1-3 霧島美幸と神宮司御琴

 重い防音扉の向こうには、未知なる世界が広がっていた。

 走り抜ける閃光の下、青年はマイクを振りかざしている。熱気と共に炸裂する歌声と、物乞う様にステージを仰ぐ観客達。煙草たばこと汗と食べ物が一体となった異様な匂いが、身体中に浴びせかけられる。じっとりと湿気さえはらんだ闇が、舞台が発する輝きの届かない隅に渦巻いていた。深く重い闇と眩く飛び交う光が生み出す鮮やかな対比は、いっそのこと幻想めいている――どちらかといえば悪夢に近いような。

 背後で閉じる鉄扉の気配が、なおさら美幸の不安を煽った。

 響く歌声は美しい。耳を劈く女性達の歓声をものともしないほどに。そうだ――ここはあまりにも人が多い。

 派手な化粧の高校生らしき少女や、細すぎるジーンズとTシャツの青年、その向こうには洒落た眼鏡をかけた少年達。繚乱する光と闇の隙間に、無数の人影が踊っていた。

(どうしよう)

 滾らせてきたはずの情熱が、見る見るうちに萎んでいくのを感じる。

 ライブハウスにひしめく人々は、形こそ違えど、誰もが皆ステージの上の青年達に心を奪われていた。彼女のようなつまらない女子高生の言葉に耳を傾ける人間など、居るはずもない――ましてや彼女と似たような少女一人の行方を知っているものなど。

 ふと。視線が絡み合った。

 わらを掴むような気持ちで、とりあえず美幸は人垣に挑む。

「あの、すいません――すいません、えと」

 不快そうな目を向ける少女や、そもそも彼女の存在に気付かない男など、溢れる熱気と人々の隙間を無理やり通り抜けていく。

 真っ直ぐ伸びる明かりに照らされて、きらめほこりの向こうに彼が居た。

 ステージに釘づけられた群衆の中で、隅のバーカウンターにもたれている。ぼんやりと美幸を見つめる眼差しは、差し込む照明のせいか、右だけが少し赤みがかっていた。

「ごめんなさい。ちょっと、いいですか?」

 何に断っているのか分からないまま、とりあえず言葉を吐き出す。

「いえ。すいません」

「え?」

 何故かいきなり断られてしまって。美幸は白くなる頭を必死で色づけようとした。

 彼――高校生だろうか。制服と思しき黒のブレザーとパンツ、白いワイシャツと赤いネクタイは、美幸の通う私立祥星しょうせい学園高校のものによく似ていた。黒い髪は目にかかるほどの長さで、白い肌と細い顎を包み込み、いっそ女性的な脆さを漂わせている。きょとんとした表情はあどけない印象だったが、眼つきそのものはむしろ凛々しかった。

「別に、あなたのことを見てたとかじゃないんですけど」

 その辺りでようやく、彼の言葉は断りではなく、謝罪のそれなのだと気付く。

「あっ。えと、あの、お聞きしたいことがあるんです」

 気まずい空気を、彼女はなんとか感じなかったことにした。ブレザーのポケットから携帯電話を取り出し、写真データを呼び出す。

「何、どうしたの君? なんか困ってんの?」

 妙に明るい男の声。彼女が液晶画面から顔を上げると、いつの間にかもう一人少年が立っていた。先ほどの華奢な少年と同じような制服(と断じてしまって構わないだろう)を着ているが、雰囲気はまったく通じるところが無い。茶色の短髪や線のような眉と、子供っぽい造作は野球少年じみた活発な印象を持っていた。

「私、人を探してるんですけど」

「人?」

 問い返す中性的な少年に、写真画像を見せる。

「この子、見たことありませんか?」

 二対の視線が、携帯電話のモニターに集まった。

 液晶画面の中、都築薫つづきかおりは笑っている――買ったばかりの長いモッズコートの裾を広げ、薄い桃色の唇を綻ばせて。二人で原宿に買い物に行った際に、彼女にせがまれて撮った写真だった。美幸の持っているデータの中では、最もはっきりと彼女の顔を捉えている。

「名前は都築薫。高校三年生、身長は一六二センチぐらいで、痩せ型なんですけど」

 茶髪の少年は食い入るように、薫の笑顔を見つめていた。彼女の円らな瞳は、いつも男性を釘付けにする。

「本当に、どんな小さいことでもいいんです。何か、知りませんか? 全然、何でも構わないんですけど」

 気付けば美幸は、物静かな方の少年に詰め寄っていた。

 しかし彼は首を振る。

「見たことは無いですね」

 落胆するつもりは無かった。それでも少し、肩を落としていたかもしれない。

「そうですか。ありがとうございます」

 出来るだけ明るく言って、頭を下げる。

 落ち込んでいる場合ではない。すぐに次があるのだから。ホールには数え切れないほど若者がひしめいていた。その中から新しい質問相手を見つけなければならない――

「あ、俺、この子見たことあるわ」

 閉じかけた美幸の携帯電話をまじまじと見つめ、野球少年が呟く。

「本当ですか!?」

「いや、てか……学校で見かけたんだけど。あ、つか君、祥星?」

 黒いブレザーに、黒と赤のギンガムチェックのスカート、そして赤いリボン。私立祥星学園高校の女生徒は皆、彼女と同じ制服を着ているはずだった。

「はい。あの、祥星学園高校です」

 美幸が頷くと、妙に人懐っこく、少年は笑った。

「同じじゃん! 俺達も祥星なんだよー。あ、俺は祥星学園高校二年A組、芦谷康介」

 何故か胸を張りながら、康介が続ける。

「こっちは二年A組の神宮司御琴じんぐうじみこと。すげえ名前っしょ。本名なんだぜ、マジで」

 少年――神宮司御琴は、少し困ったように、ぎこちない笑みを浮かべた。そうすると、眼元が柔らかくなるせいか、なおさら少女めいて見える。

「……ミコト、君」

 知らないうちに、美幸は繰り返していた。

 言葉に何かを察したのか。御琴が指先で文字を描き始める。

「新宿御苑の御に、楽器の琴で、御琴」

 絶え間なく差し込む明かりの一筋が、爪の動いた軌跡を微かに光らせていた。

「で、君は?」

 康介の声。美幸ははっとした。

「あっ。私は、美幸です。霧島美幸きりしまみゆき。三年C組です」

「……三年生?」

 面食らったように、御琴。じっと顔を覗き込んでくる。

「……なんですか?」

「いや。中等部の人なのかなって」

「あー! いやいやいや、まぁあの、あれだ。縁ってあるんだねー、こんなところで同じ学校の子と会うなんてさあ」

 康介が勢いよく御琴を押しのけた。

 あからさまに誤魔化された気もするが、わざわざ追求する気にはなれない。美幸にも自覚はあった。銀縁の眼鏡や長い三つ編みを差し引いたとしても、自分がやや幼い容姿をしている――有り体に言って、幼児体型の童顔だということは。

 軽く口元が引きつるのを感じつつ、話を本題に引き戻す。

「ええ、すごい偶然ですね。それより、薫を見たって」

「いや、それは、だから学校の話なんだけど」

「――人探しって、結構本格的な話なの?」

 カウンターの内側にいた人影に、彼女はその時気がついた。十代後半と思しき少女。長い黒髪をポニーテイルにまとめ、店員らしい真っ黒なエプロンを身につけている。少し棘のある――なおかつ刺されてみたいと思ってしまう、魅力的な声音をしていた。

「……はい。行方不明なんです。もう二週間ぐらい前から」

 美幸の返答に、少女が短く息を洩らす。

「やめといた方がいいんじゃない」

「ちょっ、おい、相田ぁ」

 面食らったのは美幸よりもむしろ、康介だったのか。カウンターに手をついて、リキュールの瓶の間から少女に顔を近づける。

「お前直球過ぎるだろ」

「うるさい。黙ってバカ」

 少女はまったく取り合わず、美幸だけを見ていた。

「必死なのは分かるけどさ。渋谷じゃ珍しくないよ、突然どっかに消えちゃう子。テレビとかではやってないだろうけど」

 近頃メディアが扱うニュースと言えば、もっぱら都内で頻発する自爆テロの話題だった。曰く、時代は変わった、国が病んでいる、警察は徹底的な捜査を行うべきだとか。渋谷に消える子供達などというニュースは、番組改編期の警察ドキュメンタリーでしか見たことがない。

「悪いことは言わないけど。二週間でしょ? 一人で探してヤバイのに引っかかる前に、警察頼った方がいいよ。てか、その子の両親がもう行ってんだろうけど」

 少女は言う。鋭いのは、声音だけでも目付きだけでもないらしい。

 美幸は眼鏡のレンズ越しに、侮りを含んだ視線を受け止めた。自分が世慣れしていないことは、自身がよく知っている。だからといって、ここで逃げ帰ったところで、何が変わるだろう。警察は何もしてくれていない。両親にだって、何が出来るというのか。

「予想はしてます。危険があるかもしれないってことは」

「分かってるなら、やめとけば?」

 美幸はなおも切り返す。

「危ないからやめるとか、そういうことじゃないんです」

「あ、そう」

 少女は捨てるように一言洩らし、美幸から目を外した。

 その横顔に何か突きつけてやりたくて、美幸は口を開く。

「まぁ、まあまあまあ、確かに相田の言うことにも一理あるけどさあ」

 何故か取り持つように、康介が声を張り上げた。無闇な陽気さが喧しい演奏を退ける。

「おい神宮司、お前も何か言えって」

「なんで僕が」

「るっせ、空気を読め空気を」

 ステージの上で繰り広げられるパフォーマンスは最高潮に達しようとしていた。炸裂する楽器の絶叫の中でも、御琴の声は不思議と美幸の耳朶に滑り込んでくる。

「……大切な人なんですか? その人」

「え?」

 ドラムが放つ轟音が、彼女の腹の底に響いた。

「すごく必死そうだから」

 かき鳴らされるエレキギターはホールの大気を歪ませて走り、耳の辺りをめちゃくちゃにかき回す。

 一瞬、なんと答えればいいのか分からなかった。

「……あの。友達、なんです」

 言って、彼らに頭を垂れる。

「お騒がせして、すいませんでした。ありがとうございました」

 出来る限り感情を抑えて発した言葉は、思った以上に冷たい響きを放っていた。

 神宮司少年がどんな表情で、それを受け止めていたのか――

 確かめる気になれず、美幸は踵を返して観客の中に潜り込んでいった。

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