3-4 考えることが億劫だから

 電車内には、ほとんど人影がなかった。ただ、景色と共に移り変わる窓枠の影が、水面の様に床の上に踊っている。車両が風切る音も、心なしかどこか遠くに聞こえた。耳の後ろの脈動のせいだろう。緊張しているのだと、美幸は思った。

「いやマジでさ、俺もこんなにあっさり見つかるなんて思ってなかったわ。マジで」

 おもむろに鞄からペットボトルを取り出しつつ、康介が笑う。蓋が開くと、レモンの香りがほのかに感じられた。

「でもま、考えてみりゃあ、誰にも知られず生活なんてやっぱ無理だよね。ライブ友達の家に転がり込むってのは、意外とフツーのオチだったけど」

 康介が通うライブハウスで、最近女子高生と同棲を始めた人間がいるという話題が上ったのは、つい昨日のことだという。

 美幸に呼び出された御琴と別れ、行き場の無かった康介はいつも通り渋谷にあるライブハウスに立ち寄った。そこで顔見知りから話を聞いたのだと。すぐに確認を取ったところ、都築薫と名乗る女子高生は、二週間ほど前から男の部屋で生活を始めていた。

 着ていた制服の特徴からも、祥星学園高校の生徒に違いないらしい。

「あの、薫は元気なんでしょうか」

「あー。うん、なんか病気したり、みたいなのは無いって言ってたけど。俺も聞いただけだから、よく分からないんだよね」

 少しだけ安心する。訊きたいことは山ほどあった。姿を消してからの二週間、どこにいたのか。どんな生活をしていたのか。どうして行方を眩ませたのか。何故彼女に何も教えてくれなかったのか。

 先に向かった御琴は、相田千賀と再会できたのだろうか。康介は同じ知人から、千賀の行方も聞いたというが。

 ふと御琴の、影を帯びた横顔が脳裏をよぎる。彼も、ことによると美幸以上の安堵を覚えているに違いない。なにしろ愛しい恋人の安否が確認できたのだから。

「つーかさあ」

 康介は突然声を上げた。

「聞いたよー。霧島さんってすげえのな! 全国模試で一桁だっけ?」

「えっ。あ、はい、一応」

 三年生へと進級する直前、三月の模試では総合得点で五位を獲得したはずである。確かに好成績ではあったが、まさか康介の耳に入っているとは思わなかった。大方、白石智子辺りが話したのだろうが。

「しかも医学部志望なんでしょ。マジエリートコースじゃん。すげえよ、マジすげえ」

 なんという地獄耳だろう。しかも長広舌である。

 くどいぐらいの称賛に、美幸は笑って返すことしかできなかった。

「そんでさ、どうすんの? 霧島さんは」

「……え?」

 答えも待たずに、彼は重ねる。

「医学部行ってさ。医者になってさ。それでどうすんのって」

 用意していなかったわけではない。もちろん、彼女なりに悩んだ上での結論だったが。

 不意に目に付いた康介の横顔は、意外なほど冷静だった。大振りな眼が険を帯びているようにも見える。そのことが何故か、美幸の返答を押し留めていた。

「あー、いや、参考までにっつうか。なんだろ。すげえ、バリバリのエリートなのはすげえけど――どうすんのかなって。こんな世の中だし」

 列車の外の景色は、どこか荒涼としていた。雨風にさらされて染みの付いたビルと、狭い土地を活用するために異様なほど高く積み重なった住居の集合体。遠くに見える溶けかけた鉄骨の影は、二年前の惨劇の痕跡だろう。

 六本木の街はその半分以上が爆破テロの被害を受けていたが、複雑な権利関係が災いして復興作業は随分遅れているらしい。無秩序にそびえ立つ鋼鉄とコンクリートの隙間に、クレーンの腕が僅かに姿を見せていた。

「マジすげえと思うけど」

 同じ景色を観ていたのかどうか。康介が呟く。

「……芦谷君は、進路、考えてるんですか?」

 そう訊ねると、一瞬彼と眼があった。確かに笑っているように見える。そんな表情で。

「いんや。全然考えてないわ。めんどくさくってさー」

 それは、考えることが億劫だからなのか。考えたところで実現できない諦めがあるからなのか。それとも、もっと他の――

「――私も、似たような感じですよ」

 眼前をふと、ホームの影が横切った。アナウンスが車内に響き渡る。次の停車駅で山手線に乗り換えれば、渋谷はすぐだった。薫が待っているというバーまで、あと少し。

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