3-5 罪には罰を

 最初に感じたのは熱さだった。溢れ出す鮮血の温度。

 その後に激痛。

 身をよじるほど、脳天に突き抜ける痛みに喉が引きる。

「――う……あっ」

 悲鳴を上げてしまったかと思ったが、零れたのは息ばかりだった。

 少女の肩を、思い切り突き飛ばす。転倒したのは彼女だけではなかった。尻もちをついた衝撃だけで、呻き声が漏れる。

「ぐっ」

 踏ん張りが利かない。痛みの元は太腿ふとももにあった。オレンジ色の柄のカッターナイフが深々と突き立っている。

 すかさず引き抜こうと手をかけた。だが、出血量が多い。あっという間にズボンが血塗ちまみれになっている。刃は動脈を傷つけているらしい。

(ダメだ)

 抜けば状況は悪化する。血が吹き出せば血圧が下がり、最悪ショック死しかねない。

「――分かっています神よ私は闘います、この宇宙の為に六次元の民の為」

 少女が膝をついている。白い面に垂れる髪が、鬼気さえ感じさせた。

 座り込んだまま、無事な方の足で後退ろうとする。なんとか距離を取らなければ。腿を貫く痛みに足が止まりそうになる。頭蓋を叩く激痛に思考が止まりそうになる。

「苦しみなさい神宮司御琴、苦しみなさい」

 それでも推測する。少女は一心に神の名を唱えている。昨日、沖芳彦が漏らした噂話――渋谷に蔓延っているという宗教じみた集団のこと。もしも本当に、都築薫がその団体に関わっているとしたら。神を崇める少女は何故、御琴にナイフを突き立てたのか。

 昼休みの屋上に、人は滅多に訪れない。第三者の助けは望めない。それは彼女の狙い通りだった。

 少女が揺れた。歩くというには余りにも不格好な動きで。

「苦しみなさい。苦しみなさい。苦しみなさい」

 靴底が砂利を舐める音が響く。

 御琴は手をついて、大きく後ろへ身体を滑らせ――鋼鉄の柵が、背中を打った。

 突き出される少女の手。伸び過ぎた爪が、艶めいていた。

「やめろ――来るな」

 骨ばった指は、蜘蛛じみた複雑さで宙を掻く。

 身体を仰け反らせたところで、いくらも逃れられない。

「苦しみなさい。苦しみなさい、苦しみなさい苦しみなさい苦しみなさい苦しみなさい」

 抱き伏せるように華奢な肉体が圧し掛かってくる。両膝を、少女の尻に抑えつけられた――腿の固い感触が、より深く潜り込む。それだけで、ほんの刹那視界が暗転した。

 全霊を込めて少女を跳ね除ける。指先がするりとブレザーを撫でた。まるで他人のそれのように、腕が動かない。気付けば酷い倦怠感が全身を支配しようとしていた。

「くそっ」

 目に映る全てが、像を失い始めている。

 それでも、絡みついてくる青白い手を幾度も振り払う。右へ左へ。

「触るな――触るなっ!」

 ゆっくり輪郭を無くしていく掌は、亡霊に似ていた。中空を漂う白い影。その向こうに、血走った双眸そうぼうが浮かんでいる。暗い帳の隙間から、それは彼を覗き込んでいた。

 ――殺される。

 不意に、冷たい感触が喉元に巻きついてくる。

 柔らかく、しかし震えるほどの力が気道を締め付ける。いっそ心地が良かった。

 身体だけが酸素を求めてもがき、噎せ返る。突き立てた爪が手の甲の皮膚を抉った。

 手に痺れ。脚が震え。腿に脈打つ血液が、彼自身をも押し流していく。

 充血した眼差し。

 全てが白み。眩み。闇は夜の様に。

 彼を沈めて。

 ――――

「――――」

 沈黙。

 鈍い音。何かが折れるような。

 そして。

「――っぎゃあああぅっおああぁぁぁぁっ!」

 絞り出される悲鳴。

 悶絶したのは少女だった。

 突如解放された喉と肺が、酸素を求めて暴れ狂う。

 胸元から溢れかえる渇望を勢いに変えて、御琴は全力で額を突き上げた。

 重い感触が頭蓋の裏側まで響き渡る。

「がっふ――ごっ、ぶぁあっ」

 悲鳴ともつかない喚き声と共に、少女が仰け反った。鼻血と思しき飛沫が降りかかる。

 抑えられない咳と眩暈めまいが、再び視界を霞ませた。しかし。

 互いに触れ合うこの距離ならば、かわしようもない。御琴も、少女も。

 喰らい付くように、彼女へぶつかっていく。思いの外軽い少女の身体を床へ叩きつけ、御琴はその体重から逃れた。這いつくばって進み、今度は彼が馬乗りになる。

 光に晒してみれば、少女はいかにも貧弱だった。青白い顔貌は鼻血に塗れ、滴る赤が広がった黒髪をも汚している。尖っていたのであろう鼻梁びりょうが、あらぬ方向へと曲がっていた。落ち窪んだ眼には涙が滲む。

「うぐ……うぉっ」

 叫び声を上げようとして喉を傷付けたらしい。鼻が折れたせいもあるのだろうが、呻き声は人間のものとは思われなかった。

 沸き立つような激情が、彼のうなじを震わせる。

 逃げ回る必要などなかったのかもしれない。躊躇ためらう必要などなかったのかもしれない。庇おうとする右手を叩き落とし、小指の折れた少女の左手を取る。

 握りしめれば簡単に砕けるだろう。次は小指では済まさない。四つの指をへし折る。掌を潰し、手首を捻り砕く。今なら造作もなく成し遂げられる。

 食い縛った歯の隙間から、熱く凶暴な呼気が漏れるのを御琴は自覚した。

「――なんだ、お前……なんなんだよっ」

 興奮と酸欠に震える肺で、切れ切れの言葉を吐き出す。

「が――がびゅっ」

 水っぽい音が、彼女の喉から漏れた。鼻血が逆流しているのかもしれない。

 襟首を掴んで強引に起き上がらせる。

「答えろ……っ」

 濃密な血の匂いが鼻を突いた。それは彼のものなのか、あるいは少女のものなのか。どうでもいいことではあった。誰しも血は赤く、そして錆びた鉄の匂いがすることには変わりない。

「――――」

 答えは無言だった。少女の顎先から、血液が滴り落ちる。

 襟を突きあげて、彼はさらに首を圧迫した。ついでに折れた指を握りこんでやる。少女の荒い息が低い唸り声へと変わった。

「黙ってても、分かるぞ。お前は渋谷から来た。『チーム』の一員なんだろ」

 既に血に染まった少女の頬が、さらに朱を帯びていく。

「脅しのつもりか。これ以上都築薫を探すな、って」

 大方は当て推量に過ぎなかった。しかし御琴には、それ以外に心当たりがない。他にどんな因果で見知らぬ少女に殺されそうにならなければいけないのか。

 恐怖は既に無かった。呼吸をする度沸き上がるのは、むしろ怒りに近い。腹の底が燃えるように熱くなる。

「――ろか……」

 気色ばんだ喉の底から、聞こえる少女の声はいかにもか細かった。

「…………」

 ほんの少し、拳に込めた力を弱める。

 少女の口が大きく開いた。血みどろの犬歯が剥き出しになって。

「愚か者め」

 反射的に、御琴は掴んだ手を捻った。関節が擦れ、腱が伸びていくのが掌で分かる。

 少女の濁った瞳は、もう動じなかった。黒く深い虚空は痛苦をも飲み込んでいる。

「愚かなる者。盲目の徒。神の往く道を解せぬ愚昧ぐまい。正義無き無法者には苦しみなど生温い」

「霧島さんはどうした」

 彼女はもう痛みを感じないのだろうか。信心は苦しみを凌駕するというのか。苦痛も恐怖も、言葉や自我でさえ、神の前では等しく無意味なのか。

 震えるほど強く拳を握る。御琴は叫んだ。

「――霧島さんをどうした! 都築薫をッ! 相田千賀をッ! あいつらをどうしたかって訊いてるんだよッ!」

 少女は応じなかった。いや、そもそも彼の言葉が届いていたのか――彼女は笑っていた。表情筋を引き攣らせ、発作を起こしたかのように。

「神よ、ああ神よ! 聞こえますその御言葉! 分かりますその御意志! 罪には罰を! 真理を冒した者には真なる処刑を!」

 不気味を通り越して、不可思議でさえあった。その眼は御琴を見ていない。その言葉も、彼には向けられていない。どれだけ怒鳴りあってもそれは会話と成り得ない。

「こいつ――」

「未来! 希望の為の浄化! 明日を守る! 私は世界を守る!」

 ざらついた怒号を鎮めようと、再び喉を締め上げる――

「神罰!」

 腿を、灼熱が走った。強引に刃を引き抜かれた痛みに悶絶しそうになって。

 視界に銀の閃きが駆け抜ける。

 御琴は反射的に身を捩った。ついでに少女の服を引っ張り、横倒しにしてやる。

 ――と。

「――――っ」

 音がした。

 滑りを帯びた音。頭蓋の内側から聞こえてくる、微かな震え。

 まるで何かが弾けたような。

「――――」

 振りかぶった少女の手に、血みどろのカッターが握られている。

「――う」

 真紅に染まった切っ先に、何かがぶら下がっていた。

「うわあああああああぁぁぁぁぁッ!!」

 まるでしぼんだ風船のように。

 眼球の残骸が、風に揺られていた。

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