1-5 二人は、夜の闇へ

 ――全力で振り回したボストンバッグは、見事に男の頭を薙ぎ払った。

「放してって、言ってるじゃないですか!」

 赤い野球帽が、宙を舞う。

 瞬間。全てが静止した。

 鞄の重みによろめきながら、美幸は地面を蹴る。錐揉みしながらゴミの山に突っ込んでいく男を尻目に、中学生と思しき少女の背中へ全速力でぶつかって行く。

 不意の激突に、女子中学生が派手に転倒する。巻き込まれぬよう踏ん張りを利かせ、彼女は怒鳴った。

「立って!」

「……え」

「逃げるんですよ!」

 とにかく力をこめて、再び鞄を振るう。今度は取っ手の部分が、長い髪ごと女の首を巻き込んだ。すぐさまバッグを引き戻すと、引き摺られるように女が転げる。

 自分のどこにこんな力があったのか。美幸自身が一番驚いていた。ともあれ、潰れた蛙のように這い蹲る少年を呼ぶ。

「早く――」

 突如、凄まじい力で引っ張られる。襟首を掴まれたのだと気付いたときには、彼女は宙に浮いていた。

 背中から金網に叩きつけられる。けたたましい音を立てて、針金の集合体が揺れた。続く落下の衝撃に、軽く悶絶する。だが、呻くような余裕は無かった。

 美幸を投げ放った勢いもそのままに、男がもう拳を振りかぶっている。

 逃げられない。フェンスを掴んだところで、立ち上がる間さえない。

 思わず身体を固くして、目を閉じかける。

 しかし。

 奇妙な動きだった。男は自らが繰り出した拳固に引っ張られるように、空を舞う。数瞬前の美幸と同じように、金網へと飛び込んでいく。

 ただし、彼女の数倍の勢いで――金網を突き破らんばかりに。

 彼等を糸繰いとくる何者かが手を滑らせた。一瞬、そんな妄想が浮かぶ。

「――走れ!」

 怒号。そして数多の鉄線が掻き鳴らす不快な音。

 我に返る。

「はいっ」

 美幸が答えたときには、半ば腹這うようにして、御琴は走り出していた。

 薄い唇が無残に破れ、赤く染まっている。黒の上着には乾いた土がこびりついていた。

 どこかが痛んだのか。走る彼の背中がよろめく。

 彼女は思わず、その手を取っていた。痛々しく皮膚のえぐれた華奢な手。しっかりと握り締め、かしぐ体重を引き戻す。

 ほんの刹那、目が合って――

 二人は、夜の闇へと駆け出していった。

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