2-6 もしかして彼女?

 丸みを帯びたポップな字体で描かれたローズ・ガーデンのロゴは、毒々しいネオンの光を帯びて夜に浮かんでいた。その後ろには、ぼんやりと薔薇のイラストが花開いている。赤と黄色とピンクの光に隠された、地下へと続く階段からは、微かに楽の音が聞こえた。どうやらここには、今夜も音楽とそれを愛する暴徒達がひしめいているらしい。

 御琴は息を吐いて、高ぶる鼓動を諌めた――怯えても仕方がないことは、分かっている。理解していれば脈拍も静まっていくというほど、単純な身体ではないことも。

 兎にも角にも、踏み出すしかない。進むにせよ、逃げるにせよ。慣れたワークブーツの靴底で、階段のアスファルトを撫でる。

 と。御琴は肩越しに背後を振り返った。

「……何してるんですか」

 まくれ上がった、黒いブレザーの裾。

 その端を摘み上げているのは、美幸だった。

「えっ――」

 面喰ったような表情で、彼女が声を洩らす。咄嗟に力んでいた指先を開きながらも、何故か事態が飲み込めていないようだった。

「いや、その。滑って落ちないようにと思って。あの、あはは」

 妙に愛想良く、美幸は笑って見せる。

 それが本気なのか――御琴の心配をしたのか、あるいは空気が和むとでも思ったのか――否かは判断できなかったが、彼女の手が思っていたよりも小さいことに気がついた。

 あの夜は、考えもしなかったことだが。

(守る、とか言ったくせに)

 美幸の肩は細く、丁寧に編みあげられた髪は鎖骨の形をなぞりながら、ブレザーの胸元へと落ちている。身長はせいぜい一五〇センチというところか。御琴と同じものを使っているはずなのに、斜掛けにした学校指定の鞄が妙に大きく見える。

 控え目に言ってもこぢんまりとしたその肉体のどこに、ぎっしりと荷物を詰めた鞄を振り回す膂力が眠っているのだろう。

「霧島さんは、ここで待ってますか」

 彼女が首を振る。

「だっ、大丈夫です。行けます、私!」

 ずれた眼鏡を直しながらそう言って、今度は自らのバッグのベルトを握りしめた。

 御琴も、何か掴んでいられるものを持って来ればよかったのだろうかと、少し思う。

 もう一度前を向くと、階段には既に終わりが見えていた。踊り場は蛍光灯に照らされて、青白く明滅している。そこで折り返し、さらに下っていくと、ホールの入口があった。階段よりも申し訳程度に広いだけの空間で、革張りの分厚い防音扉は異様なほどの存在感を放っている。

 張り裂けんばかりの爆音に震える扉の前、少女が粗末なパイプテーブルの上に携帯金庫を広げていた。

 恐らくはライブのスタッフなのだろう。下を向いてひたすら札と小銭を数えている。脱色されてかさかさになった黄色い短髪に、御琴は呼びかけた。

「ちょっといいですか」

「もう始まってますよー。一人三千円でーす」

 返ってきたのは平板な決まり文句だった。顔を上げようともしない。

「訊きたいことがあるんですけど」

「……は?」

 言葉に、彼女が起き上がる。

 御琴は少したじろいだ。頬のこけた少女の双眸が、それぞれに違う色をしている――左は銀色、右は暗い赤の色。カラーコンタクトでも入れているのか。霞むように薄い眉の下で、黒々とした瞼が羽ばたいた。

「え。何。ライブ観に来たんじゃないの」

 極限まで睫毛まつげを延長した結果、真っ黒に縁取られた眼差しで見上げられると、まるで睨みつけられているような心地がする。

「いや。君は、ここのスタッフだよね」

「そうだけど?」

 少女の答えは、不快さの表現とならないぎりぎりの固さだった。机に広げた売り上げの勘定に戻りたいのだろう。

 敢えて気付かないふりをして、御琴は続けた。

「相田千賀って、知ってる?」

 隈取りの眼が細くなって、今度こそ睨まれているのだと分かる。痩せて頬の高い顔に険しさが浮かび、苛立ちはもはや明らかなものだった。

「知ってるけど。つうかあんた誰」

 尋ねられてから、何と答えればいいか分からないことに気付く。彼は千賀の家族でなければ、恋人でもない。友人か否かなどと考えたこともない――友情などというもの存在はどうしたら証明できるだろうか。

「神宮司御琴。祥星学園高校二年。相田千賀のクラスメイトなんだ」

 答えはありきたりなものだったが。

 微かに、少女の頬が引き攣る。

「ジングウジ? あんたが神宮司御琴?」

 意表を突かれたのは御琴だった。いつの間に彼の名は渋谷に知れ渡っていたのだろう。経験からすれば、初対面の相手から一方的に名前を知られているという状況は、かつて好ましいものであったことがない。

「うん」

「へー……あんたが。神宮司なんだ。ふーん」

 感心したのかどうなのか、よく分からない様子で少女が独りごちる。値踏みするように全身を観察されるのは、どうにも心地いいものではなかった。

「で、そっちは」

「あ。私は、祥星学園高校三年の、霧島美幸といいます」

 背後の美幸が頭を下げたのが、気配で分かる。

 こちらに視線を寄こした少女は、何故か顔をしかめていた。

「は、もしかして彼女?」

「いや。違うよ」

 とりあえず即答してから、そんなことはどうでもいいのだと気付く。どうして世の中はこんなにも恋愛が溢れているのだろう。

「それより、君は。君の名前は?」

「あー、あたし。あたしね、春子はるこ境田春子さかいだはるこ

 少女――境田春子は広げていた金銭を適当にまとめて、金庫を閉じる。黒のタンクトップに重ねた襟ぐりの広いシャツから延びた腕は、指先に至るまで全てが細い直線で構成されていた。肌は青白く、お世辞にも健康的とは言い難い顔色をしている。しっかりと施されたアイメイクと口紅は、彼女の雰囲気を余計に危うく見せていた。

「千賀のことはさー、むしろこっちが聞きたいんだよね。あの子どしたの?」

「……連絡が無い?」

「なのよ。そうなのよ。ぶっちゃけ今日もホントは千賀のシフトだったんだけど。携帯とか全然繋がらなくってさー」

 春子は、怒りを覚えているというよりむしろ、ただ困惑しているように見えた。長い前髪を横に撫でつけるのが癖なのか、口を開いている最中も同じ動作を繰り返している。

「僕も先週の金曜に会ったきりなんだ。ここのライブで」

「金曜日? あー、あれねー。シャンバラが飛び入りで来たって奴っしょ」

 シャンバラ。言われるまで忘れていた。千賀が演奏を素直に褒めることは、珍しいことだったというのに。

「あの時、君はどこに?」

「休みだったんだよねー。あたし。受付とか、接客系のスタッフって、普通そんなに頭数いらないから」

 こともなげに彼女は言うが。決して狭くはないローズ・ガーデンが満員に近かったことを御琴は覚えている。その観客を整理し、チケットを切り、誘導するという作業に、スタッフ達がかなり苦労したことは想像に難くない。

 そのことに同情するわけではないが、御琴は小さく嘆息した。

「それじゃ、あの日のことは分からないか」

「シャンバラが来るって分かってたら、多分出勤だったんだけどさー」

 春子は前髪に混じっていた枝毛を摘み、丁寧に裂いている。会話をする気があるのか、千賀を心配しているのか。いまいち分からない態度ではあった。

「つか、携帯取れないってどんな状況だよって感じ。マジどうしちゃったんだろ」

 その呟きには、御琴もまったく同意見だった。

 とりあえず、背後の美幸を振り返る。

「どうぞ、霧島さん」

「はい」

 ブレザーから真っ白い携帯電話を取り出すと、彼女は手早く写真画像を呼び出した。

 壁に張り付くようにして御琴をかわし、春子に電話のモニターを差し出す。

「あの、この子に見覚え――」

 金属の軋む音がした。

「あ。店長ー」

 それは扉の開く音だった。艶消しの黒で塗られた壁の一部が、実はドアになっていたらしい。ホールへと続く入口を遮った鉄扉から、男が姿を覗かせた。

「集計まだか」

 酷くざらついた声音だった。四十歳前後の人間にしては、喉が痛み過ぎている。長く艶の無い髪と猛禽類を思わせる眼は、男が生きてきた時間を想像させずには置かない。サイケデリックな柄のシャツと黒革のズボンに包まれた身体は、実に鋭角的な身体つきをしていた。春子の言によれば、どうやら彼がローズ・ガーデンの経営者らしい。

「つか店長、千賀の知り合いが来てるんですよー。例の、ジングウジ君」

 刹那。

 視線が突き刺さったのだと、御琴は思った。男はその鋭い眼を見開いて、貫かんばかりにこちらを凝視してくる。

 ことによっては、殺されるのではないかと思う――ただ視線そのものによって――あるいは全身が石化するなどの怪現象によって。

 電話機を差し出したまま、美幸が固まっている。闖入ちんにゅうしてきた男に怯えているのかもしれない。

「……どうも」

 言ってみる。

「あんたが」

 返答は予想通り、やすりの様な耳触りをしていた。

「あんたが神宮司御琴か」

 何故か無意味に否定したい衝動に駆られる。彼が神宮司御琴であることが、男にとって不都合となりうるのだろうか。そんなことはあり得ないと分かっていても。

 御琴がかろうじて頷くと、男は爪の伸びた手で顎先を撫でながら続けた。

「あんたのことは、相田から聞いている。色々とな」

 春子といい、店長らしき男といい、一体千賀から何を聞かされているのだろう。立て続けに他人から睨みつけられることは決して心地良い経験ではない。

「その、相田のことで、お聞きしたいんですが」

 男が微かに顎を引いたのを了承と受け取って、御琴は言葉を重ねた。

「先週の金曜、ライブの終演後。彼女がどこへ行ったのか、ご存知ありませんか」

 しばしの沈黙。入口の震えがようやく音楽の体を成す程度の。

「……楽屋に寄ってから帰ると言っていた」

 とつとつと、男が記憶を並べていく。

「出演者達に、探し人について尋ねたいと」

 初めて聞く話だった。

 千賀が人を探していたという。一体誰を。

「人を待たせているから、少しだけだと言っていたな」

 そこまで言って、男はまた御琴に視線を戻した。今度は問いかけのつもりなのだろう。

 御琴は静かに頭を振った。

「……待たされていたのは僕です。でも、結局彼女とは会えなかった」

 美幸達に遭遇したから、と言うつもりはなかった。千賀からの連絡はなく、こちらからかけた電話もまた、今に至るまで繋がってはいないのだから。

 面喰った様子の美幸には敢えて取り合わず、御琴は新たな問いを男へ投げた。

「あの時、楽屋にいた出演者達の連絡先を、教えてもらえませんか?」

 乾いて光の無い瞳から、感情を読み取ることは難しい。しかし御琴に、眼を逸らす理由は無かった。

 それで男に何かが伝わるとは、思ってはいなかったけれど。

「少し待ってろ」

 きびすを返して、店長はバックステージへ続いているのであろう扉の陰に消えた。

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