2-7 神の力とか救済とか
美幸は夜が苦手だった。いっそのこと嫌いだと言ってもいい。鼻先さえ見えない暗闇も、どこか冷たさに満ちた空気も、騒がしいほどの静寂も、夜を構成するおおよそ全てのものが彼女の心のどこかをざわつかせた。危うくおぼろげな月の光や、清かな星の瞬きさえ、酷く陰鬱なものにしか思われない。宵闇が隠したその先に、何があるのかと思索する度、彼女は胸を焼くような不安に襲われる。それは炎に飲み込まれた過去を思い出す時の心地に、よく似ていた。
――溶けた氷がグラスを打つ。
その音色にはっとして――美幸は、自分が
慌てて左手の腕時計に目をやる。九時四十一分。
「眠そうですね。霧島さん」
御琴の声は冴え冴えとして、黄昏時よりもむしろ明瞭だった。
細やかな装飾が施された金属製の丸テーブルを挟んだ向かいで、グラスに差したストローを弄んでいる。中身は既に飲み干してしまったらしい。
「……少しだけ。ごめんなさい」
辺りを見渡して、自分がどこにいるのか思い出す。
センター街を抜けて、東急ハンズの近くまで来ると、急勾配の上り坂が組み合わさった路地があった。入っていくと、取って付けたような短い階段を組み合わせた坂がある。その中頃、斜面から張り出すように建てられたカフェバー。白熱灯に照らし出されたオープンテラスに、美幸達は座っていた。一応柵で区切られてはいるものの、テラスの脇にいきなり細いアスファルトの階段という立地が、店構えに妙なおかしさを産んでいる。
気を抜くと、
「やっぱり大変なんですか。その、受験勉強とか」
それは気遣いだったのだろうか。何故か少し恥ずかしそうに、御琴が言った。
「いえ。あ、いえ、勉強はそれなりに大変なんですけど、寝不足とかじゃなくて」
咄嗟に切り返してから、今眼前にいる少年が年下であったことを思い出す。こんなにも落ち着き払った十六歳――まだ誕生日を迎えていなければ――は、かつて彼女は出会ったことがなかった。
「私、その、夜がダメな体質なんです。すぐ眠くなっちゃって。子供みたいですよね」
御琴の冷然とした眼を見ていると、なおさらそう思えてくる。もしも闇夜が怖いなどと告白したら、彼は笑うだろうか。
「……羨ましい」
ぽつりと、御琴は言った。
「えっ、いい事なんて全然無いですよ。徹夜出来ないし、遅くまで遊んだりとかも」
ついでに言えば深夜の生放送も視聴できないせいで、クラスメイトの会話についていけないことも多々あるのだが。
「僕、眠れないんです。昼間しか」
「……そうなんですか」
彼の告白は何か意味がある様な気がして、美幸はその後を待った。
「夜になったら寝ようとは、思うんですけど」
冷たい音色。今度は御琴のグラスが鳴った。
「それは、あの。不眠症とかそういう?」
「多分。医者はPTSDじゃないかと言ってました」
当たり前のように彼は言う。そのせいで、美幸の驚きは一瞬遅れてやってきた。
「あ……」
PTSD。心的外傷後ストレス障害。美幸は、うろ覚えの知識を掘り起こす――過去の継続的で強いストレスや衝撃的な体験が原因となって、不眠や感情の鈍麻など、様々な精神的、あるいは肉体的な症状を引き起こす疾患。
「はっきりとは、分からないんですが」
言って、御琴はストローを咥える。少し俯いたその仕草は、これ以上の追及を避けているようにも見えた――彼自身、口にしてからその意味に気付いたのだろうか。
前髪は長く、彼の表情を隠していた。笑ってはいないことは、美幸にも想像が出来る。いや、むしろ今まで彼女の前で、御琴が顔を綻ばせたことがあっただろうか。
「――神宮司御琴君、かな?」
呼びかけられて。
美幸は、振り向いた。振り向かずにはいられない、そんな声だった。
テラスの外、階段の半ばに男が立っている。そこは明かりの届く限界の位置だった。夜を背負って、あえかな光を浴びた青年が笑う。
「ローズ・ガーデンの店長に呼ばれてきたんだけど」
その笑顔は、白皙の美貌と評して何の衒いもない。青いラグランスリーブがついたTシャツとジーンズは、実に気安い服装だったが、逆に青年の美しさを際立たせていた。
御琴は立ち上がると、一つ辞儀をする。
「どうも」
青年は軽やかな足取りで階段を上り、顔馴染みらしい店員にコーヒーを二つ注文した。空いていた席に腰掛け、隣にあった椅子を引く。そこに少年が座った時、美幸はようやく青年に同伴者がいたことに気付いた。
「ども、こんばんは。
近くで見れば、尚更青年――沖芳彦の造作は整っているように感じられた。目元は甘く、鼻筋は真っ直ぐで、顎のラインはシャープ。歳の頃は二十歳前後だろう。颯爽とした仕草のせいか、なんだか男性アイドルのように見えてくる。
「こっちは
言葉に促されて、連れ合いの少年が首から先だけを気怠そうに下げた。芳彦と対照的な、目立たない印象の人物だった。ツーサイズは大きい黒のナイロンパーカーの襟を立てて、半ば顔を隠しているせいもあるのだろうが。大きく股を開いて椅子に浅く座る姿は、尊大にも見えたが、むしろそれは短身痩躯を余計に強調していた。
「突然すいません。神宮司御琴と言います。こっちは霧島美幸さん」
ともあれ、美幸も一礼する。
芳彦は笑顔で答えてくれた。振る舞いの一つ一つに嫌みがない。夢見る少女どころか、年配の女性にも好かれるのではないか。亮治という少年の顔色は依然としてはっきりとしない。ただ、瞳だけでこちらを窺っている。
ふと気がつけば、御琴の表情が少し明るくなっていた。
「この前のライブ、すごい良かったです」
「おー、嬉しいこと言ってくれるね! ありがと」
御琴の賛辞と運ばれてきたコーヒーカップを受け取りつつ、芳彦は慣れた調子で言葉を重ねる。
「あそこの店長とは結構付き合いが長くてさ。突然呼ばれた時はびっくりしたけどね。前日だよ、前日! 店長が夜中に電話かけてきて。あのカッサカサの声でさあ、オマエ、明日空いてるかって。空いてねえよ! って言いたくなったけどね。ま、あのオッサンがそんなこと言い出すの珍しかったから、思わずOKしちゃったんだ」
「そうなんですか」
御琴の相槌を、彼は聞いているのかいないのか。
「そしたら、
「はあ」
「で、ええと、君、祐天寺君? どの曲が一番好きだった?」
祐天寺とは一体誰だろうか。目黒区民だろうか。
特に気にした様子もなく、御琴が答える。
「そうですね、『クオ・ヴァディス』でしたっけ。神はどこだ、っていう」
「ああ、アレ! 分かるよー、俺も好きだもんアレ。亮治的にも最高傑作だからね。お客さんもガツンとノッてくるしね! ウオーって感じでさあ――」
美幸はまったく話についていけず、飲み物に手を出した。あの時は見知らぬ人々に声をかけることに必死で、ライブの内容など気に留めていなかった。御琴に説明されていなければ、沖芳彦があの舞台に立っていたことさえ、気付かなかった自信がある。
落ち着き始めていた眠気が、再び鎌首をもたげ始める――
「――それで……相田千賀ちゃんのこと、だったっけ?」
ようやく芳彦が言い出したことに、美幸は内心安堵した。ライブにまつわるこぼれ話は随分と多かった――路地裏の天才ボーカリストは、やはりというか意外というか、弁舌の達者な人物であるらしい。
「知り合いなんですね」
いささか疲れを滲ませつつも、御琴が訊ねる。
「言ったろ? あそこのハコは結構よく使うんだよ。バイトの子ぐらい憶えてる。かなりいい声をしてるんだよ、彼女」
独特の鋭さがある声だったと、美幸は記憶していた。否でも相手の感情を引きずり出すような。
「あのライブの後、かぁ……確かに楽屋に来たよ。な、亮治?」
今の今まで一切口を開かなかった亮治が、芳彦へと振り向く。まるで余計なカロリーは消費したくないとでもいうような、ごく小さな動きで。
「ああ」
「だよな? そんで……ああ、そうだ、こんな感じだったんだ! 千賀ちゃんの場合は、『都築薫って子、知ってますか』って言ってたけど」
気が付けば、美幸はテーブルに身を乗り出していた。
「それ本当ですか」
「うん、マジマジ」
芳彦の返答は軽い。
美幸は咄嗟に御琴を振り返っていた。目が合うと、彼は首を縦に振った。
相田千賀が都築薫を探していた――もしもその為に、何かの事件に巻き込まれたのだとしたら。例えば、人形のような様子の連中に襲われていたのだとしたら。
すぐに携帯電話を取り出す。
「この子なんです。都築薫。見たことありますか?」
突き出した小さな液晶に、芳彦が目を凝らす。
「いやあ、分からないな」
「……知ってるよ」
言ったのは、亮治だった。襟の上にある双眸で、睨み上げるように美幸の電話を凝視している。
そして食いつくのは、もちろん美幸だった。
「会ったことがあるんですね」
亮治の眼が上下する。どうやら首肯したらしい。意表を突かれたのか、芳彦は慌てて彼を振り向く。
「亮治、お前」
「ライブによく来てる。オレは見たことあるよ。スタッフブースからね」
美幸はいっそ、感動に近いものさえ覚えていた。
ようやく掴んだ。そんな心地だった。
「最後に――薫を、最後に見たのはいつですか?」
「二週間ぐらい前のライブで見かけた。一人だったはず。その後は知らないね」
白磁のカップに口をつけ、亮治が顔をしかめる。どうやら予想を超えた苦さだったらしい。テーブルに置かれたガラスのポットから、せっせと砂糖を入れ始める。
(やっぱり二週間なんだ)
美幸は胸中独りごちる。おそらく薫は美幸と別れた後に、シャンバラのライブへと向かったのだろう。それは小さな情報ではあったが、間違いなく前進だった。自分より後に、姿を消す前の薫を目撃した人間がいたということ。
更に問い掛けようとして、芳彦に切り返される。
「待って。なに、そういうこと? 千賀ちゃんと、その薫って子と、二人とも行方不明って話か、コレ」
「そうですね。しかも、多分、二人とも渋谷のライブハウスで姿を消してます」
御琴が補足した。
が、美幸にも分かる。敢えて御琴は言わなかったのだろう――誰が信じるというのか。木偶のように精気の無い集団が、彼女達の失踪に関係しているかもしれない、などと。思い起こせば起こすほど、あの夜の格闘は異常なものだったように感じられてくる。ものも言わず、感情さえ見せない人型の群。
「……変なことを聞くんだけどさ」
芳彦が声音を落とした。その美貌が、微かに緊張を帯びる。
「二人とも、神様っていると思う?」
酷い既視感だった。これは一体何の偶然だろう。
――もしかして、渋谷には本当に神仏の類がいるとでもいうのだろうか。
「……どうして、そんなことを訊くんですか」
美幸は慎重に、問い返した。いつかは言うことの出来なかった、その台詞を。
ほんの僅かな間隙。薄い膜の向こうから観察されているような、そんな気がする。
「渋谷にね。そういうこと言ってる連中がいるんだ。神様を信じてるってか……なんとなく、みんな『チーム』なんて呼んでるけど」
芳彦が語る。それは、薫が話したかったことと同じなのか。
「あいつらが具体的に何をしてるのかは、誰も知らない。すげえ秘密主義なんだ。道玄坂の潰れかけたバーに集まって、いつも何かを相談してる。本人達は、神について話してるんだって言ってるけど。偉大な神が起こす奇跡について語り合ってるんだって――真剣な目をしてさ。神の力とか救済とか、なんだとかさ」
彼の目線が、カップの中のコーヒーに落ちた。ゆらゆらと揺れる、漆黒の海。
「俺もファンの子から聞いた話なんだけど。連中に関わった人間は、いつの間にか街からいなくなってるんだって」
真っ暗な水面に、一つ波紋が立つ。白熱灯の灯りが、波を白く光らせた。
芳彦は再びこちらを見やり、あっさりと破顔する。
「あっ、ビビった? ビビった? まー、噂半分ってとこだけどね。渋谷で人が消えたら、そいつらのせい、って感じ。ほとんどネタだよ、そこまでいくと」
言うほどに、美幸は言葉を軽く捉えることは出来なかった。
ようやく見つけたのだ。薫の影を追って足を踏み入れた街で、彼女の気配を感じる手掛かりを。渋谷には何かがいる。それが神なのか、崇め奉る人々なのか、他の何かなのかは分からなかったけれど。
「俺達に分かるのはこんなところかな。千賀ちゃんも、その都築薫ちゃんって子の話をして、すぐ出て行っちゃったし。打ち上げ誘ったのになあ」
口惜しげに言って、芳彦はコーヒーに口をつけた。
「ありがとう。参考になりました」
御琴が述べる。
亮治の黒瞳が、彼に止まった。ナイロンの襟の向こうから、声が発せられる。
「アンタ達。渋谷、慣れてないだろ」
「……分かりますか」
「この時間に制服なんて着てたら、すぐ補導される。最近は特に厳しくなってるからな」
言われて、御琴が自分の服装を見下ろす。黒いブレザーに金糸で縫い込められた祥星学園高校の校章は、美幸の着ているものと同じだった。確かに、日が暮れてからというもの、街で制服を着た学生らしき姿を見かけていない。
嘲りを含んだような溜め息をついて、亮治は続けた。
「二人のことで、何か分かったら連絡してやる」
無駄な言葉は発したくないとばかりに打ち切って、彼はさらに深く身体を椅子に沈める。ほとんど寝そべる様な姿勢で、最早動こうとしない。
美幸はふと、亮治が彼女達とほとんど変わらない年頃であることに気付いた。きっと彼も、警官に補導された経験があるに違いない。とすれば、今のは不器用な忠告か。
「……ありがとうございます」
今度は美幸が言った。まるで
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