1-4 やっぱり、やめとけばよかった
「ごめん、神宮司。ライブ終わったら、ちょっと待っててくれない?」
腕時計の針は十一時に届くか否か、というところだった。
春とはいえ、渋谷の路地を吹きぬける風はまだ冷たさが抜けきっていない。制服のポケットに手を入れ直し、少し背中を丸める。
シャンバラを含めた四つのバンドによる合同ライブが終わって、既に一時間が過ぎようとしていた。ローズ・ガーデンへと降りて行く階段の前には、未だ人だかりが絶えない。シャンバラファンの少女達や、それに群がる少年達の熱気は衰えることを知らないように見えた。
御琴の中にも、シャンバラがまき散らした熱が未だ冷めやらずにいる。腹の底から熱くなる衝動の塊。しかし、冷めた目は裏腹に観客達を見つめている。
それが彼だった。遠くから眺め、考え、そして押し黙る。そこにいても、どこにいても。どうすればいいのか、どこにいればいいのかも分からないまま。
だからというわけではないが、御琴は気付いていた。どこにもいない彼女のことを。
(何処に行ったんだろう)
眼鏡をかけた三つ編みの少女。霧島美幸。
演奏に沸く会場の中で、聴衆に声をかけて回る彼女を、御琴は眼の端で追っていた。明らかに場にそぐわない立ち振る舞い。真面目腐った顔で問いを発する女子中学生――としか思えない――が、観客達から胡乱な眼差しで迎えられたことは想像に難くない。
ライブハウスの前で騒ぐ少年少女たちの中に、美幸の影は無かった。今頃、手ごたえの無さに愕然として帰途についているか、それとも新たな手がかりを見つけて、探偵業に勤しんでいるのだろうか。
ライブが終演を迎えて、ということは、すなわち千賀から突然の待機を命じられてから一時間が立つということでもあった。待つことは嫌いではなかったが、待たされる理由が分からないというのは奇妙な気分だった。
奇妙といえば、そもそも彼がこの機会に呼ばれたことも。
ブレザーの内ポケットに入れていた携帯電話を取り出す。千賀からの連絡は無かった。しかし、メールが一通来ている。さっさと先に帰ったはずの康介から。
『頑張れよ!! お兄さん、応援してるから!!』
やたらと感嘆符が付いた文面。メールでさえ、大袈裟な男だった。
千賀と康介の仲が良いことは、御琴も知っていた――本人達は力いっぱい否定するだろうが。二人が教室で、音楽やミュージシャンについて熱く語り合っているのを、傍観しているのが彼の立場だった。
そんな二人がライブを見に行くというのなら、御琴も素直に納得できたのだが。
『相田が出てこない。寒い。帰りたい』
とりあえず返信する。程なく液晶が、光量を落とした。
ふと視線を上げる。
夜が明るい。規則正しく並んだ街灯は煌々と道を照らし、ネオンサインや飲食店の看板はこれでもかと自らの役目を果たしている。時折走り抜ける車のヘッドライトは、いちいち目を細めなければ耐えられそうに無い。
とはいえ、人は光なしに闇を見通すことは出来ない。人類が暗闇を恐れるのは、それが危険だというよりもむしろ、理解ができないからだろう。目に見えないものが自分にとって安全なのか、有害なのか分からない。
ならばこそ、暗闇を遠ざける。不安や不確定要素には関わらない。それは、合理的な生活方針だった。
だから、灯りの届かない路地の向こう、ビルの裏側から物音が聞こえてきた時も、彼は努めて無視しようとした。顔を向けてしまったことさえ後悔する。
何かが詰め込まれたビニール袋が弾ける耳障りな音がした。積み上げられた飲食店のゴミが風で崩れたのだろう。
しかし、続いてくぐもった罵声が聞こえたことは、疑いようもなかった。
(……なんだろう)
酔っ払いの独り相撲という可能性もある。金曜日、しかも深夜の渋谷なら、珍しくない。
車も通れないほど狭い道は両側を薄汚い建築に挟まれ、街灯の瞬きから逃げるように暗く沈んでいた。ビル風に巻き上げられた砂利が眼に痛い。
気付けば、彼は漫然と歩き出していた。
なんとなく、考える。それは予感というより妄想に近かったが。
(あの子はどこにいる?)
霧島美幸の顔が、脳裏に甦る。レンズの向こう、大ぶりな黒瞳。その真剣な眼差し。真っ直ぐであるが故に、夜の暗さにも気付かない。
厄介事には関わりたくなかった。今時、危険は一山いくらと言っていいぐらいにありふれている。白昼堂々と自爆テロが起きるような世の中、不安を数えればきりがない。
仮に、同じ学校に通う少女の一人が渋谷の裏に消えたところで、自分の生活にどれほどの影響があるだろう。
彼は考えている。そしてまたいつものように、沈黙する。
(……ただ、見に行くだけだ)
一つ目の角を曲がって建物の裏に入ると、再び突風が吹いた。刺すように舞い散る砂塵を腕でかわしながら、歩いていく。ビルの影を抜け、御琴は更に角を曲がった。
(関係なければ、それでいい。危ないなら逃げればいい)
更に狭くなった道を、ひび割れた街並みが押し固めている。居並ぶ建造物は酷く朽ちていて、夜でなければ――窓から漏れる光がなければ、廃墟にしか見えなかっただろう。錆の浮いた金網を右手にして進みつつ、彼はふと、いつから渋谷はこんな風になってしまったのだろうかと思った。
くすんだ配管が括りつけられた壁の先から、弱々しい灯りが漏れている。
御琴は祈るような気持ちだった。
出来る事なら、ただの勘違いであってほしいと。
「――やめてくださいっ!」
そこに、彼女達はいた。
一人の少女を、六人ほどの人影が囲んでいる。ポリバケツやうず高く積まれたゴミ袋を背に、少女は腰を落として何やら身構えているように見えた。街灯の淡い光が、微かに彼女の横顔を照らし出している。
忘れようもない、幼さを残した面差し――
銀縁眼鏡越しに人垣を睨みつけ、少女が吠えた。
「何なんですか、あなた達」
投げつけたその問いは、誰にも届くことなく、虚しく夜に吸い込まれていく。
彼女を取り囲む六人は、一人として答えようとしなかった――ただの一言も発さない。
よくよく見てみれば、彼等はまったく異様だった。共通点らしいものが見当たらない、雰囲気の異なる男女。セルフレームの眼鏡をかけた神経質そうな青年や、金髪を逆立たせた色黒の男、野暮ったいロングスカートの女性……何の接点もなさそうな人々が、一様に沈黙したまま少女を追い詰めていた。
そのうちの一人、大きすぎるジーンズとTシャツを着た少年が、彼女に手を伸ばす。
長い三つ編みを振り乱して、少女はその手を振り払った。
「さ、触らないでって言ってるじゃないですか――」
「おい」
思わず、彼は声を上げていた。
「何やってるんだ、あんた達」
一斉に。
六人が振り向いた。まったく同じ動作、まったく同じ呼吸で。
都合十二の眼差しが、御琴に注がれる。
「何を、してるんだ」
言いながら、既に後悔が喉元にまでせり上がってきていた。身体中の汗腺が開いたかのような錯覚。投げつけた言葉に力があったかどうか。
脅されていたはずの少女でさえ、驚きに満ちた、いっそ暢気な顔でこちらを見ている。
「あなたは……」
「その子が何をしたっていうんだ」
男達は喋る気配さえ見せようとはしなかった。
音も無く、三人が近づいて来る。調律されたように、同一の挙動、狂いの無い速さで。
その眼はこちらを見ているのか。
「……なんとか言えよ」
いや。それを眼差しと呼んでしまってよかったのか。瞳孔の開ききった眼球は、むしろ暗闇を連想させた。その奥を見通すことはできない。
避けるべき危機。麻薬中毒者、という言葉が頭を過ぎる。
「やだ、ダメ、逃げてくださいっ」
美幸が声を上げる。
金髪の男は、長く茶色い髪を巻いた女は、露出度のやたら高い少女は、足を止めない。
出遅れた緊張と恐怖が、爆発的な勢いで内臓を広がっていく。
最も歩幅が大きいのだろう、男が迫ってくる。一足で彼を殴りつけられる距離まで。
振り払うように、御琴は叫んだ。
「何か言えって――っ」
男の拳は、言葉よりも早かった。
熱さにも似た痛みが、腹の辺りで炸裂する。声にならない息が漏れた。身体が勝手に二つ折りになる。
「やめて! やめてください!」
張り上げられる少女の声は、悲鳴じみていた。
叩きつけられた衝撃で顎が弾ける。今度はブーツのようだった。横倒しになる御琴の胸を、尖ったつま先が追い打つ。吐き出す空気も無く、ただ痛みが肋骨に響いた。
アスファルトに頭を叩きつけられる。踏みつけにしてくるスニーカーの下で、御琴は無理やり叫びをあげた。
「逃――げろ!」
「その人は関係ないからっ! やめてください!」
美幸の絶叫がどこから聞こえてくるのか、もう分からない。
「いいから、逃げろ!」
両手で踏ん張り、ゴム底の下から首を無理矢理引っこ抜く。そのまま立ち上がろうとするが、腰に一撃を喰らう。酷く無様な転び方だった。固い路面を倒れて仰向けになると、続けて腹を踏まれる。肩にサッカーボールキック。転がされたところで背中に一発。
壊れたメトロノームのような凄まじいリズムで、足が振り下ろされる。痛い――どこが痛いという訳ではなく、むしろ痛みを感じない部位が無い。
(やっぱりか)
立ち上がろうとすれば指を踏みにじられ、悲鳴をあげる前に横面を蹴り飛ばされる。
(やっぱり、失敗だ。こんなこと、やめとけばよかったんだ)
そんな後悔の念さえ、どこかに薄らいでいく。
「――――」
浮かび上がってくる、憤怒。訳も分からないまま、怒りだけが頭の中で蠢く。それは、間抜けで無力な自分に向けられたものなのか、理不尽な暴力に向けられたものなのか、それとも他の何かなのか。
眼窩の奥が疼いた。頭蓋を圧迫する興奮だけが、痛みで麻痺した神経を逆流していく。
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