どんなに仲良くなったって、僕と君は互いを絶望させる存在だ
第5章 奈落の七人
昔住んでいた田舎の村にだって色んなひとがいた。村長さん、お医者さん、先生、父さんのパン屋、ミルク屋さん、服屋さん、馬屋さん……
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嘘みたいだけど
僕らの世界には
もう
この7人しかいないんだよ?
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僕らの自己紹介を聞いて
ぼんやりと構える
お兄さんが
何となく、というふうに
自分の名前を名乗った。
「僕はパシファム・ムーマ」
パシファムさんは
のんびりした性格なのか
やれやれと
辺りを見てはいるけど
これといって動きがない。
逆に
忙しく荷物の確認に
余念がないのは
小柄なおじさんだ。
「私の鞄はどこですか。アレがないと困るんです」
「お。この瓶は酒が入ってるのか?」
「それは私のです! 返してください」
背は高くないけど、
無精髭でがっしり体型のおじさんと
小柄おじさんが
お酒の取り合いを
始めてしまった。
「一口くらいいいじゃねえか、ケチケチするなよ」
「これは飲むために持ってきたわけじゃないんです!」
いがみ合う二人を見て
デュラーはため息をついた。
僕も
大人の喧嘩は見たくない。
「死ぬ前に最後に一度酒を飲みたいんだ」
「死ぬだなんて!」
縁起でもないことを言う
デリカシーのないおじさん。
小柄おじさんは
神経質そうだから
二人は
見た目的にも
性格的にも
正反対なのかな。
ミランさんも
自分の荷物を
確認し始めた、
パシファムさんだけ
まだのんびりしている。
色白の顔を
震わせながら
眼鏡を指で直して
小柄おじさんが
髭のおじさんを睨む。
「私はウァルフガン王国から来たゾドット・Ⅲ・ロムです。私の荷物に手をつけないでください!」
「俺はクックバレンだ。……これで全員か? あと一人誰かいただろ?」
髭のおじさん
クックバレンさんは
ゾドットさんの睨みなんか
気にもしてないみたいで
不意に
周りを気にして
そんなことを呟いた。
「いいえ。これで七人。全員ですよ!」
僕とマーキス
デュラーさんとミランさん
パシファムさん
ゾドットさん
クックバレンさん、
確かに七人揃っている。
「いや……でも、」
クックバレンさんが
何故か困惑して
腑に落ちない顔をしていた。
ミランさんが
布を広げた上に
丸く大きい
鉄鍋を乗せた。
両側に
小さな取っ手がなければ
僕は盾か何かだと
勘違いしただろう。
鉄鍋の中に次々と
荷物をまとめていく、
魔法みたいに
キッチリと
収納されていく様に
僕は目を奪われていた。
手際の良さに
感心してしまう。
でもクックバレンさんが
ミランさんや僕らを見て
鼻で笑った。
「まるで遠足だな」
どうやら
荷物の内容を見て
馬鹿にしているらしい。
「食糧は大事だと思います」
クックバレンさんの持ち物は
短剣とナイフだった。
デュラーも
剣を持っている。
それと比べたなら
確かに僕らの持ち物は
一見遠足かおままごとに
見えるかもしれないけれど
食糧が尽きれば
生きていけなくなる。
どんな場所かもわからない
世界の裏側を旅する以上、
持っておくべき
荷物だと思う。
ところが
ゾドットさんの荷物は
細々とよくわからないものが
たくさんあるみたいで
鞄を二つも持っていた。
僕らとも
デュラーさんたちとも
タイプの違う荷物だ。
パシファムさんは
皆の荷物が片付いた頃に
残った本などを
まとめていた。
アストリア王国
ウァルフガン王国
ウィングルド王国
三大国からの
地図が揃ったけれど
同じ地図ではなかった。
色も形も材質も
書かれている内容も
何もかも違うんだ。
僕が
「歌いますか」と聞いたら
「地図が歌うわけねえだろ」と
クックバレンさんに
馬鹿にされてしまった。
僕とマーキスは
地図が歌うことを
知っているけれど
他の地図は
喋りもしないみたいだ。
僕らのみたいに
協力しなくても
普通にそのまま
見れるようでもある。
「ウイングルドの地図は何か詩が書かれているのよ」
ミランさんが
地図を開いて
指で示す場所に
確かに何か
文章が書かれていた。
「《さ迷える魂を視よ、歯車を廻せ。未来はまだ生まれない》……なんのことかしら」
「謎解きみたいですね」
「ウァルフガンの地図は目的地を示していると思いますよ」
ゾドットさんの持つ地図が
一番普通の地図に見えた。
僕らの地図は
一番普通じゃない。
僕らは
ウァルフガンの地図を頼りに
先に進むことにした。
何故なら
その地図には
目的地を思わせる
何か
記号のような印があった。
目的地がわかる地図があるなら
残りの二枚は不要にも思うけれど
何か困った事態が起きたら
あのなぞなぞのような詩も
ヒントになるのかもしれない。
「ここは不思議な場所ね」
不意に
ミランさんが呟いた。
「大きくなったり小さくなったり、まるで夢でもみているような」
「大きくなったり?」
「ええ。あなたたちはならなかった?」
首を傾げる僕らを見て
デュラーがやれやれと
力なく笑った。
「それは幸いだったな」
「僕らは……地図が変な歌を歌ったりしたくらいで。あとは突然溺れたのは全員知ってるとおりです」
「どんな歌?」
ミランさんの問いかけに
マーキスは顔をしかめた。
僕はぼんやりと
地図の歌を思い浮かべた。
普段
魔法の勉強をするからか
集中力や記憶力には
多少自信がある。
歌はすぐさま
頭の中に浮かぶけれど
僕は音痴だから
人前で歌うのは嫌だった。
かと言って
マーキスがあの歌を歌うとも
到底思えない。
僕は歌の旋律を抜きにして
歌詞の内容だけ
口にすることにした。
「“マーキスは” “マーキスは” “優等生” “優等生” “いつだって一番” “偉い” “完璧な” “優等生”」
目を丸くしたミランさんと
あからさまに慌てるマーキス。
「“だけど”」
「もういい! もう忘れてくれ!」
“ある日マーキス恋をした”
“相手は”
相手は一体誰だろう。
今更ながら僕はぼんやりとそんなことを思った。
「私も子供の頃はよくそんなからかい歌を歌われたものですよ」
ゾドットさんが言うと
クックバレンさんは
鼻で笑った。
「くっだらねえなぁ」
「どうして地図はわざわざそんな歌を歌ったのかしら……」
僕とマーキスを
仲直りさせるためだと
僕は思っている。
「マーキスってば取り乱しすぎ」
「もう勘弁してくれロイ」
今ではすっかり
僕らの溝は塞がったみたいだ。
パシファムさんは
何か鼻唄を歌い出した。
歌というより
器楽演奏の曲のような
そんな旋律。
多分歌詞はないんだろう。
何を考えているのか
よくわからない
(むしろ何も考えていなそうな)
そんな顔をしている
ふくよかな青年は
まるで教養が高い
上流階級の人種に思えた。
一般の人々
例えば農夫や漁師は
仕事をしながら
仕事の歌を歌う。
力を合わせる
心を合わせる
そんな場面で
歌は出る。
僕らの
チェンバーでも
儀式の折りに
よく合唱を聴く。
庶民には楽器がない。
楽器は高価であり
技術が要り
生活に直結しない。
だから歌を歌う。
歌詞をつけて。
器楽演奏を聴く機会も
ほとんどない。
楽団はお城にいるものだ。
アストリアではたまに
市民に
コンサートを開いてくれる。
僕もゴーヴの広場に
聴きにいったことがあるよ。
「聴いたことのない不思議なリズムの音楽だ」
マーキスが呟くと
パシファムさんは
くすりと笑った。
「舞踏曲、ダンスの時の音楽さ」
リズムという言葉も
ダンスという言葉も
僕にはあまり
耳馴染みがなかった。
「僕は踊るより見ているほうが好き」
ずっと神経質そうに
目を尖らせていたはずの
ゾドットさんが
パシファムさんの歌に柔らかく目を細めた。
「お上手ですね」
「僕は音楽や芸術が好きなんだ。あと本を読んだりするのも」
パシファムさんは
のんびりとした口調で
受け答えした。
誉められることに
慣れているのか
否定も肯定もない。
クックバレンさんが
ダルそうに口を開く。
「とんだ穀潰しだぜ。世のため人のために仕事をしろってんだ」
「あなたは! なんてことを!」
再び目を三角にした
ゾドットさんの
キンキンした声が響く。
「何でお前が怒るんだよ」
「いいよゾドットー。本当のことだしねー。正しいことをいう人間を責める必要はないよー」
のんびりと
パシファムさんが言わなければ
また
喧嘩が始まっていたかもしれない。
ウァルフガンの地図を持つ
ゾドットさんと
パシファムさん
クックバレンさんが先を歩き、
残る僕らが
あとをついて回る。
するとどうしても
先を行くゾドットさんと
クックバレンさんの
言い合いが絶えない。
パシファムさんがいなかったら
ゾドットさんも僕らも
相当に
ストレスを溜め込んだだろう。
それに引き替え
デュラーやマーキスは
静かなものだった。
僕はミランさんと
時折他愛ない話をする。
いつ何が起こるかわからない
バックヤードでは
常に不安が付きまとう。
緊張を少しでも
和らげたいと
僕は思っていた。
もしかすると
クックバレンさんの口の悪さも
そうした不安を
払拭するためのものか
あるいは
生まれつきかも
わからないけどね。
僕は
不意に目に入った
緑の草に駆け寄った。
辺りは岩場で
他に草なんかないのに
不自然なほど唐突に
それは生えていた。
「これはチェチェトの葉だ」
驚いた。
春風の丘にしか自生しない
チェチェトが
こんなところに
生えるわけはない。
でも確かに
間違いなくチェチェトの葉だ。
「どうしたの」
ミランさんに事情を話すと
彼女は優しく微笑み
チェチェトの葉を摘んだ。
取り出した布に
手早く包んで
あっという間に
籠が出来た。
布切れ一枚が
籠の代わりになるなんて。
「これは何か意味があるのかもしれないわ。なくても食材になるなら持っていて損はないものね」
そんな僕らを振り返り
クックバレンさんが
大袈裟に
呆れた身振りを加えた。
「草なんか何の役に立つんだ。ママゴトはやめてくれ」
「草には薬草になるものにありますよ! あなたには使えないだけで草をバカにするのはやめてください」と
ゾドットさんが叫び
「魔法の材料にもなります」と
マーキスが静かに付け足した。
チェチェトをみつけて
はしゃいでいた僕は
草呼ばわりされて
恥ずかしかったんだ、
何も言えずにいたから
そんな二人の言葉は嬉しかった。
「食料の確保は第一に優先すべきでしょう?」
ミランさんは
クックバレンさんに
納得がいかないようだ。
「はあ? お前らはまだ気付かねえのかよ」
クックバレンさんの
垂れた目尻が
僕らを見下すようだ。
うっすら伸びた無精髭も
威圧的に映る。
「ここに来てから誰か一度でも小便をしたか」
女性の前で
汚い言葉を使うなんて
よくないことだと思う気持ちと
見落としていた事実が
突きつけられたことに
ざわざわと胸が騒ぐ感覚に
すぐには誰も
言葉が出ない。
僕らがバックヤードに来て
一体どれくらいの時間が
経過しただろうか。
感覚だけでは
確かなことは言えないけれど
ずいぶん長い時間を
ここで過ごしている。
「全部気分の問題だ。腹が減るとか疲れたとか眠いとか、ここでは本当は何も必要ない。時間なんてものも存在しない」
クックバレンさんの
毒付いた言葉に
頭がついていかない。
でも
クックバレンさんが
開いて見せた懐中時計は
一体いつの時間を指したままで
まったく動いていなかった。
「そんなことって……」
ミランさんが
呆然と呟く。
時間がないなんて
意味がわからない。
でも確かに
トイレに行きたいとは
一度も思わなかった。
「だからお前らの言う食料も、いらねえんだよ」
にわかには信じがたい。
クックバレンさんが
嘘を言っているとは
思わなかったけれど
僕はショックだった。
食事も
排泄も
休養も必要ない――
そんなのはまるで
生きていないみたいだ。
「でもロイのくれたパンは美味しかった。仮にお腹がすかないのだとしても、食事が出来ないわけじゃない」
「そうね。美味しい食事を食べたり何か調理をすることで気持ちの整理は出来るものね、」
それは多分
ここに来る以前からの
ミランさんの持論なのだろう。
調理をすることで
気持ちの整理が出来るかは
僕にはイマイチわからない。
だけど
美味しいものを食べれば
気分が落ち着くことは知ってる。
「マーキスのくれたお茶も、あったかくて……」
クックバレンさんは
草だといって
バカにするけれど。
ハーブの効能は
近年よく知られるところだ。
興味がないひとには
何を言っても
無駄なのかな。
ウァルフガン方面では
昔からハーブの効能は
よく知られていたはず、
確か
一番遅れてるのが
僕らのアストリアだと聞いた。
それでも今は
皆当たり前に
ハーブを大事にしているのに
クックバレンさんは
一体どこの出身だろう。
自己紹介の時に
言っていただろうか。
何人もの人が
自己紹介していたから
あまり記憶にない。
僕は頭のなかを整理した。
みんなそれぞれ三大国のどこかの国から、違う文化を持ってやってきた。そんなに大きくは違わない、けれどまったく同じではない文化だ。
自分たちの常識が、相手にとっては非常識かもしれない。
そして数字。僕たちはバックヤードへ来る際に新しい名前を授かった。
僕が【Ⅰ】でマーキスが【Ⅶ】。
ミラン【Ⅱ】
ゾドット【Ⅲ】
デュラー【Ⅳ】
パシファムさんとクックバレンさんは何番か言わなかった。どちらかが【Ⅴ】でどちらかが【Ⅵ】だろう。地図も持ってなかったから二人の出身はわからない。でも多分ゾドットさんと同じはず。
(同じはず……だよね)
何か違和感を感じたけれど、その正体についてはわからなかった。
違和感――無意識に僕はクックバレンさんを観察した。どこにでもいるような中年男性で、くたびれたシャツに前開きのチョッキを着ている。長袖を捲っていて、そこから出ている腕は筋肉質。ズボンのポケットからは懐中時計の鎖が出ていた。
ボサボサの短髪、少し伸びた無精髭、乱暴な口の悪さ、疲れきった垂れ目。でもよくよく見るとチョッキのボタンはとても凝った彫り物のデザインがあって、安物ではなさそうだった。
「クックバレンさんは何のお仕事されてるんですか」
「仕事? 俺はアレだ、金貸しだ」
「かねかし?」
僕は耳慣れない言葉に瞬きをした。
「あとは冒険家でもある」
「冒険家!」
「おお。未開の土地を探検するんだ。こんな洞窟も俺には見慣れたもんだぜ」
力こぶを作って見せてくれたクックバレンさんに僕は尊敬の眼差しを送った。
急にクックバレンさんが頼もしく見えたんだ。
進むにつれて洞窟の道はどんどん険しさを増して行った。細い隙間にパシファムさんの体がつかえて進むのが困難だったり、小さな泉でノドを潤したけれど、不必要だと知ってしまったからかさほど感動もなかった。それよりも水場の近くは足元が滑って危なかった。靴を脱いで手に持って歩いた。困った時はクックバレンさんが色んなことを教えてくれた。彼が上機嫌であることは何より僕らには大助かりだった。
地図が示す場所にいよいよ近付いて来たとき、見覚えのある印が足許に浮かんでいたけれど、その色は薄く、いつからあったのか誰も気付かない。僕らはすっかり油断していた。
マーキスは僕に合唱魔法の素晴らしさについて力説していたけれど、その時、僕は内心辟易してたんだ。
僕らの魔法は音が基本になる。魔法を使うときは呪文を唱える。だから言葉だけで使う魔法より旋律が加わる歌魔法は強いし、幾重にも束ねた合唱はさらに強い、それは道理だ。
僕だってその理論は理解出来るし賛同する。けれど僕は音痴だ。そんな高度な魔法は使えない。マーキスが熱心に語る横で僕は申し訳ない気持ちになった。
「いざという時のために練習をしておくのがいいと思う」
「それは魔法を使えない私たちが一緒に歌ってもいいものなのかしら?」
ミランさんの声にマーキスはしっかりと頷く。魔法は心に変化をもたらす。信頼しあう者同士が協力する魔法はさらに大きな力を呼ぶ。それは音楽にも言えた。むしろ音楽こそ、魔法使い以外の皆が参加出来る魔法だ。そこに魔法使いが一人いれば、あとは全員魔法を知らなくともいい。
「素敵だね。僕にも教えてもらえるかい」
パシファムさんまでが話に加わりさらに僕は肩身が狭い。
僕はこれ以上話が進む前に言った。
「申し訳ないけど僕には無理だよマーキス」
「なぜだロイ」
驚いた顔のマーキスに僕の心はちくちくと痛む。
「僕はその、歌が得意じゃないんだ。音痴なんだ」
「なんだ、そんなことか! 音程をとるための練習をすればすぐによくなるさ」
自信たっぷりの笑顔を返すマーキスに僕は顔をしかめてしまった。
「マーキスにはわからないかもしれないけど、苦手なことに向き合うのは辛いことなんだよ」
優等生でいつも一番のマーキスには苦手なものなんてないかもしれない。あるいは苦手になる前にうまいやり方を教えられたのかもしれない。
マーキスは笑顔を引っ込めて僕をじっと見た。僕があんまり情けないことを言ったから失望したのかもしれない。
微かな声だった。聞こえるかどうかの小さな呟きだった。
僕から目を逸らしたマーキスの口が動く。
「僕だって完璧なわけじゃない」
一瞬暗い陰を落とした瞳に僕は心臓を掴まれた気がした。
マーキスだって完璧なわけじゃない。
ならば、マーキスはいつだって苦手にも向き合って来たんだろう。ひたむきに。
マーキスはそれ以上僕に強く合唱を薦めては来なかった。ミランさんとパシファムさんに異なる旋律を教えて三人で口ずさんでいた。
「まあそう落ち込むな。俺なんかはむしろ感謝しているぞ。全員参加なんてなったらどうしようかと思ったぜ」
クックバレンさんが僕の背中を叩いて励ましてくれた。デュラーさんも肩を竦めて小さく笑って見せたから案外クックバレンさんと同じ気持ちだったかもしれない。
歌の練習をするマーキスたちは最後尾をついてきた。静かな声で口ずさんでも洞窟の壁に反響してそれは綺麗な音になる。パシファムさんの低音も、ミランさんの囁く声も、マーキスの伸びやかな声も、僕の心に入り込んでくる。それぞれの音の高さ、太さ、質感、長さ、呼吸、一つ一つがすべて僕の耳元で聴こえるような不思議な気分になった。
さっきマーキスは、まるで練習すれば音痴は簡単に直せるみたいに笑ってくれた。それなのに僕は挑戦すらもしないで拒絶してしまったんだ。あんなふうに一緒に歌えたら、僕も誰かの役に立てたかもしれないのに。
ゾドットさんは何度も地図を確認しながら「あと少しです!」と繰り返し、やがてデュラーさんは地面に手をついた。
「どうかしたかよ」
「……これは『王の道』ではないか」
いぶかしむクックバレンさんに短く応え、デュラーさんは地面の砂埃を擦る。そこには確かに王の道が描かれている。
「どうしてこんな場所に……」
王の道は王都、もしくは王城を指し示す印だ。アストリアとウィングルド、ウァルフガンの三大国にある。
「僕たちの進む先に、王都への帰還があるからじゃないかな」
パシファムさんの言葉に納得し、意気揚々と再び歩き出す。
クックバレンさんは難しい顔をして黙り込んでしまったから僕はますますマーキスたちの歌にばかり気が行ってしまう。ミランさんとパシファムさんの物覚えがいいのか、三人は早くも違うパートを重ねて歌っていた。見事なハーモニーに僕はむずむずする。
「ところでこの曲にはどんな魔法の効果があるんだい?」
パシファムさんが尋ねるとマーキスはこう言った。
「意気地無しをやっつけるんだ」
その瞬間、僕の顔はかぁっと熱くなった。ゆっくりとマーキスを振り返ると彼はやっぱり僕を見ていた。
「どうだロイ。そろそろ一緒に練習したくなっただろ?」
「~~~っマーキス、」
「勤勉で真面目で責任感も強い君のことだから、言葉で説得するより早いと思って」
僕の様子に勝ち誇った顔をする。まさか最初の練習から魔法を使う気満々だなんて思ってなかった僕はあっさりマーキスの魔法にかかってしまったらしい。
「以前の僕なら絶対かからなかった!」
バックヤードへ来る直前、僕はマーキスにも学院の皆にも不信感しかなかった。学院の大合唱にも不快感しか懐かなかったのもそのせいだったんだろう。
ミランさんはそんな僕らをにこにこと見守っている。
“まるですっかり仲良し気取り”
不意に僕らの耳に入ってきた声は、不自然な音。驚く皆が動きを止める中、僕とマーキスは素早く魔法の地図を見た。パタパタと震える地図の端っこ。
“仲良しごっこ”
“仲良しごっこ”
“ロイとマーキス”
“仲良しごっこ”
「うるさいぞ! 一体何の嫌がらせだ」
地図を握りしめたままマーキスが叫ぶ。
クックバレンさんは「こいつは驚いた」と小さく呟いて、皆僕らを見ていた。
“どんなに仲良くなったって、お前たちはこの先もずっと、互いを絶望させあう存在だ”
地図の声が低く響いて、僕は身震いした。それは例えば呪いをかけられるような錯覚でもある。
「デタラメを言うな! 僕らはちゃんと信頼しあえる!」
女王陛下が望んだように、僕らはもう信頼しあえる。僕もマーキスと同じ気持ちだ。マーキスたちのコーラスに僕の心が動いたのだって、信頼があるからだ。
仮にマーキスが恋した相手がミスチェンバーでも、僕は絶望なんかしないだろう。だってどうせ僕にはミスチェンバーは高嶺の花で手が届かない憧れだ。
はなっから叶わない恋だもの、失恋だなんて嘆く気はない。それよりも、大嫌いだと思っていたマーキスと友達になれることのほうが僕にはずっと意味がある。マーキスとミスチェンバーならお似合いだし、僕は祝福だって出来るんだ。
「僕もマーキスと同意見だよ」
珍しく強気に出た僕に、でも地図は笑った。
“お前たちはなぁんにもわかっちゃいない。ここはバックヤード。世界の裏側だ”
「おうおう。じゃあ聞くがよ、魔法の地図さんよ」
クックバレンさんが堪り兼ねたようにズイッと割り込んできた。マーキスの持つ地図を睨み付けている。
「何でこんなガキどもを連れて来やがった」
低くて凄味のある声に、僕もマーキスも口を噤んだ。バックヤードを旅する仲間の僕らがこんなこどもだったから、とんだ役立たずだと責められているのかと思ったけど、どうやらそうではなかった。
「残酷だろうが。ガキを奪われた家族がどんな気持ちだと思うんだ」
“やぁ、その声はクックバレン”
地図はクックバレンさんの言葉を遮る。懐かしい友に再会した喜びみたいに声が弾んですらいた。
“簡単なことさ。バックヤードを訪れるお前たち”
“お前たちは皆”
“絶望を抱えている”
「それがバックヤードに選ばれた理由ですか!」
ゾドットさんが目を三角にして叫ぶ。ミランさんは口元を押さえ茫然としているし、デュラーさんは何かを否定するように頭を軽く振った。
パシファムさんはそっと目を閉じた。
「絶望。絶望。……僕らは皆、絶望を抱えているの……?」
歌うような呟きだった。パシファムさんもゾドットさんもミランさんもデュラーさんもクックバレンさんも。そしてマーキスまでもが。一体何に絶望したのだろう。絶望を臭わせる暗い表情をしていた人物なんて一人もいなかったのに。
でもこうしてマーキスと仲直りだって出来たんだ。だから、あの絶望の日々なんて僕には過去の笑い話なんだよ。
「僕はもう絶望なんてしてない!」
魔法の地図はたっぷりと間を置いてから、ねっとりした口調で嘲笑った。
“ロイ・Ⅰ・ミルカ”
“【Ⅰ】の名を持つ者”
“お前は特別だ”
“もっと、もっと、絶望しろ”
言われている意味がわからなくて何も言い返せない。特別って何?
“なぁ”
“希望こそが、”
“足枷になる”
“教えてやれよ”
“クックバレぇン”
僕らを謎の渦中に引きずり下ろして、それきり魔法の地図は黙ってしまった。
黙るというよりは、含み笑いを残してどこかへ行ってしまったと言った方が近いかもしれない。
「……腹がたつ地図だな。破っていいか」
「駄目です。でも僕もそう思います」
地図を挟んでクックバレンさんとマーキスが不穏な会話をした。僕なら地図を揺さぶってもっと詳しく話を聞きたかったけれど、他の誰ももう地図の話なんかは聞きたくないようだった。
「ロイ。あんなの気にしちゃダメよ」
「そうです、気にすることありません!」
ミランさんとゾドットさんが僕に気にするなと言ってくれた。
でも本当にそうだろうか。心がざわざわ騒ぐ。
何か大事なものを見つけられるかもしれないチャンスは同時に、なくすかもしれないピンチなんだ。だから、僕らは、目の前の『わからない』から逃げ出してはいけないって、父さんや母さんはよく僕に教えてくれたよ。
不安、謎、そうした時にこそ、頭は働き者になる。
僕は感情的にならないように、父さんや母さん、フェアの顔を一度思い浮かべた。
確かに絶望はあった。
僕もかつて、あんなにも絶望的な気分だったのはマーキスと不仲で、周りの皆が敵に思えていたからだ。でもそれは誤解だった。
経験を活かすなら、地図を敵だと決めつけるわけにいかない。地図が僕らの敵だなんて、そんなはずはない。意地悪は言うけれど、意地悪をしない。だって地図は本来『導くもの』だ。
だから、地図の話も、ちゃんと耳を貸さないと。
それは大事な何かだ。考えろ、考えろ、考えろ。
【Ⅰ】の名を持つ者がどう特別なのか。
他の六人との違いは何か。
皆は何に絶望していたのか。
僕はもう絶望していないが。皆はまだ絶望しているのか?
そしてクックバレンさんは何かを知っている。教える? 何を。
クックバレンさんだけが、バックヤードでは食べ物も何もいらないことを知っていた。時間がないだなんてことをサラリと受け入れられるわけはないのに。
そういえば、皆が合流した時にもまだ他に誰かがいるかのように探していた。アレも関係あるのかな。
僕は不安そうな顔のままクックバレンさんをみつめていたと思う。不意に目が合うと渋い顔でクックバレンさんは吐き捨てた。
「……何も。教えてやれることなんざねえよ」
「はい……」
僕が素直にそう応えたのはクックバレンさんが明らかに沈んでいたからだ。地図が言った何か、どの言葉がクックバレンさんを追い詰めているのかはわからないけれど。悲しそうな、苦しそうな、そんな感情は伝わって来た。
わからないだらけが転がっていて。僕らは上手に歩いていけない。
僕とマーキスがこの先も、互いに絶望させあうなんて信じたくはない。
心はざわざわ、ぐちゃぐちゃ、落ち行かない。
「何にせよもうすぐ地図に書かれた目的地ですよ!」
ゾドットさんは皆を励ますように言った。けど、その目的地が楽しい場所だとは到底思えない。それでも僕らはそこを目指さなければならない。
皆重苦しい空気を感じていた。
「マーキス。歌を歌ってよ」
僕が言うとマーキスは少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「やっぱりロイの方が向いてるな」
「何に?」
僕が首を傾げるとマーキスは肩を竦めてみせた。
「すぐに平常心になる。僕も見習わないと」
マーキスのいう平常心はわからなかった。マーキスの絶望もわからないからだろう。僕は動揺した時は一生懸命思考回路を働かせる。そうすると何となく出口に近付けた気がして、少しは楽になるよ。
何とか気持ちを落ち着けたのか、一度咳払いしたマーキスが綺麗な声で歌い始めた。ボーイソプラノというらしい。声変わりするまでの短い期間、僕ら男子は澄んだ透明な声で歌えるのだという。僕みたいな音痴には当てはまらないと思うけれど。
マーキスの歌に誘われるようにパシファムさんが静かな低音を重ねた。穏やかな空気に皆の表情も幾分か和らいだ。
ぽつりぽつり歌うミランさんは時々泣いているみたいだったけど、僕らは気付かぬふりをして洞窟を皆で進んで行った。
同じ歌を同じメンバーが歌っても、さっきとは違う音色だった。『物悲しくて虚ろ』――そんな歌に聴こえてしまう。
歌うマーキスたちが沈んでいるからか、聴いている僕らが沈んでいるからか、あるいはそのどちらもそうなんだろう。
歌は綺麗だけど、魔法としてはすごく弱くて、やっつけるどころかまるで僕らの意気地無しを色濃くした。お喋りをやめてしまった僕らはきっとそれぞれに思う。絶望を。
僕はもう絶望なんてなくしてしまったから、自分のそれにとやかく向き合う必要はなくて、そっと皆を見た。
マーキス。君は何を抱えているの? 友達なら心配だもの聞いてしまえばいいんだろうけど。
“仲良しごっこ”と僕らを罵った魔法の地図はあながち間違っていなかったのかな。僕はマーキスの絶望に触れる勇気がまだない。僕なんかが聞いていいのか躊躇している。聞きもしないままでは力になれるかどうかはわからないのに。友達なら助けたい。
おばあちゃんは小さな僕に教えてくれた。闇を振り払うのはいつだって自分自身。でも心に力をくれる仲間や敵は必要なの、と。あの頃はよくわからなかったけど、僕は覚えている。
『大事なことはね、ロイ。親から子へと伝えていくんだよ。そしていつかお前が大切に想う誰かにも、優しく教えておあげ。』
チェチェトの香りはおばあちゃんの香りだ。
今、バックヤードを旅する仲間が僕にとって大切な人で、中でもマーキス、君は一番、
一番大切にしたい友達なんだ。
大っ嫌いだったのは、本当は仲良くなりたかったからだよ。君に憧れて、認めてもらいたくて、でも叶わなくて、不貞腐れていたんだ。
どんなにたくさんの群衆の中からでも、君の姿だけは夜空の一番星みたいに見つけられたよ。そんな君が、苦しんでいるなら、僕は力になりたいんだよ。
大好きだなんて、言葉に出しては言えないから、僕は息を吸った。悲しい旋律の上に覚えたメロディを真似る。大きな声を出したつもりはなかったけど、僕も含めて皆がびっくりした。
「お前、ほんとに音痴だな」
クックバレンさんがすっとんきょうな声を出し、僕は自分でもわかるくらい真っ赤な顔をした。なるべくマーキスたちに合わせようと頑張っても僕の歌はぶるぶると震えて酷いものだ。
「そうだよ! 僕は音痴だよ!」
恥ずかしさのあまり語尾が強くなる。
「でも、皆を元気に出来るのは今は僕だけなんだ!」
勝手に口から飛び出した言葉にもっともっと恥ずかしい。
マーキスは透明な歌をやめてしまった。勝手なことを言った僕に気を悪くしたかと思ったけど、マーキスの表情からはその感情は読み取れなかった。
少し青ざめていた頬に赤みが戻る。なんでマーキスの目が泣き出しそうに見えるんだろ。キラキラとして、小さな子が泣き出す瞬間みたいに、曇り無い眼が僕を見ている。
「僕にとってマーキスは誰より凄いエリート魔法使いだろ!」
僕も慌ててしまったから、言わなくていいような言葉が止まらない。
「君が元気にならないと、僕ら皆困るんだ!」
だから。僕のあまりに音痴な歌を笑ってくれていいから。意気地無しをやっつけてほしい。魔法は想いの強さが大事だろ。
目と鼻の先、擽るくらい近くくっついて、マーキスの青があった。僕より背の高いマーキスが僕を抱き締めて肩を震わせている。僕のローブの肩に顔を突っ伏して彼は呟く。
「君は僕を許してくれるか」
「許すも何も何の事!?」
「ロイ。そこは一先ず許すって言ってやれ」
すかさずクックバレンさんが野次を飛ばしてきた。そしてそれをゾドットさんに叱られていた。
僕は目を白黒させて固まってしまったし、マーキスの独白は続く。
「君を絶望させたのは間違いなく僕だ。チェンバーに来てからの非礼の数々はいくら詫びてもたりない」
「それはもういいよ! 僕だって仕返ししたんだからおあいこだろ!?」
「僕は君のようになりたい」
「それは僕の台詞だ!?」
一体全体何が起きているのか意味がわからない。
でもマーキスは全然ふざけてなんかいなくって、何故だか涙ながらに語る。ミランさんまでもらい泣きをしているけど誰か僕にもわかるように解説してほしい。
「僕はこの先も君を絶望させる存在だというなら、自分を許せない」
「いいじゃないか! だって友達だろ? 喧嘩しても仲直り出来るよ!」
顔を上げたマーキスの目が真ん丸で。僕の目もきっと真ん丸になった。
「え? 違うの? 友達だよね?」
早くも絶望の予感にたじろぐ僕。泣きそう。
「マーキスが、僕のことを友達でも何でもないっていうなら、それはそれでかまわないよ。でも僕はもう君を友達だって思ってるから、君が何をしてもちゃんと怒ったりちゃんと許したりするんだ!」
弱い心に飲まれるな。悲しみに黙る前に僕は僕を吐き出した。今言っておかないと、言えなくなってしまう気がして、ここまで来たら恥も外聞も関係なくて、たった七人の世界で、僕は自分をさらけ出す。
本音は、表明しないと、望まぬものに形を変えてしまう。そうだろ、マーキス。君だって、ここでは本当の事が言えるだろ。
「僕は」
マーキスが、僕の想いに呼応するように、口を開いた。
「僕も。」
苦し気で言葉にならない気持ちを、でも継ぎ接ぎにして。零れた断片でもいつかそれは大きなタぺストリーになる。だから上手くなんか言えなくていいよね。
マーキスが僕を受け入れてくれるなら、言葉なんか何だっていいんだ。
「――君の友達になりたい、ロイ。」
チェンバーであんなに遠い存在だったマーキスが、こんなに近くにいる。バックヤードはでも絶望の舞台だという。希望こそが足枷になるなら、
「じゃあ問題ないよね。どんな困難も一緒に乗り越えればいいだけだよ」
共に前に進む覚悟を。
「それはおそらく二人だけの問題ではなく、私たち全員が心を一つにすべきなんだと思います」
ゾドットさんは眼鏡を外してハンカチで汚れを拭きながら呟く。
「絶望を抱える人間は弱いですから。きっと一人ではダメなんです」
「自分がどれだけ弱いかは、わかってるつもりだけど。僕らは次代の地図を持ち帰らないといけないからね」
「そうだな。少なくとも最低三人は。三大国にそれぞれの地図を持ち帰る」
ゾドットさんとパシファムさんとデュラーさんが状況をシンプルにまとめた。
「少なくとも……三人」
不安そうなミランさんに僕は付け足した。
「全員で帰ろう」
「そうね。誰一人残ることなく。全員で帰りたいわね」
小さく笑うミランさんに、マーキスは気を引き締めて頷いた。
クックバレンさんが、肺の奥の息を長く遠くへ吐き出した。ありもしない紫煙が見えた気がした。
「さあ、行きましょう」
意味のない喧嘩なんて、もう僕らには必要ない。ここからは、価値のある喧嘩をしよう。
そんな暗黙の了解を交わしたようにゾドットさんとクックバレンさんの視線が交差した。
地図は教えてくれた。皆が絶望を抱えているということを。そしてこの先に僕らの闇が待ち構えていることを。
一緒に帰るために。僕らはバラバラだった気持ちを一つにした。
《第五章》完
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