第3話 河童の住む川③

「昨日はなんで来なかったんだ?」


「いや、あれっす風邪気味で……」


「ふうん。風邪、ねえ」


 学級日誌に何かを書き込みながら、気に食わないにやけ面で丸い眼鏡をくいっとなおす。いちいち仕草が気に食わない。

 こいつは俺の担任で新内雅人にいうちまさとという。見た目はかなり若く、今でも大学生と間違えられるらしいが今年三十歳になったそうだ。なよなよとした感じが気に食わないが、まあ言うまでもなく女子から人気。ますます気に食わない。


「体、弱いのか? 保護者の方からは特に聞いてないけど、なんかちょっと前も風邪って言って休んでたよな?」


「まあ、弱くはないすね。まだこっちに慣れてなくて」


「そうだよなあ。もともとは東京にいたんだっけ? こっちの気候は向こうに比べると厳しいかもしれないけどまあ慣れだよ。慣れ」


 日誌を閉じると、俺とは目も合わせず机に置いてあるとっくに湯気の立っていないコーヒーを一気に飲み干す。


 誤魔化したつもりだが、本当に信じてるのかこいつ? 釈然としない。こいつと話してるとちゃんと聞いているのか不安になる節がある。まあ学校をさぼったかどうかということに言及されなかったからいいけど、田舎の教師ってそういうのに意外と寛容なのだろうか。


 さっぱりわからん。


「そういえば、釣り、好きなの?」


 ドキッとした。

 やっぱりバレてるのか?


「え、ええ。好きっすよ。でもなんでわかったんすか?」


「ズボン」


 くるっと椅子を回して、俺の膝のあたりを指さす。

 生地からぴょんと、毛糸の先みたいなほつれが二カ所とび出ている。一カ所は以前の釣りで、もう一カ所は、昨日服を回収したときにズボンに刺さっていた針を抜く際にできたようだ。

 どちらも取るのに非常に苦労した。まあ衝動に駆られて何も考えずにブン投げた俺が悪いが……。


「針ひっかけてとろうとするとそうなるよね。俺もここに回されたとき、気晴らしに朝まずめだけ向こうの川に釣りに行ってたんだよね。そんでたまにスーツの裾とかやっちゃってたなあ」


「向こうの川って、駄菓子屋の横の坂しばらく登って山の中腹をちょっと脇に逸れたとこですか? 石橋が架かってる……」


「そうそう! そこそこ!」


「あそこいいっすよね。たまに形のいいヤマメとかが釣れて」


「うんうん。金もなかったし良い晩のおかずになってたんだけどさあ、朝釣るもんだから置き場所がなくて、ハラワタ抜いてビニール袋につめて職員室の冷蔵庫に入れといたんだよね。そしたら冷蔵庫が生臭くなるっていろんな先生に怒られちゃって……」


「はは……」


 間抜けというかなんというか。見た目とか雰囲気どおりの性格なんだろうなあ。


「で、一昨日までは一個だったよね。それ」


「え?」


 なんつー細かいとこまで見てやがる!


「いやあ、ちょっと前にそのほつれ見つけて釣り好きかどうか聞こうと目をつけてたんだよね。風邪でも釣りをする元気があるんなら結構結構」


「いやあ……その、夕方には治ってて……」


「へえ、そういえば今は鮎が旬だなあ……鮎も久々に食いたいなあ……」


 あれ? この流れ俺がサボったのがバレて怒られる流れじゃなかったのか?

 なんだか話題が釣りの方に逸れていってるが……


「そ、そろそろ授業始まっちゃうんで行っていいっすか?」


「ん? ああ、もうそんな時間か。どうだ、今度は一緒に」


持っていたペンを両手で握り、竿に見立ててくいっと立てる。


「時間が合えば……っすね」


「おう、そんときゃよろしくな」


 俺はそそくさと職員室を後にした。


 やはり、さっぱりわからん。


 *


「あ、そういえば学校サボったことについてもっとちゃんと言っておかなきゃって思ったのに……」


 次の授業の準備のため、書類の地層からくずれないよう慎重に資料を引きずり出し、反対の手でマグカップを手探りで探し、口を付けた。


 先ほど飲み干したのを失念していたため、いくら傾けてもコーヒーは口に流れ込んでこなかった。


「ま、いっか」


 *


 今日もクソみたいな学校が終わった。


 相も変わらず教室は暑いし、先生の説教だか世間話だかわからん話は謎だし、クラスメイトは俺のことを忘れているのかというくらい空気扱いだ。

 別にいじめられているとかそういうわけでは決してない。

 強いていうなれば空気なのだ。


 見えないし、匂わないし、感じられない。だから空気。

 そこにあるけど見えない存在なのだ。


 一日中空気だった俺だが、今日の放課後は自覚と実体を持って行動すべきことがある。

 それは昨日、釣りをしていた川へ再び行くこと。


 理由は今更考える必要もない。河童のことだ。


 今日は一日中陽炎が揺らめく校庭と、窓の先に見える暑さでもやのかかった山を交互に見ながらずっと彼女のことを考えていた。


 昨日、あのあとすぐに彼女は去った。


 背を向ける彼女に、どの辺に住んでいるのかと聞いても「川」としか答えないし、名前を聞いても「だから河童だってば」と取り付く島もなかった。


だから彼女のことなんてこれっぽっちもわからなかった。


 でも俺には何故かあの川に行けば、また彼女がいるような気がしてならなかった。

もちろん、そんなの思春期の高校生にありがちな妄想癖かもしれない。一度の運命的な出会いが二度あってたまるか。そう考えるのが普通だ。


 昨日川に向かうときに感じていた倦怠感とは打って変わって、期待と不安で胸が膨らんだ。


 そりゃあ可愛い女の子とちょっと一風変わった出会い方をすれば、期待しないほうがおかしい。


 やっとこの田舎で見つけることのできた唯一の希望でもある。


 がむしゃらに道を走った昨日よりもゆっくりと、けれども早足ぎみに茂みを抜けて川を目指す。


 木々を払って抜けた先にはいつもと変わらない田舎の川。向こう岸に見える木はどれも青々と茂っていて、眼前を流れる清流は日の光を反射してきらきらと俺の目を刺激する。

 そして左を向いたらところどころ苔の生えた石造りの橋。


 橋の上には誰もいなかった。


 見渡す限り目に染みる木々の新緑と地面に広がる不揃いな灰色の石、流れてぶつかる清流の白波。


 一気に肩の力が抜け、顔を上げる。


「やっぱいねえか……」


 帰ろう。


 釣り竿も持ってないのにこんなところにいたって退屈なだけだ。まあ家に帰っても退屈なのは変わらないが。


「いないって誰が?」


 顔を上げてくらっときたので目をつぶって踵を返したそのときだった。突然聞こえた声に目を開けば拳一個分にも満たない距離に彼女の、河童の顔があった。


「うわっ!」


「えへへ。キミはいいリアクションしてくれるね」


「くそっ! ……」


 そう悪態をついたものの、俺は吊り上がろうとする口角を抑えるのに必死だった。




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河童の住む川 獅子谷英丸 @Sisiya

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