2-5 神か悪魔か、それとも他の何か

「――報告は以上になります」

 そう締めくくると、本条早苗は手にしたファイルを閉じた。

 灰色のタイトスカートが似合う女性は、そのほとんどが優秀である。彼女にはそう思わせるような冷静さがあった。加えて、一七〇センチに近い長身と精細な顔立ちとが、尚更彼女の印象を凛としたものにしている。顔にかかる長い黒髪をかきあげて、早苗はその涼やかな眼をこちらへと向けた。

 すっかり温くなってしまったコーヒーに口をつけて、彼女から視線を外す。

「時間がかかり過ぎね」

 冷めてしまったコーヒーは、痺れるほどの苦味を帯びていた。香りも無ければ酸味も無く、ただ拷問のように苦汁が口内に流れ込む。

「公安の連中に、頭数を増やすように伝えて。それから、手段も選ばないように。次に吹っ飛ぶのはおたくの車かもしれないって」

 顔をしかめて、カップをソーサーに戻す。白磁は触れ合うと、硬い音を鳴らした。

「分かりました、課長」

「あと、あの子には、全面協力するように言っておいて。折角だから公安の手帳を精いっぱい活用すること。奴らに恩が売れればエクセレント」

 嘯いて、彼女はハイバックに背中を預けた。ついでに床を蹴り、椅子を回転させる。

 振り向いたその先に、夜が広がっていた。藍色が薄く透けるような闇の底で、無数の光は揺らめいては消えていく。内堀通りにも桜田通りにも、常のようにタクシーの群れが赤々と瞬き、蠢いていた。差し詰め霞ヶ関の大動脈といったところか。要所にこぶが出来ては血液の流れが阻害されていき、見る見るうちにどろどろと淀み腐っていく。その腐臭は、二年前の事件以来、より強さを増して街を覆っていた。

 あるいは大規模な外科手術だとでもいうのだろうか。次代を担うはずの若者達による、連続自爆テロ事件は。

「馬鹿馬鹿しい」

 彼女は頭を振って、夢想を投げ捨てた。

 それを心配するのは、彼女達の仕事ではない――より切迫した危機は、いつだってそこにあるのだから。

「は?」

「馬鹿だって言ってんの。爆弾持って公務員の車に突っ込んで、それで何が変わるのよ」

 漏れる笑いは、嘲りに似ていた。それとも諦観か。

 彼女は黒革の背もたれ越しに、早苗を見やった。

「それで? まだ何かあるの」

 報告を終えた本条早苗が二分以上彼女の部屋に留まっているのは、大概他の懸案があるという徴だった。いつまで経っても提出されない報告書よりも、よっぽど迅速な早苗の勘を、彼女は信用していた。少なくとも、小耳に挟んでも構わないと思うほどには。

 ファイルを閉じたまま、早苗が口を開く。

「三日前、渋谷で起きた殺人事件ですが」

「……鑑定の結果は?」

 庁舎内に響き渡った事件発生の放送を、彼女はやはりこのオフィスで耳にしていた。現場は渋谷区道玄坂。人気の無い路地裏で、人間の頭部らしきものが発見されたと所轄から連絡が入ったのが、日付をまたいだ頃だった。当直の刑事達が乗り込んだ車両が次々に駐車場を出ていく様子は、オフィスの窓から眺めることが出来た。

「現場に残されていたのは、複数の遺体の一部でした。手や足、指先に頭部など、全てが揃わないものもあるそうですが。鑑識では七人分のDNAを検出したと」

「それはすごい。ブラッドバスね」

 思わず口笛を鳴らす。惨状は目に浮かぶようだった。東京の薄汚れた路地に降った、局所的な血の雨。せ返る様な鉄の匂いと人肌並に生暖かい風。至るところにまき散らされた臓物と皮膚と筋肉と。まるでウィスコンシンの惨劇のような。

 早苗は眉を潜めながらも、あくまで知り得る事実を述べ立てた。

「問題は遺体損壊の手段です」

 人体を混ぜ合わせるのに、問題とならない手法があるものか。彼女は胸中で皮肉る。

「全ての遺体に共通して、何か強い力で引き千切ったような切断面や、ぎざぎざとしたのこぎり状のもので一気に断ち切ったような――まるで《・・・》い《・》っ《・》た《・》か《・》の《・》よ《・》う《・》な《・》痕跡が残っているそうです」

 案の定、それは常軌を逸した難問だった。

 この大都会東京の片隅で、誰にも気付かれないうちに、七人分の肉体を引き千切ってミキサーにかけるにはどうすればよいか。もしそれが可能だったとして、一体誰が、何の目的でそんな悪魔のような――あるいは神の如き所業を成し得たのか。

 彼女は知っている。

 奴らにとって、それは造作もないことなのだと。

「――早苗、さっきの取り消し。すぐに真琴に連絡とって」

「はい」

「それと、事件発生当時の状況について、あるだけリポートをまとめておいて」

 言いながら、立ちあがる。そしてデスクの傍らに立ててあったコート掛けから、自身のジャケットを取り上げた。布越しに、警察手帳の重みを感じる。

「既に目撃証言がいくつか挙がっています」

 いつもの習慣で、彼女は手帳の中身を確かめた。

 警視庁警備部特殊事案課長とくしゅじあんかちょう竹内真由理たけうちまゆり。珍しく濃紺の制服を着込んだ彼女の顔写真も張り付けられている。

「遺体発見の直前に、路地から飛び出してきた男女がいたと」

「特徴は」

「年齢は十代後半。二人とも学校の制服らしきものを着ていて、酷く焦っている様子だった、とのことです」

 早苗の感情を織り交ぜない口調に、彼女――竹内真由理は、軽く眩暈めまいを感じた。

 月に一度、少年少女が爆弾を担いで人間を吹き飛ばしている。その裏で、高校生カップルが人体を細切れにして道にばらまいているとしたら、それはどんな悪夢だろう。真由理の理解を超えた若者達は、もしや神か悪魔か。それとも、他の何かなのだろうか。

(馬鹿馬鹿しい)

 脇下に吊ったホルスターの中身を確認して、真由理は上着に袖を通す。

 例えそれが神であれ、生きているのならば殺すことは出来る。そして必要ならば、引き金は驚くほど軽い。彼女達はただその為にいるのだから。

「出てくるわ。あとよろしく」

 酷く単純な結論だけを頭脳に刻み、彼女は部屋の扉を開けた。

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