第二章 きっとどこかにいるのだと

2-1 嫌いじゃないけど、面倒臭い

 ――車輌は炎に包まれました。火はすぐに消し止められましたが、中に乗っていた……は全員死亡が確認されました――

「――――」

 ――警視庁ではこれをテロ事件とみなし、捜査本部を……――竹内正蔵たけうちしょうぞう警視総監はこの件について会見を開き……

「――きて」

 事件を未然に防ぐことは出来なかったのか、問題の追及が叫ばれています――

「おきて――ぐうじ……っ!」

 ……続いてのニュースは――

「――神宮司君っ!」

 言葉は最早、叫びに近かった。

「――え?」

 全てが覚醒する。変化は急激だった。失くしていた何かを取り戻したように。

 差し込む光に目が眩む様で、ふらふらと視線を漂わせる。

 視界の隅に何かが動いた。自然、眼差しがそちらへ向かう。

「……いつまで寝てるのっ、神宮司君!」

 そこにいたのは、一人の女性だった。

 黒々とした眉を吊り上げ、柔らかな卵形の顔を紅くしている。いつもと同じ、地味な濃灰色のセットアップ。あからさまな怒りの表情――いまいち迫力に欠けてはいるが。真っ直ぐ伸びた黒髪を震わせるようにしながら、彼女は続けた。

「せ、先生だって、怒るときは怒るのよ! 聞いてるの、神宮司君っ」

 勢いよく、机が叩かれる。反射的に背筋を伸ばしつつ、彼は徐々に自分が目を醒ましていくのを感じていた。

「……あ、あのね、神宮司君。わ、分かるよね。なんで先生が怒ってるか」

 酷く深刻な調子で、しかしどこか上滑りした様子で、彼女――私立祥星しょうせい学園二年B組担任教師である槇田響子まきたきょうこが口を開く。いかにも重要な事実を確認するかのように。

「はい」

 誰が電源を入れたのか。教室の隅のテレビが淡々とニュースを吐き出し続けている。頻発する爆破テロの特集から一転、若者文化の紹介コーナーが始まっていた。流行発信地、渋谷の街で流行しているあるものとは――

 傾き始めた光の差し込む校舎には、死に絶えていた全てが一斉に息を吹き返したようにざわめきが満ちていた。鞄を抱えて走り出した少年に、いそいそとロッカーから掃除用具を取り出す少女達。机を囲んで四方山話に花を咲かせるのは、男も女も大差がない。教室から溢れ出した終業の開放感は、目に見えて渦を巻いているようだった。

「……授業、もう終わりました?」

「そ、そうよ、もう、放課後よ」

 彼は頷いて、机の脇にかけてあったナイロンの学生鞄を掴みあげた。

「じゃ、また明日」

「違うーっ! ち、違うでしょ神宮司君っ」

 けたたましい叫び声をあげながら、肩を押さえつけられる。

「ねえ神宮司君。君、朝からずっと寝てるんだよ。寝っ放しだよ。も、もも、もうちょっとなんかあるでしょ」

「……寝不足なんですよ」

「また! いっつもそれ! じ、神宮司君、あ、あなたどういう生活してるの?」

 どうしてそんなにわめき散らせるのか。どうすれば解放してくれるのか。

 思わず考え込む――

「え、お前、マジ寝だったの? うっわ、ありえねー」

 背後から上がる声。そこにはいつの間にか、康介がいた。呆れたように御琴を見下ろしている。大胆に頭を振って、手の中のモップを弄ぶ。

「お前やれよ、掃除。当番だろ。ちょっとでいいからさ、マジで」

「ああ……うん」

 渡りに船かもしれない。何やら言いかけた響子を無視して、彼は立ち上がった。

「ち、ちょっと、神宮司君、話はまだ終わってないのよっ」

「まあまあ響子ちゃん、そう怒らないで。どうせいつものことなんだからさ」

「響子ちゃんって言わないで! あ、芦谷君、あ、あなただってさっき」

 それ以上聞くつもりは無いのか、康介は面倒くさそうに響子へ手を振った。

「つか、おい。お前どうしたのよ、それ」

 視線だけで示してくる。

 ガーゼで覆った口の端ごと、御琴は左手で顔を抑えた。切れた唇は週末の二日間で治っていたが、白い布の下にはまだ青々とした痣が残っていた。

「いや、別に」

「別にってことはねえだろ。めっちゃ重傷っぽいんですけど」

 そこまで言って、康介は突然目を見開いた。何かを閃いた、とでも言いたげに。

「そうか! お前、まさかあれか、ヤッちゃったのか、相田を!」

 有り得ないほど――腹立たしいほど大きな声で、康介が叫ぶ。

 教室の空気が、静止した。一瞬の後、空中で停滞していた生徒達の意識が、音よりも速く集まってくるのを感じる。

「や、やややや、やっ――芦谷君! 何言ってるの芦谷君!!」

「そうか、お前もようやくレボリューションしたんだな。お父さんは嬉しいよ」

「……僕は悲しいよ。いいクラスメイトだと思ってたのに」

 とりあえず絶縁を宣言して、御琴は席を立った。学校指定の鞄を肩にかけ、真っ直ぐ教室の外を目指す。

「おい、ここはツッコむ所だぞ、神宮司」

 何やら言ってよこす康介を、肩越しに見やる。

「階段で転んだだけだよ。結局相田は来なかったし」

 その事実は、この教室にあっては妙に白々しい印象だった。階段で転んだというのは嘘だったとしても。一時間待っても、千賀が姿を見せなかったのは本当の事だった。

「嘘つけ! 空気を読んでクールに去った俺に感謝してんだろ、な?」

 むしろ康介がいたのなら、多勢に無勢とはいえ、あそこまで無様に蹴り倒されることも無かっただろう。そう思うと、逆に腹が立ってくる。

「気を利かせるつもりなら、余計なこと言わないでくれ」

「やっぱヤッちゃったんだろ? な?」

「しつこい。お前が帰ってから、相田の顔は一度も見てない」

 何人かの男子が、好奇心を剥き出しにして御琴の顔色を伺っている。軽蔑に近い目線を送ってくるのは大抵が女子だった。どちらにしても、彼にはあまり関係がなかったが。

「マジで? ホントに、ガチでマジなの?」

「誓ってもいい」

「うっそ。じゃあ俺の読みはハズレかぁ」

 口惜しげに康介がぼやく。彼が振り向くその先を、御琴は目で追った。

「あいつ、今日、学校来てねーんだよ」

 教室の窓際、教卓から最も離れた位置にある千賀の席は、傾きかけた日差しの中にあった。大小様々な傷が刻まれた木目の天板が、身に受けた光を不規則に反射している。

「お前と顔合わせづらいからじゃねえかと思ってたんだけど」

 珍しく静かに、康介が呟いた。何か考えているのか、いないのか。

 御琴は何故か、妙な喉の渇きを覚えた。

 いつから置いてきぼりを食っているのだろう。響子は迷子じみた不安げな表情で、康介と御琴の間で視線を行き来させている。

「ふ、二人とも、相田さんのお休みの件、な、何か知ってるの?」

 大ぶりな瞳を潤ませられたところで、御琴には何も答えられない。

 とにかく、確認する。

「先生。今日、相田から連絡はありましたか?」

「あ、ううん。な、なかったわ。相田さんのおうちは、ご両親ともお忙しいし」

 突然矛先を向けられて、響子は目を瞬かせた。

「いつも本人から電話があるんだけど」

 御琴もいつか聞いたことがあった。千賀の両親はかなりの放任主義――かどうかは分からないが、とにかく不規則な仕事をしていて、生活は完全にすれ違いだという。その上、小遣いなども無く、日常の雑費は全てアルバイトで稼いだものらしい。過去の貯蓄を頼りに暮らしている御琴にしてみれば、尊敬に値する生活である。

「まあ、じゃあ風邪でも引いたんじゃね? つか、掃除。ほれ」

 康介が自分の使っていたモップを差し出してくる。

 御琴は適当に頷いて、上着から携帯電話を取り出した。千賀の番号を呼び出して、通話ボタンをタップする。

「ちょ、ちょっと神宮司君、き、教室では携帯禁止!」

 コール音は続く。三回。四回。接続ノイズが弾けた。

 ――留守番電話の音声サービスが流暢に喋り出す。

 御琴は通話を切った。予感がした。よく当たる方の……つまりは嫌な予感が。

「じ、神宮司君。先生、怒りますよ。い、いいの?」

 考え過ぎなのだろうか。いや。頭の奥の方に、重く痛みが圧し掛かってくる。徹底的に蹴りつけられた全身のどこか、否、どこからともなく、そこかしこから。

「ね、あの、神宮司君」

 思い出すのは、やはり少女だった。霧島美幸。行方を晦ませた同級生を探して、渋谷のライブハウスにやってきた少女。そしてそのライブハウスで姿を消した相田千賀。

 吐き気のように重苦しい想像を、御琴は脳裏から追い払おうとする。

「――もぉぉぉぉ、神宮司君っ!」

 叫びは最早、号泣に近かった。

 思わずきょとんと、眼前の――涙で瞳を揺らす響子の顔を見つめる。長い睫毛まつげに縁取られた大きな眼が、実に美しくはあったが。

「……ねえ、神宮司君! 先生のこと、嫌いなの!?」

 問いかけには何と答えればよいのだろう。何故か彼が思いついたのは、餌をねだる小動物の姿だった。

「嫌いではないです。でも、そういうことを聞かれるのは面倒臭いです」

 一瞬にして、彼女の表情が歪む。それは劇的な変化だった。

「ひどい……」

「容赦ねえな、お前」

 康介の言葉は、どちらかといえば憐れみの色があったのかもしれない。ともあれ、御琴は鞄の紐を肩にかけると、教室の扉を目指す――

「……あの、先生」

 いつの間にか、がっちりと。鞄は響子に握られていた。

「離してもらえませんか」

「あの、先生、あの、悪い所あったら直すから、あの、生徒指導室で、ね、あの」

 半分以上泣きじゃくっているにもかかわらず、予想外の力強さで彼女が歩き出す。御琴が向かうのと正反対の方向へ。

「え、いや、先生。僕、帰りたいんですけど」

 とりあえず抗議してみるが、聞こえているのかどうか。ほとんど引きずられるようにして後をついていく。

「先生、あの、確かにうるさい所とか、あるかもしれないけど、あの、あのね」

 こんな時に都合よく救助や援助はないものかと教室を見回してみるが、結果は予想通りでしかない。

 押し付けようとしていたモップを弄びながら、康介が投げやりにこちらを見送っていた。ぶらぶらと手首を揺らしつつ。

「頑張れ、レボリューション神宮司。全米が今、お前を応援してるぞ」

 いっそ聞かない方がよかったと、御琴は思った。

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