1-2 あるいは一つの信仰だったのかもしれない

 迸る爆音は、翼に似ていた。

 大きく広がる銀色の翼はホールを包み、強く羽ばたいていく。高みへ昇る音楽の鼓動が、耳朶といわず心臓の奥から脳髄まで、聴衆の全てを奮い立たせる。人々は皆一様に雄叫びを上げながら拳を振りかざしていた。ただひたすら、一心不乱に。誰もがステージに立つ者達と共に叫ぶ。

 神はどこだ、と。

 溶け合うようにうごめく観客は、あるいは一つの信仰だったのかもしれない。

 神の証明を叫ぶ人々の群。彼らを包み込む硬く鋭い翼の音。強烈な疾走感と繊細な歌声が、聴く者を未知の世界へと誘う。遥か天空を思わせる清澄な音色、地の底を這い登る鼓動、渾然一体となった音楽は景色さえ塗り替えていくようだった。

 背筋を震わせる、叫びにも似た美しい歌唱はホールを満たしてなお余りある。歌われるのは、この世の儚さ、淡い絶望、輝ける何者か。翼の躍動が、最高潮を超えて行く。

 高く、高く、果てしない高みに――

 そして、一際鋭いギターの叫びが、演奏の終わりを告げる。

「――――」

 張り裂けるほどの歓声は、バンド自身がかき鳴らした爆音を遥かに超えていた。狭いホールを実際揺さぶっているのではないかと錯覚する。

「――どう?」

 問いかけに、ふと目覚めたような心地で、彼は振り返った。

 ホールの隅に設えられたバーカウンター。その向こうで少女は皿を磨いていた。動きやすいように括った黒髪を揺らしながら、手際良く食器を処理していく。

「ああ……うん。悪くなかった、と思う」

「何それ。超適当」

 会場の熱気に当てられたせいか、上手い言葉を見つけることが出来ない。

 手にしていたグラスを一口呷る。オレンジジュースの心地よい酸味が喉を滑り落ちていった。

「演奏も、歌も、すごくいいと思う」

 どこか拗ねたような彼女の瞳がこちらを向く。冷たくは無いが、不思議と鋭さが残る眼差しだった。

「……ただ、観客が良くない」

 率直な彼の呟きに、彼女が笑った。

「ボコられるよ、親衛隊に」

 一メートルと離れていない少女の声さえ聞き取りづらい。喧騒は未だ止まないようだった。少女達の熱狂的な叫び声は鼓膜を飛び越えて、直接脳髄を刺激するような不快さを持っていた。ヨシヒコ、ヨシヒコ、ヨシヒコ……

 肝心な情報を忘れていたことに気付く。

「なんていうんだっけ」

「何が?」

「このバンド。名前、何だっけ」

 少女――名前は、そう、相田千賀あいだちか――が答えようと口を開く。

 しかし間髪入れない返答は、彼の背後から飛んで来た。

「シャンバラだよ。シャンバラ」

 振り返ると、少年がスツールに腰掛けていた。カウンターにうつ伏せ、踵を潰したローファーをつま先で弄んでいる。少年といっても、年齢は彼と同じ――高校二年生――だが。どこか幼いような、快活な印象の少年だった。短い髪を茶色に染め、制服の黒いブレザーは少し大きめのものを羽織っている。

 完全に不貞腐れた子供そのものの様子で、少年……芦谷康介あしやこうすけが呟いた。

「マジ聞いてねえよ。なんでシャンバラが出て来るんだよ。ありえねー」

 康介の手の中で、解けた氷がグラスを打つ。

「うっさいなぁ……急な話だったの」

 千賀が面倒くさそうに応える。カウンターの中は、水道とガスコンロが並べられた名ばかりのキッチンではあったが、それでもファストフードとドリンクぐらいは提供できる設備が整っているらしい。

「先に言えっつーの……マジテンション下がるわ」

 康介は不機嫌そうにごちて、薄くなったコーラを飲み干した。そのまま勢いよく起き上がり、こちらに肩を組んでくる。

「な、お前も下がるだろ? 神宮司」

 言われて、彼は一瞬考え込んだ。

「いや、よかったと思うけど。今の歌」

「うん、わたしも」

 康介はますます渋い顔になった。手入れの行き届きすぎた細い眉をしかめ、大ぶりな瞳の色を翳らせる。大袈裟に口元を捻じ曲げて、康介は彼の肩をばしばしと叩いた。

「違う、そうじゃねえんだって。よく見ろよ」

 空いたほうの手で、康介はホールを指し示した。ラバー製のブレスレットがその手首で踊る。

 渋谷の路地裏に突如として現れたモンスターバンド、『シャンバラ』ファンの少女達は星々でも眺めるかのように甘い顔つきで、壇上の青年を見つめていた。

 ボーカリストは笑顔で、観客に応えている。頭蓋に響く黄色い声を一身に浴びて、驕る素振りも見せない。涼やかな瞳、白い肌、黒くつやめく髪。天上のものとも思える美貌びぼうは、いっそ偶像めいて見える。

 なるほどインディーズ界のスターになるわけだ。ライブハウスを埋め尽くした観客の三分の二は女性――届かぬ想いに身を焦がす乙女達だった。

 嫌味無く彼女達の視線を受け流し、ボーカルの青年は次に披露する楽曲の説明をしていた。一曲目にしてあれほど聴衆を魅了した彼等が、次に奏でるのはどんな曲だろう。

「……分かんだろ?」

 分かったのは、シャンバラの人気たるや凄まじく、会場の空気は冷めることを知らないということ。そして康介が、それに対して不満を持っているということ。

「何しに来たんだよ、芦谷は」

「かわいい女の子を探しに来た。かわいくておっぱいのある女の子を」

「……あっそ」

 その発想は無かった。芦谷康介という人となりに、改めて感嘆する。あるいは呆然か。

「なぁ、手伝えよ。俺と組めば、このハコに革命が起こせる!」

「革命……?」

 民主革命のあとに訪れるのは、押し並べて形を変えた独裁である。というのは、世界史の教科書でも開けばどこかに書いてありそうな知識ではある。

「革命だよ。レボリューション! 二人の出会いが世界を変える!! ほら、ぶっちゃけお前だってほしいだろ? かわいい彼女。かわいくておっぱいのある。おっぱいのある」

 未だここにいない恋人を見つめるかのごとく、康介の眼は光を帯びている。

 相思相愛の恋人がいれば、日々の生活も少しは充実するのだろうか――と、彼はイメージを膨らませてみた。朝目覚めれば隣に恋人がいる。気恥ずかしく挨拶を交わし、二人で学校へ向かう。授業中にもこっそりとメールをやりとりし、昼になれば一緒に食事を楽しんで、放課後には気ままなショッピングに向かい。

 そのあとどうしても悲恋になってしまうのは、多分、フィクションの知識しか持ち合わせていないからだろう。なんだか切なくなってくる。

「テンションが下がった」

「ええー! なんでだよお前!! レボリューションだよ? マジで革命だよ!? おっぱい革命だよ!」

 康介の必死さが、かえって虚しい。彼は溜め息をついた。

「バッカじゃないの」

 よりあからさまな嘆息。

 プラスチック製のカップを力強く洗いながら、千賀が毒づいた。

「男子ってホント頭悪いよね。なにおっぱいって。キモ。てか死ねばいいのに」

 蔑むようなその眼差しが、どういう訳かこちらを刺し貫く。

「え、僕?」

「……神宮司も、興味あるんでしょ。そういう……おっぱいとか? そういうの」

 無い。

 とは、答えられなかった――流石に、ある、とも言えなかったけれど。

「いや、僕は、よく、分からない、かな……」

 正直に言ってみたつもりだが、その誠意がきちんと伝わったかどうかは自信がなかった。

 何とも形容しがたい表情のまま、彼女は手元に視線を戻す。

「……マジ、バカじゃないの」

「相田、お前バカっていうな! 超重要な問題だぞ。ピッチピチの男子高校生にとっては最早生きるか死ぬかなんだよ、こういうラブハンティングチャンスは!」

 ローズ・ガーデンは渋谷センター街の外れにある小さなライブハウスだった。そこでアルバイトをしていた千賀が、余ったチケットをクラスメイトである彼等に横流ししてくれた。そのことにどんな意図があったのか、彼には知る術もないが。恐らく康介のナンパを援助するつもりだけは無かったに違いない。

「うるさいバカ。ホントにキモいから。普通にキモい」

「な……てかお前、キモいってそれヒドくない? ちょっと言い過ぎじゃない?」

 流石に少し傷ついたのか、弱々しく康介は言い返した。

「ヒドくない。ってかマジ、邪魔しに来たなら帰ってくんない?」

 しかして千賀は、眉一つ動かさない。早速どうでも良くなったらしい。ステンレスの流し台に折り重なった食事の残骸が、見る見るうちにその量を減らしていく。

「ちょっと神宮司ぃ、お前、同志として何とか言ってくれよ! 革命起こそうぜ革命!!」

 助けを求める康介が妙に哀れで、彼はどう応えたものかますます考え込んでしまった。ついでに残り少ないオレンジジュースに口をつける。

 チャンスが大切だということは理解できる――彼も康介も特定の恋人はいないのだから。しかしそれはそれとして、わざわざ千賀から面罵を浴びるような真似はしたくない。

 そんなことを考えている時に限って、千賀と目があってしまうのはどういう訳だろう。

 もしかして、ずっとこちらを見ていたのか。

「……なに?」

 それとも、彼が千賀を見ていたのか。

「あ、いや」

 結局口をついて出たのは、そんな言葉だった。

「次の曲、始まるよ」

 ステージは照明が俄に落ち、静けさと緊張感に張り詰めていた。

 考えるまでもなく、このライブは曖昧模糊とした出会いのチャンスなどより、よっぽど面白いものに違いなかった。ならば、今はこちらを優先するしかない。

 千賀が視線を上げたのが気配で分かった。未だ何かの文句を零しつつ、康介もステージを観賞するつもりはあるらしい。

 ギタリストのピックが、しめやかに弦を揺らし始める――

 ホールの扉の隙間から人影が滑り込んできたのは、ほんの僅かそれに前後するタイミングだった。

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