2-2 男女交際禁止条例

「お疲れ様です、霧島先輩!」

 その呼び声は、明朗にして快活だった――彼女の物思いを打ち切るほどには。

 美幸を見つけると、白石智子しらいしさとこは手で大きくアピールしてきた。どう答えればいいか迷っているうちに、げっ歯類めいた素早さで彼女が駆け寄ってくる。

「大変ですねー受験生。自習ですか?」

「うん。数学」

 持っていたシャープペンシルを置き、美幸は智子さとこに向き直る。どうせテキストを開いたまま思索にふけっていたのだから、今更構うこともない。

「え、数学ですか? もう先輩すごいなあ、医学部志望は伊達じゃないですね!」

 ブレザーの黒い肩に触れて、栗色の髪が揺れる。無自覚に発せられる歓声は、空間いっぱいに響いていた。白で統一された内装のラウンジに寄り集う、予備校生達の視線が痛い。なんとなく辺りをうかがってしまう美幸をよそに、彼女は隣のスツールに腰掛ける。

「やだなー数学。ってか予備校とかホントやだ。帰りたい」

 ビビッドな紫色をしたリュックサックを膝に乗せると、智子はその中を覗き込む。大方その中には、二年生向けの数学に関するテキストが入っているのだろう。

 美幸は苦笑しつつ、智子の鞄を横から覗き込む。

「私も嫌いだった。そのテキスト」

 ちょうど一年前、同じオレンジ色の冊子に挑んだことがあった。二時間ほどで、積み上げた問題集の一番下にすべり込ませてしまったが。

「ですよねー。あー、マジ文系行きたい。私立文系」

 ペンケースと問題集、そして硬水の入ったペットボトルを広げても、智子の愚痴は止まらない。くるっとこちらに顔を向け、立ち向かうべき課題を視界から外してしまう。

「てか先輩、部活来てくださいよー。みんな待ってますよ?」

 昨年末に文芸部を引退してから、美幸は一度も部室に行っていなかった。元々文化部の参加不参加など曖昧なものだったが、彼女は敢えて後輩達を遠ざけていた。

「うん、ありがとう」

 曖昧に笑いながら、再びシャープペンシルを握る。

「香奈とか沙織とか、ホント先輩ラブなんですから」

 決して嫌いだとか、そういう感情があるわけではなかった。智子に対しても、他の後輩達に対しても。ただ、妙な自戒が胸にあった。受験生としての覚悟とでもいえばいいのだろうか。後ろに退けば、二度と前には進めない。そんな気がしていた。ただ、それを智子に言ったところで、理解はしてもらえないかもしれない。

 そうして、思い付きで話を逸らせようとする。

「あの。智子ちゃんって、何組なの?」

「A組ですよ。二年A組。槇田まきた先生のクラスです」

 槇田響子といえば、どうにも頼りない新米教師として、良くも悪くも教師や生徒達の関心を集める女性ではなかったか。半泣きで生徒に教えを説く姿を、美幸も何度か見たことがある。

 そんな女教師が担当するクラスに、彼がいたらどうなるだろう、とは思ったが。

「じゃあ、神宮司君って知ってます? 神宮司御琴君」

「えっ。先輩、アイツの事、知ってるんですか?」

 心なしか、智子の顔色が明るくなる。

「うん、ちょっとね」

 正直に言ってはみたが、その経緯をどう説明をすればいいのだろう。三日前の金曜日、夜の渋谷で不気味な少年たちに襲われた美幸を助けてくれた恩人。知っているのは名前と、彼女達と同じ学校に通う高校生であるということだけ。彼女の安全を確認すると、何も言わずに姿を消した――いかにも現実感のない話だった。美幸自身、本当に起きたことなのか、記憶を疑いたくなる。

「アレに目を付けるなんて、流石は先輩ですね!」

 彼女は一際ひときわ目を輝かせて、身を乗り出してきた。

「えっ? どういうこと?」

「あの、あいつ、なんていうか……受けっぽくありません?」

「……はあ?」

 言ってしまった後悔よりも、訊ねてしまった後悔の方が大きい。

 智子が、なんと言うべきか――品のない笑顔を浮かべるのを見ながら、美幸は思った。

「マジあいつ、すっごい根暗で! いや話したことないんですけど、でもすごい影背負っちゃってるんですよ! それでそれで、なんかいつも冷めた目で物事を見てるって感じで、俺には関係ねーみたいな態度で一匹狼の、いえあくまでこれ妄想なんですけど、もうそういう感じがたまらなくそそるっていうか」

 口角から涎を垂らしかねない――実際垂らしていたかもしれない――熱っぽさで、彼女は語る。

「先輩も分かるでしょ? あの、なんか、あの感じ」

「ええっと……うん、まあ」

「なんていうのかなぁ……グッと来てツン、デレって感じ。たまらないんですよあれ」

 それ以上喋らせておくと、何を口走るのか心配になって、美幸は小さく諸手を挙げた。

「それで、あの、智子ちゃん」

「はい?」

「神宮司君の連絡先って、知ってる?」

 智子の愛嬌のある目元が鋭くなるのを、彼女は見た。そしてまた迂闊なことを訊ねたのだと気付いた。

「……せんぱぁ~い」

 控え目に言って底意地の悪い声音で、智子が擦り寄ってくる。彼女のたくましい想像力は、決してフィクションに対してだけ発揮されるのではない。何故美幸はそのことを忘れていたのだろう。

「あの、違うの、聞いて智子ちゃん」

「そうですかぁ、あの、純情力二十三万とかリアル少女漫画とか男女交際禁止条例とか初恋未満とか言われてた先輩にも、とうとうね、そういうね、あの、アレがね。来ちゃったんですねぇ、もう、春だしねぇ」

「違うから、本当に、そういうのじゃなくって」

 必死に言い訳を考えてみるが、いまいち上手くまとまらない。

 智子はそんな彼女の苦悩を気にも留めないようだった。

「いいですよ先輩、遠慮することないですよ。ボクと先輩の仲じゃないですか、もう! ホント水臭いっていうか。カルキ臭い。マジで。もう一瞬で調べますから。待っててください。速攻ですから。瞬く間ですから」

 言うが早いか、彼女がブレザーのポケットから携帯電話を取り出す。そのキー操作は、確かに美幸には真似できないほどの早業だったが。

「はいオッケー。細工は流々、あとは仕上げを御覧ごろうじろ、という感じです」

 満面の笑みで、智子は宣言した。

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