Turn6 ??フェイズ


 私の最初の記憶は、薄暗い空間の中だった。

 そこには何もなかった。地面も、空もなかった。ただただ空間が広がっていた。

 

 そして、私の身体と言えるものもなかった。


 ここはどこだろうと思うことも出来なかった。私はまだ、ここ以外を知らなかったから。しかし、この空間で私という存在はグルグルと回っていた。

 身体が無いのに回っているという表現もおかしいが、とにかく私は回っていたのだ。それは理解できた。

 そしてしばらくすると、空間の中に何かの音が響いていることに気がついた。


『ライ……ライ……』


 何か雑音のような音、だけど聞いた覚えのあるような音。それが誰かの声だとわかったのは、もう少し後だった。


『キライだ、キライだ、僕はキライだ……』


 これは、なんだろう?

 その時の私は声の意味を理解できなかったが、何かよくないものだという印象を受けた。そして同時に、とてつもない罪悪感(この時の私はその言葉を知らなかったが)を抱いた。


 あ、あ、あ……


 声を出そうと思っても出ない。私には口も喉もなかったから。でも、この声に謝りたい。何か償いをしたい。

 

 およそ、そんなような感情を私が抱いた瞬間、突如として空間に光が射し込んだ。


『ザ、ザザザッ、ザザー……』


 ノイズのような音とともに、私の視界にこれまでにない景色が飛び込んでくる。


「あ、ぐ……」


 気づけば私は、地面に横たわっていた。そして急速にあらゆる知識が頭の中に思い浮かび、言葉や文化、常識などが私の頭に備わっていく。

 そして私は、自分が裸のままとある民家の前の道路に横たわっていることを理解した。


『ケテ、ケテ、ケテ……』


 再び聞こえたノイズのような音に反応して頭を上げると、そこにはスーツにトレンチコートと帽子、そして矢印が丸を象っているようなマークが描かれた覆面を被った大男が立っていた。


「あ、あ……」


 頭で思考は出来るが、まだ声をはっきり出すことが出来なかった。だが、彼が私に危害を加える様子もなかった。


『ザ、ザ、ザザー……』


 大男は、その身体が徐々に透けていき、姿を消した。


 ……一人残された私は、この時の状況を理解しようと頭を巡らしていた。

 しかしいくら考えても、なぜこんなことになっているかはわからなかった。いや、それどころか、私には私という人間を証明するような記憶が一切無かった。

 記憶喪失という言葉は頭に浮かんだが、なぜその言葉を私が理解できるのかはわからなかった。


「う、ぐ……」


 裸のままではいけないと思って身体を起こそうとしたが、上手くいかない。だがその直後、高い声が私の耳に飛び込んできた。


「ど、どうしたのあなた!? ……え!?」


 その声を発したのは、髪の長い女性だった。私を見て驚いている。見たところ30代くらいだということが理解できたが、やはり私がなぜそれを理解できるのかはわからなかった。


「あ、あ……」

「動かないで! 今、救急車を呼ぶわ!」


 そして女性は携帯電話(やはりそれも理解できた)を取り出し、それによって出動した救急車によって私は病院に運ばれた。


 

「う、ん……」


 救急車に乗った時点で再び意識を失っていた私は、ベッドに寝かされた状態で目を覚ました。


「あ、気がついた? 今、先生を呼んでくるわね」


 ベッドの横には私を発見した女性が座っていて、私が目を覚ましたのを確認すると医者を呼びに行った。


「……私の指が何本立っているか見えますか?」

「三本です」

「ふむ、外傷も無く、聴力、視力ともに今のところ異常は見られません。ただ、記憶があいまいなところがあるようなので脳の検査が必要かもしれませんが、今のところは大丈夫でしょう」

「ありがとうございます」


 医者が私の状態を確かめて、目立った異常が無いことを確認すると、先ほどの女性にそれを説明して病室を出ていった。


「大変だったわね」


 女性は私に向き直ると、優しい微笑みを浮かべた。私はその微笑みにどこか見覚えがあるような気がしたが、思い出すことは出来なかった。そして、私に言葉をかける。


「それにしても驚いたわ。昔の自分が倒れているのかと思っちゃった」

「はい?」

「あれ、あなたは私の顔を見て驚かないの?」

「なんでですか?」

「……まさか、自分の顔がわからないの?」

「ええっと……」


 そういえば、私は自分がどういう顔をしているのがかわからない。女性に鏡を貸してもらって、自分の顔を見た……はずだった。


 だが鏡に映っていたのは、横にいる女性をそのまま中学生にしたような少女の顔だった。


「え? これって……!?」

「一応言っておくけど、私に歳の離れた妹はいないわよ」

「じゃ、じゃあ私は……?」

「……他人のそら似というには、似すぎているね」


 確かに私と女性の顔は似ている。しかし、この女性が親族でないというなら、何一つ記憶が無い私には何が起こっているのかさっぱりだった。


「……まあいいわ、私に出来ることは少ないかもしれないけど、あなたを見つけてそれで終わりということにはしない」

「え?」

「しばらくは私が面倒見るって言っているのよ。ご家族のことも思い出せないんじゃ、あなたを一人にするわけにはいかないでしょ?」

「どうして、ですか?」

「ん?」

「どうして私にそこまで……」

「はいストップ。あなたはまだ子供なんだから、大人の助けは素直に受け取っておくものよ。……いえ、ごめんなさい。理由くらいは知りたいわよね。とりあえず、あなたが私に似ているからではないわ」

「じゃあ、なんで……」


 そして女性はコホンと一息つくと、再び私の方を向く。


「あなたが、私の前に現れてくれたから……かな?」


 その微笑みはさっきとは違い、少し憂いを帯びたものだった。



 それから数日間。私は病院で全身の検査を受け、記憶を取り戻すために精神科医の診察も受けたが、やはり記憶が戻ることはなかった。そしてあの女性はというと、夕方になると私のお見舞いに来てくれて、着替えや果物なのを差し入れてくれた。

 さらに彼女は読書家のようで、私が退屈しないようにとおすすめの本を何冊か持ってきた。彼女の選ぶ本は、不思議と私の興味を惹くものが多かった。


 だがある日から、彼女が見舞いに来なくなった。


 その時の私の心には、急速に不安が巻き起こってきた。どうしよう、彼女に見捨てられたのではないか。私が何か失礼なことをしてしまったのではないか。これからどうすればいいのか。そのような疑問が浮かんでは消える日々が数日間続いた。


 しかし数日後、彼女は再び見舞いに来てくれた。


「ごめんなさい、元気に……」

「う、うわああああん!」


 彼女の姿を見た私は、思わず泣きついてしまった。


「き、てくれた、来てくれた!」

「……本当にごめんなさい。連絡が出来なくてね……」

「こわかった、こわかったです……」


 これは私の本心だった。彼女がいなくて、本当に怖かった。そしてこの時、私は彼女を大切な存在と認識しているのだと理解した。

 しばらくして落ち着いた私は、彼女の話を聞くことにした。


「この数日ここに来れなかったのはね、仕事でトラブルが起きたからなの」

「トラブル?」

「そう、実は私は中学校の先生なんだけどね、私がいる学校の女の子が一人、行方不明になっちゃったのよ」

「え……?」


 よく見ると彼女の顔には疲れが浮かんでいた。見たところ睡眠もあまり取れていないようだった。


「だから警察や保護者に話を聞かれてね、その女の子は学校でどうだったとか、何か事件に巻き込まれていないかだとか……それでここに来れなかったの」

「そうだった、んですか……」


 そうだ、彼女にも生活があるんだ。私ばかりにかまけてはいられない。


「私としても心配なのよ。いなくなった女の子からの相談をよく受けていたから」

「……」

「でもね、不思議なんだけどね……その女の子、どこかあなたに似ているのよ」

「え?」

「といっても、外見じゃないわ。あなたみたいに私に似ているわけじゃないし、髪も長くなかったし、結構男勝りな子だったしね。でも、なんだろうね。あなたみたいに自分の感情をはっきり出す子だった」


 ……なんだろう。なぜか申し訳なさを感じる。

 その女の子がいなくなったことで、彼女に迷惑がかかっていることになぜか申し訳なさを感じる。


「でも私がどうにか出来る問題じゃないからね。あとは警察に任せるしかない。とりあえず一旦落ち着いたからここに来たのよ」

「……ありがとうございます」

「いえいえ。ところであなた、検査は終わったの?」

「はい、一通りの検査は終わって、もうすぐ退院の日にちも決まるそうです」

「そう……それで、その後は?」

「……」


 その後は……まだわからない。

 おそらくはどこかの施設に引き取られるのだろうが、未だに記憶は戻らない私はこの先どうなるのだろうか。


「あのさ……提案があるんだけどさ」

「はい?」


「私が、これからもあなたの面倒を見るって言うのは、ダメかな?」


「……え?」

「勝手なことを言っているのはわかっているわ。でも私はあなたの面倒をこれからも見たい。それだけじゃない、あなたをちゃんとした大人にして世の中に送り出したいと考えているの」

「そ、そんな……」


 そんな、都合のいい話があるのだろうか。

 彼女と家族になれる。大切な存在と一緒に暮らせる。こんな都合のいい話が……

 だけど、彼女の言葉を借りるのであれば。彼女の好意を素直に受け取るべきなのかもしれない。

 だから私は、こう言った。


「……なりたい、あなたと家族になりたいです」

「……ありがとう!」


 女性は私に抱きつき、涙を流した。



 しばらくして女性は私から離れて、顔を赤らめた。


「……ごめんね、取り乱しちゃって」

「いいですよ。これからは家族なんですから。えっと……」


 だけど私は重要なことを忘れていた。


 私は彼女に何と名乗ればいいのだろうか。


「……あの」

「ん?」

「名前を、決めて欲しいです。私の名前を」

「……そうね、私はあなたのお母さんだものね」


 そして彼女は、ある名前を口にする。


「鈴音」


「……すずね?」

「そう、私が子供を産めたら付けようと思っていた名前。それをあなたの名前にしたいの」

「す、ずね……」


 もちろんこの後の役所などでの膨大な手続きを経るまで社会的には私はただの名無しの女の子だったが……


 私が中学校教師、返崎かえしざき 桜子さくらこの養女、返崎かえしざき 鈴音すずねになったのは、まさにこの時だった。



 それから半年間。

 私は母さん――返崎桜子――と一緒に生活していくうちに、いろいろなものを身につけた。

 母さんは私を本当の娘のように扱ってくれた。誉めるときは誉めてくれて、怒るときは怒ってくれた。そしてなにより、私に厳しく女性としての振る舞いやマナーを教えてくれた。


「いい鈴音? 世の中にはいろいろな人がいていいとは思うわ。だけど社会の一員として生活する以上、越えてはいけない線があるの。母さんはそれがマナーや倫理だと思っているわ」

「例えば、どういうものですか?」

「そうね、一番に守るのは自分のやったことに責任を持つこと。これは母さんも自分に言い聞かせていることなの」

「責任を、持つ……」

「何かを始めたら、途中で投げ出して許されることなんて滅多にないと思っているの。鈴音にも投げ出さない大人になって欲しいな」

「はい!」


 母さんの言葉は私の心に深く刻まれる。そして私は母さんのような大人になりたい一心で言葉遣いや立ち振る舞いには特に気を付けた。

 

 そして母さんと出会った半年以上経った時、私は高校を受験することになった。


「頑張ってね鈴音。大丈夫よ、あんなに勉強したんだから」

「はい、行ってきます」


 母さんに見送られて家を出た後、高校で入学試験を受けた。母さんに勉強を見てもらったおかげもあり、試験そのものはなんら問題はなかった。


 だが、試験が終わって校舎を出た時だった。昇降口の前で二人の受験生が話し合っていた。


「おう行峰! 試験どうだった?」

「うん、なんとか大丈夫そう」


「ゆ、き、みね……?」


 その名前を聞いた瞬間、私の心がざわついた。そして、振り返って彼の顔を見ると。


「あ、あ、あ……」


 私の頭にどんどん記憶が蘇ってくる。楽しかった思い出、辛かった思い出。


 そして、私を突き飛ばす斉藤くんの顔。


「う、ああああああああああああ!!」


 思わず大声を出してその場にうずくまってしまう。それほどまでに蘇った記憶は受け入れ難いものだった。

 だけど、もうこの記憶を消すことは出来ない。



 私は、『天青素子』だったのだ。



 そして同時に、私は全てを理解した。私は『天青素子』として死んだはずだった。しかし、あの大男の力によって、全くの別人として蘇った。それが私、『返崎鈴音』だったのだ。

 私はショックのあまりふらつく足で校舎に戻って床に座り込んだ。そして高校の教師に見つかり、保健室で休ませてもらうことになった。


 しかし私の心は落ち着かなかった。封じられていた記憶が全て蘇ってしまったのだ。しかも全くの別人だったという記憶が。


 だが、戸惑う私にさらなる現象が起こった。


「痛っ……」


 突如として、左手首の部分に痛みを感じた。そこには……


「なに、これ……?」


 二つの矢印が丸を象っているマーク、『リサイクルマーク』がアザのように浮かんでいた。

 触ってみると、微かに痛みを感じる。それだけではない、触っている間は視界がぼやけて吐き気を催してしまう。

 仕方がないので、私はそのマークをリストバンドで隠すことにした。


 だが、それから私の身体に異変が起き始めた。


「やっぱり、大きくなっている……」


 私の手に現れたマークは日に日に大きくなり、さらに大きくなるごとに気分が悪くなる回数が多くなっていった。これらの事実は、私にある推測を抱かせるには十分だった。


 私に残された時間は、残り少ないのではないかという推測を。


 考えてみれば当然のことだ。本当は死んでいるはずの人間が都合良く蘇っただけでも奇跡なのだ。このまま無事に一生を過ごせるわけがない。

 なら、私は残された時間で何をするべきか。


 そして頭に浮かんだのは、斉藤くん……『行峰義堂』のことだった。


 私はもう、『天青素子』ではない。記憶が戻ったとしても以前のようには振る舞えないし、性格も言葉遣いも『天青素子』とは随分違ってしまった。だけど私は彼に償いをしたい。金水に踊らされる形で彼の秘密を暴き、彼を傷つけてしまったことへの償いがしたい。


 そう思った私は彼の事を調べた。そして知った。彼が自分の親友、すなわち『天青素子』の行方を追っていることを。


 彼は『天青素子』の死に未だに囚われているのだ。そしてそれは、全て私のせいだ。

 ならば私は、残されたこの命を彼の為に使おう。自分の行いに最期まで責任を持とう。

 

 斉藤くんは……義堂さんは何も悪くないのだ。ならば私はそれを証明しなければならない。


 そう、彼の前で彼以外の手で『天青素子』であった私が死ぬことで証明しなければならない。


 待っていてください義堂さん、私は必ずあなたを救います。



 こうして私は彼にこの命を捧げる決意をした。



――フェイズ終了――

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