第三章 手を伸ばしても届かない

3-1 目が醒めるまで

 ――被害は甚大だった。痕跡は明白だった。ただ、記憶だけがおぼろげだった――

「――――」

 ……それはもう、悲鳴でさえなかった。彼女は黙っている。だとすれば、聞こえているのは彼の声。やめてくれ。何を。このまま死なせてくれ。どうして。滴る血の赤さだけが、思い出されて終わらない――

「――きて」

 ――絹糸をほどくように……見ていたはずのものが薄らいで、聞いたはずのものが遠ざかり――彼だけが複雑に絡み合っていく。

「おきて――ぐうじ……っ!」

 呼ばれている気がした。もう呼ばれることはないと思っていた。行く先など無いと思っていた――

「――神宮司君っ!」

 それでも呼ぶ声は、彼の意識を打ち抜いた。

「――え?」

 目を醒ましたのだと、自覚する間もなかった。

「いつまで寝てるの、神宮司君!」

 眉を逆立てた響子は、仁王の如く立ち塞がっている。どうにも可愛らしさの漂う仁王像ではあったが。顔を上げても、怒りに震えるその表情しか視界に望めない。

「……目が醒めるまで」

 言って、御琴はもう一度机の上に組んだ腕に顔をうずめた。

「ちょっ――えっ、コラ、神宮司君!!」

 さらに声量が増した。おそらく、こちらを覗き込もうと更に顔を近づけたのだろう。

 響子の気配がする方向から、顔を逸らす。耳が痛い。

「じ、神宮司君、あのね、ちょっと、あの、ちょっとだけでいいから先生の話聞いてくれない?」

 腕の隙間から、横目に様子を窺う。響子は机の角にかじりついて、半分ほど泣きそうな顔をしている。

「神宮司君、ほら、あの、もうお昼休みだし、起きないとご飯も食べられないでしょ? そのついでに、ついででいいから、あの、先生の話を聞いてもらえないかなあって」

 昼休み。

 御琴はとりあえず顔を起こした。朝礼からの四時間を睡眠に費やしたせいで、体調は悪くない。明るい場所で眠った時に付きものの、倦怠感は相変わらずだったが――もうそれには慣れ切ってしまっていた。

「――あっ、聞く気になってくれた? なってくれた? ありがとう神宮司君、先生嬉しいなあ」

 顔から間近い所で、響子が喜びはしゃぐ。彼女の吐息が頬にかかると、少しくすぐったい。何より力いっぱい叫ばれると、耳が痛かった。

「なりました。なりましたから少し待ってください」

 自身の上着から携帯電話を抜く。御琴はおぼろげな記憶を頼りに、キーをタップした。

『昨日はお疲れさまでした。昼休み、時間ありますか。これからの調査について話したいと思ってます』

 霧島美幸からの電子メールを受信したのは、午前八時前となっている。どうやら自宅から学校へと向かう夢うつつの中で目を通していたらしい。我ながらよく憶えていたものだと感心する。

「……だから、携帯電話は教室では使っちゃダメだって……えと、とりあえずお弁当を持って、生徒指導室に、ね?」

 こちらをなだめすかそうとする響子を、一瞥する。形相は必死だった。

 何が彼女を――彼女達を突き動かしているのか。それが御琴には分からなかった。知っているのかもしれない。憶えているのかもしれない。しかし何故だろう。無くしてしまった記憶のように、理解さえできない――

「……弁当は持ってないです」

 言いつつ、御琴は立ち上がった。

 窓の外には、中天の陽射しを受けて街並みが広がっている。新しさと古臭さが入り混じったビル群の向こうに、白い時計を張り付けた電話会社の電波中継塔が見えた。空は常にそうであるように、薄く灰がかっている。煙る雲をまとって、中継塔は遥か彼方にあるように感じられた。実際には、たかが数キロメートルの向こうだというのに。

「購買に行ってきます」

 尻のポケットの財布を確認しながら、教室の出口へと向かう。

「あ、はい。じゃあ生徒指導室で待ってるからね」

 響子は明るく言い放ったが、生徒達にしてみれば懲役の宣告にも近い台詞である。一体どんな学生が進んで生徒指導室などに向かうというのか。

 それはもちろん彼も例外ではなく。

 御琴はさっさと屋上に足を向けることにした。

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