光は壁の染みを照らすばかりで、足元には届いていなかった。
康介は
とにかく後を追って、美幸も足を踏み出す。天井が高く幅の狭い階段は、妙な息苦しさに満ちていた。白熱灯の柔らかい光が、空気中に泳ぐ埃をきらきらと瞬かせる。
片手を壁に付き、一歩ずつ足元を確かめていく。真っ直ぐ下っていく階段の終わりはそう遠くなかった。微かに流れていた楽の音が徐々に重みを増していき、空気が肌に押しつけられているような感覚がする。
やがて再びアルミのドアが姿を見せた。小さな傷の目立つその表面に、オレンジ色の光の粒が跳ねている。
扉は震えていた。まるでそれ自体が歌っているかのように。
重苦しい音が、腹の奥底を揺らす。
「とうちゃーく」
冗談めいた明るさで、康介の宣言。
心臓が小さく跳ねた。胸の奥からじわりと緊張が溢れてきたのを、美幸は自覚する。
(このドアの向こうに、薫がいる)
たった二週間会わなかった、ただそれだけのはずなのに。
何故だか美幸は、懐かしささえ感じていた。そして同じほど、戸惑いも覚えていた。一体何から話せばいいだろう。どんなことを問えばいいだろう。それともいつものように、彼女が喋り出すのを待っていればいいのだろうか。
間違っている気がした。そうではない。話さなければならないことはもう決まっていて、ただ美幸は、薫にそれを確認をすればいいに違いない。
何度も考えていた。どこかに消えた彼女を追いながら。
康介は扉の脇で控えるようにしている。送られてきた視線に、美幸は頷き返した。
銀のレバーに手をかけ、一息に押し下げて扉を開け放つ。
――神はどこだ。
聞こえたのは、男の絶叫だった。
否。よく似ているが、もっと巨大な――音の塊だった。
大気に走る電子の音。でたらめな速度で叩きつけられるドラムの叫び声。踊り狂うようなギターの音色。全てが高速にして渾然と空間を押し広げる。レーザービームだけが輝く暗闇に、新しい世界が浮かび上がっていく。ビビッドカラーのライトが弾ける度に浮かび上がる影は、繋ぎ紡がれ人の形を失っていた。
押し潰されそうなベース音に歪むホールの底に、何かが座っている。
男なのか女なのか――判然としないが、影は確かに人だった。光が走り闇が溶けるたび、そのシルエットが浮かび上がる。
「やあ――」
声。声だったのだろうか。耳朶に突き刺さるシンセサイザーの響きに似て、その音は冷たさを帯びていた。
「よう、こそ――霧島美幸さん」
彼女と影を隔てるものは、音波に震える空気――分厚く大きな轟音の壁。それでも何故か、無機質な言葉は耳へと届く。
美幸は少しだけ、息を呑んだ。
「……あの。あなた、誰ですか?」
問いかけは喉を震わせる。ただそれだけの、無意味な行いだった。張り裂けんばかりの音響の中には、むしろ静寂が横たわっている。
はずなのに。
影が笑った。
「私――は、私。見たままの――私」
酷い違和感がある。まるで人形が笑顔を作ったように。ありえるはずのないことが起こってしまったような。
紫の光線が緑へと変わり、揺らめく人間が影絵の如く背景と化す。
何かがおかしい。何故それが笑っていると、彼女は思ったのだろう。
「それと、も……私が、わから、ない――?」
暗がりと明かりの境目に紛れて、その表情など分かるはずがないというのに。
「あなたとは――会ったことがありません」
美幸は言い切った。
影が一段深く笑う。例えるなら金属が軋むような、不快な響き。
「本当、に……本当に、そう、な、の?」
頷いてみせる。美幸はさらに返した。
「薫は、都築薫はどこにいるんですか。彼女に、会わせてください」
「慌て、ないで。彼女は無事。ちゃんと――生きて、いる。心配ない」
妙な所につっかえながら、不必要な起伏をもって言葉が吐き出される。発声そのものに慣れていないような、不器用な喋り方だった。
「心配。していた――よね。霧島。美、幸、さ、ん!」
大きく息を吸い込む。そんな間があった。
「思って、いた、んだよね。もしかしたら彼女は。死んで、死んでしまった。のではないか――あなたの家族と同じように」
――一瞬。
頭の中が真っ白になった。
「また。また、いなくなるって。自分を残して――また誰かが、いなく、なるって。そんな、風に。あなたは。思っていた」
僅かに残った自制の心が、霧消した理性をかき集めていく。
押して固めて、封じ収めて――零れ落ちそうになるのを、取り戻す。
「どうして……なんで、そんなことを知っているんですか」
「何故。何故かと。そう、訊いた、ね」
影が手を差し上げた。光芒が残像を残しながら、大きく円を描く。
新たな輝きが闇を切り取った。白銀の円形がいくつも壁面を泳いでいく。目で追ううちに、円はいつしか繋がり、連環を成し、さらにはより巨大な円となる。そうしている間に、新たな曲線が照らし出される。今度は色を変じて。巨大な円は崩壊し、飛び交う赤い光が壁を埋め尽くしていく。
「霧島。美幸。さん。あなたは――あなたは。この世界が、壊れている。と。思ったことは、な、い?」
「……え」
「この世界は! 壊れている! もう既に! どうしようも! ない! ほどに!」
怒鳴り声には異音が混じっていた。泡立った
「そんな風に……思って。は、いな、い?」
美幸は即座に
そもそも何と相対するべきなのか、分からないことに気付いた。そんなことはないと否定したところで、何の意味があるだろう。
彼女がどこかでそう考えていたのは、事実なのだから。
「二年前、の、あの日――“炎の日”。東京が、燃えてしまった。その時に。私達の、世界は、崩れ去ってしまった」
忘れようもない。街が音を立てて崩れていく、その様。逃げ惑う人々の狂乱。熱波の向こう、そびえ立つ巨大な火炎の渦。その中心で燃え落ちていく東京タワー。
気付けば、壁を照らす光も、空間を切り裂く光線も、全てが朱に染まっていた。
世界は暗く。それでいて、燃えるように赤く。
「そう、思った、少なくとも、都築、薫は」
「――――!」
美幸の知らない、薫。
何者とも分からないこの人影は、とつとつと語る。その姿は闇と同じように黒く、そして紅を帯びていた。
「分かる、か、な。私達の、世界。この国。未来。今や、取り返し――の……つかない。何故。誰も、止められなかったか! 全てが壊れていく。それを、防げなかった」
神はどこだ――
スピーカー群が叫ぶ声は最早悲痛でさえあった。
あの日、あまりに巨大な火柱で、東京の空が赤く染まった時、誰しもの胸にその問いがあったのかもしれない。人より強く、偉大な存在はあり得るのかどうか。もしどこかにいるのだとしたら。
無力な人々を救ってくれるのではないか。
「薫。は、考えたんだ。あの日、家族を失くしてそして。ここに。辿りついた」
差し上げられたままの手が、宙に円を描く。
導かれるように、いつの間にか純白へと変じたレーザーが転回した。虚空に白く美しい残像が刻まれる。
「私、達は変えなくて、は、ならない。この、国。を、いや、世界、そのものを。どんなに小さくても。少しずつ、でも――この、壊れかけた、世界を」
広がる白銀に
「一体……何の、話ですか」
「答え。答えだよ。今、あなたが。求めているもの」
影は
「彼女は。世界を変えられる。と信じ。た、だから。ここにいる《・・・・・》――こ、の、聖堂に」
美幸は周囲を見回した。当然薫がいるはずもなく――そもそも目が痛くなるほどのレーザーの嵐の中で、数多の面相の区別などつく訳もない。
聖堂。福音を賜る神の家。彼らは集い、楽曲に合わせて踊り続ける。
まるで祈るように。
「……あなた達は。神を、信じているんですか」
この地下ホールにいる人間の全てがそうなのかは分からないが。彼らは、人智を超えた神の実在を信じ、それに付き従おうとしている――『チーム』と仇名される集団なのだろう。ようやく、彼女はそのことに思い至った。
「彼らは。代弁者。神の……神の意志に、触れた、もの。それは信じるまで、もなく、感じる、こと」
美幸にとって、それは些細な違いのように思えた。感覚を信じるか、思考を信じるか、ただそれだけの違いでしかない。どのみち神の実在証明ほど、不毛なことも無いだろう。
「世界は変化する。それ、が、神の御心。彼らは、ただ……それを全うする、ために、戦っている」
なるほど、それは世を統べる神の意志なのかもしれない。世界が変わらなかったことなどあるだろうか。方向性はどうあれ。瞬きをする間にも、世の中は流転し続けている。
だが。
「戦っている、って……一体何と」
「世界。社会。違う。そこに――潜むもの」
本気で言っているのかと、いちいち疑いたくなる。あまりにも漠とした言葉の羅列。世界。社会。未来。そして――神。彼らが出会ったという神は、世界をどうするつもりなのだろう。哀れな人間たちを戦へと駆り立てて、この世に何を齎そうというのか。
「奴らは。守れな、かった。燃やして、しまった。壊してしまったん、だ。世界を――その先に、あったはずの、ものを」
ともあれ、影は語り続ける。世界を滅ぼしたという何者かのことを。
「奴らは全て、を狂わせた。その罪は。贖われなければ、なら、ない」
言葉はまるで、美幸の考えを見透かしているかのようだった。知っていて、あたかも仄めかすかのように。
「そして。導く。私が。世界を、より良い形へ」
「――より良い、形?」
美幸の声は音となる前に、響き続ける電子音の群れにかき消された。
「そう。誰もが、思い描く、ような。理想郷、へ」
影の声はむしろ一層盛大に、彼女を打ちすえる。決して大きな声ではなく、しかし奇妙な存在感があった。
「訊こう。もう一度――この世界が。壊れていると……思った、ことは。ない?」
問いは繰り返される。まるで頭蓋の隙間から忍び込むように、小さくはっきりと。
「そして。それを。変えたいとは……思わ、ない?」
突然。ふわりとした光が、影を包み込んだ。
――女性だった。
銀の椅子に座り、胸の前で手を組んでいる。身体の線を隠すように大きな黒のパーカーを纏っているが、裾から伸びる脚は細く伸びやかだった。フードからこぼれる黒髪は胸の辺りに届くほど長い。
控え目に言って、彼女は泰然としていた。
そして目深にかぶったフードの陰から、見えるはずのない視線で答えを要求してくる。
「私は――」
いつの間にか口の中が渇いていた。
「……私は、薫に、会いに来ました」
気を抜けば、舌がもつれてしまいそうだった。それでも美幸は、努めて冷静であるよう自らに言い聞かせた。
「あなたの質問に答えるのは、彼女の顔を見てからです」
一言一句を確かめるように――実際自分でも確認したかった――口にする。
女は組んでいた手をほどき、肘掛けに投げ出した。
「……信じて。いるん、だね。あなたは」
言葉を紡ぐには多過ぎる吐息は、溜め息のようでもあったし、加減を知らない不器用な発声とも思えた。
「薫に、会えば。薫を、取り戻せ、ば。全て――全て、解決すると。全てが、元通り、だと。それは」
肩をあげて、彼女が息を吸う。
「――それは、間違いだ」
――美幸は。
背後を振り返り、そして、ホールの入口が閉ざされていることに気がついた。
それは単に扉が閉まっているだけでなく、何人かがその前に立ち塞がっているということでもあった。走り抜けたレーザーが、彼女にはっきりとその事実を視認させる。
「あなたは、失格だ。霧島、美幸さん。あなたは、彼女に、相応しく、ない」
一様に身体を揺らしていたはずの人々は、いつの間にかその動きを止めていた。終わりを知らない音の奔流が、空々しく彼らに降り注いでいる。
「あなたには――わから、ない。神の、意志も。彼女の、心も」
振り上げられた右手は、しなやかに明かりの中を泳ぐ。
「あなたは。必要。ない」
影を照らす、穏やかな光が爆発的に膨れ上がり――
全ての人影が、一斉に美幸へと押し寄せた。
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