2-4 神様って、いると思います?
世界が壊れてしまったのは、いつのことだろう。
予備校での授業を終えて中央線下りの車両に乗ったのは、午後六時を過ぎた頃だった。代々木で山手線に乗り換えると、渋谷までは二駅。人と人がすり潰しあう帰宅ラッシュを乗り越えて、ようやく美幸は渋谷の駅前に降り立った。
空はのっぺりとした藍色に染まり、沈みかけの太陽が申し訳程度の橙を散りばめている。満月は斬りつけるような鮮やかさで浮かんでいた。
振り返れば、光を浴びて白く浮かぶ駅舎がある。壁面に大きく掲げられているのは、『港区爆破テロ慰霊祭』のロゴマークだった。黒を基調としたデザインは暗澹としていて、渋谷にありがちな、けばけばしいほどの華やかさは微塵も感じさせない。JR側の建築はもとより、井の頭線への連絡通路や109のビルまで、全てが同一の意匠を掲げている。そのせいか、交差点の雰囲気は酷く重々しいものだった。
その光景が、ある意味では答えだったのかもしれない。つまり、誰もが知っていた世界が壊れたのは、二年前の春のことだった。
左手首の時計を見る。午後六時四二分。もしも彼が美幸の誘いに応じてくれたなら、もう渋谷にいてもおかしくはない。
渋谷109を左手に巨大交差点を渡り、ツタヤの巨大なビルに入る。一階のスターバックスでスモールサイズのカフェラテを買うと、美幸はエスカレーターに乗った。
先程通り過ぎた交差点を見下ろす、ガラス張りの二階カフェスペースには、多くの客がひしめいていた。昼と夜の境目に、人々は微かな息継ぎを行っている。仕事を終えたサラリーマンは元より、彼女と同じく制服姿のままカップをすする学生の姿も少なくなかった。反射的に知った顔を――薫の顔を探してしまう。
結局見つかったのは、窓側のカウンター席に座る一人の少年だった。少し目を伏せるようにして、大きなガラスの向こう、行き交う人の流れを眺めている。冷たく冴えた横顔。頬に貼られた白いガーゼが痛々しかった。
「あの」
呼びかけられて、振り向いた少年の表情は、やはり静かなまま。
「どうも」
「こ、こんばんは」
小さな会釈の後、彼が隣の椅子を示す。美幸は腰を下ろし、改めて少年と向き合った。
二日ぶり再会だった。得体の知れない男達の手から遮二無二逃亡した時の高揚感は、今はもう無い。冷静に考えてみれば、美幸と彼は、同じ学校に通っているというだけの、いわば赤の他人である。しかし共有する経験は、妙な親近感を抱かせるもので、なんだか彼女は面映ゆかった。
「ありがとうございます。わざわざ来てくれて」
「いえ」
御琴が首を振る。ガーゼもさることながら、白い顔にはいくつも小さな傷やかさぶたが残っていた。薄い肌の色と傷痕の赤みの色合いは、少女じみた造作に、剣呑な雰囲気を添えている。
「あの。怪我、大丈夫でしたか?」
「……はい。大したことはないです」
美幸の眼を遮るように、御琴はその手で下顎を覆った。筋張った手の甲にも、やはり擦り剥いたような
「あの時は、本当にありがとうございました」
先の夜には伝えられなかった言葉を述べて、頭を下げる。
「その、私、お礼が言いたくて。なんていうか、命の恩人、みたいな。でも、あの時はそんな余裕全然無かったから」
追ってくる人影が絶えたことを確認して、彼女をタクシーに押し込むと、御琴はすぐに姿を消してしまった。連絡先さえ分からず、彼自身の安否さえ美幸には分からないままだった。
御琴が目を細める。どこかの傷が痛んだのだろうか。
「いや。僕は……何も出来なかったから」
「そんなことないです。神宮司君のおかげです」
もう一度、辞儀をする。彼は逃げるように視線を景色に投げた。
もしかすると、嫌味か何かだと受け取られたのかもしれない。不安になる。しかしそれでも、あの夜、御琴だけが美幸の味方だったことには違いなかった。
「ごめんなさい、あの、私、実はお礼って言ってもどうしたらいいか分からなくて」
「いいです。別に、そんな気にしなくても」
ビルの外は既に暗く、数多の街灯やヘッドライトはガラス張りの壁に、ぼんやりとした光を投げかけていた。淡く浮かぶ灯火の狭間で、二人の眼が合う。
「少し、質問してもいいですか」
御琴が投げた呟きは、意外なものだった。むしろ訊きたいことがあったのはこちらだったのに。美幸が頷くと、御琴は続けた。
「あの時――ライブが終わってから、あいつらに襲われるまでの間に、相田に会いませんでしたか」
「相田?」
「相田千賀。僕らと一緒にいた、店員の女の子です」
言われて思い出す。あの時、カウンターの中にいた、ポニーテイルの刺々しい少女。
「……神宮司君達と別れてからは、一度も会ってないと思います」
薫に似た少女を見たという女性に出会うまで、美幸はひたすら聞き込みを続けていて、カウンターで飲み物を頼む暇はなかった。いや、意図的に避けていた、というのが正確かもしれないが。
「……そうですか。すいません、急に変なこと聞いて」
それがおかしな質問だとは、思わなかった。彼女が幾度となく繰り返してきた問いかけも、似たようなものだったのだから。
「もしかして。その、相田さんも、まさか」
「あの日から連絡がつかなくて、今日は学校にも来てなかったので。はっきりと、いなくなったというわけじゃないんですけど」
合点がいった。御琴は、薫と同じように姿を消してしまった恋人を探すために、美幸の誘いに応じたのだ。そうでなければ、わざわざ美幸に会おうとするはずがない。
「探してるんですね。彼女を」
「……もし本当に、失踪していたら、ですけど」
添えるような一言だったが、それでも不安の色は拭い去れない。
今度は美幸が訊ねる番だった。もしも
「神宮司君、あの、いいですか」
「どうぞ」
一体どこから話すべきなのか、少し迷う。しかし考えるまでもなくはっきりしているのは、彼女自身ほとんど何も分かってはいないということだった。何故薫は姿を消したのか。人形のような男達は薫の何を知っていたのか。そして今、薫はどこにいるのか。
結局は、始まりから話していく他にないのだろう。
「……神様って、いると思います?」
「神様?」
意表を突かれ、御琴が目を瞬かせた。聞き返したその気持ちは、美幸にもよく分かる。
もう一度、美幸は繰り返した。
「はい。人間よりもずっと凄い、大きな存在です」
言葉に対する彼の反応は、美幸の予想とは違っていた――困惑、疑念、
彼は、言葉を受け流そうとはしなかった。むしろ真意を探るかのように、こちらの表情を窺っている。瘡蓋の残る手が、並々と水が入った紙容器を掴んだ。
「いてもいいかな、とは思います」
言葉少なに呟いて、御琴は紙コップの中身を啜る。
美幸は、思わず問いを重ねた。
「本当に?」
「うん」
御琴は、茶化すでもなく、ただ首肯した。
今度は彼女がその顔を凝視する。ようやくあえかな微笑みを見せて、彼は言った。
「うち、神社なんですよ。神の宮を司る、と書いて神宮司」
空いている方の手が、言葉通りの文字を描いた。
それは果たして根拠になりうるのだろうか。つまりは、美幸自身と全く同じ答えを返した、その事実に対して。
「それ、私と同じです」
「同じ?」
「私もそうやって答えたんです。薫に、同じことを訊かれて」
屋上で戯れる都築薫の姿を、美幸は忘れられずにいた。少し煙った空の青さや、薫の纏うシャツの白、吹き抜ける風の匂い。笑っていたはずの、彼女の後姿。
「私、思ってるんです。薫は、神隠しにあったんじゃないかって」
思っていたことを誰かに話したのは、初めてだったのだけれど。御琴は様子を伺うこちらの意図など、まったく気にしていないようだった。
「神隠し」
確認するように口にして、視線だけで先を促してくる。
「……神様の話をした次の日、薫は学校に来なかったんです。風邪かとも思ったんですけど、携帯は繋がらないし、それで何日かしたら、親とか警察も探してる、っていう話がホームルームで出たりして」
失踪や不登校とは縁遠いと思われていた薫がいなくなったことは、瞬く間に教室や学年の話題となった。しかし、生徒達の会話の主軸は、すぐに近づく模試の対策へと移り変わっていった。彼女もそれが気にならなかったかといえば、嘘になる。
「それで、なんで渋谷に?」
「調べたんです。薫の周りのこと。そしたらあの子、ブログ書いてたんですよ。その中で、この辺りのライブハウスによく出入りしてるって」
美幸は知らなかった。薫が渋谷でインディーズバンドを追いかけていることも、そもそもブログを書いていたことさえ。そのことは少なからず彼女を落ち込ませもしたが、結局勝ったのは好奇心だった。クラスメイト達に囲まれながら、薫は何を考えていたのだろう。あの空の下で、薫は何を思っていたのだろう。
「なるほど」
御琴は得心したのか、再びカップに口付ける。
「この前の……ローズ・ガーデン、でしたっけ。ものすごいたくさん人がいて、びっくりしました。流石に一人一人というわけにはいかなかったんですけど、なんとか、話を聞いてもらったんです。そのうち女の人が、知ってるかもしれないって言うんで、ライブが終わってから話を聞かせてもらうことにしたら、その」
「変な連中に襲われた、と」
刹那、背筋に震えが走った。男達の危うい目付きを思い出す。
「あの人……女の人、突然雰囲気が変わって。すごい力で路地に引き込まれました」
指の食い込む感触が蘇る。気付けば美幸は、右の手首を左手で庇っていた。
それに少し目を留めて、御琴はおもむろに手元の水を飲み干した。
「……話は大体分かりました。ありがとうございました」
立ち上がるその所作が何気ないせいで、一瞬言葉を忘れそうになる。
「えっ、あの、あ、もう行くんですか」
「すいません。少し寄りたい所があるので」
それはある意味で予想通りの答えだったのだが。
淡々とバッグを肩に負う彼を尻目に、慌てて美幸もカフェラテに口をつける。
「ちょっと待――熱っ」
細かく泡立てられたミルクが、舌の上をとろりと滑ったその直後、焦熱のエスプレッソが流れ込んできた。必死に飲み下し、焼ける喉からせり上がる悲鳴を押し殺す。
「――――」
流石に振り向いた御琴が、どこか呆れた様子で言う。
「いや、あの、無理はしない方が」
「……あの、私も、行きます」
途切れそうになる声を繋いで、彼女は宣言した。
「行くつもりなんですよね。ローズ・ガーデンに、もう一度」
ほんの微か、御琴の頬が強張る。美幸の推測は間違っていなかったらしい。
畳み掛けるように口を開く。
「私もそのつもりでしたから。今の所、あそこしか手掛かりはないですし。それに」
「……それに?」
「何かあったら、また守ってあげますから」
言って、美幸は笑った。ついでにバッグを――和英辞典とその他参考書をずっしりと詰め込んだバッグを片手で持ち上げてみせる。
それはもちろん冗談のつもりだったのだけれど。
「……そうですか」
結局御琴は呟いただけで、美幸はむしろ何故だか自分が酷く哀れな生き物のような気持ちになったのだった。
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